かがりび記念誌Ⅳ・Ⅴ

パート Ⅳ 

2001年(平成13年)

かがりび 表紙   
記念誌 表紙    
口絵写真     
創立者・初代隊委員長 故奥田祐道 
口絵写真    
初代団委員長 故奥田祐美 
隊旗
はじめに    
目次    
ご あ い さ つ    
 この50年を振り返って  
育成会会長 橋詰源治 
 発団50年を迎えて  
 第11団団委員長 赤塚勝巳 
 自発活動  
 第11団副団委員長 柴崎 實 
大阪第11団50年の沿革
大阪第11団登録番号  
あしあと    
歌「 年輪50年 」  
BGSCマークとその意義  
おもいでの写真集   
活 動 記 録    
 活動記録    
 全国大会・日本開催ジャンボリー派遣記録 
 野舎営記録    
 海外派遣記録    
 スカウティンピック開催記録 
 スキー教室開催記録
 テーブルマナー開催記録
 進歩記録    
指導者研修歴    
 指導者研修歴    
 指導者養成講習歴   
 奉仕記録    
 表彰記録    
記念式典にあたって
 振り返って  副団委員長 奥田祐賢
 偉大な50年 副団委員長 北村 稔
 想うこと 
副団委員長 浅野武男 

 いつまでも「ちかいとおきて」を 

団委員 山本洋子 

 50年に寄せて
ベンチャー隊隊長 赤塚広之 
 発団50年に寄せて
 ボーイ隊副長 中野尚美 
 発団50年に寄せて
カブ隊隊長 岡崎光男 
 はじめての舎営の思いで
ビーバー隊副長 大賀貴子 
 社会の求めるもの
ボーイ隊副長 福井栄一 
 半世紀
カブ隊副長 樋口浩一 
 スカウト活動で培われた幸せ
ボーイ隊副長 石川善之 
 スカウト活動への参加の思いで
ビーバー隊隊長 大原信枝 
 時間の旅
カブ隊デンマザー 豊山真佐子 
 ボーイをなくして、我が人生なし
ボーイ隊副長 二見広一 
記念ワッペン
50年記念イヤー
BGSC2000マーク
50年記念イヤーの始まりだ
プレキャンプ
BGSC2000夏季野舎営新聞
餅つき大会
初詣ラリー
この一年の活動
クロージングを迎えて
追悼
 スカウトの名誉とは
 「人に信頼されることである」
故奥田祐美 
 スカウティングはゲームである
故津田 修 
 人間関係に断絶はない
故松田荘平 
 日々雑感 故北野吉徳 
 座右の銘 故橋詰博光 
 ちかいの意味 故中谷清志 

 他人への思いやり

故上農新治 

私のスカウト活動と故木村明弘君
ベンチャー隊副長  川原稔樹 
故古川英司君 団内経歴
故古川英司君を偲ぶ
  ベンチャー隊 沢  克 
  ベンチャー隊 豊山浩仁 
ボーイスカウト歴代指導者年表 
おもいで

 第4回アメリカキャンプ

派遣団団長 赤塚勝巳 

 サンフランシスコ29隊を迎えて

団委員 朝田登美子 

 バスツアーの感想

サンフランシスコ29隊 大島範之 

富士章認証
 個人プロジェクト   川原稔樹
 滋賀県琵琶湖一周探索 長谷川治
 富士章を取得して   野田義人
帰敬式(おかみそり)受式記録
「お灯明」自転車リレー
ベンチャー隊 本松 学 
大谷スカウトお灯明リレー
ベンチャー隊 本松 学 
富士を目指す漢(おとこ)たち
ベンチャー隊 米田和行 

城北地区スカウトフォーラム代表

ベンチャー隊 榎本善行 

城北地区第2回シニアースカウト大会顛末記

川端優氏「かっこう章」受章 奥田祐賢
さよなら夏の日 FOSCAP '91カブ隊
阪神大震災ボランティア記録
救援活動に奉仕して
資料
 日本連盟加盟隊所在地名簿(昭和25年)
 スカウティングと宗教(真宗) 故奥田祐美
アメリカキャンプ記念ワッペン
編集後記    

記念誌表紙  

 

日本ボーイスカウト大阪第11団

発団50年

 

記 念 誌

 

 

 

は じ め に

 

 大阪第11団結成50年に当たり、「かがりび特別号」に記載された歴史とその後の歩みをたどってみる。

 

 思い返せば昭和24年(1949年)9月、先の圓通寺住職奥田祐道によって、今津の地にボーイスカウト準備隊が結成されて、12人の少年による訓練が始められました。

戦後間もない頃で、一般には明日の糧をどうして得ようかとした時代で、青少年教育に関心はあってもかまっておられないという時代でした。スカウトのユニフォームも揃わず、風呂敷をネッカチーフのかわりに首に巻き、町を走り回る姿に奇異の眼を送られたものです。

 昭和24年(1949年)9月大手前の教育塔広場で開かれた大阪連盟結成式の記念大営火に、一日でも早く立派なスカウトとして仲間入りできることを夢見て、見学参加をしたものです。

そして、昭和25年(1950年)3月1日今は亡き指導主事鈴木栄次郎師の隊審査を受け、昭和25年(1950年)4月6日、隊委員5名、リーダー2名、スカウト18名による、大阪府下16番目の日本ボーイスカウト大阪第11隊として登録を行いました。

 隊号については、同時に発足した南東地区に10隊を先に譲り、二桁の一番でと大阪第11隊としました。

[この時代日本連盟の顧問として、駐留軍のダグラス・マッカーサーの名前が記録された加盟隊名簿が発見されました。

・・・平成11年(1999年)10月]

 

 昭和25年(1950年)7月、大阪城内桐畑で行われた大阪連盟最初のキャンポリーに9名が参加、同年8月東京新宿御苑で開催された第2回全日本ボーイスカウト大会に奥田祐道隊委員長引率のもと、スカウト14名、リーダー2名、付添え3名、計20名で参加し、大阪第11隊の名を高めました。

 9月17日大阪連盟総会で奥田祐道隊委員長は中央城北地区選出の理事となり、(昭和25年(1950年)9月より、大阪連盟地区制度確立 6地区)

 11月奥田祐美隊長が中央実修所4期に入所、昭和26年(1951年)2月京都で開催された日本連盟臨時総会の記念パレードに参加、4月城北地区指導委員長(現、コミッショナー制)に就任と、いよいよ充実したスカウティングと思っていた矢先、12月大阪11隊の創立者であり先達であった、奥田祐道隊委員長が55才の若さをもって急逝され、隊組織もやっと固まり、育成会組織もこれからと言うときに、一同途方に暮れ、わたし自身無力であったため、大阪11隊は休隊のやむなきに至りました。

 

『かがりびをかかげて』より 

大阪第11団団委員長 故奥田祐美 

 

 

 しかし、今津のボーイスカウト運動の火は消えていなかった。

それは、昭和33年(1958年)8月の盆おどりの夕べが開かれているやぐらの上に駆け上がって、場所もわきまえずボーイスカウト復活の話を、圓通寺奥田祐美住職にお願いした4人の少年たちにより始まる。あくる日も、次の日もやってくる彼らのあまりにも熱心さに、奥田住職は根負けしたらしく、本堂の片隅を集会室として与え、どこまでやれるか自分達の力でやってみるが良いとの言葉に、彼らは友達を集め、元大阪11隊のスカウトだった先輩に指導者をお願いし、準備隊としての形が出来上がった。こうして小さな組織ではあるが、ふたたびボーイスカウト活動が始まったのである。

 昭和36年(1961年)6月復活登録が承認される。

団登録番号 1737号(日連)

  少年隊734号

昭和37年6月年長隊誕生、昭和41年(1966年)5月カブスカウト隊の誕生となり、スカウトの増加とともに団を増やさねばならず、昭和41年(1966年)12月兄弟団の111団が発団しカブスカウト隊が誕生、さらに昭和42年(1967年)5月にガールスカウト大阪62団が誕生し、育成会の仲間に加わった。そして、昭和45年(1970年)4月大阪111団ボーイスカウト隊が、昭和46年(1971年)4月ガールスカウト上級62団が、昭和49年(1949年)4月にはローバースカウト隊が誕生し、理想的な団組織となり、やがてボーイスカウト、ガールスカウト、育成会をあわせて、B.G.S.C.と称するようになった。

その後、山中野営場から始まったBGSC合同野舎営(キャンピック)、アメリカキャンプ、スカウト成人式、信仰奨励、帰敬式等大阪第11団ならではの活動が行われた。

 昭和61年(1986年)には結成35周年を祝い、更なる発展を誓っている矢先、昭和63年2月に奥田祐美大阪第11団団委員長が急逝され、大阪第11団は再び危機を迎えた。

しかし、「スカウトの火をたやしてはならない」との合い言葉の元、奥田祐賢現副団委員長を中心に、育成会、団委員会、各隊リーダーをはじめ多くの方々のご尽力により、昭和64年(1989年)4月に大阪第111団は休団したが、赤塚勝巳団委員長のもと大阪第11団は活動を継続した。

平成4年(1992年)4月にはビーバースカウト隊が誕生し、充実した団構成となった。

平成7年(1995年)甚大な被害を与えた阪神大震災のおりには、延べ560人にもなる救援奉仕活動を行い、故奥田祐美元団委員長がよく話されていた「人のお役に立つ」というスカウト精神を行動で示した。

50年目を迎えた平成12年(2000年)には、1年間を「50年記念イヤー」と銘うって多彩なスカウト活動が展開された。

 

 昭和51年(1976年)の結成25周年、昭和56年(1981年)の30周年、そして昭和61年(1986年)の35周年の各区切りには、それぞれ記念式典と「かがりび特別号」の発行が行われており、今回も昭和61年(1986年)からの15年間の資料を掘り起こすことから始めた。

 ここに、35周年記念式典以来の15年間の活動記録を奥田祐美元団委員長をはじめ、スカウト活動に多大なご尽力を頂いた方々に捧げます。  

 

 ふりかえって

B.G.S.C.育成会会長 

橋詰源治 

 

 思い出多い20世紀を後にして、我が団は発足50年のクロージング・セレモニーを迎えることが出来ました事は大変喜ばしい限りです。

 時あたかも2001年、21世紀、昨年5月21日、オープニング・セレモニーを落慶なった円通寺境内の団本部で賑やかにかつ有意義に実施致しました。

団委員、リーダー、各隊スカウト達、育成会の皆様方の気持ちが一致団結して、数々の行事も無事実施することが出来ました事に、お礼申し上げます。 誠にありがとうございましました。

 さて、先々代住職の奥田祐道先生のもとに、大阪第11団が誕生しています。

団発足1年後、昭和26年4月、私は圓通寺学園の第1期生として入園していました。

当時の今津町は農家主体であり、終戦後の社会情勢は大変混乱していました。アメリカ軍のヘリコプターが編隊を組んで毎日飛び回っていた事を覚えています。

この様な時代には青少年の健全育成、幼児教育は生活混乱の中で置き去りになり勝ちとなるものです。

 しかし、地域の教育が社会の安定の為に大変重要な事業だと考えられ、子供たちの為にと、この様な事業を実行されたものだと感謝申し上げます。

  つばの大きな帽子、半ズボン、スカーフ姿の制服を着た中学生のスカウトを始めて見たときは子供心に、

 奇異と見えた事を覚えています。同じ本堂を使っての保育活動、そして、スカウト活動は、 時間帯が違うだけでいつしか目も馴れ親しみを持つようになりました。

 現在の北村副団委員長をはじめ沢山の中学生がスカウト活動に参加されていました。

 しかし、その年の12月に奥田祐道先生は突然死去されました。葬儀に参列したとき、スカウトの人達も隊旗を持ち、整然と並んでおられる姿を見、何か大変なことなのだと思った事を覚えています。その後を先代の奥田祐美先生が受け継がれましたが、いつしか休団となっていました。私が中学生となった昭和33年頃、近所の中学生が集まり、”スカウトごっこ”の様な集会が形成されてきました。

「淡路島の仮屋中学校」「信太山野外活動センター」などでのキャンプファイヤーの思い出や、奥田先生の楽しい物語りは今でも良く覚えています。 昨年末、ドボルザークの新世界を聴き、いつしかキャンプを思い出していました。帰り道では”権兵衛さんの赤ちゃん”を口ずさんでいました。

私は途中でやめてしまいましたが、現副団委員長の西尾茂氏や若くして亡くなった中谷清志氏など、当時の中学生が中心となり大阪第11団が復活しました。

その後は大阪第111団が誕生し、ガールスカウト大阪府62団も発団し、大変活発な時代が続きました。

特に、昭和58年に30周年記念事業としての、アメリカキャンプに103名が参加した事は特筆に価するものです。

しかし、昭和63年2月に奥田祐美前団委員長が亡くなられたのは大変残念な事でありました。

 アメリカキャンプは4回実施されていますが、これも永年の友情や人脈、信頼がなければ続けられないものです。

少子時代の今日、団運営は大変厳しいですが、赤塚団委員長のもとで、団委員、各リーダー、育成会会員

一致団結して今後一層の発展を願うものです。

 最後になりましたが、この50年の間、団を支えていただきました皆々様に感謝申し上げ、故人となられました先輩諸氏のご冥福をお祈り申し上げ、挨拶とさせていただきます。  

 

 発団50年を迎えての思い出

大阪第11団団委員長 

赤塚勝巳 

 ボーイスカウト大阪11団の歴史を聞けば、先々代の奥田祐道先生により、昭和24年9月に12名の少年による訓練を始められたとのこと、以来今津の地に広められ、大阪11団と言えば圓通寺の団として、皆々様に認められるようになり、発団50年を迎えるに至りました。

 これも偏に11団奥田祐美団委員長、111団津田、松田、北村団委員長様方の弛まざるご指導、ご努力の賜物と感謝しております。創立以来只々栄光のみでなく、幾多の難関をも克服し、風雪に耐えて記念すべき年を迎えられたのではとも思います。

 私も昭和43年より団にお世話になっていますが、それから11団の20周年、30周年、35周年の

思い出の記念行事もそれぞれ山中野営場、今津小学校、生野高原、そして忘れてならないのは、11団の最も誇りとする、4回、16年に及ぶU.S.A.キャンプを行った事ではないかと思います。

このような行事が行えたことは、団に深い理解と育成会の絶大なるご支援と、そして各リーダーのご協力があったならこそと思います。

 11団は、20世紀末で50年を迎え、そして2001年と共に我々も新しく、51年目と云う出発の年になります。

今まで、スカウティングに励んだこと、指導を受けたことを反省し、ベーデン・パウエル卿の教えを忘れる事なく、スカウティングにより一層励みたいと思います。そして又、この50年の間に残して頂いた先輩諸氏の歴史、遺徳を受け継ぎ守って、後世に残す責任もあります。

 この様なことを考えますと、我々は今後益々スカウト運動を広め、現在非行に走っている少年の多い時こそ、手を繋ぎ大きな輪を作る必要があるのではなかろうかと考えます。

 自分の子供だけでなく、全ての子供が幸せに、そしてより良い社会人に、又公人となるべく、この活動を続けたく思います。

 毎日に夢と、感動がある事を望み、皆様の幸せと、団の益々の発展を祈念し、団の発団50年の挨拶と致します。

弥 栄  

 

『発団50年記念』に寄せて

 自発活動

大阪第11団副団委員長  

柴崎 實  

 三 指

 スカウトの皆さん発団50年おめでとう。今回『オープニンング・セレモニー』以来、一年を掛けた多くの50年記念の団行事『合同野営大会』、『餅つき大会』、『初詣ラリー(50社巡り)』等など、又隊ごとに催された多彩な行事の数々に、貴方は目標にしていた

◇参加率100%の達成は出来ましたか!

◇多くの課題に勇気を待って全力で挑戦出来ましたか!

◇思いっきり楽しく過ごせましたか!

◇団委員長提唱の『挨拶の仕方を身につけよう』は、自然な形で行なえるように成りましたか!

 

 発団50年記念イヤーは、今日予定の『クロージング・セレモニー』で終わりますが、『スカウティング』は永遠です。

 スカウティングは“ゲーム”です、そしてそれは君達自身の“自発活動”です。

『何もしない者は何もされない』という諺の通り、あなたの取り組みの全てが、自らに起因し自らに返って来ます、自然な形でステップアップされ立派な社会人に成長していくよう“あなたのニーズ”を下敷きにプログラムされています。だからスカウトの諸君は、自分はスカウトであるという『自覚と自信』をもって下さい。失敗を恐れずチャレンジし『ベストが尽くせる』自分に育てて下さい。

 現在、城北地区で最多の登録人数を誇る我が11団において、昨年3人目に誕生した富士章(ベンチャー第1号)に続く大勢のスカウトの一人一人が、面白くて楽しい、胸を張り、こよなく愛せる『21世紀のスカウト運動の愉快で楽しいプログラム』の創作と提案を発信し続け、全世界に通用する『後進の模範』となられる事を祈念しています。

 振り返って、私達の為に50年の永きに亘り大勢のスカウターを育み、世に送り出して下さいました

歴代の育成会・隊リーダー・団委員・団関係の皆様、お陰をもちまして、本年も5人のスカウトが成人式を迎え、全員が自発的に指導者の仲間入を力強く宣言し、奉仕してくれる事と成りました。

 私ども現勢指導者も諸先輩のお眼鏡には未熟で至らぬ事ばかりでしょうが、今後も末長く倍旧の御指導御鞭撻を御願い申し上げます。

 又、ここに50年に亘る活動の拠点として、スカウトの『火を灯し』活動の総てを見守り、導いて下さっています団本部『円通寺』の歴代ご住職様を始め、奥田家の皆様方に謹んで厚くお礼申し上げます。

 最後になりましたが、本日ご出席の皆様の永年のご指導とお引立てに感謝すると共に、今後益々のご多幸とご繁栄を心よりご祈念申し上げます。

弥 栄  

ボーイスカウト日本連盟登録番号  

 日本ボーイスカウト

 大阪第11団 

1737号
 ビーバースカウト隊 2007号
  カブスカウト隊 1108号
  ボーイスカウト隊  734号
  シニアースカウト隊  361号
  ローバースカウト隊  554号

 

 歌 「年 輪 50 年」  

 

1.山を越え 谷を越えて

  足音のこだまは響く

  頂きに かしの木そびゆ

  雨風の試練に耐えて

  ああ 刻みたる 年輪50年

2.ふり積もった雪をはらいく

  しゃく熱の光に負けず

  たくましく われらはのびる

  弥栄のちかいもかたく

  ああ 刻みゆく 年輪無限  

 

 振り返って

副団委員長  奥田祐賢 

 

 円通寺では、日曜学校を開いていたが、中学生になるとどうしても参加者が少なくなる状況をなんとかしたいとの思いと、戦後の混迷した時代の青少年にとってなにかいい教育方法があればとの思いから、ボーイスカウト運動をとりいれた14世住職の奥田祐道の尽力により大阪第11隊が誕生して50年。

 昭和25年8月東京新宿御苑で行われた第2回全日本ボーイスカウト大会に21名の指導者スカウトが参加しての帰り道、今津出身の上農氏が開発された江ノ島で4日間過ごし静養したと言う、のんびりした時代でもあったようです。

 途中休隊の時期もありましたが、私が小学2年生の時15世住職奥田祐美を団委員長として11団が復活。当時の集会場所は、本堂北側の縁の下で立って歩けない狭いところに畳を敷き、奥を年長隊(シニア隊)手前を少年隊(ボーイ隊)が使用、皆は巣(す)と呼んでいました。

その時のリーダー・スカウトで今も活動中なのは、北村副団委員長、西尾副団委員長のお二人です。

当時活動資金を得るため、皆で巣に集まり毎日のように内職のザルを作っていたのを覚えています。

 5年生の時少年隊に仮入隊、始めての夏季キャンプは淡路島仮屋の海岸、砂だらけになりましたが日の出の美しさに感動。中学1年オオカミ班が誕生初代班長は現団委員の徳野精平氏、私が次長。小泉隊長・中谷隊長から指導を受けました。能勢での地区キャンポリー、船坂での隊キャンプ。

プログラム内容はあまり覚えていませんが、班員と共に生活した内容はよく覚えています。

 年長隊に上進、西尾隊長・小泉隊長の指導の下、野外活動・奉仕活動に励みました。山中野営場で行われた日本連盟最後の年長隊富士野営が一番印象に残っています。

 その頃ローバー隊が無かったので、大学に入るとすぐにボーイ隊の副長補、中谷隊長の下リーダーとしてスタート。隊長と共に行動しているうちに指導者としての仕事を学びました。昭和49年ボーイ隊長となり、111団の徳野隊長と一緒にボーイ隊の運営にあたりました。

私がスカウトと活動するとき心掛けていたことは、『行動する事によって学ぶ』ことをモットーに、出来るだけ自然の中へ出掛けていろんな事を体感してもらうようにしてきました。当団の伝統であるキャンプには出来るだけ設備の無い、野営技術が無いと行けないような原野山林を探し、野営を行う前年同時期に下見し、そのキャンプ場で出来そうなプログラムを考えて、それに合わせて年間計画を立てるように心掛けていました。

 毎月野外に出て行き、年間12泊のキャンプ、5回位のハイキング、隊集会、週1回の班集会、グリンバー訓練、地区行事等々びっしりと予定が詰まっている中、キャンプ場探しに近畿地方を徳野隊長と走り回りました。特に兵庫県滋賀県の野営場は殆ど廻りましたが、年々開発が進み、数年後には立派な施設が出来ていて、びっくりした事もありました。

 その後ローバー隊長を経験し、現在団委員として出来る範囲でスカウト活動を楽しんでおります。

 振り返れば、この活動を続ることが出来ましたのは、多くの先輩、仲間、スカウト、家族、地域の皆様のご指導ご協力のお陰です。ありがとうございました。  

 

 

 偉大な50年

副団委員長 北村 稔  

 

 昭和25年(1950年)4月18日に、ここ今津の土地に日本ボーイスカウト大阪第11隊が誕生して、平成12年(2000年)に発団50年を迎えました。

当時は、終戦の混乱がやや治まりかけていたが、まだ青少年のための健全な社会教育は、あまりなされていなかったように思います。

そのとき、黙ってみていては青少年のためにならじと、円通寺の住職である奥田祐道先生が青少年の育成を思い立ち、子息の奥田祐美先生を隊長として、大阪第11隊が産ぶ声を上げたのです。

しかし、昭和26年12月に、奥田祐道隊委員長が急逝され、順調に活動していたスカウト教育も、隊員の中学校卒業や減少により、昭和27年4月に休隊の止むなきに至りました。

それから9年後の昭和36年に復活登録され、平成12年に発団50年を迎えることができました。

 この1年間を50年イヤーと銘打って、夏には合同キャンプをして、各隊でのハイキング、キャンプなどのプログラムも50年イヤーの一環として取り組んできました。

この50年を振り返った時、昭和27年の休隊、スカウトの増加により昭和41年に兄弟団111団の発団、スカウト、指導者多数の海外派遣、昭和50年から始まった4年毎のBGSCキャンピック、昭和58年、62年、平成4年、9年と4回にわたるアメリカキャンプ、平成元年にはスカウト減員による111団の休団、ボーイ各隊に女子スカウトの入隊、制服・制帽の改変と大きなことを列挙しただけでも、この様にたくさんの事柄がありました。

 それよりももっと大きな出来事は、昭和56年7月に111団の二代目津田修団委員長、昭和60年7月に三代目松田荘平団委員長、昭和63年2月には11団の奥田祐美団委員長が現役で亡くなられた悲しみです。

しかし、現在まで発展してきた陰には、先輩の方々の並々ならぬ情熱、少年たちを思う心、そして奉仕の精神を持っておられたからだと思います。

ある教育評論家が新聞に書いておられる文章に、次の様なことがありました。

「学力向上は外遊びから」、外遊びには四つの効用がある

①工夫して、頭を使って遊ぼうとする(知能の発達)

②約束事守って遊ばないと楽しくない(社会性を身につける)

③協調性がはぐくまれる

④体を丈夫にし、ストレスを発散できる。

集団での外遊びをしていると集団生活になじみやすくなり、しかも生活体験が豊かになる。

特に小学生の時代には、外遊びの時間をたっぷり与えることが必要ではないだろうか。

今、世間では17歳の少年の犯罪やもっと年少者による事件が報じられていますが、少年達と心を通わせ、年長者も年少者と共に同じ活動をして、班制度の素晴らしさで、お互いをいたわり励まし合うスカウティングでは、起こらないと思います。

この11団が地域社会と密着し、地域の人々に愛され、頼もしい青少年団体として、益々発展してゆく事を望んでやみません。

 この原稿を書こうと思ったとき、35周年の記念誌をひもといたら、小生の拙い文の中に、「50年、60年と歴史を作っていくことを希望する」とあり、早やあれから15年の年月が経ち、発団50年を迎えられました。本日、ここに大阪連盟、城北地区、友団、地域社会各位の皆様、育成会の方々、隊指導者の人達に、心から感謝の言葉を送らせて頂きます。

「ありがとうございました」  

 

 想 う こ と

副団委員長 浅野武男  

 

 あれは何時だっただろうか、ボーイスカウト達が家の前を通っていたのを、自分もあんな服装をしてみたいなぁと思いながら何年かたってしまい、結婚し2人の子供に恵まれました。

 長男が生まれたときに友人がボーイスカウトのリーダーになっておられたので、自分の子供も大きくなったらボーイスカウトに入れてほしいと頼み子供の成長を楽しみました。

途中いろいろありましたが、ボーイスカウトを取るか、野球を取るか迷っていた子供にボーイスカウトになるように進めました。

 現在は団の副団委員長をさせてもらっています。一番楽しかったことはボーイ隊の隊長時代で、一泊キャンプから、4泊5日のキャンポリーに参加でき、自分の孫のようなスカウト達といろいろな各地のキャンプ場に出掛け、各地のリーダーとの交流、スカウト達の喜ぶゲームに参加し、その間、副長達とより楽しいゲームを考え、スカウト達に進級の糧となるような模範的なサイト作りに努力したことが、走馬灯のように頭の中を駆け巡り楽しかったリーダー時代だったなぁと思います。

多くの副長さん、団委員さんに助けられたことに感謝、そして現在に至っております。

 皆様のお陰でたいした事故もなく過ごさせて戴いて非常に有り難く思います。

自分を振り返ってみますと、長男も隼スカウトまで進級させて戴きました。高校での成績はよくなかった事に頭を痛めました、成績が悪くなってもよいから一度外国へ行かせれば何か得るものがあるだろうと思い、学校の先生の反対を押し切って、スェーデン・ナショナルキャンプに参加させました。このキャンプに参加させたお陰で、社会人となった時点でチャンスがあったのか外国へ何回も出掛けている状況で積極的な行動の取れる人間に成長し就職先でも、それが表に出て一城の主となって成功してくれました。

 自分の息子に対して、ボーイスカウトになり隼スカウトまで進級してくれたことが自分の人生で一番うれしいことであります。

 それと、スカウト達が菊スカウトとなり、ベンチャースカウトへと上進して、いろいろな行事に参加してスカウトの課題をクリァーして、よいスカウトへとなって行く姿を見て楽しんで居ます。

 ボーイ隊担当の団委員として、これからどのスカウトが菊スカウトになるかが楽しみで一生懸命お手伝いをさせて戴きたい思いで頭が一杯です。  

 

 いつまでも「ちかいとおきて」を

団委員  山本洋子  

 

  大阪第11団発団50年、おめでとうございます。

振り返れば(33年前)カブ隊発団の年に長男を入団させて頂きまして以来、長きにわたってお世話になっています。

 その間に111団、GS62団発団、10周年~15周年~35周年‥‥ そして今年は50年目を迎える事になりました。

当時、団本部の裏には畑が有りトンボやコオロギが沢山棲息していて、スカウトたちの楽しみの場所でも有りました。

でも年と共に住宅が増え、何時しか畑も姿を消してしまいました。

 しかし人々も多くなり、昭和51年度の登録では,ボーイスカウト11団、111団、ガールスカウト62団の指導者80人、スカウト228人、合計308人。

そして、育成会役員33人、育成会会員170人、BGSC総合計513人と大世帯になりました。

今思えば、あの大世帯の数で富士の麓の山中、忍野での第1回合同野舎営、またあちらこちらでのキャンプ等のプログラムの展開は実に素晴らしかったですね。育成会、団委員の皆様のご協力の御蔭でした。

 私は、スカウト活動させて頂き本当に良かったと思っています。

 残念ながら近年、出生率が低く少子化時代となり、学習塾に行く子、スポーツクラブに入る子等で、入団者が激減して行く昨今、我が団のみならずいずれも同じですが、いつも、「良き青少年を育てよう」と、私財を投げて、スカウト活動に惜しみなく力を注いでくださった、故奥田団委員長は天国で悲しまれておられるのでは、と思ったりします。

 文化が進み社会情勢の移り変わりの早さには驚きます。

例えば、20数年前のキャンプやハイキングの頃はトランシーバーを使い、お互いに連絡を取り合ったりしていましたが、近頃小学生まで携帯電話を使用する時代になり、便利な世の中に変わって来ました。しかし、”頭にきた”とか”キレた”とか刃物を持って人を傷つける。と云った事件が多発しています。赤塚団委員長は「一人でも多くのスカウトを育てて行こう」と頑張っておられます。

世代は変わってもスカウト活動の原点は、発団以来何も変わっていないのです。ちかいとおきて」をたてた人は「死してのちもスカウト」を歌うだけでなくいつまでも(スカウト活動から離れても)忘れないでいてほしい思います。

 日頃活動させていただいている場所、団本部圓通寺も、新築落慶の日を迎えました。奥田家、檀家、壇信徒の方々に迷惑をかけないように、スカウト教育、そして、活動をさせていただくように頑張って行きたいですね。

 そして、ご逝去された奥田団委員長、津田団委員長、松田団委員長、北野、上農、橋詰、中谷団委員の遺志を次いで、残された11団の50年の歴史をこれからも、永く続けて下さることを願っています。 

 それから、大阪111団の『復活する日』がくることも。

弥 栄  

 

 50年に寄せて

 ベンチャースカウト隊隊長 赤塚広之  

 

  大阪第11団発団50年、おめでとうございます。

私自身が、大阪第11団にお世話になっはのは、昭和40年、もう35年前になります。大阪第11団にカブスカウト隊が発足するということで、幼稚園のときに両親に連れられ、カブスカウト隊に仮入隊しました。今、考えてみると日本で最初のビーバースカウトだったかもしれません。

カブスカウトを6年体験しましたが、早くボーイスカウトの制服、特にハットをかぶりたくて、かぶりたくてたまりませんでした。

 以来、スカウトとして様々な体験をしました。思いつくままに列記しますと、1970年大阪万博の開会式の旗手、朝霧高原13WJの見学、北海道での6NJ、ノルウェーでの14WJ、鹿児島川内川カヌー遠征、2度にわたる沖縄遠征・・・・などなど。

 しかしながら一番の思い出は、ボーイスカウト時代にはじめて行ったGB訓練キャンプです。場所は確か、兵庫県船坂峠付近だったと思います。学校の体育祭と重なったため、一人後から追いかけて行きました。阪急電車、阪急バスを乗り継いで、暗い夜道リュックを背負い、非常にか細い思いで歩いて行きました。今は亡き、11団中谷BS隊長と111団上農隊長の出迎えてくれた笑顔は、今でも鮮明に覚えています。

 指導者になってからは、11NJ隊長、18WJ隊長、4NV、12NJ、FOSCAP‘91、FOSCAP‘97、OSCAP―J99、山中キャンプ&富士登山、そして昨年の発団50年キャンプBGSC2000・・・・。実に多くの、そして決して、他の運動ではとうていできないことを体験させていただきました。

 21世紀を迎え、私が関わったスカウトたちが指導者になろうとしています。

このスカウトたちの周りには、多くの大人がいました。この運動の素晴らしいところは、少年少女、ひとりひとりをできるだけ多くの大人が見守って行くところにあると思います。

21世紀は彼らの時代です。ドッグイヤー(1年が7年に匹敵する)といわれる現在、時代の変化に柔軟に対応できる少年少女を育てていかなければなりません。

この運動が今の時代、そして将来に渡り、社会に必要であることは間違いないことです。

 私は、彼らのサポート役としてもう少し11団にお世話になろうと考えています。

 更なる11団の発展を願って・・・・  

 

 発団50年に寄せて

ボーイスカウト隊副長 中野尚美  

 

 発団50年おめでとうございます。

 私が、11団と関わりを持つようになって、はや10年になります。

現在ボーイ隊に所属している末の娘が、わずか2歳の時でした。その時最初にカブ隊にお世話になった長男が、現在はベンチャー隊4年目で、後1年で卒業という所まできました。我が家にとっては、実に激動の10年間でした。

 発団以来50年という11団の歴史の中にあっては、わずか5分の1だった10年間ではありますが、その間に私達親子が、学ばせていただいたこと、体験させていただいたことは、数えきれない程で、実に感謝にたえません。

また、この世に「生」をうけるずっと前に、11団はすでにスカウト運動をスタートさせていたと考えると、気の遠くなるような長さと深さを実感いたします。

 50年という歴史を踏まえた上で、新たなる前進を続行していこうとする団と共に、私もささやかながら、小さな一歩を踏み出そうと思います。

 今後とも、よろしくお願いいたします。  

 

 

 発団50年によせて

カブスカウト隊副長 岡崎光雄 

 

 発団50年おめでとうございます。

 発団50年という節目の年に、CS隊を担当させていただき、光栄に感じています。

 現在我がCS隊は、4組・スカウト22名、リーダー13名にて活動しております。

昔の11団、111団の盛況の時から見れば、少ない観がありますが、所属の城北地区の中でも、1,2の規模を保っています。

 スカウト、リーダー共々、規模だけではなく、活動面でも城北地区の中で、1番をめざして、日々の活動に一生懸命励んでいます。

 長い団の50年という歴史の中で見れば、CS隊はまだまだ半分強の歴史ですが、 団とともに過去のよい伝統を引き継ぎつつ、新たなる前進を続けていく団の一員として活動していこうと思っています。

 私事ですが、私が11団と関わりを持つようになったのは、長男がBVS隊に入隊するようになってからですから、約9年をむかえようとしています。

 また、CS隊リーダーをさせていただいてからは7年になりますが、その間自分の子どもも含め、隊リーダーとして、スカウトの成長を見てきました。

 CS隊の活動を通じて私自身も、非常に多くの経験や体験をさせていただき感謝していますが、それとは別に「教育」ではなく「共育」と、誰かに教わったように思うますが、スカウトの成長とともに、自分自身も成長させていただいたように感じています。

最後に、先輩、諸兄の築かれた50年の活動に、敬意と感謝を感じつつ、11団のさらなる発展を期待します。  

 

 初めての舎営の思い出

ビーバースカウト隊副長 大賀貴子  

 

 私がボーイスカウト活動に参加するきっかけは、子供達の入隊がきっかけでした。

今年で4年目になります。

 私自身一番印象に強く残っているものは、1年目で初めてのビーバーの夏期舎営です。地域も学校もちがう子供達と寝起きをともにすることに、親の私の方が緊張していました。

場所は、高野山のお寺でした。自分の子より人の子を見てあげなければいけないということに、最初はとまどいましたが、工作をしたり、ゲームをしたり、夜はホタルを見に行ったりと、子供達と一緒に楽しめ、感動し、これがスカウト活動なんだと実感できました。  

 

 社会の求めるもの

元ボーイスカウト隊副長 福井栄一 

 

 三指

大阪第11団の発団50年にあたり、心よりお祝い申しあげます。

 私がボーイ隊に仮入隊しましたのが、昭和40年だったと記憶しておりますが、幼なじみで1歳年上の谷先輩に誘われ、遊びに行くようなつもりでついて行った事がきっかけでした。

何度か谷先輩について行く内に、誓いを立てた先輩が、風呂敷のように四角いネッカチーフを二つに切って、私服の私の首に巻いてくださった時、初めて自分も仲間にいれてもらった気持ちになりましたが、まだスカウトとしての一歩を踏み出したという自覚はなかったように思います。

自分がボーイスカウトの一員に成れたと思えたのは、制服一式が揃い、初めて正装した時だったように思います。

 当時は、私のように仮入隊からという者が少なくありませんでしたし、仮入隊後のいくらかの期間を経て制服を着られるという事が、実感を与える原因になっていたのだと思います。又、備品も現在のように豊富ではなかったのかも知れませんが、そのことでかえって自然の中で遊びながら色々と工夫することを学んだように思います。

 この自然の中で活動し自然の中から学ぶ事は、スカウト活動の柱として実践されてきたものであり、現在の人と自然との関わりあいの必要性が見直されている今こそ、有用な教育と成り得るのではないでしょうか。

 さらに、阪神大震災以降、ボランティア活動が活発になり、その活動自体も社会的に認められるようになって来ましたが、日常生活の中ではそれぞれが生計を立てて行けなければ ならないとか、自分の生活のために仕事を休んでまでボランティア活動に参加出来ないなどといった理由で、まだまだ一般化していないのが現状です。

 そんな中で、スカウト活動においては「奉仕活動」が日頃の活動の柱となるものでありこれからの、一般社会におけるボランティア活動のお手本となるべきものと思います。

 最後に、日頃よく思い出しますのが、故人となられた奥田団委員長が「スカウトが活動を通じてよき社会人を育成する。」と言っておられた事です。

 何かにつけて、自分が「よき社会人」で無かったと気が付き、反省を繰り返すばかりですが、少しでも向上するために、この言葉を忘れずにありたいと思っております。

大阪第11団も、記念すべき21世紀に50年目を迎え、新たなる第一歩を踏み出される事になりますが、今後も「よき社会人」の育成に貢献されますことを祈念いたします。

弥 栄  

 

 半 世 紀

元シニアー隊副長  樋口浩一  

 

 この度は大阪11団、50年目を迎えられおめでとうございます。

「継続は力なり」という言葉がございますが、その『力』たるや指導者の方々はじめ育成会関係各位のご尽力の賜物と深く感激致しております。

 一口に半世紀と申しましてもその歴史はもちろん一言では語ることの出来ない色々なドラマを生み出した事でしょう。

私自身、数々の、本当に沢山の思い出の引き出しから思いつく「見出し」を引き出すだけでも制約のある、原稿の枠を十分越えてしまうくらいこの大阪11団には思い出があります。

 私は小学2年生の終わりからお世話になりました。カブスカウト時代、毎週土曜日の「組集会」では集団行動の基礎と年長・年少の良い意味での上下関係が身についたと感じます。

初めて経験した「追跡ハイク」や舎営でのキャンプフャイヤー、寸劇。

当時は私たちが演じる寸劇よりもデンチーフ(ボーイ)の兄さん達が演じる寸劇の方が数段面白く腹を抱えて笑いました。デンチーフは役者揃いだったのです。

その役者が揃うボーイ時代、小学6年生(初級)での初めてのキャンプはただ‥‥「きつかった」の一言です。

野営地の開拓から水汲み、薪拾い。カブ時代とは比べものにならない本格的なハイキング。

初めての野営ということもあって装備に不備が多く虫や雨に悩まされました。

 2年目からは、通常活動の中で「夜間ハイク」や1泊キャンプなどをこなしていたこともあってちょっと余裕が出て来ました。と言ってもまだまだ(ぺーぺーの2級)本キャンプではナイフを持てることが(初級)よりちょっとお兄ちゃんぶった姿でした。

薪拾いや水汲みの役から逃れると今度は工作。立ちかまどやサイト入り口、トイレなどの工夫で他班の連中と競い合ったものでした。第1回の山中キャンプでは、折しも台風で雨風の中、テントの中に川が出来ようとも野営を中断することもなく、台風通過後の復旧までも競い合いました。

野営自体に余裕が出てくると先輩連中の話にもついていけるようになり、その中でいくつかの新しい発見もありました。

 その一つは各班の伝統というもの。もちろん格式ばったものでなく、それぞれの班が先輩より引き継いでいる「色」や「におい」「味」のようなものです。

「☆◎班は昔から手旗が上手い」とか「料理が上手い」「テントの配置がスマート」のようなものから「夜は遅くまでヒソヒソ話の伝統」「ビビリの伝統」「はしかい伝統」などジンクス的なものまで班単位での「個性」のようなものが根強く残っていました。

その「個性」が幹部クラスになると班単位から脱皮して個人的なものに移り変わってくるのです。

 上級になると得意分野がロープや手旗、救急や料理などカリキュラムを通したものから統率力や洞察力、判断力などに至るまで、自他共に認めるものが明確化されてきます。

・寸劇には欠かせないツッコミ役とボケ役。

・ハイキングのポイント設置を絶妙なところに置く奴。

・必要なものを上手に調達してくる奴。

・地図を読むのが上手い奴。

・配給材料でメニュー+αの料理を作ってしまう奴。

・上手に役割分担してその仕事に就かせてしまう奴。

・おにぎりを握らせたら右に出るものがいない奴。 等々‥‥。

そういう得意分野を持つことが団を離れてジャンボリーや派遣など他団の者と班を作って行動するとき非常に役立つことの一つだったのです。

 その得意部門を基礎として委員会プログラムを実施するのが、シニアー時代。

当時の川端隊長のバックアップもあり、いろんなプロジェクトを組んであちこちへ出向きました。

川下りを始めたのもこの時期です、が、思い出深いのは中国山陽地方移動キャンプです。広島まで電車を使い、固定キャンプ地まで徒歩で移動。という計画が夏の炎天下の中、挫折をあじわい、小遣いを使ってバスにて移動と変わってしまいました。これは今回初めて明かす話です。

(少しは歩きました。)

 キャンプ場ではちょっとしたハプニングがありました。

 朝、起きると何やら回りが騒がしい。テントから出て見ると自分たちのサイトにウヨウヨ知らない人がいる。おまけに「ここは自分たちのキャンプ場だ」などと理不尽なことを言われ、一時は緊迫した空気が流れたが、話し合い年長者の適応と判断で共同キャンプと言うことに落ち着きました。

 スカウトの基礎時代と言うべきカブ、ボーイ、シニアーを経て指導者育成のローバー時代。カブ隊の副長が私の役職でした。

 子供たちからはどう思われていたのか? それはわかりませんがとにかく子供たちと一緒によく遊びました。蒜山での合同キャンプの時も到着後、緊張している子供たちをリラックスさせるために隊長訓辞の途中、打ち合わせ通り、隊長の頭から水を掛け、それを合図にしながら「放水ゴッコ」が始まった記憶が鮮明です。

 今、当時の隊員たちが、私の前に現れても、よくよく見なければわからないくらいに成長しているでしょうし、私もまたカブ時代の指導者の方の前に出てもすぐにはわかってもらえないでしょう。それがある意味では『半世紀』という歴史の重みであるでしょうし指導者、関係者各位の誇りでもあると思います。

 私も、そのほんの一部分を担ったものとしてスカウト活動が、これほど自分に影響していたことを再確認すると共に、自分の足跡を回想する機会をこうして、寄稿と言う形で与えて戴いたことに感謝致します。

 末筆ながら今後とも益々、大阪11団のご活躍をお祈り致しております。

弥 栄  

 

 スカウト活動で培われた幸せ

元ボーイスカウト隊副長  

石川善之  

 

 私がシニアー隊に上進するころだから、もう20数年前、日産自動車のコピーに

「僕達はスカイ○○○と一緒に大人になった世代だ」と

言うのがあった。 

何故このコピーを今も覚えているかと言うと、当時その車が好きで、稼げるようになったら必ず買おうと思っていた事もあるが、「スカウト活動もこれと同じだな」と感じたことに他ならない。

 当時、私はカブの時代から6年間ずっと班を共にした親友の引っ越しで少なからず消沈していた。

もっとも今、思えば他府県に引っ越す訳でなく、丁度円通寺を挟んで、向こう側の市への引っ越しであったが、チャリンコを生活の足としていたその頃の私達には、お寺への足が遠のくに、十分な距離だったかも知れない。

 とにかくこの先も、彼と行動をしたくって「頑張って来いよ」と心から言ったつもりだが力及ばなかった。この時の気持ちは、それから7年後、一人の美しきガールスカウトに恋心を打ち明けるも、相手にされなかった次につらい思い出だ。

(あの時は、辻野・樫根両先輩に御迷惑をおかけしました。今も感謝しています。)

 私達がスカウト活動を語るとき、その活動の永さの与える影響は大だ。人生においてスカウト活動以外で、この先これと同等以上の永きにわたって活動する場は、職場ぐらいのものだろう。

ただ職場は仲間であることが自分ではなく、会社が要求する集団なので、サラリーマンともなろうものなら、この御時世結構大変。やれ失敗したらリストラだ、出世すると友達は減るわで・・・。

 しかしスカウト活動は違う。失敗するとわかっていても隊長は広い心でやらせてくれたし、班長も次があるぜと言ってくれた。でもそこには、俗に言う一致団結とか美しき兄弟愛と言い切れるほどクソ真面目さは無い。心地よいほどほどさで活動が流れていた。私達スカウトはけっしてオリンピックに出るためのアスリート集団では無い。その活動は、野営という柱はあるにせよ広く浅くバラエティー豊か。

 スカウト活動の本質は、広く浅くを通して自己の潜在能力を見つけ、試し、失敗もしながら来るべき明日に備えるための経験にあると思う。そのためには、永き歳月が必要。最低でも社会人に成るまでの学生時代は、続けよう。

 これが、私が大阪11団のスカウト生活で得た結論。それは思い出で無く、今もいつかまたと生き続ける結論です。

 40歳になろうとする私にとって日々の生活は、それなりに充実している。いや、充実させる術を身につけたと言った方が良いのかもしれない。しかしこの幸せな気持ちは、あの日あの時あんなにも円通寺で活動をやらせてもらえた経験なしにはあり得ない。

 その気持を忘れぬ様、私はいまもローバー、リーダーを通してかぶっていたボーイスカウトのハットを愛車スカイ○○○のリアシートに置いて走っている。・・・  

 

 スカウト活動への参加の思い出

元ビーバーースカウト隊隊隊長 大原信枝  

 

  私がボーイスカウト活動を知ったのは、息子が小学校4年生の時保育園が一緒だった高石君と小森君のお母さんに誘われて申し込み、面接を受けてその時初めてボーイではなく、カブ隊が有ることを知った次第で、1987年りすの道から始まりました。

当時は111団に所属していました。仕事の関係で土曜日がまだ休みでなく、お手伝いは出来ませんでしたが、”89年カブ隊のデン・マザーを受けることになり、職場も週40時間制への移行時で少しずつ、

土曜日半休から、まる一日休みへと試行錯誤している時で、一年間土曜日の午後は月に3回くらい帰ることが出来、組集会へと急ぎ駆けつけました。

南隊長、赤塚副長、岡村副長、本松さん、沢さんと、何もわからないながら、皆さんに教わり楽しく組集会、隊集会、夏季舎営とスカウト達と私も子供に返ったような一年でした。

 カブ隊にはデン・チーフが派遣されます、当時は6年生のボーイスカウトでした。

集会には、塾やクラブでなかなか出席が無理のようでしたが、理想的にはすばらしい構成だと思います。ボーイもカブも組や班構成が縦割り、異年令で構成されている、今の子供達を取り巻く環境は幼い頃から学校と塾や習い事、家にいる時はテレビかゲーム、近所の子供同志で遊ぶことが少なく、まして自分より年上や年下の子と遊ぶ機会が無い子供達が多いようです。

 そして、”91年ビーバー隊の試行隊、”92年ビーバー隊発隊で赤塚団委員長さんを始め、柴崎団委員、北村団委員さんのお力添えで、そして、またもや本松、沢さんのご協力を得て模索しながら努めさせていただき感謝しております。ご父兄の皆様にもご協力をいただき楽しいプログラムが次々とできあがりました。

 でもスカウトたちが団行事で一番楽しいのはカブ、ボーイ、シニァー、ローバーのお兄ちゃん達と遊ぶときだと思いました。

夏の舎営ではリーダーとしてローバー隊から派遣された、南君、川原君、長谷川君、友西君達とビーバーの子供達が生活を共にしたり遊んだりすることで、ビーバーは体と心で学んでいると思いますし、また、ローバーの皆様もビーバーの疲れを知らない子供達で、さぞ、疲れたと思いますがこの子供達から、教えられることは有ったと思います、私達大人はついあれもこれもとやってやりたいことを計画し、準備もします、でも当日は、子供達が楽しく遊ぶことが出来るよう安全面だけを考えてそっと見守ってやりたいものです。

 短い間でしたが、カブ隊やビーバー隊のお手伝いができ、そこからリーダーの皆様のご苦労が少し分かったように思います。

 私に息子がいなければ、皆様とお逢いしてボーイスカウト活動を知る事も無かったでしょう。

ハラハラドキドキばかりさせられた息子ですが、そのお陰でささやかな奉仕活動に参加させていただいた事に感謝しております、これからも、皆様の益々のご活躍と大阪11団のご発展をお祈りしています。  

 

  時 間 の 旅

 元カブスカウト隊デンマザー・団委員  

豊山真佐子  

 

  親はいつもいつも、我が子の姿を見ていたいものである。

自分が見ることのない、学校での笑顔、友達との関係、努力する姿。

アメリカキャンプは自分の子供にはもちろんのこと、デン・マザーとしてカブ時代を一緒に過ごしたスカウト達の成長を見る絶好の機会であった。

 1997年 台風一過、見違えるように成長したスカウト達の制服姿をちょっとまぶしく思いながら、重いバッグと膨らんだ期待をのせて忘れることのないフライトに身をゆだねた。

 彼らはアメリカのボーイスカウトの奉仕活動を学び、川遊び、乗馬、カヌーィング、スタンツ、ヨセミテ公園、テーマパーク、ホームスティ、多くのプログラムを無理なくこなして楽しんでいた。

 たのもしく成長したスカウトたちとともに過ごした数日間。

 なつかしい、あの思い出のいっぱいつまった園舎で、まだあどけないスカウトと工作をしたり、園庭で予備キャンプの食事を作ったこと、夏のキャンプでのハイキング、スカウトたちと楽しく過ごした日々がその面影と重なり合う。

 共に過ごし、共に成長をした日々は時が流れても、この共有できた時間は人それぞれの歴史となり積み重なって行くことだろう。

園舎ですごした、時間をなつかしんでいまさらながら想う。

スカウトとの時間の旅は、園舎から始まっていたということを。‥‥‥  

 

 ボーイなくして、我が人生なし

 カブ隊副長 二見広一  

 

 大阪11団ボーイ隊、50年本当にすごいです。

 私も15年ほど前、4年間のスカウト生活を送りましたが、色々な思い出があります。昔はこのような原稿(かがりび)が大嫌いでしたが、今日は酒でも飲みながら思い出を綴って行こう思います。

とにかく辛かったねえ~、今日は辛かった特集で行きます。

(作注、記憶が定かでないので順不同)

 

 まず『オーバーナイトハイクin生駒』

これは題名どうり、生駒山を団本部から山頂経由で四条畷まで夜通し歩くもので、

当時徹夜などした事のない私にとってはとても辛かった。眠りながら歩くというなんとも不思議な体験をしました。

 

 『双六ハイクin飯盛山』

これは飯盛山の各チェックポイントにサイコロがあり、出た目によって、ロープの結索や手旗をし、次のチェックポイントへ進むルールだが、サイコロに仕掛けがあり、ほとんど前のチェックポイントに戻るようになっていて全くゴールの見えない恐ろしいハイキングだった。

何度山頂とスタート地点を往復したか!記憶ではゴールしたのは1班のみで、他の班は日没のため帰団したという苛酷なプログラムだった。

 

 次は『棚倉にて激走』 これはキャンプ地から駅へ帰る途中、突然電車に乗り遅れるという理由のため走りだしたものである、当時、班長、次長はなにもキャンプの備品を持たなかったため、他の班員の荷物は膨大な量となっており、歩くのもやっとの状態だった。私は2級スカウトだったので後輩のスカウトを引っ張りながら必死になって走り駅に着いたのだが、電車がくるまでには大分時間があった。何のために走ったのか!

(他の班の班長が急に○○○をしたく成ったため走ったのと言う事でした、その班長とは → 貴方です覚えていますか!)

 

 他は雪降る福崎でのキャンプ、暗闇ゲーム、後頭部ゲームなど辛かったけれど、楽しいゲームの数々を思い出しますが書ききれません。

 しかし、この4年間のお陰で、中学、高校のクラブ活動で辛いと思ったことはありませんでした。又一緒に過ごした4年間を過ごした同期とは、今も親友として付き合っており、これもボーイスカウトのお陰です。

さらに今の仕事をしているのもボーイスカウトの影響と自分で思っております。私は神戸の消防署に勤務しています。班長が隊長に変わるだけでほとんど一緒。とにかくやってて良かったボーイスカウト。

 それから、4年間指導していただいた、リーダーの方々、特に阪口隊長、辻野副長、樫根副長、本当にありがとう御座いました。今、思えばほんまに楽しかったです。

それでは皆様 弥栄 大阪11団 万歳  

 

 哀  悼

 

 発団50年を迎えるに当たり、今日まで大阪第11団に関わってくださった方々が、彼の岸へと旅立たれました。

その中には、これからの活躍を期待されたお二人のシニアー(ベンチャー)スカウトもおられました。

 ここに、その人となりや、「かがりび」に掲載されました団説、そしてスカウト仲間の追悼文をご紹介します。

 

 

☆故奥田祐美 元大阪11団団委員長 

 

 団委員長のセレモニーに参加していた時、一緒にお参りに来ていた、某氏曰く

『団委員長、我々に教えてくれてまっせ、冬の野外でのセレモニーはこんなもんやと。』

私にも聞こえたような・・・・

『ようお参り。どや寒いやろ。大人の貴方たち、何分辛抱できますか?

スカウトたちは子供やで。よぅ考えて、やったりや』

本当に寒い日でした、大人でさえ30分が限度でした。

以後、城北地区での冬の野外セレモニーでは、防寒着が着用可となりました。

 

☆故津田 修 元大阪111団団委員長

 

 カブ隊、ガールスカウトの創立に力を注がれ、体は細くても芯の強い人でありました。

現団委員のほとんど全てが色々教えていただきました。

 

☆故松田荘平 元大阪111団団委員長 

 

 CSの舎営長といえば、松田さん。そして、自転車といえば、松田さん。

どんな時もニコニコ顔でした。こどもと接している時は、表にでず控えめな人でした。 

 

☆故北野吉徳 元大阪11団団委員

 

 野外生活の得意な方でした。キャンプでの刃物の取り扱いには、特に厳しく指導され、炊事用包丁や作業用ナイフをいつも手入れして頂き、ピカピカで本当によく切れました。

 

☆故橋詰清光 元大阪11団団委員

 

 3人の子供達を、2回ずつアメリカ・キャンプに参加させた親でした。

アメリカキャンプの意義をよく理解されて、子供達に教えてくださいました。

カブ隊のDDから隊長、団委員を歴任され、非常に忙しい仕事の間をぬってプログラムを実行されました。

時間の有効利用を教えていただきました。

 

☆故中谷清志 元大阪11団団委員

 

 現団本部のある圓通寺学園保育所の1期生であった。お酒には強かったですが、キャンプ中では、自らを律して断酒していました。

 

☆故上農新治 元大阪11団団委員

 

 朝礼での言葉‥‥

スカウトらしく スカウトぶらず、

班長らしく 班長ぶらず‥‥

 非常に考えさせられる言葉で、何にでも当てはめられる言葉だと思います。また、ラッシング、手旗が得意な方でした。  

 スカウトの名誉とは

  人に信頼されることである

 ― スカウティング・フォア・ボーイズより ―

故奥田祐美  

 

 近年、海外に派遣される指導者・スカウトが続きその数も15名となりました。

これは、指導者・スカウトの努力は勿論のこと、育成会、保護者各位の深い理解と協力の御蔭と感謝しています。

 帰国した、スカウト、リーダーは「外国ではスカウトがこんなに信頼されているとは知らなかった」

「どの国の税関もフリーパスだった」と報告します。

これは長い年月をかけて、スカウトの名誉を守ってきた成果の現れと知ることができます。

もし一人でもこの信頼を裏切るならば、全ての名誉を失うことでしょう。

テレビ、新聞を通じて報じられた、警察官の不祥事事件を覚えているでしょう。

この事件をみてもわかるように、たった一人の犯行が全警察官の名誉を著しく傷つけたことを‥‥

スカウト活動も同じではないでしょうか。 個人としての自由は認めますが、組織の中に入ればその一員として多くの責任が自分の身のうえにかかってきます。

もし‥何かを起こせば「スカウトのくせに‥‥」「スカウトが‥‥」とスカウト全体に非難が集まります。

自分の行動に責任を持ち、他のスカウトに迷惑をかけないようにしなければなりません。

 学校における生活は勿論こと、社会、家庭生活においても、スカウトとしての自覚のもと行動して下さい。

 年長者は年少者をいたわり、模範となる行動をし、良き兄、良き姉と慕われ、年少者は年長者に従い、よき弟よき妹と接せられるように、互いに励み合い、かりそめにも暴力をふるうようなことが無いように注意し、スカウトのちかい、おきて、約束、さだめを実践し、「日々の善行」「そなえよつねに」「いつも元気」を身につけて行動するならば、自然と人々より信頼され、名誉を守ることができるでしょう。

 たえず自分の目標を見定め、スカウティングに精励することを、今一度誓ってほしいと思います。

最後に、君がスカウト活動の出来る後ろには、絶えず君の成長を心から願っておられる、両親を始め家族の人のことを忘れてはなりません。

昭和53年(1978年)3月8日  

 かがりび30号より  

 

 スカウティグはゲームである

故津田 修  

 

 「スカウティグはゲームである」という名言がある。

 恐らくスカウト関係者なら、誰しも知っている言葉である。然し乍ら、この含蓄のある言葉をスカウト活動にどれだけ活用されているか否か、残念ながら自信を以て「イエス」と答える人は少数のように思われる。

  このことは、伝統のある団に顕在化する傾向があり、自戒する必要がある。

申すまでもなく、スカウト活動は学校教育のように、科目毎に優劣をつけるのではなく、スカウトの精神的、肉体的に適合したプログラムの上に、集団の中での相剰作用と飽くまでも個性の伸長を目指した社会教育であり、良き公民(社会人)をそだてるところである。

そのための方法として、パトロール・システム(班・組制度)とバッチ・システム(進級・技能章制度)がとられ、スカウト達が興味を持って楽しみながら、これらに挑戦できるよう準備され、その内容は学校のテストのようにその時にならないと判らないのではなく、予め明記されているので、進歩の程度が自分で判るようになっているのが特徴である。

 従って、スカウトは楽しく集会に参加しておれば、若干の早い遅いはあっても自然とユニフォームに金・銀矢章や進級・技能章が飾れるようになるはずである。

また、そのようにならなければならないのである。 が、現実はどうであろうか。

基本である班(組)集会での進級、技能章(矢章)課程が良くそしゃくされ、ゲーム化され、苦痛を感じさせず、楽しみながら取得できるようにプログラム化されているか、謙虚に反省する必要がある。それをチェックするのが、言うまでもなく隊集会(月例会)である。

 我々は伝統を語る前に、マンネリ化し単調なプログラムに陥っていないか、集会が面白くないために欠席者が増えていないか、プログラムの不味さから進級、技能章の取得が遅れていないかを、リーダーは初心にかえり、もう一度「ゲーム」と言う意味を深く追求する必要がある。

昭和53年(1978年)4月8日  

   かがりび31号より  

 

 人間関係に断絶はない

故松田荘平  

 

 違う世代の間で意見の食い違いがあると、すぐ「断絶」と言う一言で片付ける最近の世相は悲しいことです。

 しかし、ここで断言しておきます。人と人の間には断絶と言うようなことはあり得ようはずがありません。

どのような意見の相違があろうと、私たちは日本と言う国に住み、日本の法律に守られながら同じ電車に乗り、同じ会社に働き、同じ言葉で意志を確かめ伝達しあっている以上断絶という決定的に無関係な状態はあり得ないのです。

 もし、それに近い状態があるとすれば、それは価値観の相違です。 

たとえば私たちの世代以前は滅私奉公という「モラル」を教えられて来ました。

だけどそれを今の若者達に要求しても「ナンセンス」なのです。このようなことはいつの時代にもありました。

「今の若い者の気持ちは判らない」と言ってる人達が若いころ、やはり年上の人達と物の見方について相違はなかったか!

 親に反抗しなかったか! 自分のやってきたことを息子もやっているのだ、それだからこそ、これは自分の息子に間違いないと思えば良いことです。

 悪く考えれば「断絶」と言う事で責任を回避していると思います。

心を通わす努力をしないで「断絶、断絶」とお互い勝手なことをしていればそれほど楽なことはないのです。

お釈迦様の言葉に「縁なき衆生は度しがたい」これを断絶と考えられない事もありません。しかし、それは人生を瞬間、瞬間に切り刻んだときのことで、時間とともにどういう縁が生まれてくるか判らないのです。

 10年経って、親の言った言葉の意味が分かってきて、あのとき、親が言っていたことが「これやったんかい」と思い当たる時だってあるのです。

 それは、自分に子供ができてみて親の気持ちが良くわかると言うことに似ています。

昭和53年(1978年)12月8日  

かがりび37号より  

 

 日々雑感

故北野吉徳 

 

 以前に比べ生活が向上した現在、全ての人がそうではないが他人の事を考えない歪んだ時代であるように感じるのは私だけであろうか。 先日電車の中で若い母親が、スカートを子供に汚され、ひどく叱っていた。子供が車内にゴミを散らかしたが、その事については叱る事もせず目的の駅に着けば、さっさと降りて行った。これは自分のことしか考えない例で、腹立たしく私は感じた。

また、暴走族にみられるように、他人の迷惑なぞ顧みず、道という道を走り回る姿、

一方その保護者は子供がいつ家に帰り寝床についたのかわからない野放しの状態にあり、とがめれば親にでも暴力を振るうから、つい放任すると言った事実、新聞を見るにつけ犯罪を犯した子供の親は決まって『うちの子に限って』と必ず言う。

自分の子供をコントロールできない親が何と多いことか、残念至極である。

 話は変わるが、浩宮親王が成年式を迎えるに当たり、記者の「青春とは」の質問に

「何事にもおもいきり挑戦する時代」と答えられた。実に現代の若者らしい表現である。もちろんこの言葉の裏には、自らを律し身位の自覚と秩序正しい行動が伴うことと思う、記者会見のテレビを見ながらこんなことを感じたのである。

 今の世はこの自らを律し秩序正しい行動が取れない人が非常に多い事である。自分自身が確りしないと、ブレーキがきかず思わぬ方向に暴走してしまうかもしれないのである。

幸い私たちは、自らが求めて入団したスカウトの一員である。

班(組)制度や進歩制はもちろん大切であるが、それ以前の問題として次の事柄に確りとした自分自身の自覚(人生感とも言うべき心構え)を身につけてもらいたい。

☆絶対に人に迷惑をかけないこと。

☆決められたルールは必ず守ること。

☆思いやりのある心と、小さな親切を常に心掛けること。

  今、君達は、人生の基本となるべき大切な年代にあります、 30周年を迎える団の発展と相まって、スカウト活動が意義あるものになるかどうか。

 指導者始め団委員も君達にお手伝いはするが、道に迷ったかどうかは、君自身が鍵を握っていることを忘れないでほしい。

昭和55年(1980年)3月8日  

 かがりび50号より  

 

 座右の銘

故橋詰清光  

 

 誰しも人は自分の一生の中には、感動をうけたり、また影響をうけたりする、人物詩歌、或いは言葉等があると思います。

それらは何も偉人や立志伝中の人物でなくとも、例えばそれ等の人や詩や歌が、父母のそれであれ、中学高校等々の恩師の言葉であれ、また隣のオッチヤンの詩や自慢話であっても、色々の教訓や注意を与えてくれるだろう。 それを大切にもっていたいものである。

 私の場合たしか高校生の時に、この詩を習ったと思っている。 当時詩の解釈や時代、その他の事を習ったと思うが、しかしこの起句の様に(人生‥‥の部分)なってはならない。また結句の様に(起尋‥‥の部分)憺々とした人生を送りたい。又そういう心になりたいと思ったものです。しかし今思うと、結句の境地に至って、初めて起句の事が言えるのだと‥‥、この様に一つの詩についても、自分の人生の途中でそれから受ける感想や感銘が変わってくるものです。

 さてスカウト諸君も一つの事柄(座右の銘)を持つことによって、色々な感動や言葉或いは行動が出てくると思います。そしてそれ等の感動、言葉行動は多分に自分の生きて来た経験、時代や又他の全ての人々(両親、友人、恩師、兄弟等々)によってもたらされるのです。

即ち私達が各々の「座右の銘」を持つことによって、他の人の言うことを熱心に聞き、色々の出来事や物を見つめ、そしてそのことにより感動したり、感銘したりする心が養われて行くのだと思います。

 私達、スカウトは常に見る、聞くを教えられています。特に私達カブ隊の敬礼、サイン、握手は全て二指を持って行います。これは動物をあらわしいると言うことは、御承知の通りだと思います。動物の耳や目は人間の何倍もの威力を持っています。少なくとも私達スカウト活動を行う者は、この聞く耳と、そして何をも見逃すことの無い目を持つ様に努力をしようではありませんか。そのことが、私達スカウトをより良きスカウトに成長させるものだと思います。

昭和60年(1985年)7月8日  

かがりび104号より  

 

 ちかいの意義

故中谷清志  

 

 英国ではプロミス、米国ではプロミスまたはオースと言う。プロミス「やくそく」であり、オースは「ちかい」と訳すべきでしょう。

 日本では『ちかい』と名づける。やくそくでは弱くて、これを破る恐れがあるから『ちかい』と言う少々固い名称にしたのかも知れません。

 カブの方は『ちかい』では堅苦しいので、『やくそく』の方を取った言うように聞いています。

『ちかい』は正しくは『ちかひ』と書くべきだろう。

『ひ』とは『霊』(たましい、本当はたましひ)を意味する日本の古語であります。

『たましひ』、『霊』にちかうので『ちかひ』と言う。これは日本書記あたりによく出てくる『うけひ』と言う古語に関係がある言葉で、共に『ひ』に向かってベストをつくす人間の決意を意味しています。

 スカウトは、それなら『何に』、『誰に』ちかうべきか?。

 私は、何よりもまず『自分』にちかうべきだと思う。『ひと』をあざむくことはできても、自分をあざむくことはできない。もし、平気で自分を偽るような、そのような芸当ができるならば、私は彼を『スカウト』と思いたくない。 『自分に負ける』事はあっても『自分をあざむく』事があってはならない。平気で自分をあざむく者は、ヒトにも平気であざむく、そうなると誰も彼を信頼しない、だからもうスカウトでは無くなっている。

  自分が自分にちかう・・・

これにまさる自発活動があるだろうか。

 この三ケ条の『ちかい』はスカウト仲間への『仲間入り』の約束の言葉でもあるから、スカウトの仲間に対してちかうのです。また隊長だとか、隊旗に対してちかうと言う事も、まちがいではないが、昨日までスカウトで無かった自分が、本日、只今この言葉と共にスカウトになるのだ・・・と言う、モティビケーション(動機づけ)を意味しています。

昭和58年(1983年)7月8日  

かがりび84号より  

 

 他人への思いやり

故上農新治 

 

 ○○電車、某駅、午前○時○分、駅場内放送『○○駅行き、まもなく到着します…』電車が到着し扉が開かれると、大勢の乗客が一斉に降りてくる。扉の前の人垣の中央に小さな空間が出来るが、それも数秒、最後に降りてくる人を待てず、扉の前の人垣が崩れ、降りようとする人、乗ろうとする人が、お互い押し合い、怒りあっている。自分勝手で、そこには相手を思いやる心やルールがない。 隣の乗客がつぶやく『足を踏まれた・・・』、『○○まで立ちん棒や・・・』

言い分は色々あろうが、自己本位の考えが、毎朝繰り返されるトラブルの大きな原因であろう。乗客一人一人は、素晴らしい学生や社会人であり、心の中には相手の立場を考え、自己を抑え相手の便利と利益のために、自己が苦労してもその悩みや、苦しみを分担してあげるという心が存在しているはずであるが、ただその素晴らしい長所を素直に出せないところに問題があるようです。

 スカウト活動には、素晴らしい理念と制度がありますが、どんなに素晴らしい制度があっても、相手を理解し尊重する心がなければ、その目的を達成する事は困難でしょう。どんなに有能なスカウト?も、慈悲の心がなければ、その人生はギシギシときしみ、お互いが傷つき、擦り減ってしまいます。この意味からも、スカウティングは、観念論や抽象論で行うものでなく、実践主義に基づく実際教育であります。諸君の総ての生活の中で起こってくる事柄に対処するとき、「この人生で自分が何を得るか…」を考えるのでなく、「この人生に自分は何を与えられるか…」を考える幅の広い真の指導性と慈悲の心をもってくれる事を希望致します。

「他人に対して奉仕が出来る能力を身につける」事は、諸君が入隊時に約束した「ちかい」の実践に努力している尊い姿であり、B-Pの最後のメッセージに表されいる、幸福な人生を送るための 自己啓発 であると考えます。

諸君が現在のまま素晴らしい心をいつまでも、持ち続けてくれることを信じると共に、今後も努力の人であることを祈ってやみません。

昭和54年(1979年)5月8日  

かがりび42号より  

 

私のスカウト活動と

故木村明弘君の思いで

ベンチャー隊副長 川原稔樹 

 

 ボーイスカウト大阪第11団発団50年おめでとうございます。

これからは100年を目指して頑張りましょう。ここで、私のスカウト活動を振り返らせて頂きたいとおもいます。

これから先は、敬称略の常体文でお願いいたします。

 私がボーイスカウト活動にお世話になって、もうすぐ16年になる。副長もやらせてもらって、いい年をして未だにスカウト気分が抜けきれていない。しかし、これからもスカウト活動を楽しんでやっていきたいとおもう。

 わたしがはじめてここに入ったのは、小学校6年生のころ。同じクラスの友人(くされ縁?)の紹介がきっかけだった。当時は子どもの数が多かったらしく、先代の団委員長に面接してもらい、少し待ってからの入隊となった。

 そこで「彼」とはじめて出会った。

 彼は大阪市鶴見区、私は東大阪市で当然学校が違うので、始めはほとんど話もしなかった。

(今考えると、ボーイスカウトは全然違う場所の人間と知り合う事が出来る、とても重要な場所であると言える。)

 彼は水泳をやっていたらしく、当時の小学生としては体格も大きく、運動神経もよかった。そう言えば昔、第2回フェスティバル城北で団対抗運動会みたいなものがあった。そのときに彼がリレーのアンカーで、2~3人抜いて3位に入賞したことがあった。

 次に彼と出会ったのは、とある学習塾だった。小学校の仲間うちで塾に行くのが流行ったことがあり、私もみんなについて行った。彼は1年も前からこの塾に通っていて、私立の中学校をめざして勉強しているのだという。わたしの方は、ただ塾に行けば友達と遊べるぐらいにしか考えていなかった。それがたまたま同じクラスになったおかげで、仲良くなることが出来た。スカウト活動においても、気軽に話のできる友達になれた。

 結局、彼とは中学、高校と同じになることはなかったが、スカウト活動においては大切な友達だった。そのころのボーイスカウト活動自体は、訓練の意味合いが強く、決して楽しいものではなかったし、また学年の差がはっきりしていて、上級生はとても怖かった。しかし、その苦しいはずのキャンプになると、テントの中では前のキャンプの話題で盛り上がった。

当時はボーイスカウトでなければ体験できないようなことがたくさんあった。

 時が経ち、私にも受験シーズンがやってきて、かなり長いあいだ団本部に顔を出さない時期があった。そして高校2年の夏、期末テストの1週間前、混雑した朝の電車で、彼と久しぶりに再会した。彼は高校1年のときから、行きたい大学を決めていて、毎日勉強していた。私は夏休みの遊ぶ計画で頭が一杯だった。しばらく話した後、夏のキャンプに一緒に参加しようと、約束を交わして分かれた。それが彼との最後になった。

 3週間ほどたった夏休み、キャンプはまだかと待っていた私のところに、一本の電話がかかってきた。あわてて彼の家にかけつけた仲間と私の目の前で、彼は静かに横になっていた。ただ違っていたのは、彼の顔が白かったことだけ。ひっぱたいたら起きそうなくらい、ただ眠っているだけみたいだった。みんながみんな、突然の訃報に泣いた。私は悲しいというよりも恐ろしかった。ついこの間、笑って話をしていた彼が、強くたくましい男が、あっという間に、この世から去っていく。

死というものに怯えた。

 もしも彼が生きていたら、11団になくては成らない存在になっていたと思う。

その後の私のスカウト活動も、倍以上に充実し、楽しいものとなったに違いない。

 あれからもう10年が経つ。月日がたち、自分が生きることに余裕がなくなってくると、正直彼のことを忘れてしまったこともあった。薄情な人間だと自分でも思う。しかし、まず自分がしっかり生きなければならないと思う。生きている自分のなかで、彼のことを忘れずにいようと思う。

そしていつまで生きているかそんなことは分からないが、出来る限りボーイスカウトに楽しみながら関わっていきたいと、今は思う。

 最近スカウトの数が減ってきているらしい。増やすための努力ももちろん必要ではある。しかし、繰り返しになるけれど、仕事ではない。少数精鋭でもいいと思う。

スカウトもリーダーも楽しく、充実した活動でなければ続かないだろうとおもう。

これからもそうあって欲しいし、昔の人がふとしたきっかけで戻ってくるような、そんな集まりになってほしい。力はないが、そのためのお手伝いができればと思う。  

 

 故古川英司君 団内経歴

 

・1989年(平成元年)4月

  カブスカウト隊入隊

・1991年(平成3年)8月 FOSCAP'91城北(地区キャンポリー)参加 

・1992年(平成4年)4月 ボーイスカウト隊上進

・1994年(平成6年)8月 第11回日本ジャンボリー(大分県久住高原)派遣 

・1995年(平成7年)7月 第18回世界ジャンボリー(オランダ)派遣 

・1995年(平成7年)9月 ベンチャースカウト隊上進

・1996年(平成8年)8月 第4回ベンチャー大会(島根県三瓶山)派遣

・1997年(平成9年)8月 FOSCAP'97城北(地区キャンポリー)参加

・1997年(平成9年)9月 なみはや国体旗掲揚係奉仕

・1998年(平成10年)3月 全国選抜高校野球大会甲子園メインスタンド奉仕   

 

 友、古川英司君を偲ぶ

ベンチャー隊 沢  克  

 

 今年10月3日に、古川が亡くなったが、今もまだ信じられない。

夏に一緒にキャンプに行った者なら特に信じられないと思うが、あの時も夜、買い物に行ったりうろうろしてみたり、いろんなことがあった。

その中で、今でも心に残っていることは、古川がペットボトルで作った自家製の浮き輪で二人で一緒に、流れの速い川でお尻を打ちながら流れていったことだ・・・本当に今でも鮮明に覚えている。

 もう古川といろんなところに、キャンプにもいけなくなってしまったが、古川のことを忘れずにこれからも好きだったキャンプで、古川がはしゃげないぶん、全員で頑張って行き、また、目いっぱいはしゃぎたいと思う。

もし古川が生きていたならば、高校では行けない所など、大人になってから皆で行きたかったけど。

 来年は就職、大学と皆んな忙しいけど、決まればまた、キャンプも行けるので、もし古川がどこかで見ていたならば、どういった形であろうといつでも側で見守っていてもらいたい。

  いつまでも・・・・。

 平成10年(1998年)12月10日

かがりびより  

 

 友、古川英司君を偲ぶ

ベンチャー隊 豊山浩仁  

 

 私の18回目の誕生日を迎えて一週間もしないころ、古川英司は死んだ。

ベンンチャー隊の仲間に下山大介と言う男が居るが、彼の誕生日と古川君の命日が同じ日だったと記憶している。

 彼はかなりの熱血スポ根ド真ん中だった。 何せ、体操部とラクビー部を掛け持ちする程だった。その所為でベンンチャー活動を休みがちだったことは否めない。更に彼は勉強も良くできて、まさに文武両道を地で行く男だった、果てはプロスポーツ選手か大統領か、と云うのは言い過ぎかも知れないが、しかし、それくらいすごい男だった。

 彼との思い出で覚えているものは、沢克と云う男と三人で有馬温泉まで自転車でキャンプに行った事である。私たちは有馬温泉で二泊する予定で計画をしたのだが、早々とテントを片付け一泊で帰ってしまったのだ。その時、前述の通り、熱血漢の古川は最後まで諦めないで二泊していこうと言った。かな? 

とにかく彼は曲がったことが嫌いな質だったのだ、その正義感は彼の胸にいっぱいたまり過ぎてあふれんばかりだったかも。

 そんな彼にも、弱点と呼べるべきものはあった。 

それは恋いとかそういう類のものだ。友達から聞いた話なのだが、彼は片思いをしていたらしい・・・。

私は後日、その彼女を見る機会を得た時の印象だが・・・ 彼は結構良い趣味をしていたようです。

 彼の事を書いてみると、こんなにマンガ的な性格だったかと驚かされたが、けっして誇大したワケではない。今、彼が生きていれば、多分前以上に仲良くなっていたと思える。言うなれば強敵と書いて「友(トモ)」と送りカナをつけたいくらいだろう。

 彼の時間は、この先ずっと止まったままだが、私はまだまだ進化し続けるのだ。

私の未来が、彼の進んだだろう未来よりも、先を目指して頑張って行きたい・・・。

それが、彼への鎮魂のメッセージだと思う。

私たちは今も生きているんだから。  

 

 おもいで

 

 第4回アメリカキャンプ

派遣団長 赤塚勝巳  

 

 第4回と一口に言いますが振り返りと1980年から17年目ということで、自分ながら 驚きもし、体力の衰えも感じました次第です。

 7月27日、関西国際空港を飛び立ち、今回は5年振りにキャンプローヤネに着いて、顔なじみのスタッフに会い、握手を交わすと懐かしさがこみ上げてきて押さえることができませんでした。また、旧交の仲であるサンフランシスコ第29隊のスカウト達に笑顔で出迎えを受けたときは、それまでの長旅の疲れも忘れてしまいました。

 このようにして今回は我がガールスカウトも「同じキャンプ場で」と許しを得られたので、前回までにないキャンプとなりました。これも第18回世界ジャンボリーや、ベンチャースカウトのことが世界スカウト仲間で論じられるようになった関係では・・・と考えています。

 日本では出来ないプログラムが多々あり、スカウト達も戸惑いながらも意欲的に、また真剣に挑戦していた態度を見て、毎度のことながら真剣に挑戦していた態度を見て、指導者としての喜びを痛感したものでした。

 外国に行く度に思うことは英語で勉強です。スカウト達のほとんどが英語で一生懸命話をしたのを見かけましたが、出発1年ぐらい前から英語の勉強を奨励していたので、それなりの勉強をしていたようでした。言葉が通ずることはすべてのことに自信がつくのではないかと思います。

 ローヤネのスタッフの、スカウト達を喜ばせる特殊技能は、我々よりも数段も上であることを今回も認識しましたが、自分達が楽しみながら、そしてスカウト達を楽しませて 成果を上げている様子を、はっきりと確かめてまいりました。楽しみもなくあの山の中で4週間から8週間も、若いというだけでは生活出来ないと思います。

あのような生活をスカウトに見せることによって、スカウティングのよりよい勉強になれば・・・・と考えている次第です。

 2回目と3回目に感激した「静かなゴールデンアローと国旗の別れ」(表彰のセレモニー)はなかったが、我が団の伏見、川原の両副長がケルンハイクに挑戦し、見事踏破して表彰を受け、よい思い出をつくってくれたことに感謝しています。

 なにわともあれ、1人の事故者もなく、8月12日に無事帰国できたことは「成功した」と言っても過言ではないと思います。今後とも我々は現在のスカウト達が、世の中の役に立つ立派な人間になるよう協力、指導し、そしてまた、このような計画が数多く実施されることを望み、報告といたします。

  平成9年(1997年)11月1日

 かがりび特別号より  

 

 サンフランシスコ29隊を迎えて

団委員 朝田登美子  

 

 USAサンフランシスコ29隊の26人(スカウト18人、リーダー8人)が、第12回日本ジャンボリーのあと、北海道旅行をして8月12日朝大阪駅に到着した。

大阪駅には三島前地区副協議会会長をはじめ11団の赤塚団委員長、柴崎副団委員長が出迎え、まず三島氏の案内で大阪市長を表敬訪問した。サンフランシスコ29隊は、市長公室でサンフランシスコ市長からのメッセージを磯村大阪市長に手渡した後、いただいたレインボーカードを早速利用し、バスを乗り継いで我が11団へ到着、ホストファミリーに迎えられてそれぞれの家庭へ向かった。

午後6時からボーイスカウト大阪第11団とガールスカウト大阪第62団は、今津憩いの家でサンフランシスコ29隊のスカウトとリーダーを招いて手作りのウエルカムパーティを開き1年ぶりの再開となった(昨年ボーイ、ガールのスカウトはサンフランシスコでキャンプを行い、その後ホームスティでお世話になった)。

 赤塚団委員長の流暢な英語の歓迎スピーチで始まり、第12回日本ジャンボリー参加記念として、大阪連盟からの記念の盾を柴崎副団委員長からサンフランシスコ29隊へ手渡された。会場のテーブルには、盛花やフルーツそしてお母さん達の手作りのケーキをはじめ、盛りたくさんな料理が並べられ参加者の食欲に対応した。場内は身動き出来ないほどの参加者で埋まり、クーラーの効果を半減させた。

 ビンゴゲームは赤塚団委員長の進行役で、時間のたつのも忘れて楽しんでいた。

最後にサンフランシスコ29隊全員に記念品のプレゼントがあり、同9時頃に解散となった。

 翌朝スカウト達は団本部に集まり、バスで奈良の大仏や大阪の海遊館の見学に出かけた。

3日目はそれぞれのホストファミリーとともに買い物や見学等楽しい一日を過ごし、

4日目の朝団関係者やホストファミリーに見送られ、次の訪問地の京都へと移動して行った。

  平成9年(1997年)11月1日

かがりび特別号より  

 

バスツアーの感想

サンフランシスコ29隊 大島範之  

 

 僕は大阪のスカウト達に連れて行ってもらったバスツアーを大変エンジョイした。

 なぜならば、僕は始めて奈良の大仏様を見たからだ。一度は見てみたいとずっと思っていたから、このツアーで見物できるチャンスをもらえてうれしかった。

大仏様は思った通りの大きさと、すごい迫力があって感動した。

その後に行った、うわさに聞く海遊館も、すごい迫力があった。特にジンベイザメを見たとたん、「この水族館に来たかいがあったなあ」と思った。  

 

 富士スカウト挑戦

 

個人プロジェクトテーマ「四国のかづら橋」

~祖谷地方の名橋にロマンを求めて~

川原稔樹  

 

 「かづら橋」に興味を持ってから、四度に渡って訪問を繰り返しました。色々なことを知りまた体験して来ました。

しかし、見つからなかったものや体験出来なかったものも残されているのではないかと思います。だからこれからも暇とお金の都合が付けばこの 祖谷に訪れたいと考えています。

今回のプロジェクト作成に於いて、苦労したのは文献や資料が少なかったことです。

その為に伝説的なことが多く成ってしまい、はっきりこうだと言い切れる事も少なくなってしまいました。事実との多少の誤差はご容赦願います。

 祖谷の里は普通ならば何の変哲も無い場所ですが「かづら橋」があったことによって何故か私の興味を誘い、何度も足を運ばせたのです。都会からは程遠く交通の不便な四国の山奥の小さな村に、平家にまつわる話があることに驚きました。恐らくは日本のあちらこちらの各地に此処と同じような場所があって、それぞれに重い意味を持っているのでしょう。

私はこれからは教科書通りの歴史が全て正しいとは信じこまないようにします。 

考えて見れば正史などはその時の権力者によって、都合の良いように作り替えられてしまうのです。

 写真とか映画の無い時代の事は100%解明出来ないと思います。そして書物に記されている事の裏に十人十色の思いを馳せる事が出来るからこそ、歴史は面白いのでしょう。

私はこれから、日本の歴史だけでなく、世界の歴史にも注目していきたいと思っています。

 外国のスカウトとお互いの歴史について語り合えたら、どれ程素晴らしいことでしょう。それには先ず自国の歴史をきちんと理解しておかなければならないし、外国の言葉も話せなければならない。

このプロジェクトは私の物の見方や考え方が偏っていたことを気づかせてくれたし、これからの目標も与えてくれました。何度か途中で投げ出しそうになったものの、その度に自分が興味を持って始めたのだからと反省し、何とか最後までやり終える事が出来ました。

 少しは自分にも自信が持てるようになったし、最後まで諦めずにとにかくやってみようと思うようになりました。このプロジェクトは自分を見つめ直し改善するのに役に立ちました。またこのプロジェクトを見た人が、少しでも都会からはなれた一地方の事に目を向けるようになれば幸いです。

 このプロジェクトを作成して行く過程で学んだ色々な事を決して忘れずにこれからもより一層の努力を重ねて行くようにしたいと思います。

平成5年(1993年)2月19日  

 

 富士挑戦キャンプ

個人プロジェクトテーマ

「滋賀県琵琶湖一周探索」

 ~体力と忍耐力の再確認~

長谷川 治  

 

 キャンプ前に立てた計画は、6泊7日と長期におけるキャンプだったのですが、今回の富士挑戦キャンプでは、天候、風向き、道路状態、その日の自分のコンディションによって大きく左右され、3泊4日といった短期で終える事が出来ました。しかし計画どうり6泊ものキャンプとなると、自分の体は持たなかった思います。今回のテーマであった体力と忍耐力は、このキャンプ中かなり向上はしたかと思いますがなかなか身に付くものではないなぁと実感しました。

1泊目には不安が襲い、2泊目には孤独感が悲しみを呼びました。これらの事実を通して自分に何が足りず、何を得なければいけないかを考えさせられました。その結果として見出した物は、自立心が自分には不十分であるといった事でした。

この先、何十年と生きて行く中でいつかは孤独に陥る時がやってくるものだと考えると、こんな2泊や3泊で苦しんでいてはいけないと独り言を何度も繰り返しました。

 しかしそう考える反面、いつも私の周囲に黙っていても居てくれる家族や仲間、その他を思うとこれ程有り難く、尊い物はありません。やはり、人間は一人でなく必ず誰かの助けを受け今ここに存在しているのである。

私は、今回のキャンプを通じ今まで足りなかった、謙虚と質素の心が身についたと確信しています。

 このように自分を確かめて、そこから向上へとつなげるキャンプも、たまには自分のために良いかとも思いますが、本来私が求めいているキャンピングとはスカウティングの 範囲内でどれくらい楽しめ、どれくらい遊べるかが基本となっています。実際、少年は日々の生活の中で、嬉しさや楽しさ、悲しみを何処で何時覚えるのか、生まれ持って身についているものではなく、遊びによって学んで行くのである。これらの体験が無駄にならないように、私たちが、次の世代に伝えることが必要だと思っています。

 今回の富士挑戦キャンプは決して無駄ではなく、有益であったと思います。

単独で危険を伴うキャンプではありましたが、これくらいの冒険心は我々スカウトにとって、必要であるはずなのです。スカウトには騎士道と言うものがあるからです。

 今後スカウティングを行っていくうえで普段出来ないことをおもいっきり楽しみ、大人に成ってもこんな少年のような心と冒険心を忘れず、今後の人生に役立てたい思います。

最後に、今回このキャンプを行って気が付いた事は数多くあるのですが、その中でも私は本当に暖かい環境の中で育てられたんだということと、どれだけ仲間が大切かと言うことに気が付きました。行く道々でガンバッテ下さいと、声を掛けられることの嬉しさは決して忘れてはいけないことの一つだと思いました。

このキャンプを終えて残ったものは、体力と忍耐力、人を思いやる心、それに筋肉痛でした。

平成5年(1993年)3月  

 

 富士章を取得して

平成12年度日本連盟富士スカウト章

 野田義人  

 

 平成12年12月22日、大阪連盟富士スカウト面接激励会において、富士章を取得 することが出来ました。

 取得するのに時間がかかり過ぎ、20歳になるまでの3ケ月位しかベンンチャースカウトとして富士章を胸につけて活動出来ないのですが、富士章を取得出来たのは、隊長、副長、団や地区の方々、両親そして何よりも仲間のスカウトの応援があったからこそで、全ての人々にとても感謝しています。

 特に感謝しているのは、やはり隊長で、隊長が居なかったら私は富士章を取得していなかったでしょう。私には富士章なんて無理だと考えて居ましたが、隊長に『ヨシト!富士を取れよ~、富士章を胸につけて活動せんとあかんぞ~』と事あるごとにに言われ、3つ目のアワードを何とか取得しました。

 今までのアワードも自分は報告書作成がどうしても苦手で、何が自分にとって成長が見られたのか、今後はどうしたいと言うようなことを具体的に表すことが出来ず、隊長に何度もアドバイスを受けました。

 私には、ボーイスカウト最高位の進級章である、富士章を取得出来たことが今でも信じられません。しかし、きっかっけと、やる気さえあれば、普通にベンンチャー活動をして居れば、誰でもが手に届くものだと感じて居ます。

 我が隊には富士章を取れそうなスカウトは沢山居ます、彼らも昔の私と同じだと思うのです。だから、富士章は選ばれた者しか取れないのではなく、誰でも取れるのだと言うことを私が富士スカウトに成ったことで証明出来たと思います。

 これから、我が団、城北地区で富士スカウトが続々と誕生することを願って居ます。

 

 プロジェクト

  「SF‘98」

  「富士を目指す漢たち」

  「隊長!OKと言って」  

 

 ”お灯明”自転車リレー

ベンチャー隊 本松 学  

 

 1998年8月6日から9日まで、大阪教区・大谷スカウト連合協議会(奥田祐賢委員長)では、「“お灯明”自転車リレー」(大阪教区蓮如上人500回御遠忌委員会後援)を行い、来春大阪教区で厳修される「蓮如上人500回御遠忌法要」に向けて、吉崎別院(福井県金津町)から難波別院(大阪市中央区)まで、自転車によるリレーで“お灯明”を持ち帰った。

 この“お灯明”は、前日(5日)にスカウトたちが吉崎別院の御山で、木と木の摩擦熱とレンズをとおした太陽熱から採火したもの。おこした火は、さっそく特製カイロに保管された。

 6日朝、猛暑のなか吉崎別院をスタートした11人のベンチャースカウト(高校生・大学生)による自転車隊は、福井(福井市)、五村(滋賀県虎姫町)、山科(京都市山科区)の各別院に宿泊しながら灯篭を背負って走り続け、9日夕方、難波別院に到着した。

この“お灯明”は、来春の御遠忌まで難波別院で保管される。

 

平成10年(1998年)10月1日

同朋新聞より   

 

平成5年(1993年)3月  

 

 大谷スカウトお灯明リレー

ベンチャー隊 本松 学  

 

 僕は、このお灯明リレーに参加して本当に良かったと思います。

なぜなら大阪教区の友達がたくさんできたからです。それに仏教章の大切さも少しわかってきたと思います。

本当のことを言うと僕は、このリレーに参加するつもりは全然なかったです。

だって「自転車で300kmもなんで走らなあかんねん」「メチャメチャしんどいやん」と思ったからです。

そして実際に走ってみると、もうリタイアしそうなくらい大変で、途中で「もうやめたい」と何回も思いました。もう上り坂なんて飽きるぐらい上りました。でも色々な別院を回って行くと、「ここでリタイアしたらダメだ」と思って、ちゃんと自分が走らなければならない距離は完走しました。

約270km走ったと思う。でも僕は、ただ自転車に乗ってリーダー達の言うとおりに走っただけで、陰で支えてくれたリーダーやスタッフの人たちが一番大変だったと思います。

大阪教区のリーダーやスタッフの皆さんありがとうございました。そして、お疲れ様でした。

平成5年(1993年)3月  

 

 富士をめざす漢(おとこ)たち

ベンチャー隊 米田和行  

 

 日本のスカウトにとってのメッカ、山中野営場でキャンプをし、富士山頂を目指すという、大プロジェクトを終えて、楽しかったこと、残念だったことが思い起こされます。

 第一に感謝すべきことは、8月13日に富士山頂を目指したのですが、富士登山が可能だったのは僕達が計画したその日だけだったということです。

関東地方、中部地方は玄倉川のキャンプ場での事故に代表されるように悪天候が続きました。

今、考えてみると僕たちが富士山頂に立てたことは奇跡にちかいものです。

 結果的に11団ベンチャー隊は全員、無事に富士登頂を果たしたわけですが、私にとっては日頃の運動不足がたたって非常に苦しいものでした。

その上、バディには置いていかれるし、赤塚隊長には見捨てられるし、おまけに途中で霧に包まれ前が見えなくなり、泣きそうになりました。

隊長の姿が見えた時は、心からホッとしました。

 地元の格言に「富士山に一度も登らぬ○○、二度登る○○」というのがあるそうですが、私は体をもっと鍛え、もう一度挑戦したいと思います。

そして、山中野営場でもっと天候の安定した時期に「これぞ11団ベンチャー隊のキャンプ」と言われるようなキャンプ生活をしたいと思います。

 次回こそ、富士山の全容をみるぞ!」

平成5年(1993年)3月  

 

城北地区スカウトフォーラム代表

シニアー隊 榎本善行  

 

 今年(平成7年)のスカウトフォーラムで城北地区代表になり、うれしいような、不安を抱くような、気分です。

 今年のフォーラムの議題は、「自然災害が起こった時、阪神大震災について」でしたが、城北地区の話し合いの結果は、募金活動の拡大、ボランティア活動に参加(ボーイの組織を通さずにプライベートも含め)、炊き出しやその他の細かい活動が意見として出ました。

 僕は、城北地区の代表として、今回出された意見を、より細かく、具体的に、分かりやすく、そして、一般の人たちにも活動に参加してもらえるように、と考えています。

 たぶん、他のスカウトの人達も同じような意見だと思います。しかし、他のスカウトとは違う、城北地区ならではの独自の意見を加えて、大阪連盟スカウトフォーラムで発表したいと思います。  

 

城北地区第2回シニアースカウト大会顛末記

CAMP in MATSUYAMA 

1995年8月10日~16日 

 

☆8月10日

(大阪11団、L2.RS1.S6)(大阪154団,L1.S5)と合同にて会場の『松山』まで共に行動する予定、PM9時団本部出発。

阪神高速長田ランプより湾岸線を神戸に向かい走行、神戸線芦屋浜(六甲アイランド)より43号線に入り一路神戸須磨へ、淡路フェリーに無事全車両乗船。

これで、淡路大磯へ渡れば、四国とは鳴門大橋でつながっています、ゆっくりと行こう。

川端副長

 久しぶりの長期キャンプに心が躍った。(Prologue)

川原RS

 淡路島より徳島へ向かう、真夜中の国道を西に向かって突っ走る、店らしきもの何も無し。

吉田君

 フェリーの甲板で見た海は不気味だった。

 

☆8月11日

 鳴門大橋AM1時20分、夜の走行は我々が車を止めなければ、止まることはなかったのです。信号はほとんど点滅になっていました。世間が明るくなり、祖谷渓谷の「かずら橋」を目指し出発、そして噂に高い祖谷の「かずら橋」に到着、全員その橋を渡ろうとしたとき、橋の手前に料金所が有りました。わずか、25m位の「かずら橋」を渡るのに1人 410円 有名とは恐ろしいものなり。

我々はここまで来た以上「かずら橋」を渡った記録を残すため意を決して「かづら橋」を渡りました。時間にして数分の渡橋でした。秘境、四国の商魂を知りました。

そして、「かづら橋」に別れを告げ、本日のキャンプ場「祖谷キャンプ村」に向かって走行、祖谷渓谷の裏道は、それは、それは曲がりくねった道でした。

無事に祖谷キャンプ村に着きました。さて、やっと朝食です、近所のコンビニで朝食の調達をと思ったのですが、コンビニを探してて、約1時間池田市まで戻っていました。

祖谷渓谷は秘境です。

 なんとか食事も終えて、午後のプログラム祖谷渓谷の水浴には入りました、・・・満足、感謝‥‥祖谷渓谷の水は冷たく澄み切っていました。

 

川端副長

 自然の中で戯れた、幸せ。(祖谷CAMP村)

川原RS 「かづら橋」を3年ぶりに渡った、皆は『ちっこなあ』『短いなあ』 何だ、かんだと云っていた割に、恐る恐る渡っていました。

仲君

 川で泳いだ、冷たくて気持ち良かった。ロッジは最高だった。

長君

 手作りの縄の橋を渡った、結構恐かった、川の水は冷たかった。

 

☆8月12日

 11団、154団は自隊のプログラムを消化して、地区シニアー大会特別場外プログラム、塩塚高原でのパラグライダー体験コースへと向かいました。 

祖谷キャンプ村から塩塚高原までは大体1時間位で行ける所だと地元の人に聞いていました、道路標示にしたがって走るのですが、不安が募るような道が続きます、

このまま走り続けていて本当に塩塚高原に行き着けるのかと・・・

 塩塚高原迄、たどり着く道路はガードレールが無く右に左にと曲がりくねっていてずっと昇りが続く道でした、無事高原にたどり着いたとき、ドット汗が噴き出ました。

シニアー大会場「松山」よりのメンバー到着、そしてパラグライダー体験講習会開始、注意事項その他の説明終了後、グループに分かれ実技の開始。

スカウト各々落下傘を担ぎ走行、うまく開くものあれば、又全然どうにもならない者色々有り。

 そして、インストラクターに聞いて見ました、塩塚高原で「ティクオフ」を出来るにはどのくらいの講習会を受ければ出来るのですか。

 『2日間続けて、講習会を受けて頂ければ、1回位のティクオフをして頂きます。

とにかく今日は地上を走って頂き、落下傘がうまく開く程度でしょう。』

 そして、インストラクターと色々、その他のこと、我々はボーイスカウトですとお話をしました・・・ 

『出来るのならば、スカウトたちに1回位の「ティクオフ」を‥‥。』

 昼食休憩で~す。スカウトたちより少し遅れて講習会会場に向かいました。

塩塚高原の空を見上げたら、見たことのある姿が浮かんでいます。我が隊のスカウトです。青く澄み切った大空に浮かんでいます。・・・感動。

そして、スカウトの言葉『パラグライダー・・・それは、ピーターパンの世界です』

 パラグライダーを自ら体験されたことがある92団今西隊長は、「体験コースで空に浮かぶということは、全く考えられないことです。体験コースでは、ただ地上を走り続けて終わりです。本日パラグライダー体験コースに参加されたスカウト達は、本当に幸運だったとしか思えません。私もぜひ参加したかった、残念です。」

今西隊長は特別場外プログラムのカヌーコースに参加されていました。

 

川原RS談 

 この日、我々一行は、刺激的で貴重な体験をした、塩塚高原と言うところで、パラグライダーをやったのである、このキャンプの中で、おそらくこれが一番の出来事だったと思う、午前中は、パラグライダーの各部の名称と説明と離陸の走る練習、ここまでは普通の講習内容、ところが、なな何と、私達は午後から本当に離陸してしまったのです。

全くのど素人が、大空へ羽ばたいたのである、何と言うチャレンジャー、何と言うファンタジー、皆、我を忘れて落下傘を担ぎ、山へと登って行った、高さ50mからのフライトは最高だった、世界が違って見えた、病み付きになりそうだった、自分のパラシュートを持ちたいと思った。

 

 地区シニアー大会開会式、地区シニアー大会が始まりました。

 

川端副長

 ピーターパンの気持ちが解ったような(パラグライダー)

瓜生君 

 午前中、走り回った、午後空を飛んだ、貴重な体験をした。

仲君 

 ピーターパンになれた。

 

☆8月13日

 松山市内スイーププログラム。かの有名な夏目漱石著『坊ちゃん』に登場する

「坊ちゃん風呂」の前でスカウトたちと別れを告げ、マドンナが人力車で走った松山市内のルックワイドに出掛ける。とにかく、松山城。松山城は市の中心部にあって

小高い丘の上に築城されていた。松山城は昔のそのままであり、城内天守閣までは急な階段で、我々が住む大阪の大阪城とは大きな違いがあった、大阪城にはエレベーターと言う便利な乗り物があるもんねぇ。

陰の声(大阪城は昭和に建てられた鉄筋コンクリートの建物で~す)しかし、我々は大阪城は 《Castle》だと信じておりま~す。

 まっこと暑い日でした。

 

川端副長

 お殿様になった気分だ。(Matsuyama-Castle)

川原RS

 天守閣からの眺めは、絶景だった。天下を取った気分だ、昔の人は、この景色を見て何を思ったのだろうか。

榎本君 

 朝。「坊ちゃん風呂」に入り、汗を流し、今日までの疲れを取りました。

しかし、風呂の湯はすっごく暑かったです。

 

☆8月14日

 本日のプログラム、安居島探訪

 ぽんぽん船に毛の生えたような、小さな郵便連絡船に乗って、安居島と言うこれ又、小さな島に渡った。ここで私達は、島の人に思わぬ迫害を受ける。又同時に親切も受ける。何とも複雑な心境だった。

遠慮がちに海沿いにテントを張り、スカウトたちは、時の経つのも忘れ海で戯れていた。私はと見れば、目に涙を浮かべ我が身の悲哀を嘆きつつ・・・

クラゲと魚は島の人より多かった。

 (川原RS記)

 

 松山空港へ12時5分着にて、赤塚団委員長到着。

川端副長

 人の心の冷たさと、暖かさを知りました。 isIand

 

☆8月15日

 大会最終日。午後よりの報告会、大会参加スカウト全員が揃いました、スカウト参加数31名、共に行動して来た154団、11団スカウト11名そして、今大会の全員(運営スタッフ、参加スカウト、リーダーを合わせて)最終日に残っていたのは、

50名、その内の16名が11団、154団のメンバーでした、(ここで、少し自慢)人数が多いということは、心強く感じます。

PM3:00 大会閉会式。

  城北地区シニアー大会

  CAMP in MATSUYAMA 終了。

PM6:00 World Restrantの開店。

 他団の料理も、我が団スカウトたちの料理も大変に美味でした。

ちなみに、11団は中華料理の四川風『海老チリソース』和やかなうちに、あっと言う間に料理が無くなってしまいました。

World Restrantの閉店時間。これを持ちまして城北地区シニアーキャンプ「松山」のプログラムすべて終わりました。

 感謝のみ残して・・・・・・

 

川端副長 

 100万ドルのディナーを楽しんだ。 World Restrant

川原RS 

 キャンプ最後の晩餐、スカウトたちが腕を振るった料理を心行くまで

味わって食べた、味はどれも満足出来るものだった。

同じくこの日は赤塚団委員長の誕生日のお祝いがされた、団委員長はとても、感激しておられるようだった。夜には喜びの涙で枕を濡らされたに違いない・・・

 

☆8月16日

 撤営完了。活動センターでの、朝食を食べました。印象 あれで400円とは、食い倒れの大阪人として、納得できまへん。

PM10:30大阪南港に到着阪神高速湾岸線を経て団本部へ。

解散。

 

川端副長 

 思い出を胸にしまって、別れを惜しんだ。(Epilogue)

川原RS 

 松山からフェリーに乗る、リッチなフェリーで小粋な旅を楽しむ。

私はデッキに佇み、瀬戸内の風を背中に感じながら今までを振り返っていた。

今日でこのキャンプも終わる、長いようで短かった日々、今回のキャンプは、私にとって本当に有意義で良い体験になったと思う。中でも塩原高原のパラグライダーは本当に良かった、機会があればもう一度、空を飛んでみたい。

山本純也君 

 ありがとうございました。 感謝

吉田 稔君

 6泊7日の長期キャンプは高2の思い出として残る良い体験でした。

ありがとう、お父さん、お母さん。

仲  健君

 空も飛べて、川や海で泳げて最高だったもう一度、行きたいです。

ご両親様、ありがとう。

長 英司君

 今回のキャンプは、普段の生活と掛け離れていて良い、思い出になりました。   感謝・・・

瓜生正幸君

 ありがとうございました。楽しい思い出を残しました。

怒られてばっかりやったと思うことも有りました。 でも・・・感謝。

榎本善行君

 今回のキャンプのメインイベントは、何と言ってもパラグライダーでした。しかし、そのパラグライダーは、キャンプ前半のプログラムでした。正直言って、シニアー大会は、あまり楽しくないと、思っていましたが、地区の他団の人との交流が有り、充分に楽しかったです。

今回の松山6泊7日のキャンプがとても短く感じました。楽し良い思い出が出来ました。これも、両親、各団のリーダーの方々の御蔭です。 

 ありがとうございました。

 

 今回のテーマ ”Challenge My Self, Challenge Feature“

自分で、色々なことに挑戦してどうだったか?

この、キャンプで自分たちがどのように変わって行くか!スカウトたち自身の事としてとらえてくれたら、ありがたいと思います。

 私、リーダーとしてこのキャンプが終わったとき、余韻が長く残り、何か知れないけれど、これで、一つの区切りがついたような気がしました。

 スカウトたちのスピードの早さ‥‥何かの台詞ではありませんが、昨日・・・そんな昔、忘れました。明日・・・そんな遠い未来、解りません。

今日、今が楽しいかそうで無いかが問題なのです。

 私も年を経たと思いました。皆様方の今日迄の、ご協力に深く感謝致します。

ありがとうございました。            弥 栄 

平成7年(1995年)    

城北地区誌第82号より  

 

 川端 優氏「かっこう章」受章

 

大阪第11団副団委員長 奥田祐賢  

 

 大阪第11団の川端 優氏が、シニアー隊隊長として、および城北地区にも永年にわたり奉仕してきた実績が認められ、5月29日、梅田センタービルで開催された日本ボーイスカウト大阪連盟の平成6年度年次総会で、日本連盟功労賞の「かっこう章」を受章しました。

(城北誌78号) 

 

 これは、我が団、および城北地区としても名誉なことであり、7月24日ホテル京阪(京橋)で「かっこう章受章祝賀パーティー」を開き、関係者にお集まりいただきました。

その節は暑い中をご協力いただきまことにありがとうございました。

ここで、川端氏のスカウト関係略歴を紹介致しましょう。

 

・昭和42年4月大阪第111団カブ隊リーダーとして入団。

「動機、若くてかわいいデンねーちゃんと仲良くなりたい」

・同年11月17日~20日、指導者講習会CSコース受講。

「講習中、質問、意見?を連発、講師を困らせる」 主任講師星野信二氏。

・昭和43年4月カブ隊隊長となる。初めての夏期舎営は、おばな別館。

・昭和47年CS研修所大阪4期修了。

「ここでも、名を売る?」。

そのころ、川端氏の中学時代の同級生(女性)の長男が入団した。氏の中学時代の行動を知るUさんは、一時入団を取りやめようかと真剣(?)に悩んだそうだ。

・昭和47年2月28日 妻あさ江さんと結婚。披露宴の最中、列席者のほとんどが会場を出たり入ったり、ロビーのテレビに釘付け。

司会者までが「ただ今から警官隊が山荘に突入のもよう・・・」と知らせていた。

そうです、浅間山荘事件の当日でした。

・昭和49年4月大阪11団に移籍、シニアー隊長となる。

・昭和50年6月講習会BSコース受講。

「もうこのころには、地区内に知らないものはなし」

・昭和51年BS研修所大阪12期、昭和52年SS研修所大阪2期修了。

「もう連盟でも、顔がきく?」

・昭和52年度城北地区誌編集委員長として奉仕。

・昭和54年10月あこがれの那須野営場でWB実修所SS第4期修了

「日本連盟でも、名を売る?」

・昭和55年7月から城北地区副コミッショナー

・昭和56年第506回指導者講習会講師。「えぇ!」

・昭和59年7月から城北地区コミッショナーとして2期つとめ、その後副コミッショナーとして活躍。

・平成6年から城北地区副地区委員長として奉仕。

 

 その他、奉仕歴、表彰歴は多々ありますが、省略します。

平成6年(1994年)     

城北地区誌第79号より  

 

 さよなら夏の日

  FOSCAP‘91参加報告

大阪第11団 越知谷公民館  

 

 スカウト23人に聞きました。

 

「楽しかったこと、おもしろかったことは?」

・なんたってアドベンチャートレイル!

・陶芸教室でお父さんの灰皿をつくったこと

・宿舎の周りでいっぱい虫を捕らえたこと

・くま集会で一緒だった他の団のスカウトに再会できたこと

・FOSCAPナイトの吹き矢でいっぱい景品をとれたこと

・公民館の中で副長と一緒にしたドッチボール

・開会式の司会「ほてからに・・・!」

 

・朝食中にやってきて、杖を持ち、パイプをくわえ何か言っていた変なおじさん

・トーテムポールをみんなでつくったこと

 

「いやだったこと、つまんなかったことは?」

・雨の中汚いプールでおよいだこと

・公民館の雑巾がけ

・アドベンチャートレイルがなかったこと

・お風呂がなくて、ふるチンで行水したこと

・お通夜のような開会式

・グランドゴルフもっとたくさんのことが出来たらよかったのにな・・・

・4日間で帰らなければならなかったこと

 

「また行きたい?」

  「行きた~い!」

 

 我々の舎営場は、本部から近く、なにかと便利でプログラム消化に非常に時間的に

余裕がありました。また、多くの保護者のご援助、理解あるリーダー、スタッフに恵まれたおかげで、非常に素晴らしいFOSCAP‘91舎営だったと思っております。

 スカウト達は、みんな好き勝手なことを言っていますが、楽しかったこともつまらなかったことも、きっときっと良いい日の思い出になるはずです。

また数年後に城北地区合同舎営が開催され、今回以上の感動が得られますことを望んでいます。  

 

 阪神大震災ボランティア記録

 

1996年1月17日朝、まだ明けやらぬころに阪神地方を襲った地震は、神戸、芦屋、西宮をはじめ兵庫県、大阪府の人々に甚大な被害を与えました。

BGSC(ボーイスカウト大阪第11団、ガールスカウト大阪第62団)は、大谷スカウト協議会、大阪連盟と連絡を取り合いながらも、独自に被害にあわれた方々の支援を行いました。

ここに、その記録をまとめました。

 

・1月23日~4月10日 御影小学校 救援物資(水,食品,生活用品他)を届ける。 

・1月17日 円通寺 梅仙寺に電話が午後8時頃やっとつながる。 被害状況を、聞き、何かできることがあれば 援助する旨を伝える。 

・1月18日 円通寺 スカウト家庭、寺掲示板に救援物資と義援金の 提供を要請。 

・1月21,22,25,28日 魚崎小学校 延べ10人 救援物資(水、食品、ブルーシート他)を届ける。 現地救援者約1000人。

・1月22日2人でステーキ700枚を焼く。他食事作り。 

・1月23日~4月10日 御影小学校 延べ200人 救援物資(水,食品,生活用品他)を届ける。

 学生ボランティアと協力してボランティア活動を行う

・1月28日 風呂設置、炊事場作り

・1月29日 救援物資整理 

・1月28日~4月2日 御影小学校  延べ180人 GSリーダー・保護者主体炊き出し。

 毎週土曜日に買出しと準備、日曜日に実施。

 各回2月までは600食、3月からは400食。

・2月23日 御影小学校 BGSCスカウト保護者による炊き出し(400人分) 

・2月19日,26日 徳庵駅周辺 延べ60人 ボーイとガールによる街頭募金。 

・3月2日,22日 延べ28人 

・3月12日 御影小学校 50人 被災者との交流餅つき大会

・4月8日 御影中学校 8人 体育館で被災者の結婚式。 仏式で円通寺住職司婚。

・4月22日,23日 円通寺他 10人 御影中学校避難所の中高生を桜の通抜けに招待

その後円通寺にてバーベキュー、本堂に一泊。

 ボーリングと花らんまん展示(花博公園)を見学。 

・5月3日 淀川区 7人 仮設住宅の玄関、階段の設置。 

 

 (上記には、大谷スカウト関係の奉仕と大阪連盟からの西宮への奉仕は除いています。)  

 

 救援活動に奉仕して

ビーバー隊副長 東 浩  

 

 テレビの大震災報道を見て「これは大変なことになったぞ」と、これまでに見たことのない大自然の恐ろしさに身震いしたことを思い出します。

「何かお手伝いをしなければ・・・」と思う気持ちはあったのですが、具体的に行動を起こすことは、個人としては知れたものです。そんなときに自団で同じ気持ちの者数人が、連盟からの要請にのって、さっそく土曜日に西宮市役所に駆けつけてみました。

市役所では、一日中救援物資の受け入れや整理などを、他の団の人たちや一般ボランティアの人と処理しましたが、その物資の量があまりにも多く、全国からの大きな善意に強い感動を覚えたものでした。

 ところが、テレビや新聞の報道以上に、被害が大きなところがあることを、自団の近くで塾を経営している方から情報が入りました。

それは、「水、電気、ガス、食料がなく、御影中学に避難している400人を、なんとか救援してほしい」ということでした。

この相談を受けた11団では緊急会議を開き、救援奉仕をすることに決まりました。

 避難所では救援物資の整理、配給、水くみなどの作業があり、土曜と日曜に1泊2日で奉仕していました。そのうちに避難している人達から「フロに入りたい」という要望があったので、「何とか希望をかなえてあげよう」ということになり、テントを張って仮設浴場を完成させました。

そのころから27団や85団からも奉仕のメンバーが集まってくれました。

当初はマキで 沸かしていた湯も、プロパンガスで効率よく沸かせるようになり、さらに、タンクからパイプで水を引き、蛇口を回せば水が出て湯かげんが出来るようになりました。

 初めは20~30人だった入浴者が、現在では避難所以外からも来るようになりました。

「あーさっぱりした。ありがとう」と、うす暗いテントの外で、女性から礼を言われたとき、「よかったですね」と、自然に言葉が出るようになり、「日々の善行、奉仕の精神」が、わずかながら理解できるようになりました。

 阪神地域の復興が一日でも早くなりますように念じながら、これからも時間の調整ができる限り、奉仕させていただこうと思っています。

平成7年(1995年)    

城北地区誌第81号より  

 

 

資 料

 

 財団法人ボーイスカウト日本聯盟

 

 本部役職員名簿

 各都道府縣聯盟役職員名簿

 

 加 盟 隊 所 在 名 簿

 

昭和25年4月1日現在   

附(昭和25年7月20日現在)  

 

財団法人ボーイスカウト日本聯盟役員

 

事務局  東京都中央区

結成月日 昭和24年2月12日

 

役 員  氏 名  住 所 

名誉総長

 ダグラス・マッカーサー 

顧  問

 米本卯吉 東京都港区

 中島久萬吉 熱海市

 後藤一蔵 東京都港区 

相談役 

 岡本禮  江東区

 濱 寛昊 世田谷区

理事長 

 三島通陽 渋谷区

理  事

 小山直彦 渋谷区

 古田誠一郎 中央区

 橋本龍伍 太田区

 久松定武 豊島区

 關 忠志 文京区

 猪股農夫男(東 北) 仙台市

 村上 有 (關 東) 東京都

 長納圓信 (北信越) 柏崎市 

 尾崎忠治 (東 海) 静岡市

 今田忠兵衛(近 畿) 大阪市

 井上定次郎(中 国) 岡山県

 野田俊作 (九 州) 福岡県

監 事

 米本 正 東京都港区

 

名譽役員

 幣原喜重郎 吉田 茂 佐藤尚武 天野貞祐 伏見朝子 田中耕太郎 山本有三 黒川武雄 高瀬荘太郎 阿部龍成 中山伊知郎 林 甚之丞 高橋龍太郎 一万田尚登 高梨 寛 長崎榮三 櫻内辰郎 宮末 進 今井一夫 徳川家正 葛西嘉資 加賀山元雄 荻野正孝 村上義一 浅田長平 大谷光暢 梅原眞龍 佐藤一夫 柏木庫治 高階研一 松田太郎 和田性海 小崎道雄 八代武助</td><td>飯島 稔 松方三郎 西崎 恵 田中 章 田畑政治 二宮 順 寺田宗義 渡邊悦雄 渡邊 光 深見和夫 

 東ケ崎 潔 芝 均平 古垣鐵郎 山崎匡輔 山下太郎 加納久朗 藤村千良 深尾 韶 細野浩三 渡邊 保 白橋龍夫 高橋銀三郎 内田二郎 森村義行 井下 清

 

職 員

 總主事

 指導主事

 事務主事

 指導主事補

 雇員

 

 大 阪 府 聯 盟 

  (昭和25年7月25日)

 

本 部  大阪市東区平野町

事務局  大阪市東区平野町

結成年月 昭和24年8月25日

 

役職名 氏  名 職  業

理事長 

 庄野貞一 大阪府教委帝塚山大学長 

理 事

 眞鍋長次郎 日米兄弟社支配人 

 今田忠二郎 今田紙業(株)監査役

 稲垣務道 金光教道廣教會長

 村田正雄 日本伸銅取締役

 泉雄照正 眞宗本照寺住職

監 事

 大栗治三郎 (株)同志商会代表取締役 

 松本石翠 大阪市交通局雇員

事務局長 今田忠彦 今田紙業(株) 取締役

 

都市 隊号 承認 団本部 指導者 隊員

大阪1 24. 2.20 大阪市東住吉区 3 15

大阪2 24. 2.20 大阪市西区 2 37

豊能1 24. 2.20 大阪府豊能郡 6 26

大阪3 24. 3.17 大阪市東住吉区 2 19

大阪4 24. 3.17 大阪市西区 3 20

大阪5 24. 6. 2 大阪市福島区 3 17

大阪6 24. 6. 2 大阪市住吉区 2 25

八尾1 24. 6. 2 大阪府八尾市 1 13

豊中1 24. 6. 2 大阪府豊中市 1 30

大阪7 24. 7.30 大阪市西淀川区 7 15

大阪8 24. 7.30 大阪市大正区 3 23

大阪9 24. 7.30 大阪市東淀川区 3 33

高槻1 24.11.11 大阪府高槻市 5 27

大阪10 24.12.20 大阪市生野区 3 32

三島1 25. 3.15 大阪府三島郡 3 10

 

    合計(25. 4.11 現在)

  15隊 個人登録 52人 53人 342人 

 

   (追加) 

大阪11 25. 4.18 大阪市城東区 1 18 

大阪12 25. 5. 8 大阪市西淀川区 3 10

大阪13 25. 7.18 大阪市生野区 3 12

大阪14 25. 7.18 大阪市大和田 2 15

大阪15 25. 7.18 大阪市生野区 2 15

大阪16 25. 7.18 大阪市北区 1 14

大阪17 25. 7.18 大阪市生野区 3 14

八尾1 25. 6. 2 大阪府八尾市 13

枚方1 25. 7.18 大阪府枚方市坂 2 17

高槻2 25. 7.18 大阪府高槻市 3 16

高槻3 25. 7.18 大阪府高槻市 3 10

 

 合計(25. 7.20 現在)

  11隊 個人登録 12人 26人 154人  

 

スカウティングと宗教(真宗)

奥田祐美  

大阪第11団団委員長・圓通寺住職  

 難波別院にて

 

はじめに

 英国のウェーリントン侯は、「宗教心なくして人間を教育するは、利巧な悪魔を作るに過ぎぬ」と断言されている。

 古来を見れば、偉大なる教育者は偉大なる宗教者であり、偉大なる宗教者は偉大なる教育者であったといえよう。

 35歳で悟りを開き、80歳まで教えを説き続けられた大聖釈尊、ナザレに生まれ30歳で世を去ったイエス・キリスト、比叡山に三千の坊を開き山家学生を育て、日本仏教の基盤をなした伝教大師、いずれも偉大なる宗教家であると共に、多くの人々を導いた大教育家であった。

 また現スタンツ孤児院で「児童と共に泣き共に喜び」し、ペスタロッチは、まことに偉大なる教育家であったと共に偉大なる宗教家であった。

ノイホフの近傍で、ペスタロッチの永眠する地、ビルの墓標に「・・・人類の教育者、真の人、真のキリスト教徒、真の市民として凡て人の為に計り ・・・」と記されている。

 教育も宗教もすべて帰するところ人生の向上であり、浄化でなければならない。

 

スカウティングについて

 B-P卿はスカウティングの目的を「隊長の手引き」『社会人を育てるスカウティング』に「国家の繁栄は、軍備の強大よりも、その国民の公民としての人格(性格)のほうがずっと肝心である。 ――(中略)――その人が社会に踏み出す前に、まだ少年で物事を受け入れやすいうちに、人格(性格)は養われるべきである。 ――(中略)―― 

それを引き出し、のばしてやる必要がある。」

「この点にボーイスカウト訓練のもっとも重要な―教育という 目的があるわけだ―しかし、教育といっても指図することではないのですよ。教育、つまり少年たちが自分から望んで、人格(性格)を養成するにふさわしい物事を、自分たちで学ぼうとするように引っ張ってやることである。」

「ここで、隊長の人格(性格)と能力がものをいうことになる。」と申されている。

識見の発展―敬虔の項では「識見の発展は、神(仏)への尊敬―『敬虔』ということばが最も適当であろう―からはじまる。

神(仏)に対する敬虔、他人に対する敬虔、神(仏)とボクとしての自分自身に対する敬虔、これが宗教心のすべてのありかたの根底である」と示し、「宗教とは『教えられる』ものではなく、ただ『とらえられる』ものである」とし、信仰を強制するのではなく、少年に信仰心を持たすべく奨励することの必要なることを明らかにされている。

 

スカウト活動になぜ信仰奨励が必要か

 少年がスカウトになるとき、「ちかい」をたてます。

その第1条に、

(仏)と国とに誠を尽し おきてを守ります」

とあります。誓をたてたからには、スカウトは信仰心をもたなければなりません。しかし、スカウトは宗教について十分な認識がありませんので、信仰奨励が必要となります。

そのために、先ず指導者が確実な信仰をもち、『口で教えるより、背中で教え』なければなりません。指導者がなにげなく行う動作の中に、スカウトは深い感動を受けるものです。

 

キャンプ夜話「悪人と善人」

 3人家族と7人家族がとなり合わせて住んでいました。3人家族は夫婦と子ども1人、7人家族は祖父母と夫婦と子ども3人。

 3人家族は毎日言い争い、7人家族は毎日楽しい日々を送っています。

 ある日3人家族は、「家では毎日言い争っているが、隣は朗らかに楽しい日々を送っているではないか」と気がつき、7人家族に尋ねました。

「それは、あなたの家は善人が住んでいるから争いがおこりますのや、私の家は悪人が住んでいるから楽しい日々が送れますのや」

「そんなこと言って、私たちをからかうのですか」

「それはな、何かしても自分が正しい(善人だ)、間違いない(賢い)と思うから、相手もなじるから争いが起こる。私たちは自分が悪い愚か者とふり返って、み仏の前に深くわび、今日一日を感謝した日を送っていますのや、この姿を見ている子も親も、自然とみ仏に手を合わせますのや」と。

 この話を聞いた3人家族は、それから仲良くなりました。

 親鸞聖人は、生きていること事態が罪なのだと申されています。

 

仏教について

 仏教とは仏の教えであり、仏となるべき教えです。仏教を仏法とも言います。仏法とは、仏になるべき方法です。

よく○○の何回忌の法事を勤めますと言います。法事を勤めるということは、仏になる方法を勤めることなのです。

無くなった人を縁として、やがて私もこのような姿にならなければならないのかと、深くふり返って人生をいかに生くべきかを考えなければならない行事です。

 

七歩目の世界

 仏陀は、お生まれになると、東西南北に七歩お歩きになって、天上天下唯我独尊と申されたと、花まつりに話をします。

 仏陀は六道の世界を離れ、仏(七歩目)の世界に入りなさいと教えられたのです。

六道とは、地獄 餓鬼 畜生 修羅 人間 天上 のことです。

 

 地獄とは、「火の車作る大工はなけれども おのが作りて おのがのる」の歌の通り、人間の諸業の結果に苦しむ世界です。

 餓鬼とは、求めても求めても満足の心の持てない苦しみの世界です。

 畜生とは、動物本能のままの心でうごめき、その結果に苦しむ世界です。

 修羅とは、争いの世界・良心と悪心、人と人、家と家、国と国との戦争に苦しむ世界です。

 人間とは、人間として生きてゆく苦しみで、その中に老いがあり、病があり死がある世界、仏陀は「四大苦」と申されました。

 天上とは、人間としての希望が達成した世界であるけれども、そのことによって始まる地獄の苦しみの世界です。

この六つの世界をいったり来たりしているのが、私たちであると教え、早く七歩目(仏)の世界に入りなさいと示し、自分がこの世に生を受けた意味が何なのかと、覚ることの必要があるのです。

 

死刑囚との出会い

 昭和28年、ある人の勧めで刑務教悔師となり、初めての仕事が死刑囚に話しをすることでした。

悪を犯したとはいえ、法のもとに死んで往く彼等の姿に接し、深く自分の人生を考えさせられました。

罪を犯して仏教を知り、安らかに死んで往く死刑囚。一般社会にあっては、死をおそれおののく人々。あまりにもかけ離れた世界に、ただ驚くのみでした。

「先生、先生は刑期の無い死刑囚ですね」と笑われ、「先生、お先にまいります」と言われ、人間生活をごまかしている自分に悲しみを覚えたものです。

「世間の人が、私のようなバカなことをして死なないように話をして下さい」と他人の上に思いをはせる彼等の上に、仏教の自利他圓満の境地・親鸞聖人の往懇・還想の二回向の世界を見ることができました。

B-P卿の最後のメッセージ

「あなたが幸福になりたければ、他人に幸福をあげなさい」

と言われた世界に通じる彼等の生活に教えを受けました。

 

幸福を求める道

 仏陀は、幸福を求める道に二つある。一つは外へ外へと求めること---外的物件を調えて幸福になろうとする方法――それは一見幸福そうに見えるが、苦悩がかならず起こる。

そこで、もう一つの方法、それは自分の心を静かに反省し、生きていることの感謝と、世間に対する奉仕(布施)をすることであると申されています。

 

真宗(親鸞聖人)について

 真宗をお開きになった親鸞聖人は「報恩感謝のお念仏」と申されています。

親鸞は、承安三年(1173)京都山科の里、日野でお生まれになり、9歳のときに得度(僧となる式)をお受けになりました。

その折りの有名な歌があります。

「明日有りと 

 思う心のあださくら

 夜半にあらしの 

 吹くかぬものかは」

20年間、比叡の山で勉学と修行をされましたが、自分の心の醜さと比叡山の現実の姿に疑問を感じ、建仁元年(1201)3月14日山を下り、京の都で念仏の教えを説いておられた法然の弟子になられた。

「比叡の山で20年間、勉学修行をしてまいりましたけれど、救われません。たった六字南無阿弥陀仏と称えるだけで、救われるのですか」

「そうだよ。南無阿弥陀仏と称えるだけで救われるのだよ、疑っているのだね。疑って疑った後に真実であることが分かりますよ。」

このときの心を、嘆異抄(たん に しょう)の二条目と九条目に詳しく述べられています。

この法然こそ生涯師と仰ぎ、弟子として従っていこうと決意されました。

 その後、念仏の教えは都一円に広まりました。宮中に仕えていた女官松虫・鈴虫までも、尼僧となり後鳥羽上皇の怒りと、他宗のねたみで、健永3年(1208)念仏停止と流罪となり、法然は土佐の国、親鸞は越後の国へ流されました。

「み仏の思召しだよ。都の人々に念仏を広められたが、遠い国の人々まではとどかなかった。

このたび私は土佐に、あなたは越後に、お念仏を広めることができます。ありがたいことです。」

「寂しいときも、お念仏を称えましょう。お念仏の中に私がおりますよ。」と3月16日流罪の旅につかれました。

これを機に、愚禿親鸞と名を改め、恵信尼と結婚されました。

 建暦元年(1211)39歳の時、釈免の通知を受け、京都に帰ろうとされましたが、法然他界を知らされ、京に帰ることをあきらめ、関東の地に移られました。

その間、布教生活を送られるとともに、真宗の本典とされている「教行信証」の執筆をされ、52歳の頃完成しました。

貞永元年(1232)京都に帰られ、関東のお弟子を指導されつつ、数多くの著作をされました。

弘長2年(1262)11月28日親鸞聖人は、静かに息をひきとられました。お年は90歳でした。

「恋しくば 

 南無阿弥陀仏と唱うべし

 われも六字の中にこそすめ」

また「私が死んだら加茂川にすてて、魚のえじきにしておくれ」と申されました。

親鸞聖人は、建前を遠ざけ、あくまでも人間としての本音(弥陀の本願)に生きられた方です。

 

生きて往く喜び

 私たちの団では、キャンプ地を選ぶのに、できるだけ手の入っている場所を避け、自然のままの所を選びます。

キャンプに入るとき、班に一羽のわりで鶏をつれて行き、キャンプ中に餌を与え、最後の夕食に料理をします。

スカウトはなかなか料理はできませんが、夕食が待っています。やっとの思いで料理し、一・二週間鶏料理が食べられないようです。

親は、残酷なことを止めてくださいと、報告会の席上で言われます。なるほど残酷かもしれませんが、こうした尊い生命の上に人間の生命がなりたっていることを、親ともどもスカウトに教え、生きている喜びを味わっていきます。

自然こそ偉大な教師であり、自然こそ慈悲に満ちた導師である ことを知り、全てのものに感謝する心を起こさせるものなのです。

 親鸞聖人は、

「弥陀の誓願不思議にたすけまいらせて 

 往生をばとぐるなりと信じて

 念仏もうさんと

 おもひたつ心のおこるとき、

 すなはち摂取不捨の利益に

 あずけしめたもうなり」

と申されています。

 

 私たちは、多くの生命の上に生きていることを知ったとき、心の底より、感謝せざるをえない自分を覚ることができるのです。

 (昭和56年12月5日 難波別院にて)

 

お わ り に

 

 2000年に、私達のボーイスカウト大阪第11団が生まれて50年目の節目の年を迎えました。

 この1年間を「記念イヤー」として、「オープニングセレモニーから始まり、合同野舎営、餅つき大会、初詣ラリーなど多彩な行事が行われました。

そして、本日、クロージングセレモニーが行われるこの日に、昭和61年(1986年)の35周年以来の15年間の活動記録である記念誌「かがりび」パートIVをお届けすることができました。

 50年の節目にしばらく発行のされていなかった記念誌「かがりび」をということで委員会が発足し、担当分野毎に15年間の記録を掘り起こし始めましたが、その量は膨大であり、散逸しているものを地区や大阪連盟にまで調べにいきました。また、団の歴史もここで知っていただこうということで、ページ割付等を考慮しました。

年が明け、式典が目の前に近づいてから編集作業も軌道にのり、一気に仕上げた感があり、不充分なところもあったのではと反省しております。

 15年前の35周年当時カブ隊の仮入隊スカウトも、すでに成人し社会人になっていました。それほど15年は長い期間でした。またこの間、たくさんの方が新しくスカウトの仲間に入りました。この「かがりび」が、大阪第11団に関わりのあるみなさんの良き思い出や大阪第11団の歴史を知る資料となり、また大阪第11団の貴重な活動の証となれば幸いです。

 今後も「良き社会人」を目指してスカウト活動は続けられます。その節目の折り毎に、記念誌「かがりび」が継続して発行がされますことを期待しています。

 最後に、この記念誌「かがりび」の発行にあたり、資料提出、写真整理、記事整理などをしていただいた各隊リーダー、育成会の方に深く感謝いたします。

 

  記念誌編集委員会  

パート Ⅴ 

2013年(平成25年)

かがりび 表紙  
記念誌 表紙  
口絵写真     
創立者・初代隊委員長 故奥田祐道 
口絵写真  
初代団委員長 故奥田祐美
故奥田団委員長の足跡  
隊旗
はじめに    
目次    
ご あ い さ つ  
 発団60年をふりかえって
育成会会長 橋詰源治 

 祝 復活50周年の当時を振り返り、 新たなる決意

団委員長 西尾 茂 
 発団60年を迎えての思い出
副団委員長 赤塚勝巳 
大阪第11団60年の沿革
大阪第11団登録番号  
あしあと    
BGSCマークとその意義  
おもいでの写真集   
活 動 記 録   
 活動記録   
 全国大会・日本開催ジャンボリー派遣記録 
 野舎営記録   
 海外派遣記録   
 スカウティンピック開催記録 
 スキー教室開催記録
 テーブルマナー開催記録
 進歩記録   
指導者研修歴   
 指導者研修歴   
 指導者養成講習歴   
 奉仕記録   
 表彰記録   
復活50周年にあたって
 スカウティングは素晴らしい
副団委員長 柴崎 實 
 復活50周年目の大阪第11団への想い
副団委員長 川端 優 
哀悼
 奥田稔子GS62団団委員長を偲んで
 奥田団委員長の経歴 
 哀悼  
 思い出 赤塚勝巳 
 思い出 原 祐子 
 思い出 長田真喜子 
 思い出 関 友代 
 ごあいさつ「かがりび」第172号団説
ボーイスカウト歴代指導者年表 
おもいで   
スカウトに伝えたい話  
「大阪一番賞」への取り組み  赤塚勝巳
BSA SF29隊のホームステイ 川端 優
ホームステイ 緒方一浩
富士章認証
 富士スカウトを取得して 田中政之
 富士章を取得して 赤塚未紗
宗教章修得
ローバームート2007に参加して 田中政之
菊スカウト
スーパーカブになれて
第20回世界ジャンボリー
しろきたCUP2002
第7回BGSCキャンピック
ハワイレインボーキャンプ
FOSCAP2004
夏季舎営2006
第14回日本ジャンボリー
2008フェスティバル城北
FOSCAP2009
城北カップ2010
オーバーナイトハイク
サバイバルキャンプ
ペーロン大会に参加して
進級挑戦個人キャンプ
日本連盟功労章「かっこう章」受章
かがりび発行記録
ワッペン
付録
おわりに

 

記念誌表紙  

 

日本ボーイスカウト大阪第11団

   発団60年・復活50年

 

記 念 誌

 

 

 

は じ め に

 大阪第11団発団60年・復活50年に当たり、まずは奥田祐美元大阪11団団委員長の言葉より、大阪第11団の創設時の歴史を振り返ってみる。

 

 思い返せば昭和24年(1949年)9月、先の圓通寺住職奥田祐道によって、今津の地にボーイスカウト準備隊が結成されて、12人の少年による訓練が始められました。

戦後間もない頃で、一般には明日の糧をどうして得ようかとした時代で、青少年教育に関心はあってもかまっておられないという時代でした。スカウトのユニフォームも揃わず、風呂敷をネッカチーフのかわりに首に巻き、町を走り回る姿に奇異の眼を送られたものです。

 昭和24年(1949年)9月大手前の教育塔広場で開かれた大阪連盟結成式の記念大営火に、一日でも早く立派なスカウトとして仲間入りできることを夢見て、見学参加をしたものです。

そして、昭和25年(1950年)3月1日今は亡き指導主事鈴木栄次郎師の隊審査を受け、昭和25年(1950年)4月6日、隊委員5名、リーダー2名、スカウト18名による、大阪府下16番目の日本ボーイスカウト大阪第11隊として登録を行いました。

 隊号については、同時に発足した南東地区に10隊を先に譲り、二桁の一番でと大阪第11隊としました。

[この時代日本連盟の顧問として、駐留軍のダグラス・マッカーサーの名前が記録された加盟隊名簿が発見されました。・・・平成11年(1999年)10月]

 

 昭和25年(1950年)7月、大阪城内桐畑で行われた大阪連盟最初のキャンポリーに9名が参加、

同年8月東京新宿御苑で開催された第2回全日本ボーイスカウト大会に奥田祐道隊委員長引率のもと、スカウト14名、リーダー2名、付添え3名、計20名で参加し、大阪第11隊の名を高めました。

 9月17日大阪連盟総会で奥田祐道隊委員長は中央城北地区選出の理事となり、(昭和25年(1950年)9月より、大阪連盟地区制度確立 6地区)、11月奥田祐美隊長が中央実修所4期に入所、昭和26年(1951年)2月京都で開催された日本連盟臨時総会の記念パレードに参加、4月城北地区指導委員長(現、コミッショナー制)に就任と、いよいよ充実したスカウティングと思っていた矢先、12月大阪11隊の創立者であり先達であった、奥田祐道隊委員長が55才の若さをもって急逝され、隊組織もやっと固まり、育成会組織もこれからと言うときに、一同途方に暮れ、わたし自身無力であったため、大阪11隊は休隊のやむなきに至りました。

 

『かがりびをかかげて』より 

大阪第11団団委員長 故奥田祐美

 

しかし今津のボーイスカウト運動の火は消えていなかった。

それは、昭和33年(1958年)8月の盆おどりの夕べが開かれているやぐらの上に駆け上がって、場所もわきまえずボーイスカウト復活の話を、圓通寺奥田祐美住職にお願いした4人の少年たちにより始まる。あくる日も、次の日もやってくる彼らのあまりにも熱心さに、奥田住職は根負けしたらしく、本堂の片隅を集会室として与え、どこまでやれるか自分達の力でやってみるが良いとの言葉に、彼らは友達を集め、元大阪11隊のスカウトだった先輩に指導者をお願いし、準備隊としての形が出来上がった。こうして小さな組織ではあるが、ふたたびボーイスカウト活動が始まったのである。

 昭和36年(1961年)6月復活登録が承認される。

団登録番号 1737号(日連)

少年隊734号

 

昭和37年6月年長隊誕生、昭和41年(1966年)5月カブスカウト隊の誕生となり、スカウトの増加とともに団を増やさねばならず、昭和41年(1966年)12月兄弟団の111団が発団しカブスカウト隊が誕生、さらに昭和42年(1967年)5月にガールスカウト大阪62団が誕生し、育成会の仲間に加わった。そして、昭和45年(1970年)4月大阪111団ボーイスカウト隊が、昭和46年(1971年)4月ガールスカウト上級62団が、昭和49年(1949年)4月にはローバースカウト隊が誕生し、理想的な団組織となり、やがてボーイスカウト、ガールスカウト、育成会をあわせて、B.G.S.C.と称するようになった。その後、山中野営場から始まったBGSC合同野舎営(キャンピック)、アメリカキャンプ、スカウト成人式、信仰奨励、帰敬式等大阪第11団ならではの活動が行われた。

 昭和61年(1986年)には結成35周年を祝い、更なる発展を誓っている矢先、昭和63年2月に奥田祐美大阪第11団団委員長が急逝され、大阪第11団は再び危機を迎えた。

しかし、「スカウトの火をたやしてはならない」との合い言葉の元、奥田祐賢現副団委員長を中心に、育成会、団委員会、各隊リーダーをはじめ多くの方々のご尽力により、昭和64年(1989年)4月に大阪第111団は休団したが、赤塚勝巳団委員長のもと大阪第11団は活動を継続した。

 平成4年(1992年)4月にはビーバースカウト隊が誕生し、充実した団構成となった。

平成7年(1995年)甚大な被害を与えた阪神大震災のおりには、延べ560人にもなる救援奉仕活動を行い、故奥田祐美元団委員長がよく話されていた「人のお役に立つ」というスカウト精神を行動で示した。

50年目を迎えた平成12年(2000年)には、1年間を「50年記念イヤー」と銘うって多彩なスカウト活動が展開された。

 その後も城北地区に大阪第11団ありという活動を展開し、平成15年(2003年)には「大阪一番賞」の受賞、平成20年(2008年)から3年連続して組織拡充目標達成優良団Aランク賞の受賞と、ますますの発展を遂げてきた。

さらに、地区の運営においても常にリーダー的存在としての役割を果たし、この10年で4人計5人の「かっこう賞」受賞という栄誉にも輝いた。

発団60年・復活50年記念及び赤塚勝巳団委員長より西尾茂新団委員長への引継の年に当たり、大阪第11団の更なる発展を願って、この10年の足跡を「かがりび特別号」パートⅤ として発行する。  

 

 発団60年をふりかえって

B.G.S.C.育成会会長  

橋詰源治  

 

 思い出多い20世紀を後にして、我が団は発団60年・復活50年の節目を迎えることが出来ました事は

大変喜ばしい限りです。

 発団50年のセレモニーを落慶なった円通寺境内の団本部で賑やかにかつ有意義に実施してから早10年がたちました。

この間、団委員、リーダー、各隊スカウト達、育成会の皆様方の気持ちが一致団結して、数々の行事が無事実施することが出来ました事に、お礼申し上げます。

誠にありがとうございました。

 さて、先々代住職の奥田祐道先生のもとに、大阪第11団が誕生しています。団発足1年後、昭和26年4月、私は圓通寺学園の第1期生として入園していました。

当時の今津町は農家主体であり、終戦後の社会情勢は大変混乱していました。アメリカ軍のヘリコプターが編隊を組んで毎日飛び回っていた事を覚えています。この様な時代には青少年の健全育成、幼児教育は生活混乱の中で置き去りになり勝ちとなるものです。

 しかし、地域の教育が社会の安定の為に大変重要な事業だと考えられ、子供たちの為にと、この様な事業を実行されたものだと感謝申し上げます。

 つばの大きな帽子、半ズボン、スカーフ姿の制服を着た中学生のスカウトを始めて見たときは子供心に、

奇異と見えた事を覚えています。同じ本堂を使っての保育活動、そして、スカウト活動は、時間帯が違うだけでいつしか目も馴れ親しみを持つようになりました。

現在の北村副団委員長をはじめ沢山の中学生がスカウト活動に参加されていました。

しかし、その年の12月に奥田祐道先生は突然死去されました。

 葬儀に参列したとき、スカウトの人達も隊旗を持ち、整然と並んでおられる姿を見、何か大変なことなのだと思った事を覚えています。

 その後を先代の奥田祐美先生が受け継がれましたが、いつしか休団となっていました。私が中学生となった昭和33年頃、近所の中学生が集まり、”スカウトごっこ”の様な集会が形成されてきました。

「淡路島の仮屋中学校」「信太山野外活動センター」などでのキャンプファイヤーの思い出や、奥田先生の楽しい物語りは今でも良く覚えています。

昨年末、ドボルザークの新世界を聴き、いつしかキャンプを思い出していました。帰り道では”権兵衛さんの赤ちゃん”を口ずさんでいました。

 私は途中でやめてしまいましたが、現新団委員長の西尾茂氏や若くして亡くなった中谷清志氏など、当時の中学生が中心となり大阪第11団が復活しました。その後は大阪第111団が誕生し、ガールスカウト大阪府62団も発団し、大変活発な時代が続きました。

特に、昭和58年に30周年記念事業としての、アメリカキャンプに103名が参加した事は特筆に価するものです。

 しかし、昭和63年2月に奥田祐美前団委員長が亡くなられたのは大変残念な事でありました。

アメリカキャンプは4回実施されていますが、これも永年の友情や人脈、信頼がなければ続けられないものです。

 少子時代の今日、団運営は大変厳しいですが、永く団委員長の役を続けて頂いた赤塚元団委員長の後を引き継いで頂いた、西尾茂新団委員長のもとで、団委員、各リーダー、育成会会員一致団結して今後一層の発展を願うものです。

 最後になりましたが、この60年の間、団を支えていただきました皆々様に感謝申し上げ、故人となられました先輩諸氏のご冥福をお祈り申し上げ、挨拶とさせていただきます。  

 

祝 復活50周年の当時を振り返り、新たなる決意

大阪第11団団委員長  

西尾 茂  

 

 団本部(円通寺)は、私の家の前が円通寺(奥田家)と言う事で、もの心が付いた頃から自由に出入りをさせて頂いていました。

特に故おばあちゃん(稔子)先生には良く可愛がって頂き、伏見の実家にも何度か連れて行ってもらったのをおぼえています。

 私が小学生低学年のころに多くのお兄さん達が、大きな鍔の付いた帽子を被り、長袖の服に半ズボンと靴下を履き、首には(風呂敷)ネッカチーフを巻き、大きなリュックサックを背負って出かけていくのを珍しそうに見つめていたのを覚えています。

当時は、それが今の大阪第11団の始まりだとは知る余地も有りませんでした。又後に私自身が中学生になって復活した現大阪第11団の第1期スカウトで、登録から現在(50年)まで活動を続けられるとは夢にも思って居ませんでした。

復活当初は本堂の横に、真ん中に仕切りが有る細長い部屋(巣と呼んでいた高さ1.2m×約3畳×2)が作られ、2班に分かれて班集会等を行っていました。暖かくなると班集会と称して毎週寝泊りをして夜通し騒いでいて、おばあちゃん先生に「こら、しげる」静かにしいや-と叱られた当時が懐かしく、又夏は夏で毎週のように四条畷にある室池にキャンプに出掛けていました。班費を集めるために皆で内職をした事も思い出の一つです。

 復活当時の先輩として、11団の初隊当時から現在も活動を継続されている北村 稔さんは、復活当時の私の隊長でも有り、現在も良き相談役として残って頂いています。

現橋詰源治育成会長は私の一年先輩で、複活当時は私達の班長をされていました。

 スカウト活動が長ければ長い程思い出も沢山あります。私にとって特に印象深く残っている行事の一つは、昭和37年に静岡県御殿場で開催されたアジアジャンボリー・第3回日本ジャンボリーに参加した事です。18名が参加し、大阪からバスに揺られて翌朝に御殿場到着、設営、そして開会式のそのスケールの大きさに度肝を抜かれました。

日の出の富士山を拝んだのと、空き缶を砂に埋めて泥んこになりながらサイトの横に大きく「大阪第11団」の標識を作成したのを今も覚えています。

 話は変わりますが、私自身スカウト活動を50年間も続けて来られた事や、赤塚団委員長、柴崎副団委員長(当時地区協議会会長)の後押しも有って地区の役職(会計監査2年、組織委員長2年、行事委員長6年)に付けたのも、多くの諸先輩の御指導の御蔭だと感謝しています。

特に、行事委員長時代に長居公園で行われた世界陸上選手権では、表彰式関係の奉仕を、そして第52~54回選抜高校野球大会の開閉会式担当の奉仕が出来た事は二度と出来ない思い出深い経験をさせて頂きました。(因みに城北地区は、東日本大震災で開催が危ぶまれた今年平成23年・第53回の担当でした。)

 昨平成22年には赤塚団委員長が退任される事になり、後任として私が指名をされた時は、一度はお断りを差せて頂きましたが、団委員の皆様の暖かい後押しも頂き、今年平成23年より団委員長をさせて頂いています。微力ですが、団関係者の皆様と共に、歴史ある我が大阪第11団を後輩の皆さんに残すべく、苦しい時でも笑える余裕とゆとりをもって、常に笑顔を忘れずに精一杯努力を尽くしていきたいと思っています。  

 

発団60年を迎えての思い出

大阪第11団前団委員長  

赤塚勝巳  

 

 団の60(復活50)周年を迎えた年に在籍出来ましたのは非常に喜ばしい事と感謝します。

 ボーイスカウト大阪111団のカブスカウト隊の発隊にて子供の入隊を認められ、圓通寺にご縁が出来、

昭和43年には大阪第111団の団委員の登録もし、現在迄元気でスカウティングに携わる事が出来ましたのも皆様のご協力によるものと感謝申し上げます。

昭和45年より昭和52年迄育成会副会長、昭和53年より63年迄10年会長を務めましたが、この時代がスカウト数も一番多かった時代ではと思います。

スカウト達もお互いスカウティングに励み、一級スカウトや菊スカウトへと上進を目指したのではと思います。

 団ではスカウト達に何とか外国での夏季キャンプを経験させようとの計らいで、幸いにも奥田家と、サンフランシスコのアイドマン家との親交があり、そのご縁を頼りにUSAキャンプが4年に一度計画(世界ジャンボリー式)され、第1回目が実行されたのは昭和58年7月30日より8月16日迄でした。

その後約4年毎に第4回(平成9年)迄実施されましたが、現在実施されていません。

訪米時にお世話になりましたUSAサンフランシスコ第29隊は、4年毎の日本ジャンボリーの年には必ず来日され、ホームスティを行いながら親交を暖めています。

是非USAキャンプを復活させ、そこでスカウト達に良い思い出を作ってもらいたいと考えます。

 振り返って見ての一番の思い出は、柴崎副団委員長さんと、秋田で行われた第12回日本ジャンボリーを見学に行ったとき、空港で2m位の眼前で皇太子殿下とお会い出来た事、またタイ国で行われた第20回世界ジャンボリーの見学に行き、思い出に残る1日の観光で初めて海中散歩を経験できた事と、スカウト達が世界の友達とプログラムに挑戦し元気でみんなと楽しんでいるのを見て、スカウト達の熱気と友情を感じとことです。

 また国内で行われた久重高原(大分県第5回ベンチャー大会)、珠洲(石川県第14回日本ジャンボリー)、朝霧高原(静岡県第15回日本ジャンボリー)も見学に行き感じたことは、夏の暑さに負けず元気で溌剌さを見たことです。

 有り難いことに私達BGSCには、圓通寺という門を開いて頂き、みんな手をつないで子供を育て立派な社会人、公人となるようにと、場所の提供をして頂いているところがあるということです。

感謝の気持ちを常に忘れることのないようにしたいものです。

 私も8月で満80歳、ぼつぼつ団委員長にも賞味期限が近づいたかと考えます。

体力にも限界を感ずることもあります。今後は一団委員としてビーバースカウトの増員に努力し、もう一度大阪一番賞を目指したいと思います。

 全員で愉快に楽しく元気でスカウティングを頑張りましょう。  

 

『発団60年・復活50年記念』に寄せて

 『スカウティングは素晴らしい』

大阪第11団副団委員長  

柴崎 實  

 

 皆さん既にご案内の通りボースカウトは健全な青少年育成をめざした世界的社会教育運動です。

子供達の個性と成長を充分考えた制度で、「班制度」「進歩制度」があります。

① 班制度は、異年齢の子供が集まる小さな班(グループ)での活動を通じて協力心と責任感を養います。

② 進歩制度には、いろいろな項目を成し遂げる事によって上級に進んでいく「進級章」と、社会や自分に役立ついろいろな技能を自分で選んで修得する事によって、個性に応じた

自己啓発をはかる「技能章」があります。

③ 我が団では、入団したスカウト全員を、指導者と育成会の協働のもと、団が責任を以て必ず「一級(等級の第一位)スカウト」にまで訓育すべく頑張っています。

④ BS隊「菊章」は地区面接、VS隊「冨士章」は連盟面接が必要です。諸君の目指すところは、各章取得迄に身に付けた能力を、その後の社会で発揮活躍する事です。

 

 今回、私たち大阪第11団の60年に及ぶスカウト活動の直近10年余が「大阪第11団発団60年・

復活50周年記念誌"がりび V"」として刊行される事は意義深く、将来"後進への道標"として、大いに役立つものであると確信し喜ばしい限りです。

 私とボーイスカウトとの出逢いは、戦時中二人の兄が当時「大阪市西鴫野少年健児団(ボーイスカウトの前身)」に在籍して居り、今のボーイスカウトと同様の制服とチーフを着装し、帽子の顎紐を鍔広のハットの上に掛け回してかぶり、揃いのラッパを持った30人余の少年と、その最前列に制服姿の父と、他に7人の成人指導者(男子)が大太鼓を中心に左右に座り、少年達の背後に保護者と見られる方々の中に祖父母の姿も映って居ます。

※保護者の女性達は白いエプロン姿で「大日本国防婦人会」の襷(タスキ)を掛けて整然と並んだ記念写真が、今も我が家のアルバムにあります。

 平素の兄たちは、何時も普段着の上に健児団の革ベルトをして、腰に束ねた「直ぐに解けて使えるロープ」を携行して遊んでおり、幼少の私にとっては憧れの的でした。

 息子がスカウト活動に興味を持つ年代になり大阪連盟に問い合わせました処、鶴見区には、今津に『大阪第11団』が圓通寺に有ります、子息の年代は「カブスカウト」です・・・と紹介され、早速息子と一緒に、入団のお願いに圓通寺へ駆けつけました。

息子は小学2年生(私40歳前)で当時、大変厳しい入団審査を受け無事に「大阪第111団カブ隊」に入隊する事が出来、親子で胸撫で下ろし喜んだ事を昨日の様に覚えて居ます。

親父の私は息子の入隊と同時に育成会員として加入以来、圓通寺のお世話になり間もなく、カブ隊デンダット(昭和51年度登録)をさせて戴き⇒カブ隊隊長・団委員となり、団の推薦により、地区進歩委員・地区野営行事委員として奉仕する機会も戴き、この間、奥田祐美・赤塚勝巳両団委員長はじめ諸先輩の薫陶を得て、地区内に有っては「11団・圓通寺の柴崎」として常に団の庇護の下、地区進歩委員長(副団委員長)地区カブ担当副コミッショナー・ボーイ隊担当副コミ・シニアー隊担当副コミ・城北地区委員長(大阪連盟・理事)・地区協議会長⇒現在は地区相談役として奉職し、本年は地区名誉会議員を兼務し奉仕中です。

 今現在は、地区の『メッチャおもろいDe!城北』の提唱と具現化に努力しています。

私の今が有るのは、永きに亘るスカウト達との歩みが良い刺激や体験となり、多くの人々との出会いにより

学ばせて戴いた「スカウティング」のお陰だと深く感謝しています。  

 

復活50周年目の

 大阪第11団への想い!

大阪第11団副団委員長  

川端 優  

 

 私がボーイスカウトリーダーとしての関わりは、1966年(昭和41年)の夏からでした。

今は亡き奥田団委員長に仲間に入れていただき、今日まで40数年間団に席を置いています、時間の旅を溯って、私がシニアー隊隊長として参加をした団(BGSC)の大きな行事を思い出しますと、

 

・1975年(昭和50年)第1回富士合同野営大会

台風の最中のキャンプでしたが、11団のスカウト達が本になりました。

今も団本部の本棚に何冊か飾ってあります。

 

・1979年(昭和54年)第2回富士キャンピック

多彩なプログラムで企画だおれになるかと心配されましたが、今津小学校の講堂を借りスカウト235人、保護者150人の出席で2時間にわたり報告会が開催されたと「かがりび」に記録がありました。

 

・1986年(昭和61年)第4回富士キャンピック

山中野営場が取れず、都留郡忍野村。

シニアー隊は富士登山に挑戦。「一度も登らぬバカ、二度登るバカ」とも言われています。私は棄権・・・

 

・1993年(平成5年)第5回粟倉キャンピック「野鳥苑」

 

第1回の富士合同野営から始まった残り物食品整理クロージングパーテイが豪華になり、それはそれは楽しく引き継がれていました。

 

 そして少し時系列が前後しますが・・・

 

・1983年(昭和58年)第1回USAキャンプCAサンマテオ地区キャンプ・カター

総数120名でサンフ~ヨセミテ~ロス~デイズニーランド(アナハイム)と18日間の日程で駆け抜けました。

ヨセミテでのルックワイド、時間がゆっくりと流れているのに気づきました。

スカウト達は全員15分前には集合して待機。日本では信じられない光景をリーダー達は目にしていました。

 

・1987年(昭和62年)第2回USAキャンプ・SFベイエリア・キャンプローヤネン

このキャンプ場ではセレモニーの勉強をしました。

ここで見たセレモニーは感動・・・の一言。

同行していた我が息子、何もかも忘れ、只ひたすらキャンプ生活を楽しんで。家への連絡は?と聞いた時、「日本の事は忘れていた」との返事。

リーダーとして改めて楽しめるプログラムの企画を教えられました。

このアメリカキャンプの報告会を企画して、我々BGSCのスカウトの話を聞くだけで一緒に喜んで頂いた、奥田団委員長が、翌、昭和63年2月に逝去されました・・・

 

「俺が一番みんなと一緒にキャンプに行きたかったんや」と聞いた気がします。

 

・1992年(平成4年)第3回USAキャンプ・SFベイエリア・キャンプローヤネン

この時は同地区の122団とキャンプ場で一緒でした。

喫煙が厳しくなり、ダイニングキッチンの裏に同好の者が集まり、食後の一服をアメリカのリーダーと共に楽しみ、そして、122団とはヨセミテ公園でも共に豪華な朝食、ランチ、デイナーを今は亡き122団田中団委員長と楽しみました。

 

・1997年(平成9年)第4回USAキャンプ・SFベイエリア・キャンプローヤネン

このキャンプ以来BGSC USAキャンプが行われていません。

兄弟団のガールスカウト62団と行動を共にして、楽しいプログラムを楽しみましたが、新人類の登場です・・・

 

 昭和は去りつつありました。

4回のUSAキャンプではリーダーとして多くを学び、我が団のプログラムに取り入れ展開をしてきました。

私は今でも思っています・・・楽しくなければ「スカウテイングとちゃうやん」。

そしてBP卿も最初から言うたはりますやん「スカウテイングはゲームです」って。

考えますと、私はずっと楽しみながら、40数年大阪11団のプログラムに参加していました。

 LET’S ENJOY SCOUTING   Everybody  OK? 

 ありがとう・・そして感謝・・・  

 

哀 悼   

奥田稔子GS62団団委員長を偲んで

 

 平成16年(2004年)6月8日、奥田稔子ガールスカウト大阪府支部62団団委員長が逝去されました。

 BGSCとは、本25ページにも記載されていますように、ボーイスカウト大阪第11団・第111団、ガールスカウト大阪府支部第62団の総称として、育成会を含めて名付けられています。このBGSCという集まりの中で、また団本部として圓通寺の門を開き、長きにわたってボーイ・ガールスカウト活動を見守って頂いてきました。

ガールスカウト大阪府支部第62団において、昭和42年の発団以来37年間団委員長を務め、多くのスカウト・リーダーから「おばあちゃん」と慕われておられました。

おそらく日本(もしかすると世界連盟でも‥)のガールスカウト登録者中最高齢で、9月18日のお誕生日を迎えると100歳となられる目前の逝去でした。

 奥田団委員長は、いつも「みんな仲良く」が口癖で、ガールスカウト達を、時にはやさしく、時には厳しく支えて頂き、私たちの悩みや願いをいつも受け止めて頂きまた。

62団のスカウトの人数は少なくなっていますが、団委員長の思いをリーダーからスカウトヘ受け継がれていくことと思っています。

 心より団委員長のご冥福をお祈り致します。  

 

故奥田稔子団委員長の経歴  

昭和42年(1967)5月

 

 

ガールスカウト

大阪府支部62団発団

団委員長

昭和46年(1971)4月 上級スカウト発足
昭和56年(1981) 10年永統率性章受章
昭和61年(1976) 15年永続奉仕章受章
昭和66年(1976) 20年永続奉仕章受章
平成 3年(1991) 25年永続奉仕章受章
平成 4年(1992) 勲5等瑞宝章受章
平成 8年(1996) 30年永続奉仕章受章
平成13年(2001) 35年永続奉仕章受章

 

哀 悼

奥田GS62団団委員長との思い出

 

 団委員長を偲び、BGSC赤塚ボーイスカウト大阪11団団委員長、現在在籍しているメンバーを代表してアダルトの原さん・長田リ一ダーと、ガールスカウト発団と同時にスカウトとなりリーダーとして活躍された関(旧姓岡村)友代さんに思い出を書いて頂きました。  

 

ボーイスカウト大阪11団団委員長 

赤塚勝巳 

 

 何か奥田稔子団委員長の思い出をと依頼を受けておりましたが、BS城北地区FOSCAP2004に参加し、帰ってからもなにかと慌ただしく、いっこうに書き始めなかったのです。やっと落ち着きを取り戻したので書くことができました。

 皆おばあちゃん先生と言って永い間自分の祖母のように母のように慕い、また先生は我々を、私たちを自分の孫子のように可愛がり、いろいろとご指導して頂きました。

 ありがとうございました。

 誰彼なく気さくに、又やさしく話して頂いた事は皆忘れることはないと思います。

居間で先生と二人だけの時に戦前・戦後の話、又円通寺学園を創立された時色々な話を聞かせて頂きました。

 我々が思っている以上にお寺を守っていかれるには苦労も多かったようです。その気取らない先生に皆が集まってきたような気がします。新しい庫裡(家)を建てられてから病気がちであられたようにも思いますが、お寺に行った時に必ず居間に上がり、顔が見えなかったら健康をお尋ねし、在宅の時はあの優しい穏やかなお顔を見、挨拶して励みを受けていました。

 いつも百歳まではとお話していましが、こうしてご生前を思い浮かべながら、思い出を書かして頂きますと、先生のお人柄、知的で上品さを改めて思い出します。

先代奥田祐美団委員長の後を受けて11団団委員長としての努めが出来たのも先生のお陰、お力を頂いたお陰と深く感謝申し上げます。

 私たちは、先生の残されたガールスカウト活動も何としてでも続けなければと思っています。伝統ある62団もせっかく円通寺の門を開いて頂き、先代の団委員長が話しておられた、我々は鶴見区にあって1粒の真珠の珠でありたいと「ピカット」光るものを作りたいと話していられたことを忘れません。

 今後BGSC全員が力を合わせて、今津にあって地域に広く貢献できるスカウティングを続けたいと思います。

 ここにお約束申し上げ、今後も温かく見守って頂きますようにお願いし、先生へお贈りする言葉と致します。

平成16年(2004年)11月7日 

「かがりび」第172号より  

 

奥田GS62団団委員長との思い出

 

ガールスカウト大阪府支部第62団  

 アダルト 原 祐子  

 

 奥田団委員長の訃報に接し、お歳からある程度は覚悟していたとはいえ、ショックでした。

というのも今年(2004年)の2月に主人が亡くなったばかりで、何か私の周りから大きなものが抜けていくようで、とても大きな悲しみでした。

 今改めて思い返しますと、私がスカウトとして入団した時は奥田民子リ一ダー、下農リーダー(やさしい奥田リーダーに、ちょっと怖い下農リ一ダー)を双肩に奥田団委員長がおられました。スカウト時代の私にとって団委員長はとっても偉い雲の上の存在でした。

本当にまぢかに親しくお話がさせてもらえるようになったのは、レンジャーになり、そしてリーダーになってからでした。

 色々な行事計画の相談に関しても、今は亡き奥田BS団委員長と共に、良きアドバイスと励ましを頂き、私達リーグ一途にとって団本部並びに円通寺の台所は居心地のいい空間でした。いつもお邪魔をすると「お寺のおばあちゃん」

(私はいつもこう呼んでいました)のニコニコ顔が迎えてくれました。

結婚してアダルトになりずいぶんご無沙汰気味になっていましたが、子供達がスカウトとしてお世話になり、時々お寺にまたお邪魔するようになっても、前と変わらない笑顔で迎えてくださいました。

 団委員長は若い時から色々苦労を重ねてこられたと間いております。

それにもまして私達若い者達に得を与え続けてこられ、人生を全うされたと思います。

晩年言っておられた「私の目の黒いうちは、ガールスカウトはなくさせへん」という言葉の意志を継ぎ、今スカウトを経験したリーダー達が揃い、指導面は盤石と思う我が62団の火をいつまでも絶やすことの無いよう、発展していってくれるように心から願うばかりです。

 最後に奥田団委員長のご冥福を心からお祈りいたします。  合掌

 

平成16年(2004年)11月7日 

「かがりび」第172号より  

 

哀 悼   

奥田GS62団団委員長との思い出

 

ガールスカウト大阪府支部第62団 

リーダー 長 田 真喜子

 

 小学校3年生の終わりに見習いとしてガールスカウトに入って以来、私の団の団委員長はずっと奥田稔子団委員長だった。その当時からすでにお年は召していらしたけれど、とても元気で、いつも優しい笑顔で私たちを見守ってくださっていた。

毎年キャンプに出発するときには、『みんな仲良く、元気に、怪我したらあきませんよ。』と、同じ言葉で送ってくださった。「毎年一緒のこと言いはるわー」なんて昔は言っていた気もするけれど、今、団委員長がお話されていた声と抑揚であの言葉を思い出すと、心にじーんと沁みる気がする。

『みんな仲良く。みんな元気に。』子供たちが親から離れ、野外で集団活動する場合『みんな仲良く。みんな元気に。』を実行することは、実はけっこう難しいことである。子供たちがそれぞれ、自分ひとりで好き勝手に『仲良く。元気に。』やったところで、そのしわ寄せを受けて仲良くも元気にもできない子供が出てくる。

『みんな仲良く。みんな元気に。』活動するためには、時には自分の好き勝手よりも、相手の意思を尊重しなければいけないこともあるのだ。

 それを毎年毎年繰り返し仰っていた団委員長の言葉を振り返って、その重みを今更ながら感じた。

百歳すぐ手前で旅立たれた団委員長に比べると、わたしの人生はまだ三分の一。悲しいかな、それでもすっかり年齢的には立派な大人になっ(てしまっ)たけれど、まだまだ未熟なわたしは、きっとこれからの人生で何度でも、あーもう人間関係なんて面倒臭い!と思ってしまうのだろうと思う。

でもこれからはそんなとき、団委員長の穏やかな優しい声で、この言葉を何度でも思い出そうと思う。

 『みんな仲良く。みんな元気に。』

 

平成16年(2004年)11月7日 

「かがりび」第172号より  

 

 

哀 悼   

奥田GS62団団委員長との思い出

 

ガールスカウト大阪府支部第62団  

元リーダー 関 友代(旧性 岡村) 

 

 ”おばちゃん先生”なんと懐かしい言葉でしょう。

 私たちが円通寺幼稚園でお世話になっていた頃から みんなそう呼んでいました。

 私は大阪を離れ、もう27年になり、長い間お会いしていませんが、“おばちゃん先生”と聞くとお姿を思い出します。

 結婚して香川県に住むようになり、子育てや仕事等に追われて振り返る暇もなく生活していますが、先日亡くなられた事をうかがって、ふっとある光景を思い出しました。

スカウト時代、度々お宅にお邪魔することがあり、その時もあがらせて頂くと、えんどう豆をむいていらっしゃいました。ひとつひとつ丁寧にざるにむいて、青々としたきれいな豆がたくさんできました。私たちもお手伝いさせて頂きました。続いて絹さやの筋取りもしました。

午後2時か3時頃だったでしょうか、春のやわらかい陽射しと豆の色の鮮やかさに心なごむ思いでした。

子供ながらに、もうこの時間から夕飯の準備をされるのだなと思ったことを記憶しています。

何をお話ししたかは覚えていませんが、昼下がりの和やかな時間を過ごさせて頂きました。

 また、制服姿の団委員長はかくしゃくとした印象が残っています。スカウト時代、またリーダーになってからも団委員長との直接な活動の記憶はあまりありませんが、今考えてみると、やはり団委員長がいらしたからこそスカウト活動が成り立っていたのだと思います。

あらためて感謝の気持ちで一杯です。

 百歳を目前だったので、残念な思いが残りますが、スカウト達をいつまでも見守って下さるでしょう。

 ご冥福をお祈りいたします。

 

平成16年(2004年)11月7日 

「かがりび」第172号より  

 

ご あ い さ つ

(故) 奥田稔子  

団内経歴 昭和42年(1967年)~平成16年(2004年) 大阪第62団団委員長

 

 平素は何かと御指導と御援助を賜り厚くお礼申し上げます。お陰をもちまして62団も順調な発展を遂げ、着々その成果を挙げてまいりました。

 スカウトの皆さんの努力は勿論ですが、保護者の方々の御協力と指導者の皆様方のたゆまざる尽力のお陰と深く感謝しております。幸にしてスカウト活動を経験したヤングリーダーが次々と育ち、良き先学の跡を縦いで各部門で奉仕をして下さっている事が、何よりも心強く頼もしいかぎりです。

 スカウト活動を始められた、イギリスのベーデンパウエル卿は最期のメッセージで

「私は最も幸福な生涯を送りました。

ですからあなた達一人々々もまた幸福であるように私は念じています。・・・(中略)・・・けれども、幸福を得る本当の道は

他の人々に幸福を与えることによって得られるのです。」と申されています。

 誰でも幸福を求めています。幸福を求めない人は一人もいません。只その求めかたを間違っているのです。

お金を持ら、大きな家に住み、美味しい良べ物を良べ、綺麗な服(着物)を着て、自動車に乗って・・・・等のみで、個人の欲望に走り、利己主義となっているのではないでしょうか。また反面現在社会に失望し、希望もなく、落ちこぼれ、いじめっ子となり、非行化していきます。

 故中村知先生(スカウト運動の先達)は、「奉仕は力だめしですよ。自分がどれくらいお役に立つだろうかという力をためすのですよ。」と申されています。

 私はどれくらいお役に立つのだろうかと考えた時、未熟なことに気がつくでしょう。

「もっと勉強(自分を鍛えなければ)しなければ」と思うでしょう、その時に成長への道が生まれるのです。

 ガールスカウト活動の基本は“やくそくとおきて”の実践を通じて、日々の善行、そなえよつねにを何度となく繰り返し、訓練を続けるうらに、自然と身につき何のわだかまりもなく奉仕することができるようになります。

 スカウトの皆さん、途中で止めることなく続け、良き先輩の後を継いで、後学のため良き指専者になり真の幸福を得て下さい。そしてこの62団が30年50年と発展すると共に成長して下さい。

 保護者の皆様におかれましては、より深く理解していただきこの運動の発展のため御協力下さいますよう、お願い申し上げます。

終りになりましたが、この良き婦人づくりを目的とするスカウティング(スカウト教育)が、一人でも多くの少女のため益々発展することを念願して、地域有志の皆様をはじめ、ブロック、連盟の方々の尚一層の御指導と御援助を賜わりますことを、切にお願い申し上げます。

 

平成16年(2004年)11月7日 

「かがりび」第172号より  

 

スカウトに伝えたい話 100選より

奉仕の心

 

 スカウトの「ちかい」の3番目に、

「からだを強くし、心をすこやかに、徳を養います。」

という言葉がありますが、佐野常羽氏はその中の「徳を養います」について、「おかえしのはねかえり」と言われていました。

 「徳」とは、宇宙の大エネルギー、大自然の生命力、神、仏そして国、世界、先祖、父母、先生、大人、時として道の人、動植物、鉱物などからの恵みに感謝して、そのお返しとして他の人々が幸福になるようなことをする。

そして、そのはねかえりの喜びをいただき、感謝して自分をささげることができることが、奉仕で、その心を養うことが大切だと言われました。

成長に一番大切なものを育んでくれます。  

 

 BSA SF29隊のホームステイ

副団委員長 川端 優  

 

 今年もジャンボリー年となり、我が大阪11団ではアメリカからジャンボリーに参加するサンフランシスコ29隊のホームステイを受け入れるようになったのは、20年前のジャンボリーの年からでした。

今回も1年前より準備をして、29隊との連絡を取り合いながら、スカウト20人、リーダー3人、同伴家族5組(ホテル宿泊)の受け入れです。

 団でのステイ受け入れは11の家庭にお願いをしました。

 1日目、京都より大阪に着いた29隊のスカウトと家族を団本部で旅装を解いていただき、ささやかなランチにお招きをして、大阪城へと案内をし歴史の勉強をしていただきました。

次はアクアライナーに乗船をして川よりの大阪市内を探索(サンフのスカウトは心地よい船のゆれに身を任せ、夢の世界に入っていたようです)夕刻より、ホテル京阪でのウエルカムパーティに招待、ここで日本でのホームステイ家族も参加して、楽しくすごしスカウト達をステイ家族に預け1日目を終わりました。

 2日目はサンフランシスコ市長の親書を待って、市庁への表敬訪問(122団の三島育成会長お世話になりました、感謝)サンフのスカウト代表が副市長に親書を手渡し市庁舎の見学に同行、その後サントリーミュージアムにて3Dの映画鑑賞(ここもまた夢心地)次、海遊館の見学と大阪らしきところへ案内、その後はホストファミリー家族に引き継いで、残りの大阪での時間を過ごしてもらいました。

 3日目、サンフのスカウト、同伴の家族が団本部に集合。あっと言う間の2泊3日のホームステイ受け入れでしたが、4年後にまた、逢えますか・・・

 関空よリサンフランシスコヘ帰国 ・・・ see you again

 

平成23年(2011年)1月  

城北誌第139号より  

 

ホームステイ

大阪第11団  緒方一浩  

 

 「緒方家にアメリカ人、うーん想像できない。」と思いながらも、まあ何とかなるだろう的な根拠の無い自身でサンフランシスコからのスカウト2名を迎える事となった。

二人の名はBrianとGrant。見かけは完全に日本人の小学5年生。初日はウェルカムパーティ後の受入で、2人を連れて帰ると何か様子がおかしい。そう、2人は当たり前だけど日本語が話せないのである。

「これはヤバイ」と一抹の不安がよぎった時、我が言の次男坊が取り出しだのが任天堂DS。 

2人は目を輝かせ、自分のリュックから同じくDSを取り出したのである。その後は3人仲良く遊び、一気に明るい雰囲気になった。

「有難う。わが息子。おまえは日本語で話し続けているけれど気持ちは通じてるよ。」と感謝の一日であった。

翌日はスーパーでの買出しに手巻き寿司パーティ、そして花火。タイミング良く妻の誕生日で『ハッピーバースデイ』を英語で歌った。あっという間の3日間であったが、とても良い経験ができた。

今でもメールでのやリ取りをしており、またスカウト活動を通じて再会できる事を楽しみにしている。

 

平成23年(2011年)1月   

城北誌第139号より  

 

富 士 章 認 証

 

 大阪第11団における富士章を認証されたスカウトとそのプロジェクトを紹介します。

 

☆平成5年2月25日

 日本連盟富士スカウト章 川原稔樹

 プロジェクトテーマ「四国のかづら橋」

 タイトル「祖谷地方自転の名橋にロマンを求めて」

 

☆平成5年9月28日

 日本連盟富士スカウト章 長谷川  治

 プロジェクトテーマ「渡し船の今昔史」

 タイトル「浪速渡船見聞録」

 

☆平成12年12月22日

 日本連盟富士スカウト章 野田義人

 プロジェクト

 「SF‘98」

 「富士を目指す漢たち」

 「隊長!OKと言って」

 

☆平成19年7月6日

 日本連盟富士スカウト章 田中政之

 プロジェクト

 「継続して行う清掃奉仕」

 「地車の進路よ!開け!」

 「しまなみ海道サイクリング体力作り」

 

☆平成21年11月21日

 日本連盟富士スカウト章 赤塚未紗

 プロジェクト

 「Misa's Hawaiian Ice Cream」

 「クリスマスイヴ☆イヴ」

 「SPRASH!!!」

 

☆平成24年2月14日

 日本連盟富士スカウト章 No.2537

   長 濱 奈 都 季

 プロジェクト 

 「大阪11団 新春、運動会」

 「夏だ!移動だ!キャンプだ!」

 「よっしゃ!京都へ行こう!!」

 

☆平成24年2月14日

 日本連盟富士スカウト章 No.2538

   大 川 翔 吾

 プロジェクト

 「大阪11団 新春、運動会」

 「エコクッキング」

 「Let's サイクリング」

 

☆平成24年12月26日

 日本連盟富士スカウト章 中内貴久

 プロジェクト

 「自転車で夏キャンプ」

 「地域をもっと知ろう」

 「Let's 自給自足2泊の旅 in 無人島」  

 

富士スカウトを取得して

大阪第11団 田中政之  

 

プロジェクト:

 「継続は力なり。継続から見つける奉仕活動」

 「自転車・しまなみ海道」

 「だんじり を知る・文化交流」

 

 私は今回、多くの方々のおかげで富士章を頂くに至った。14年間のスカウト活動、本当に私を支えてきてくださった方々に感謝したい。そしてまだまだ続くスカウト活動、少しずつでも恩返ししていきたい。

私は、今回富士章を頂くうえで沢山のことを学んだが、その中でも特に皆様方に伝えたいのは、「日常」。

そして「きっかけ」。この2つをこれから意識して大事にしてほしいと思う。「日常」。

私は、高校でクラブ活動をしていなかったので、すっとベンチャーに参加していた。理由は特にない。ただ時間があったのでなにかあれば行っていた。しかし、それが一番大事なことなのだと今回初めて気付くことができた。

「人生はガラス張り」という言葉を間いたことがある。本当にそうだと思う。日頃の活動、自分の顔をリーダー方は覚えてくれているものだ。日頃のコツコツがどれだけ大事かがわかった。

スカウト活動と勉学は連動している。

そして「きっかけ」。きっかけを与えてくれたりーダーや親には本当に感謝しなくてはならない。

自分のためを思って助言してくれ、そしてそれに挑戦することによって何より自分が一番成長できるのだから。

ナニモノにも代えられない自信がつく。できないことでもまずはやってみる。

できないならできるようになるまでやればいい。「雨が降れば傘をさす」。当たり前のことだか、続けること、初心を貫くことは本当に難しいことだと思う。

私はこれから常にそういった考えを念頭におき行動したいと思う。

富士といってもまだまだ未熟な若輩者、発展途上だ。

これから沢山のことを学び吸収し、そして伝えていくのが私の一生涯の任務だと思っている。

富士章を取得したということはそれだけ多くの方々にお世話になったのだと思う。

私は連盟の富士面接が終わり家に帰ると、家の庭で今までのスカウト活動、そしてそれを支えてくれたりーダー方がフッと頭に浮かんできた。

ビーバー、カブ、ボーイ、ベンチャー。すべてに沢山の思い出がある。

何度も喧嘩した、本気で辞めてやろうと制服を川に捨てようとしたこともあった。

団行事、フォスキャップ、オスキャップ、20WJ、春の選抜高校野球大会、第1回ハワイレインボーキャンプ、21WSJ・・・。

沢山のことを思い出し、泣いた。

 そして庭に生えている雑草、木、犬、すべてのものに感謝した。ありかたかった。今までやってきたことがすべて良かったんだと、間違っていなかったんだと感じられた。

 ベンチャーは、やりたいこと、興味のあること、勉強、どんなことでもプロジェクトになり得る。のっかりではなく、自分のやりたいことをやればいい。それがベンヂャーの魅力だと思う。勉強の役にもたつ。プロジェクトに挑戦している時、トランプをひっくり返していくような勢いで、成長していく自分、成長した自分がわかる。

 これからも自分自身新たなことに挑戦する一方で、自分が学んできたこと、経験したこと、スカウト活動の楽しさを後輩たちに知ってもらえるよう一生懸命頑張りたいと思う。

本当にありがとうございました。

 

平成19年(2007年)7月 

城北地区誌第131号より  

 

 富士章を受章して

 大阪第11団 赤塚未紗  

 

プロジェクト:

  「Misa’s Hawaiian Ice Cream」

  「クリスマスイヴ☆イヴ」

  「SPRASH!!!」

 

私のスカウト活動は5歳から始まり、14年目になりました。あっと言う間です。

ビーバーからベンヂャーまで、すべて濃い時間を過ごしました。

つい笑ってしまうことが多々ある中で、思い出すほど、申しわけない気持ちとともに、11団の良さを感じます。私がビーバー カブのころから可愛がってくれていた多くのリーダーもやめることなく、仲間も変わらす、むしろ増えています。

私は、素直でないし、なにもせず楽しむだけだし、□だけ一人前だし、なんといっても生意気でした・・・・です。

でもこんな私をすっと励まし、支えてくれるリーダーと仲間が11団にはいます。

私がボーイスカウトをやめたいと言った時も、何人もの方が声をかけてくれました。

やはりそれはすっと一緒に活動を続けてきたりーダーと仲間たちでした。その中でも、現在ベンチャー隊長である中野さんは一番に電話をくれました。

そして、スカウト活動で何回も背中を押してくれました。今回の富士だってそうです。合う度に「未紗だったらいける、大丈夫!」と、どうすればいいかわからない私に何度も説明をし、声をかけてくれました。中途半端に放り投げようとする度、熱心な指導をあきらめることなく続けてくれました。

こんなスカウト思いで、熱いリーダーが揃っているのは11団だけや!と、私は思います。

 富士の面接会場に、たくさんのリーダーが足を運んでくれました。それだけで泣きそうになりました。ひとりひとりのリーダーと深い思い出があるからです。そんなリーダーに「富士章おめでとう」と言われる度苦しい気持ちになりました。自信をもって「私がとったんや」と思えないからです。悔しく、情けなく、逃げたかったです。この気持ちを忘れないことが、これからのボーイスカウト人生に変化をもたらすだろうと私は思います。

せっかく戴いた富士章を無駄にはしません!リーダーたちには今までをふまえ、これからを見ていただきたい。

スカウトとしての活動は終わりに近づいてくるけど、ボーイスカウト活動の道はまだまだ始まりにすぎません。

これから開かれるものであり、自分らしく作り上げていくものです。

 ビーバー隊に奉仕し、5年になりますが、ビーバーだった子がボーイのお兄さんになっているのです。お兄さんになった姿をみていると、少しリーダーの気持ちがわかりました。この子たちにも、私がリーダーに対して感じているものを、私に対して思ってくれて、そはて次のスカウトにも・・・・というように11団を守り続けていけたらと私は思います。

 笑いが絶えず、元気いっぱいの11団が大好きです。

この度は長いスパンで本当にありがとうございました。

 

平成21年(2009年)1月    

城北地区誌第137号より  

 

ローバームート2007 IN OSAKAに参加して

ローバー隊 田中政之  

 

 11月17~18日にキャンプおおさかで開催されたローバームートに参加しました。

ムートとは、「議題にのせる」という意味で、大阪連盟下のローバースカウト(以下RS)が集まりローバーリングについて議論し、キャンプおおさか内の整備を行うといった活動内容でした。

参加人数は17人と少なく、そのうち隊リ一ダーをしているRSがほとんどでしたが、それ以外のRSは「宙ぶらりん」で一体何をすれば良いかわからない、ペンチャーでスカウティングは終わってしまったというような印象でした。

その他、隊リ一ダーも立派なローバーリングだと思いますが、隊リーダーに従事しているということを理由にローバー活動を実際にしている人も現段階では皆無に等しいといった感じでしたが、同じように参加していた近大ローバーだけはクラブ活動なので、我々とは違った考えや活動内容で参考になり良かったと思います。

 17人を2つの班に分け、班ごとでローバーに関するテーマで議論し合いました。

テーマも「RSだからできること」、「自団の現在行われているローバー活動」、

「今後のローバー」等々、様々でしたが、テーマとは直接関係のない「スカウト人□減少の問題」、「ローバー活動する上での金銭面」等、各自興味ある意見も積極的に飛び交いました。

 そういった話し合いをする中で、RS同士が話し合うよりも、むしろ先決なのは団内での理解、協力が必要だと感じました。幸い、私の団は団委員長さん初め、隊り一ダー、スカウトの人数も多く、団本部(圓通寺)といった集会場所もあり、何よりも団自体に力と経験があると改めて強く感じました。

 私が恵まれた環境だと強く感じた反面、班のRSには、所属している団には伝統や先輩との関わりがなく、BS隊所属人数は5人の1班編成という状況だったり、このままスカウト活動を続けられるか、続けていくにも不安要素ばかりだ、ということも聞きました。

 そのような状況から今後自分に出来ることは何かと話し合いましたが、それは現段階では仕方ないことかもしれませんが、方向さえ決まりませんでした。そのような、団にあまリ希望の持てないRS連は、今回のような連盟規模のRS同士で一泊し、共に活動することが楽しくて仕方がないと話しました。

 そういった面で、大阪連盟のRS同士が横のつながりを作ることに関して今回大変良かったと思います。

 キャンプおおさかの整備は、入口の門と少し入ったところのトタン屋根のペンキ塗リでした。作業も班に分かれて行いましたが、私の班は全員和気藹々と楽し<喋りながら行えました。

 一泊二日と短い期間ではありましたが、皆積極的に議論し合ったので、各自持ち帰るべき内容は多かったのではないかと思います。私自身痛いところを突かれ、「僕が君の立場だったらこうするのに」というようなことまで言われました。言われた時は「一体お前に何かわかる」と思ってしまいましたが、今考えると図星だったような気もします。

今後の課題にしたいと思います。

                平成19年(2007年)11月    

城北地区誌第131号より  

 

 第20回世界ジャンボリー派遣

  英語と度胸

ボーイ隊(赤飯班) 垣生啓貴  

 

 ほかの人と話をするとき、ぼくはたいてい受け側に、まわっていて自分からしゃべりかけることはあまりありません。

それでも、日本語はわかるのでいろいろ話ができます。しかし、英語となると、話しかけることはおろか、聞き取って答えることすらままなりません。それにほかの人のようにノリがよいほうではないのも大きいです。だから、満足のできる交流ができたかと聞かれると『ウーンちょっと』と答えにかげりがでます。

はっきりいって、ぼくは、はずかしがり屋で、度胸がなくて、失敗を恐れているのだと思います。ボーイ隊のときの菊章の面接でも『君のその消極的な性格は、これからの人生でマイナスになるよ』と言われました。

 では、どうするのがいいか、まず返事を求められたときは、はきはきと答えることから始めるのだと面接でいわれました。ノリは二の次で、はい、いいえ、はっきりさせると言うことです。そして次に日本人に、自発的に話しかけることです。今まで、僕はどこにいっても裏方にまわる傾向にありました。これからは、公衆の面前ではずかしいことを、とまではいきませんがそんな勢いでたくさんのことに取り組んでいきたいです。

 逆にテンションを調整できなくて、やりすぎてしまったこともありました。閉会式のときにまわりの人に水をぶっかけて、ペットボトルをおもいきり上に投げようとしたら、近くにいた次長に水がかかってしまいました。次長は『ハメはずしすぎるなよ』と言いました。

あと、タコヤキ班の三宅班長のようにノリすぎて集合時間に憚ってこないということにならないように気を付けるのも必要だと思います。

 何事もほどほどが一番ということをこのジャンボリーは教えてくれたと思います。

                平成15年(2003年)4月  

城北地区誌第113号より 

 

 

 あっという間のジャンボリー

ボーイ隊(たこやき班) 眞鍋智寛  

 

 初めてジャンボリーに参加した。

初めはこんな長いキャンプはできるのだろうかと自分白身思った。

 ジャンボリーの一日は朝6時に起きて配給に行って、午前プログラム昼食、午後プログラム夜食、ときどき夜のプログラムがある。主にごはんは弁当、ときどき作っていた。これを何日も繰心返していく中で、いろいろなできごとや出会いがあった。

 最初は開会式、人の多さに圧倒された。色々な国の人々が一つの場所に集まるなんてすごいと思った。そして次にスイス人と出会い公衆電話でカードの買い方を間いた時に出会った人、名前はローラさん。次に出会った人はまたスイス人、自転車に乗っていた。すごいことにこの人は数時間の間で3回も会ってしゃべっていた。

 次に出会った人もスイス人4人だった。みんなおもしろい人達だった。ほかにもいろいろな人に出会った。でもその中でも印象に残ったのが、前に書いたスイス人の人達だった。こういう出会いがあり、すごくあっという間の、たのしいジャンボリーになった。

                平成15年(2003年)4月   

城北地区誌第113号より 

 

 

 20WJ

ボーイ隊(ジンベイ班) 米田正和  

 

 24日に海洋センターに行った時はほとんど知らない人ばかりで、ぼくは準備訓練にもあまり行ってかったから、ほんとうにみんなと、なかよくできのか不安でした。

けれどいざ顔を合わせてみると、みんなやさしくて、おもしろい人達ばかりでした。

中でも、北谷君と浜田君はぼくと仲良くしてくれていろいろなことをわしえてくれました。 

 12月26日とうとうタイにいく日がやってきました。朝5時に起きてまだ暗いうちからバスに乗って関西国際空港に行きました。

 タイについてまず感じたことは、とても暑くて、くさかったことです。空港を出てバスでバンコクホテルにむかいました。

もうホテルについたころはうすぐらくなっていて、すぐに部屋に入って、ごはんを食べにいきました。タイのごはんを食べて感じたことは、飯はくさいし、まずいし、ほかのものはめっちゃ、からかったです。

その日はみんなはしゃいで夜おそくまでしゃべっていました。

 そして27日、バスでジャンボリー会場へむかした。着いたらもうほかの国のスカウトがいっぱいいました。

バスから荷物をおろして、ぼくらのサイトはD1の14だったのでそこへむかいました。サイトについた時はもうくらくなるすんぜんで、すぐにテントをたてました。次の日は開会式がありました。みんな歌って、おどって、めっちゃたのしかったです。3日目からプログラムがありました。みんなアワードをとるために必死でがんばっていました。

 そして、とうとう最終日閉会式がおこなわれました。みんな、もっとおりたいといったり、ぼくももっとタイにおりたかった。

 ジャンボリーは大成功したと思います。

成功したのも隊長をはじめ副長、上班がおったからだと思います。

 隊長ありがとうございました。

 そして、みんなもありがとう。

                平成15年(2003年)4月   

城北地区誌第113号より 

 

 

 世界ジャンボリーに行って

ボーイ隊(モズ班) 赤塚遼多  

 

 20WJが終わって、振り返えってみると、最初はいやいやで17日間のキャンプとか長すぎてたえられへんと思っていた。

でも終わってから考えると本当にあっという間でもっとタイに残っていたいと思った。行かせてくれた父に感謝しています。ほとんどタイ人だったけど、海外の友達がたくさんできた。

 20WJは終わってしまったけど、そこで知り合った友達とはメールや文通をして、20WJだけの友達でない友達にしようと思う。終わってしまったと思うとさびしい。また機会があればと言うか機会がなくとも、タイに行って、友達に出会って、タイ語に興味を持ったので、タイ語の勉強をしたいと思う。

 そして、タイの文化をもっと知りたい。本当に20WJに参加できてよかった。

                 平成15年(2003年)4月    

城北地区誌第113号より  

 

 しろきたCUP2002

 総合優勝バッファロー班

ボーイ隊 西尾拓真  

 

 僕は、今回の技能大会「しろきたCUP2002で、いろいろなことを体験できたと思います。

 まず、いろいろな技術です。はじめに行った「救急」のポイントでは、患者を運ぶときの注意事項として、患者の不安を和らげるために足を前にして搬送することなど、初めて知りました。

 「ソング」では、前日に練習していた「備えよつねに」と「岩をぶっちわり」の2曲を練習していたのですが(歩きながら歌ってた)、ソングのポイントに行ったら、課題曲があって、練習していた曲とは達っていたのは残念だったなあと患います。

 「テント」では、チームワークよくできたと思いますが、もっと的確に指示を出しつつ動いたほうがよかったかなあと思いました。

 うまくいったものもありました。「通信」では、手旗を一発でわかることができました。

 かわいそうだなあと思ったこともありました。城北の班の中で1コ班だけ1人で参加していた班がありました。もし1人だったら参加ポイントも低いし、テント建てや班旗たてだって困難だったと思います。

班員がいる、ということは大事だなあ、と思いました。

 あちこちまわった距離13km(推定)。練習してきたものもほとんどできたし、

そのかいあってテント部門1位、総合優勝もできて、とてもうれしかったです。

                平成14年(2002年)2月   

城北地区誌第110号より 

 

 

 残念4位コブラ班

ボーイ隊(モズ班) 垣生啓貴  

 

 今回の技能大会のコブラ班の総合成績はおおよそ20班中の4位でした。

結果の詳細を後で見てわかったことなのですが、なんと無人基地Eポイントをとばしたことによって4位になってしまったのです。

 他にも反省すべきことはあるのですが、ぼくはそれが最も悔しかったです。

 それさえなければ・・・

 それでも、道中は歩いていたときも楽しかったです。みんなと、なんだか話もはずんでいました。

                平成14年(2002年)2月    

城北地区誌第110号より  

 

 第7回BGSCキャンピック

カブ隊3組 井上 翼 

 

 私は今年カブ最ごのキャンプなのでとてもたのしかったです。

そして一番だのしかったのは、キャンプファイアーです。ファイアーでわる者と正ぎの味方でわかれていました。スタンツもどれもおもしろいものでした。私の組はしり字をしました。わかってくれる人がいてよかったです。

 キャンプファイアーのほかに全体のゲームが楽しかったです。ゲームの点数でピザの具がきまるのがよかったです。初めに行った所でO点だったのがざんねんでした。ほか、3つの飲みものをまぜてのむ所でおいしいのか、まずいのかわからないものをのみました。その中身はコーヒーとコーラとヤクルトをまぜたものでした。

これもたのしかったです。

とてもいい思い出でした。

 

 

カブ隊3組 河野南帆  

 

 わたしは、キャンプで、おかしを買ったり、水てっぼうを作ったり、ビンゴゲームをやったり、キャンプファイアーで、スタンツのしり字をしたりして、とっても楽しかったです。

でもちょっとつかれた・・・。

それと、スタンツは、ほんとうは、バクダングームだったのに、たい長がとう日になって、「ゲームとかは、ダメです。」と言うから、いやいやしり字にきめました。

「もう!なんでとう日になって言うのっ」てかんじでした。

 それと、ビンゴゲームをやってるときに、なんとどくへびのまむしを見てしまいました!!(しっぼだけ。)

水てっぽうを作るときは、だけをきるのは、自分でやって、ぬのをまるめるのは、

デンリーダーに、やってもらいました。

あと、3組に新しいメンバーのかざま葉月ちゃんが入ってきました。

ちなみに、葉月ちゃんの弟は、1組にいます。

 

 

カブ隊2組 大角 翼 

 

 この前3ぱく4っかのキャンプがあっておもしろかった。キャンプでキャンプファイアーをした。スタンツをした。よるねるときねむれなかった。でもたのしかった。

おもしろかった。キャンプがたのしかった。みずてっぽうをつくった。おもしろくなかった。

たけがわれた。たてわりのはんは(たかぎくん、はらなおこ、いのうえつばさ、大角つばさ)だのしかった。

ばいてんであめを9こしかかえなかった。けどピザはおいしかった。さかなつりがたのしかった。

ドラえもんのポケットのしょうひんはヨーグレットとレモンレットだった。うれしかった。

平成15年(2003年)8月    

城北地区誌第135号より  

 

 ハワイレインボーキャンプに参加して

ベンチャー隊 田中政之 

 

 2005年3月20日海洋センター。

僕はその時ボーイスカウトという組織の壮大なスケールを目の当たりにし、なぜか心臓が激しく動いているお腹の中から涙が込み上げそうになった。涙は出なかったが歯を噛みしめながらかなり感激していた。

結団式、壮行会というのは感激するということは何度か経験があるので知っていたがまさか、ここまで感激感動するとは思っていなかった。何人ものボーイスカウト関係者、保護者の方々に激励の言葉を頂いた。

そして関空で飛行機に乗り込みハワイヘ Go。

機内から外を見ると今までガイドブックでしか見たことのなかったハワイという地を実際に自分の目でみた。ホノルル空港、日本人がかなりいた。各自、隊備品と各自のダッフルをみんなで手分けをして迎えに来てくれた車に何人かずつに分かれてキャンプ場まで乗せて行ってくれた。歩かなくてとてもよかった。そしてきれいな芝生が広がり海が見えバスケットのコートがあり、おまけに廃車なのか使っているのかわからない工事の車が何台もあった。

この時はまだ本当のハワイというのを見ていない。鶴見緑地の大芝生広場とあまり変わらない風景、それに海をつけくわえたような感じがした。

 そしてそのキャンプ場でのフリー時間思いきり遊んだ。

まず水を浴び、工事の車に乗って遊んだ。この時何人かが話し掛けてくれた。そこで仲良くなった子もいた。そしてリーダーに引率されながらキャンプ場から一番近いバス停まで行った。おかしいと思った。時刻表がない。日本にあるちょっと複雑な標識と似ているような似ていないような、リーダーはバス停と言っているが多分間違っているのだろう、また今夜ぐらい正しい情報を提供してくれるのだろうと、自分を説得しながらサイトまで戻った。

 2目目、この日から3日間は各自が考えてきたプロジェクトに従って班員全員が一緒に行動する班行動である。

「セルシオ」班の班長としての生活がはじまった。僕たちは初めてバスに乗った。無事目的地へ行けるか?英語が通じるか?キャンプ場へ戻ることが出来るか等と、心配しながら・・・。水族館へ行く途中リムジン、日本車の左ハンドル、日本では見ない光景、都会に出てこそハワイを感じると思い感動した。

 マクドナルドのキングサイズは半端じゃなかった。アラモアナショピングセンターヘ行った。ここで買い物をするなという方が無理だ!。財布がだいぶ軽く寂しくなり荷物だけが多くなった。

そして帰り初めて訪れた街、バス停の名前も知らない、キャンプ場の近くに来たらバスを降りようと思って誰も寝ずに見慣れない街を真剣に見ていたが見事に通り越していた。

 プロジェクト2日目ワイキキ水族館からワイキキビーチヘあまりにも海がきれいなのにピッタリに次の日当番班の日がまわってきた。プロジェクトを確実に全てこなすことより当番班という役の方が数倍荷が重たかった。朝・夕食の用意、朝礼の担当、その他色々キツかった。それにこの日はとにかく暑かった。

 プロジェクト3日目。植物園(名前が思い出せない)へ。英語の発音力の無さで食べ物が注文ができなかったことにショックを受けたりハワイならではのさまざまなすごい体験をした中で班長としての責任も果たせたと思う。

 このキャンプに参加が決定してから解散時まで、本当に色々な人に助けてもらいお世話になり心の底から楽しむことができました。

ありがとうございました。

参加させていただいたことに感謝し、この体験を今後のスカウト活動に生かしていきたいと思います。

平成17年(2005年)3月    

城北地区誌第123号より  

 

 第14回日本ジャンボリーに参加して

第11団 米田すみえ  

 

 今回SHQ配給班の食堂係りとして初めて日本ジャンボリーに参加しました。

 不安な気持ちと期待感を胸に大阪を出発し、早朝ジャンボリー会場の珠洲に到着しました。

 炎天下での食器・炊事道具の洗い物から私のジャンボリーが、スタートしました。

 (日本連盟HP8/2に映っています!)

 汗を拭きながらお茶・レトルトメニューのお湯沸かし。切っても切っても無くならない野菜。食事の時間に追われながらの、朝・昼・夜250人分の食事作りは、想像以上に大変でした。慣れないメンバーとの作業は、気疲れ・体力疲れもあり、無口で黙々と動いている状態でした。

しかし、炎天下で食器の洗い物をしてくれるベンチャー奉仕隊。洗い場・食堂を使いやすいように日々改善してくれた班。トイレ掃除やゴミ処理などして頂いた班。

7SCが快適に過ごせる様に、皆が真っ黒に日焼けしながら奉仕している姿を見ているうちに食事作りに張り合いがでてきました。

そして仕事分担もスムーズになり、笑いながら・冗談を言いながらの食事作りに変わっていき、1日の終わりに皆で星空を眺めながら「すずの湯」に行く時には達成感がありました。

 最初恥ずかしかったエプロンも、「大変ですね」「美昧しかったです」「ごちそうさま」と、声掛けの目印になり、段々誇らしくなってきました。

 半日、自由時間がもらえたのでアリーナでの宗教儀礼・4SCスカウトサイト見学。スカウト用品販売での買物。そしてプログラムに参加しているスカウト・見学に来ていたカブスカウト達を見ながらジャンボリーを楽しみました。

 最終日、寂しくなった撤営後の7SCの広場で「いやさか」を受けましたが、こんなに心にしみ嬉しかった祝声は初めてでした。

 今回ジャンボリーに参加した事でいろいろな方に再会できた事、新しい素晴らしい仲間に出会えた事、感動的だった閉会式、いつまでも私の心に残ると思います。                         (ニックネーム:城北3人娘)

平成18年(2006年)8月    

城北地区誌第126号より  

 

 ペーロン大会に参加して

ベンチャー隊 高木秀太  

 

 今回、僕たち大阪第11団は泉州地区、泉州東南地区が開催するベンチャーペーロン大会に城北地区では初めて参加しました。ペーロン大会というのは、白分たちでボートとオールを作り、3人1組で水上を走らせ、いかに早くゴールできるかを競う競技です。

 僕たちは初参加ということもあり借りたボートで出場しましたが、ほかの団はみな手作りで形やデザインまで凝っている物ばかりでした。 

30チーム近く参加していて、7~8チームで予選、上位2チームが決勝へ進むといった具合でした。

 ほかに敗者復活戦や地区対抗戦があり、僕たちはおしくも予選敗退でしたが、みんな出場することができ良き思い出になりました。また、前日はキャンプをして良いことになっており、台風のため泊まっていたのは僕たちだけでしたが、バーベキューをしてみんなで明日の作戦を立てたりして本当に楽しかったです。

 来年は是非、自分達でボートを作り、皆で力を合わせて優勝を狙いたいです。

平成16年(2004年)8月    

城北地区誌第118号より  

 

 お わ り に

 

 2000年の1年間を「記念イヤー」として、オープニングセレモニーから始まり、合同野舎営、餅つき大会、初詣ラリーそしてクロージングセレモニーと、多彩な行事が行われたのがつい最近と思えるほど身近に感じていましたが、早や10年が過ぎさり、発団60年・復活50年の区切りの年になりました。

 確かにこの10年の間、日本ジャンボリーが3度も開催され、その中で大阪という大都会で初めての野営が開催されたということもありました。

さらに、2度の世界ジャンボリーにも、当団より多数のスカウトが派遣され、今年に開催される世界ジャンボリーへの派遣も決まっております。

 そして、この記念の年に、直近10年間の活動記録をまとめることにして、その記録を辿ってみました。そうしますと、その活動内容の多さ、多様さ、充実度に感心致します。

 この「かがりび」特別号もパートV・5冊目となり、平成13年(2001年)より、平成22年(2010年)までの活動記録をまとめたものであり、スカウト・リーダー・育成会およびスカウト活動を支えて頂いた方々の記録であります。

 ビーバー隊へ入団したスカウトはベンチャー隊員で富士章を狙う立場となっています。

 一部記録が散逸致しておりますが、ご満足いただける内容にまとまっていると自画自賛しております。

 ところで、このように活発に活動が行えるように当団を引っ張って来られました

赤塚勝巳団委員長が、この区切りの年に西尾茂新団委員長に交代されます。

 昨今スカウト人口の減少が取りざたされておりますが、当団においては3度の組織拡充目標達成優良団Aランク受賞をいたしましたが、やはりスカウト数の減少が見られますので、今後も新規スカウトの加入に向け努力致したいと思っております。

 今後も新団委員長を中心として、今後もスカウト活動を継続して、新たなBGSCの歴史を作って頂き、4年後には日本で再び世界ジャンボリーが開催されることにもなりましたので、5年後あるいは10年後にパートVI号が発行されますことを期待致しております。

 最後に、この記念誌「かがりび」の発行にあたり、資料提出、写真整理、記事整理などをしていただいた各隊リーダー、育成会の方に深く感謝いたします。

記念誌編集委員会