営 火 夜 話

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銚子ケ池

 昭和50年(1975年)8月BGSC富士合同野舎営大会における大営火は 日本連盟山中野営場に250名のスカウト、スカウターに加え、 関忠次先生(日本連盟)金井野営場長を招き盛大裡に行われ、 その営火プログラムのひとつに大会長の夜話があった。

参加者すべてが話に聞き入り感銘を受けた。

この話の内容こそ我々が日常の場で心せねばならぬことがらであり、 それがゆえにこの機会に印す訳である。 

 BGSCに所属するすべての者がここに載せられた夜話の意義をじっくりとかみしめ味わい、 そしてこれが、ちかい、おきての実践と同様に常に心の片すみにあってスカウト活動、 家庭、学校、職場、社会において、それぞれが心がける事を期待するものである。

 

 私達はともすれば無責任な言葉をよく言います・・・・・・ 

その結果相手を傷つけ、苦しめることかあります。

これはその昔、忍野八海の一つ「銚子ケ池」にまつわる伝説です。

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  嫁入りして来た日、おひろめの席に集まった村人は嫁の一つ一一つの動作に注視 している中を、酌をして回った嫁は、朝から充分な食事もせず、腹が空いてい たのか、固くなりすぎていたのか、酌をしようと上体をのばしたとき、目に映 った膳の上のご馳走、思わずのどをならしたひょうしに腹が鳴ったものか、新 らしい帯が鳴ったのか、「グウー」という音がした。そこに居合せた人は「グ ウー」という音に、シーンとした村の人、親せきの人は、いっせいに嫁をみた。 一人二人が「クスクス」と笑うど、それにつられて「ドッー」と哄笑がおこった。

「嫁が屁ぴいた」「大きな音で……」と

口から口へ、人から人へ、勝手もとで 手伝っていた人まで、座敷へ上ってきた。

こうした話しは、小さいものほど大きくなりやすく、軒先に立って見物してい た、村の若い衆まで

「こいつは村はじまっていらいの一つ話しだ、嫁が屁ぴい たぞワッハハ・・・・」

 当の嫁は、身に覚えのないことでも、耳タブまで真赤にし、さまざまのあざけ りの中で頭がボーとなってしまいました。

 「私は屁などこかない、空いたお腹と、ゆるんだ帯がいっしょに鳴っただけな のに」 

心の中で抗議しても、若い嫁には弁解の余地は無かった。期待をはずさ れた婿が、こわい顔でにらみ、姑たちは、恥をしのんでいる様子、居たたまれ なくなった嫁は、銚子をもったまま、ふらふらと立ち上った。はきものさがして、はく余裕もなく、はだしのまま勝手口を出た嫁は、

 「なんとはしたない嫁よのう、恥さらしの」といった村人のささやきに・・・・ いくら弁解しても、これから一心に働いても、つよい子を産んでも、一瞬のぬ れ衣をぬぐい去ることはできない、おそらく今日のことは、村の笑い話しとし て、末代まで語りつがれていくことだろう。

 「あそこの嫁は、おひろめの席で屁をひった」と・・・・

婿はこんやのうちに不縁を言渡すであろうし、祝福されて送りだしてくれた里 の人にあわす顔がない、屁一つでこれだけのむくいを受けたとしたら・・・・もは や死ぬよりほかに、のがれる道がない。

 嫁は、あわれに晴着のまま、冷たい忍野の池にとびこんでしまいました。手に 銚子を持ったまま・・・・

 それから誰いうとなしに「銚子ケ池」と呼ぶようになりました。

 


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奉仕の心

 スカウトの「ちかい」の3番目に、

「からだを強くし、心をすこやかに、徳を養います」

という言葉がありますが、佐野常羽氏はその中の「徳を養います」 について、「おかえしのはねかえり」と言われていました。

 

 「徳」とは、宇宙の大エネルギー、大自然の生命力、神、仏そして国、世界、先祖、父母、先生、大人、 時として道の人、動;物、鉱物などからの恵みに感謝して、そのお返しとして他の人々が幸福になるようなことをする。 そして、そのはねかえりの喜びをいただき、感謝して自分をささげることができることが、 奉仕で、その心を養うことが大切だと言われました。

 成長に一番大切なものを育んでくれます。

 

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悪人と善人

 3人家族と7人家族が隣り合わせで住んでいました。3人家族は夫婦と子ども1人。7人家族は祖父母に両親それに子どもが3人でした。

3人家族は毎日口論けんかをしており、7人家族は仲よく楽しい生活をしていました。

 ある日3人家族は

「隣りを見てみろ、7人も住んでいるのにけんか口論もなく毎日楽しい生活をしているのに、うらの家は毎日口論けんかばかり。お前行って仲よくなる秘訣を聞いてこい。」

「何言ってるの。あなたこそ行って聞いてきなさい。」

思いついたが吉日と、3人家族は隣りの7人家族の家へと行きました。

 7人家族は、

「それはそれは、よく尋ねてくださいました。あなたの家は善人と賢い人が住んで、口論喧嘩となり、私の家は悪人と愚かものが住んで、仲よく暮しているのです」

「そんな事を言って私達をからかうのですか。善人や賢い人が住んで世の中が平和になり良くなるのです。悪人や愚かものが住んで世の中が乱れ、悪くなるのですよ。」

「いやいや、私の言うのはそんな意味ではありません.例えばここに灰皿があったとしましょう。それを誰かが蹴ったとして、これがあなたの家なら」

「誰やこんなとこに灰皿置いといて。机の上に置いとけ」と詰めるでしょう。

「灰皿みたいなもの目につかないの、気をつけて歩きなさい」と詰め返すでしょう。これはお互いに自分には間違いない正しいと思っているからですよ。

 これが私の家でしたら、

「アッ、灰皿を蹴ってしまった。かんにんやで…‥‥‥」

「何言ってなさるの、私が灰皿を机の上に置いといたら、灰皿を蹴らずに済んだのに。 かんにんして下さいや‥‥‥」と、みずから罪を悔いてお互いにかんにんしあいます。

「あなたの家に仏壇がありますか。」

「田舎で両親がまつつていますよ。」

「そうでしょう。私の家では朝起きれば、咋夜はゆっくり休ませて頂きました。今日も一日元気で働かせて頂きます。夕方になれば、今日も一日元気で働かせて頂きました。ゆっくり休ませて頂きますと、祖先に感謝し、仏壇に手を合わせます。」

 3人家族は、この話しを聞いてそれからは仲良く暮したということです。」

 


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キャンプ

サトウ・ハチロー

 

 手でおぽえる 足でさとる

 目にやきつける 胸にしみこます

 ボーイスカウトの仕事はすべてこれなんだ

 水くみ一つにも 上工手下手がある

 米をとぐのも めしをたくのも

 玉ねぎをきざむのも

 ジャガ芋の皮をむくのも

 あそび半分では 出来ない 出来ない

 なれない仕事で涙ぐむと 母の瞳が浮ぶ

 力のいる仕事でへたばると 父の笑顔が見える

 われとわが身をはげましても 情なさがあふれて来て

 あたりの風景にもやをかける

 のりこえる のりこえる からだで覚えたものは

 からだからは はなれない はなれない

 

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夜 話

1999年7月3日~4日に開催された

指導者研究集会 Great Outdoor Ⅱでの資料です。

Great Out Door Ⅱ  

 夜 話

  

 隊長のスカウトに対する夜話は、ただ単にキャンプファイヤーの時だけではない。朝礼の時、集会の時、儀式の時、行事の時、解散の時など色々な場合に話しをしなければならない時が非常に多い。夜話はスカウト訓育上、たいへん重要なことである。

 隊長の理想的な夜話は講義でも、お説教でも、叫ぶことでもない。それはスカウト達が自然に耳を傾け、理解し、一人になった時に考えるような簡単な話しのことである。

 それは、たとえ話や道徳的な教育が引き出せる短い作り話でも、あるいはよく知られた物品を道徳的真実にあてはめて話すことでも良い。単にスカウトに善良になれとか、・・・・しなければならないとかと、話すのではなく、なぜ善良にならなければならないかを説明し、自分白身の行動をもう一度考えさせるようにすることが重要である。良い品性がもたらす恩恵と不道徳がもたらす悲惨な結果についても話しをすると良い。

 スカウトの心の中に自分自身に対する信頼と他人が自分を信頼しているということを築きあげることが大切である。

 

 


 夜話の作り方

 

 よく知られている隊長の夜話も誰かがこれを作ったのです。他人の夜話ばかりを探していないで、自分自身で夜話を作ることを考えたことがあるでしょうか?今日までの夜話を作った人々が作成に用いた手順の手がかりを知ることができたならば、自分自身で夜話を作り上げることができたのではないかと思います。一人の作者のやり方を参考までに述べましょう。

 少年は単なる言葉よりも、よく知られていることや物を使って話しをした方が興味をそそられ、その興味を持続することができるものであるといわれています。

 第一の段階はよく知られている品物、例えば、鉛筆、懐中電灯、カメラ、釣り針、炊事道具、リュックサックなどを選ぶことです。

 第二の段階は『ちかい・おきて』やモットー・スローガンなどの内容に注目し、先に選んだ品物にあてはめられる点はないかどうかを調べる。

 ひとつの例として懐中電灯を取り上げてみよう。

 

 消灯した部屋の中で隊長が持っている懐中電灯からスカウト達はどんな教訓を学ぶことができるだろうか?

 『おきて』の1、即ち『スカウトは誠実ある。』と何かの関係がないだろうか。確かにある。もレ|喪中電灯を使おうとするならば、電球・電池・接続が完全でなければならない。さもないと、非常の時に役に立たない。

 懐中電灯は又『スカウトは人の力になる』と、関係がないだろうか?懐中電灯は人命や傷ついた人の救助・連絡に一役を買い、家庭内においてもその役割を果たす。懐中電灯なしにヒューズを取り替えたことがありますか?

 教訓は『スカウトは質素である。』からも引き出すことができる。節約して使えば、懐中電灯は本当に必要な時、電池を取り替えないで何回も使えるが、無駄に使えばたちまち無くなってしまう。

 懐中電灯を基礎にして作れる夜話の二、三の例を述べたが、何かの品物を考えれば、どのような品物でも殆ど同じような方法で使用することができる。

 アイディアは新聞・書籍・雑誌などやスカウティングの理想が具現されてい出来事からも得ることができる。例えば優勝したスポーツマンやチームの話しからは体育・練習・スポーツマンシップ・チームプレーなどについての教訓を学ぶことができる。小さい事柄がいかに重要であるかを火事や事故や会社員が新しい地位についた話題などを伝えた新聞記事を使用して強調することができる。

 第三の段階は自分の隊のスカウト達に合うように、第一と第二の段階の関連を考え、夜話の骨子を順序だてて、できるだけ箇条書きにまとめる。

 第四の段階では夜話の骨子の箇条書きを基礎にして原稿用紙で800宇程度にまとめる。

 そして、何よりも重要なことは自隊のスカウトの状態・ニーズなどを的確に把握しておくことである。

 

①.原稿用紙の夜話をそのまま話すのではない。

②.時・場所・周囲の状況・天候などを考慮して夜話を決める。

 (そのためには多くの夜話を準備しておかねばならない)

③.アドリブ・形容詞・てにをは等を加えたり、削ったり、替えたり、考えさせる時間を入れたりして、スカウトの心に染み込むように話す。

④.話す時間は5~8分程度が最も良い。長くとも10分までで、それ以上の時間は避けなければならない。

(何度も話す練習が大切)

 


Great Out Door Ⅱ  

 咲かずの椿 🔝

 

 名古屋の小川町、テレビ塔近くのお寺に、花をつけない椿の木があります。

昔、ある日みすぼらしい姿の老僧が寺に来て「水を一杯くれ」と頼みましたが、余りにもその姿が汚くみすぼらしいので、「お前さんにやる水は一杯もない。帰れ、帰れ」と棒で追い出しました。老僧は山門を出る時に持っていた棒で大地をトントンとついたら、境内に今まで咲いていた椿の花が全部落ちてしまい、それ以後は花をつけないと云われています。この老僧こそ弘法大師の仮の姿であったと言い伝えられています。我々の心の中にも外見の姿で判断しかちであるということはないだろうか。そんなこころは存在しないだろうか。

 私は、以上の話を基にして次ぎのように隊集会のセレモニーで話しました。

 君達は民話や昔からの言い伝えに関心があるかネ。私は民話や言い伝えからいろいろなことを学んだり、昔の人々の生活や習慣を知り、人々がどんなにくらしていたか想像することが出来るので、大変興味があります。今日は名古屋の東区に伝わる民話を話そう。

 名古屋の小川町といって、ちょうどテレビ塔の近くのお寺に全然花の咲かない椿の木があります。その木にまつわる話なのです。

 昔、昔、とても綺麗好きな和尚さんは毎日とても丁寧に庭を掃かなければ気がすまなかったから、今日もせっせと庭を掃いていたんだ。そこへ長旅でもしてきたのか埃まるけのそれはそれは、とてもみすぼらしい姿をしたよぼよぼの憎が山門から棒をつきながら入ってきて、「どうか、水を一杯めぐんで下さらんか」といって頼んだが、庭を掃いていた和尚さんは余りにもその姿が汚くみすぼらしいのでびっくりした。こんな乞食のようなものに何もやれんと思った。「お前さんのような人にやる水は一杯もないわい。欲しかったらもっと牛テンとしておいで、さぁ、忙しいんだ。帰れに帰れ!」と言って、ほうきで追い出してまったんだ。追い返された老僧はトボトボと山門から出て行く時、杖にして持っていた棒で大地をトンと突いた。そうしたらどうでしょう。境内で今まで咲き誇っていたそれは美しい椿の花がポトリポトリと全部落ちてしまったんです。それからは毎年花の咲く時期になっても全然花が咲かないと言われているんだ。このみすぼらしい老僧こそあの有名な弘法大師の仮の姿であったと言い伝えられているんだよ。

 君達は、この民話を聞いてどんなことを感じたのナ。隊長は何か言いたくてこの民話を話したんだと感じたかナ。

 (少し間をおいて考えさせる)

 君達も私も含めて我々の心の中に、他の人の服装や動作のような外から見えるものだけを見て、

「その人は良い人だ、或いは悪い人だ」と

その人の人格や価値を判断していないだろうか。そんな心を持っていないと断言できる人はいないと思う。

そんな心をなくするにはどうすればよいか考えよう。

 


Great Out Door Ⅱ  

 感激した思い出 🔝

   

 スカウト活動をしていて、幾度か感激を体験したスカウトは多数いるものと思います。私は今でも大きな感動として、頭の中にありありと残っているものがあります。

 それは昭和46年に朝霧高原で問催された第士13回世界ジャンボリーでのことであります。

 隊指導者として参加して、楽しいプログラムに参加して心はまさに浮き浮きしていましたが、3日目の夜半より次第に暴風雨が強くなり食堂フライは吹き飛ばされ食料は風雨にうたれテントはいくらペグを補強しても吹き飛んでしまいました。サイトには雨水がごうごうと音をたてて流れ、とても寝ていることは出来ません。遂に避難の指示がでました。ずぶ濡れになった各国のスカウトは身体一つでSHQの大テントに大勢集まり、さすがの大テントもまたたくまに一杯となりました。避難バスがくるまでの長い間、寒さの中で身体を休めていたが、そうした中で誰からともなく歌声が起こり、その歌声は次第に大きな合唱の輪となって大テントの中に大きく響きわたりました。この時の歌がどれほどスカウトの心を落ち着かせ、そして勇気づけたかは歌っているスカウトの顔にありありと見ることができ、胸に熱いものを感じたのであります。それはあたかも外の暴風雨の荒々しさに立ち向かうようでもあった。

 歌を歌えば心の中に、身体の隅々に力が湧いてきます。大きな声で声高らかに歌おうではないか。

(スカウト)

 


Great out Door Ⅱ  

 準備 🔝

 

 君達は先年アラスカのマッキンレーに冬季単独登山をして遂に帰らぬ人となった探検察の植村直巳という人の名前をきいたことがあるでしょう。

 昭和53年に一人ぼっちで、大ゾリをあやつって零下40度の寒さの中で白熊と戦いながら北極点到達とグリーンランドを北から南に縦断する探検旅行に成功して全世界の人々をアッと驚かせた。一度世界地図を見てごらん。

TVで北極回を見た人もあるでしょう。とても凄いというしか言葉がありません。彼のこの成功充分な準備によって出来たものであることを知ってほしいと思うのです。

北極圏にあるエスキモー部落で一年間エスキモーと一緒に生活し、狩猟や独特な魚釣りの仕方を習ったり18頭のエスキモー犬で引く犬ぞりの操縦のやり方や犬の訓練の方法も勉強した。また、アザラシやセイウチの生肉だけで生活することにも慣れた。長い距離の探検を自分のものにするために、北海道の稚内から九州の鹿児島まで3000Kmの日本縦断徒歩旅行をして本番に備えた。こうした準備によってあの偉大なる北極点到達とグリーンランド縦断という壮挙が出来たのである。昭和54年ロンドンで世界スポーツ勇敢賞の名誉を得たのもこうした準備の結果である。

 この素晴らしい探検家植村直巳でさえマッキンリーに消えたのである。諸君はどんなことをする時にも常に充分な準備をするように心掛けてほしい。

準備にしすぎるということはない。

 (スカウト) 


Great out Door Ⅱ  

 誇りをもって 🔝

1999.7.3-4   

 君は今日までの自分の生活・行動等を振り返ってみて満足していますか。

それとも、後悔していますか。後悔とは字の通り、済んで終わってから「ああすれば良かった、こうすればよかった」と思い悩むことです。もし君が思い悩むことがあったとしても、「どうしてうまくいかなかったか。その原因は自分のどこにあったのか」ということを、一つでも見つければ、それは貴重な体験となり、成功の足がかりになります。幸福な人生とはどんなことなのでしょうか。それは成功を重ねるということではなくて失敗をしながらも、努力を重ねて一歩一歩前進することだと思います。B-P卿の残された言葉「人生の輝かしい面を見つめて陰気なことを忘れなさい。幸福になるために。 “備えよ常に”の精神を生かし、スカウトのおきてを充分生かしなさい。」

は諸君のいや世界中のスカウトの宝なのです。

 人間の知恵で自然が破壊されるばかりでなく、生活がすっかり機械化され、多くの人々が「物ぐさ病」にかかっています。諸君はかかっていませんか。

君達の周りには君を堕落させようとするり誘惑が一杯です。この「社会病」に打ち勝つことの出来るのは君達だけなのです。それは誇りをもってスカウト活動を続けることです。そうすれば、君達の身体の中にB-P郷の精神が大きな力となって生きているからです。スカウト活動に励もう。

(スカウト) 

 


Great out Door Ⅱ  

 純 潔 🔝

1999.7.3-4   

 お父さんお母さんの素晴らしい愛情のもと、この世に性を受け両親の養育を身体一杯に受けてきた諸君、君のからだに流れている赤い血はご両親、その両親、そのまた親と何千何万の血の絆の中に受け継がれてきた尊いものです。途中で少しの間と言えども絶えたことはありません。だとすると君の体の中に流れているこの赤い血は何万年前の先祖の身体の中に流れていた赤い血と同じですね。じっと自分を抱きしめてごらんなさい。何万年とこの鼓動、生命の尊さと共に何かシーンと胸を打つものを感じると思います。

「身体髪膚(しんたいはっぷ)之(これ)を父母に受く、あえてき傷せざるは孝の始め也」

と先人は私達にお諭しくださっています。

「自分の身体だからどうしようと勝手だ」

と言うような考え方は大変な間違いですね。君の身体は君のご両親を通じ、考えられないくらい沢山の親、先祖が一生懸命に清らかに守り育ててこられたかけがえのない貴重な種子です。立派に育て奇麗な花を咲かせることが大切です。君の代に傷つけたり虫食いにしたり、枯らしたりしたら、それこそ取り返しがつきません。けがれのない君をこの世に送って下さったご両親にご安心下さいと言えるような、身も心も行いも清らかなスカウトでありたいと思いますが、君はどう考えますか。

(スカウト) 

 


Great out Door Ⅱ  

 水の尊さ  🔝

1999.7.3-4   

 親の恩は返せても水の恩は返せないという。草も水も魚も鳥も我々人間も、すべての生物は水が無ければ生きていけない。その本をなぜ人間は大切にしないのであろうか。余りにも恵が大きいと当然のことと感じてしまい、水の恵みを忘れてしまうのであろう。一度本の無い世界へ行ってみるとよい。そんなことは出来ないが。しかし、一目を例えばコップ一杯の水で過ごすことは出来よう。そうすればいかに水が尊いものであり、水の有難味も判るであろう。毎日の生活に欠かせない熱は太陽熱を除いて、石油・ガス・電気等から得ることが出来る。しかし、水に代わるものは得られない。又、ダムを造ったり、水道を容易に使えるようにしたりするのは、その裏で働く多くの人々がいるからである。その人々への感謝の気持ちを忘れてはならない。

 我々は野外活動、特にキャンプを通じて水の大切なこと、身をもって色々と体験している。この貴重な体験を日常生活で生かしているだろうか。これからも豊かな生活をするために水は大切な資源なのです。水を心して使おうではないか。

(スカウト) 

 


Great Out Door Ⅱ  

 真のPR 🔝

1999.7.3-4   

 何年か前に霧ケ峰でボーイ隊の夏季長期野営をした直後のことでした。諏訪の役場から「また来年もぜひ来て下さい」との伝言があって大変感激したことをしっかりと党えています。その時は別にこれといった善行をしたというわけでもなく、ただ周囲に迷惑をかけぬように、規律を守ってごく平凡な野営をしただけのことでした。恐らく一般のキャンパーの無法さをにがにがしく思っていた時のことで、多分それと比較されたのだと思います。

 私達は他の人々から良く見られようと、きちんと野営するのではありませんし、成績をあげるために奉仕するのでもありません。少なくとも後に続くスカウトのために、迷惑を及ぼすような不名誉な行動だけはぜひお互いに慎みたいものです。隊の行動は良い場合も悪い場合も、じわじわと水がしみ通るように根強い反響を呼びます。野営に残したいまわしい汚物や汚点は、ボーイスカウト運動そのものを台無しにしてしまいます。我々には自制心を無視した野営はありません。スカウティングは多くの人々に参加してもらいたい素晴らしい活動なのです。

 そのためには一般の人々にスカウティングを理解して戴くためのPRが必要なのです。その最も効果のあるまた誰にでも出来る一番身近なPRはスマートな隊の行動なのです。がんばろう。

(スカウト) 

 


Great Out Door Ⅱ  

 自分の役割 🔝

1999.7.3-4   

 勉強に、運動に、こうしてスカウト活動に君達が元気に楽しく参加し活動できるのも、君達が健康であるからです。ご飯をよく食べるからか、よく寝るからかね。それは君達の身体の胃とか肺とか、いろいろな器官がそれぞれの働きを正しくしているから元気に活動していられるのです。もし、一つの器官に故障があったとすれば、病気になり元気に活動することはできません。

 同じようなことが君達の班にも言えるのではないでしょうか。班には皆決まった役割があって、それぞれ仕事を受け持っているでしょう。こうして受け待った仕事を皆が責任を持って全力を尽くして行うことによって、班はよくまとまりよいチームとなります。もしも一人でも自分の役割を果たさなかったら班はたちまぢ病気”になってしまいます。

 さあ! 班の活動に積極的に自分から参加してよりよい班を作り、いっそう楽しいスカウト活動ができるように皆でがんばろう。

(スカウト) 

 


Great out Door Ⅱ  

 考えるスカウト 🔝

1999.7.3-4   

 昔ドイツにガウスという有名な数学者がいました。このガウスが10才の頃、ある日学校で先生が「1から1 0 0までの数を全部たすといくらになりますか」と尋ねました。クラスの友達はすぐ鉛筆を持って、1十2十3十…とたし算を始めました。ところがガウスはしばらく考えていましたが、やがて5050と正しい答えを出しました。

 さて、君達がこの問題をやってみなさいと言われたらどうしますか。

1十2と順番にたし算しますか。算盤や電卓を使って計算しますか。時間がかかりますね。ガウスは考えているうちに、どういうことに気がついて答えを出したとおもいますか。

 それは、1から1 0 0までの数の始めと終わりの数を順番に取ってこの二つの数をたすとどの組も1 0 1となるのです。

1十100=101

2十 99=101

3十 98=101

そして101が100の半分の50組できるので、101×50=5050と答えたのでした。

このような考え方は学校で習っているでしょう。しかしガウスは今から200年以上も前に自分で考えて気付いたのでした。素晴らしいことですね。

 だから、君達も毎日のいろいろなことについて、

「どうしたら出来るか」、「どうしたのが一番よいか」等絶えず考える人になってもらいたいと思います。

(スカウト) 

 


Great Out Door Ⅱ  

 親 切 🔝

1999.7.3-4   

 「親切と親しさは大きな美徳だ」というスベインの古いことわざがある。また「相手がだれでも差別なく好意を示せ」つまり相手の大小貧富を問わず、だれでも親切にしたまえというものもある。

 騎士(ナイト)の偉い点は、いつも人々に親切にし善行をしていたということだ。人はだれでも死ななければならないが、その時が来るまでに、何かよいことをしようと決心しなければいけないというのが騎士の考え方だった。いつこの世を去るかわからないのだから、今すぐそれをしておけとというのだ。

 そこでスカウトにとっても、いつもばかの人を助けることが「ちかい」の一つになっている。善行はたとえば老婦人が荷物を持つのを助けるとか、混雑した道路を横切る子供を安全に導くとか、慈善箱に小銭を入れるとかいう小さなことでよいのだ。

 善行は一生の間、毎日続けるべきものだ。このさだめを今日から実行し、一生忘れてはいけない。ネッカチーフの結び目とスカウト章の結び目を忘れないようにしたまえ。善行を忘れさせないためのものなのだ。そして、善行は友人にするだけでなく、知らない人にも同じようにしたまえ。

 スカウトは少なくとも毎日工回は善行をする。

(スカウト) 

 


Great Out Door Ⅱ  

 あすなろの木 🔝

1999.7.3-4   

 君達は“あすなろ”という木を知っていますか。私はちょうど君達と同じ年ぐらいの頃、この“あすなろ”の昔話を聞いたことがあります。

 “あすなろ”の幹は杉に似ているが杉ではなく、葉は桧ににているが桧ではない。杉や桧は家を建てる時に板や柱となって大いに人の役に立つのに、おまえは何の役にも立だないと、杉や桧に馬鹿にされる。

 そこで、“あすなろ”は、明日は桧になろう、明日はなろうと一生懸命に努力します。そして立派に成長した“あすなろ”は、村を風や雨から守ったり、旅人の目印になって役にたったというものです。

 そして私達も“あすなろ”のように、「明日は世の中に役立つ人間になろう、明日はなろう」と「ちかい・おきて」を実行するために努力して行こうではないか。

 私達みんなが“あすなろ”の木になれたら、非行や犯罪や戦争の無い平和な世界になることでしょう。私達スカウト活動に参加しているものが先頭に立って、みんなの心にどんなことにも負けない“あすなろ”の木をそだてていきましょう。

(スカウト) 

 


Great Out Door Ⅱ  

 交通事故 🔝

1999.7.3-4   

 土曜日の午後3時頃でした。車の多い通りで、よく交通事故が起きたので今は押しボタン信号機がついています。その日も車が数珠繋ぎのようになって、歩くよりも遅いぐらいの速さでノロノロと動いていた。 12~13人いたでしょうか。一番前の人がボタンを押しました。暫くは待たないと「青」にはなりません。その時、ノロノロ動いていた車がピタリと止まりました。その時です。もうちょっと待てば信号が「青」になるのに、車が止まったので、一人の人が車の間を通って渡りました。「待てばいいのに」と誰かがつぶやきました。ところが、その人が通ったので、その後について小学生が二人さっと渡りかけました。「危ないよ」と声をかけだのが遅かったのです。ガチャンと音がしたかと思うと、二人の子は車の間に挟まれてしまったのです。

 「あっ」と皆が声を上げました。ノロノロの途中で止まったから、その車は横断歩道の半分ぐらいまで突き出ていました。しまったと思ったに違いありません。しかし、車がつかえているので、後ろに下がることも出来ません。

ところが、子供が渡りかけた時、2台後ろの車がどうしたことか前の車にあたったのです。ガチャン、ガチャンと音がしたかと思うと、前の車がグッと押し出されてしまったのです。幸い大きなケガにはなりませんでした。ノロノロの途中だったから良かったものの、もしスピードが出ていたら、又車と車の間がもう10cm狭かったら、どんなになっていただろうと思うと、本当にヒャッとせずにはおれませんでした。

 さて、どうしてこうなったか。誰が悪くて起きた交通事故だったでしょうか。

(朝礼の話) 


Great Out Door Ⅱ  

 出し忘れた手紙 🔝

1999.7.3-4   

 ふだんほったらかしていることを、ちょっと片付けておこうと思うことが時々あります。昨日も久しぶりに、机の回りを片付ける気になって、夕飯を済ませた後、机のそばに積んでいた雑誌や本を見ていて、気がついたのです。片付けている雑誌や本の中にその本が入っていたのです。その本は、私がいろいろ教えていただいている先生の書かれた本なのです。本ができた時早速その1冊を私に送って下さったのです。表紙を開けると、1枚の便箋が挟んであって「この本を差し上げます。読んでみて下さい」と書かれていました。私は早速その本を読んで、2~3日後にその感想とお礼の手紙を書きました。

そして、その手紙をとっくの昔にポストに入れたつもりだったのです。ところが、その手紙がそっくりそのまま戴いた本の間に挟まれたまま残っていたのです。昨日、片付けていて見つけてしまったのです。もう半年近くもほうっていたことになりす。せっかく送ってやったのに、いいかげんなやつだと、その先生は怒っておられるだろうと思うと、いても立ってもおれないような気持ちでした。私はもう片付けるのを忘れて一生懸命お詫びの手紙を書き、今日来る時何度も確かめるようにしてポストにいれました。

 物事はその場その場で確実にやることですね。

(子供の心を掴む話)

 


Great Out Door Ⅱ  

 熱いお茶 🔝

1999.7.3-4   

 日曜日の午後、私は本を読んでいました。 3時頃だったでしょうか。「お茶がはいりましたよ」という遊びに来ていた叔母さんの声がしました。「うん」と返事はしましたが、面白いところを読んでいたのですぐにやめられませんでした。「早く来ないと冷めてしまいますよ」という声がまたしました。

けれども、なかなか止められません。もうちょっと、もうちょっとと読み続け、やっと区切りが出来たので、本を置いて台所に行きました。そして、出ていた紅茶をガブッと飲んだのです。なぜガブッと飲んだりしたのかと言うと、のども謁いていたでしょうが、それよりも何時ものように、もう冷えてしまっていると安心していたからです。ところがそうではなかったのです。

ガブッと口に入れた途端に、アッチチテ・・・。その時私がどんなにしたか、どんなになったか、諸君想像がつくでしょう。散ったお茶がそばにいた家内まで掛かって、家内もアッチチテ・・・。家内も怒ります。私も怒ります。「お前が変わったことをするからだ」変わったことというのは、家内が台所の方へやってきる私の足音を聞いて、冷えたお茶と熱いお茶を入れ替えたことです。めったにこんなことはしてくれたことがないのに、きょうに限ってしてくれたので、私の調子がくるってしまったのです。さて、どっちが悪いのでしょうか。

(子供の心を掴む話) 

 


Great Out Door Ⅱ  

 拾った百円玉 🔝

1999.7.3-4   

 私はこんな相談をA君から受けました。諸君が相談されたとしたら、どう返事をしますか。

 A君は自転車で学校に出掛けました。ところが途中まで来て、習字紙を買うお金を忘れてきたことに気付きました。そこで慌てて引き返し、半分程来た時、道に百円玉が落ちているのが目につき、それを拾いました。どうせ百円ぐらい落としたといって探しに来る人もないだろう。ちょうど良かったと、そのお金で習字紙を買ってしまいました。それで忘れるともなく忘れていたようでしたが、その日の帰り道、拾った所まで来ると、フツとそのことを思い出した。するとなにか落ち着かない気持ちになったということです。ええわい。百円ぐらいと、また思ったけれ、いやな気持ちがしてならない。家に帰って勉強していてもやっぱりすっきりしない。あくる朝、学校に来る時、交番に届けました。届けると、スーツと気持ちが晴れるかと思っていたのに、届けた後も何かが残ってどうもすっきりしなかったと言うのです。

 どうしてすっきりしないのだろうか。A君は一生懸命考えた結果、どこから来るのかということが判ったのです。

 それはこうでした。届けた百円玉は拾った百円玉ではない。ということでした。百円という値打ちには変わりは無いけれども、届けた百円玉と拾った百円玉では物が違っている。困ったことをしてしまった。えらいことをしてしまった。どうしたらよいだろうかという相談でした。

 私は、「君は確かにしくじった。困ったことと言うなら、困ったことをしてしまった。しかし、そのしくじりに気が付いて、一生懸命に考えたことは偉い。そして、値打ちが同じでも物が違うということに気が付いたことは大変立派だ。もっと大きなお金でも黙って使っておいて、後で返せばいいだろうという人さえいる。君はそれを許さなかった。これは立派だ。その心さえあればよい。くよくよせずに頑張れ!」

(子供の心を掴む話) 

 


Great Out Door Ⅱ  

 たった一言が 🔝

1999.7.3-4   

 先日、知り合いの人が来るというので、駅まで迎えに行き柱のそばに立ってしばらく待っていました。駅の構内は、行き交う人で一杯でした。目の前を二人の大学生らしい青年がどちらも大きなバッグを下げて通り過ぎました。少しすると、向こうの方で大きな声がして口げんかが始まったのです。

見ると、さっきの二人の青年が立って誰かと言いあっていました。回りにはちょっとした人だかりが出来ました。「当てておいてその言いぐさはなんだ!」「なんだい、バッグが当たったぐらいでに人込みだから、当たったってしょうがないだろう!」というような言葉が飛び交いました。青年の下げていたどちらかのバッグが立っていた人に当たったのが喧嘩のもとのようでした。すぐやむかと思ったのですが、逆に険しくなりそうでした。その気配を感じて、そばにいた人が間に入りまあまあの形で済みました。当てられた人の顔も晴れやかにならなかったし、当てた方の人も険しい顔をして去って行きました。そげて見ていた人もホッとしながらも何かすっきりしない顔つきでした。たまたま私と同じように人を待っていて、その喧嘩を始めから見ていた人が、頭をかしげるようにして話し掛けてきました。

あの時、一言あったら喧嘩にならずに済んでいたでしょうに。人の前を通る時、「ちょっと失礼」とか「ごめんなさい」という一言が出ていたら、たとえバッグが当たっても喧嘩にならなかったでしょう。いや、当たってしまってからでも、「すみません」の一言があったら、あのようなことにはならなかったに違いありません。当たったと言ってもよるめく程のひどい当たり方では無かったのですから。

当てられた人がムッとしたのも、あの青年たちの態度が良くなかったんです。自分で当てておいて謝るどころか、逆に「これくらい当たったから何だい」と言ったものですから。たった一言の「すみません」がどうして言えないのかと私は思いました。

(子供の心を掴む話) 

 


Great out Door Ⅱ  

 飛騨国分寺の大銀杏 🔝

1999.7.3-4   

 大昔、高山に国分寺が建てられたころの話だ。

 国分寺の境内に七重の塔を建てることになり、飛騏一の匠といわれた棟梁がこの工事を命じられた。選り抜いた桧材をそろえ、墨つけ刻みと仕事を進めていったが、どこでどう間違ったか、柱の桧が短く刻んであった。顔色を変えた棟梁は思わず弟子たちを殴ろうとしたが、そうすればこのことが世間に知れ、飛騨の匠の名に傷がつくと考えて思いと止まった。

 だが、どうすればよいか。木組みが始まれば分かってしまうことだ。家に帰って、ふだんは何も仕事のことは話さないが、どうしたことか、ポツリポツリと問わず語りに語った。妻は「これは大変だ。夫は死ぬ気に違いない」と思った。娘の八重菊は恐る恐るこう言った。

「短い分を埋めるだけの角材で、桝組みを追って柱の上に乗せていったらどうですか」棟梁はパッと明るい顔になって「いいところに気付いてくれた。うん、それがいい」と弾んだ声で言った。

明朝、棟梁は弟子達を集めて桝組みを作るように指図した。弟子達は新しい試みで面白いと感心し、さすが俺たちの棟梁だと思った。やがて七重の塔はでき上がった。それは見事なもので、特に桝組みの工夫に感嘆の声が集まった。棟梁は、自信を持って作り上げた七重の塔のできばえの最も素晴らしいところが桝組みだと言われるようで、素直に喜べなかった。

 国分寺の完成のお祝いごとが終わった頃、娘八重菊の姿が見えなくなった。棟梁は飛騨の匠の名誉を守るために、娘が「あの桝組みはわたしが考えたの」と人々に語るのを恐れて殺してしまったのだ。そのなきがらは塔のそばにひそかに埋められ、その上に一本の小さな銀杏が植えられた。これは父親のせめてもの供養だったのだろう。やがて棟梁も旅に出たという。諸君はこの民話から何を学びますか。

(東海の民話) 


Great Out Door Ⅱ  

 小糸坂 🔝

1999.7.3-4   

 昔、昔、松倉山の北の麓に小糸という娘がいた。ある年の春のこと、小糸が山菜を摘んでいると、そこへ故人の侍がかごをお伴に近寄ってきてあたりに人影のないのを確かめると、やにわに当て身をくわせ、さっと猿ぐつわをかませると、かごの中に押し込んで、アッという間に連れ去ってしまった。

ちょうどその頃、殿様が松倉山に城を築こうとしていた。そして、町には「お城を造るために人柱を立てなさるそうだ」といううわさが流れていた。その日の夕暮れ、小糸がなかなか帰らないので、母はあちこち尋ね歩いたが何処にも見当たらなかった。ある人から「嬢さんが山菜を摘んでいるのを見かけたよ」と教えられ、心当たりを捜したが姿は見えなかった。母は毎日毎日「小糸!小糸!」と振り絞るような声で娘の名を呼んで歩いた。目をしょぼつかせ、髪を振り乱し、着物も乱れてしまったその姿は誰の目にも気が狂ったように見えた。やがてお城は立派にでき上がった。そのうちに誰が言い出したのか「若い娘がお城の人柱にされたそうな」といううわさが流れた。

 母はお城に出掛け「小糸をどこにやった。小糸を返せ!」と叫んだ。そのうちに小糸の母の姿も高山の町から消えた。誰が言い出したか「お城のご門で小糸の母親は斬り殺されたそうな」といううわさがひそかに流れた。人々は母親が嬢の名を呼んでさまよったあたりの坂を小糸坂と名付け、いつまでも母と娘の死を哀れんでいるそうな。

(岐阜の民話) 

 


Great out Door Ⅱ  

 朝六橋の宝玉 🔝

1999.7.3-4   

 昔々、ある男が幾夜も続けて同じ夢を見た。飛騨の小坂のかけ橋はどんな闇夜でも明六(あけむつ)の朝のように輝いている。それは橋の下にある宝玉のせいで、それを手にした者は大金持ちになれるというのだ。さっそく、飛騨の小坂に出掛け、橋はすぐ分かった。夢で見たように橋が光っていた。

橋の近くに宿を取り、毎日毎夜宝玉を捜した。この話を聞いた大金持ちの善兵衛さん、いたずら心を起こして職人ににせの宝玉を作らせて橋の下に置いてやろうと思った。善兵衛さんは祖父の代から家宝として伝えられた玉を思い出して、それを真似た玉を作らせた。でき上がった玉は知らない人が見たら、いや、本人でさえどちらが本物かわからない程よく出来ていて、職人には口止めして玉を受取り、夜になって善兵衛さんは早速その玉をソッと橋の下の川底に沈めた。さて、男は「今日でア日目だ。今夜見つからなかったら家に帰ろう」と又朝六橋に出掛けた。橋の上から川の中を覗いて、川の中に光るものを見つけて、胸をときめかせ、早速川の中に入っていった。「あった。あった。この玉が夢に見たものに違いない。夜でもこんなに光っているぞ」玉を拾い上げた男は明くる朝、喜んで帰っていった。その後、どういうわけか男は次ぎから次ぎへと良いことが起きて瞬く間に大金持ちになった。さて、こちら善兵衛さんうまくしてやったと、笑ったまでは良かったが、その後どういうわけか良くないことが次ぎから次ぎへと起きて、瞬く間に身代を減らしてしまった。やがて一家離散の憂き目にあい、いたずら心からかえって本物の家宝を捨ててしまうことになったのを悔やんだという。

 今でも、善兵衛屋敷と井戸がのこっていて村の人々のいましめとなっている。

(東海の民話) 

 


Great Out Door Ⅱ  

 加子母の豆の木地蔵 🔝

1999.7.3-4   

 昔、昔、ある村に嫁をいじめる姑がいた。そのいじめ方がひどいので、村の人々も見るに見かねて、言葉をかけて注意するのだが、とんと効き目が無かった。とても出来ないような難題をふっかけては、嫁の困るのをみてガミガミ言うのだった。

 ある日のこと、畑に豆をまいてこいと言って種豆を渡した。ところが、嫁が畑を耕して豆を蒔こうとしたら、それは全部煎り豆だった。余りのことにワッと泣き伏したが、しばらくしてハッと思いついたように立ち上がり、「どうかお守り下さい」と祈りながら、「百粒が一粒になあれ」「子粒が一粒になあれ」と掛け声をかけながら蒔いた。何日か過ぎて、畑に行く嫁の後をつけてきた姑は「アッ」と驚いた。全部煎った豆だったはずなのに、一粒だけ芽を出しているのがある。

 翌日来て見ると、昨日芽だけだったのがぐうんと大きくなっていた。その次ぎの日にはぐうんと大きくなって姑の背の高さになっていた。驚いたの何のと言ったって、これくらい驚いたことは姑には今まで無かった。そのうちに、目の前でその豆の木がぐんぐん大きくなって見上げるような大木となった。余りの不思議な出来事に「ハハッ」と畑にひれ伏した姑は思わず祈った。「嫁をいじめた私をどうか許して下さい」と。嫁にも今までのことを詫びて、今さらのように、自分の根性のひん曲がっていたことを悟った姑は、心を入れ替えて仲良く暮らすようになった。

 やがて、豆が実り取入れが済んで、この豆の木をどうするか相談していると、ちょうどそこを通りかかった旅の坊さんが、豆の木のいわれを聞いて心を動かされ「豆の木を私に下さらんかな」ということになった。

 やがて、坊さんはその豆の木でお地蔵さまを彫り上げた。このお地蔵さまが、加子母の豆の木地蔵で、今でも加子母の人々を見守ってござる。

(東海の民話) 

 


 盲人(めしい)太鼓 🔝

 大雨が降るとイビ川の堤がすぐ切れて、村の田や畑が水びたしになってしまった昔々の話だ。 その頃は田畑だけでなく、村の家々も水ひたしになり、何人かは流されて死んでしまった。 だから、村の人々は大雨が降ると誰よりも先に逃げたがった。

 ある年のこと、大雨の季節がやってきたので、堤の水の番を始めることとなったが、昼間は田畑の仕事が出来ず、夜は疲れて眠ることができんから、誰もが番をやりたくはなかった。

 そこである者がこう言った。 「あそこの息子は18になるが、目が見えんそうな。 この間、何かお役に立つことはないかと言うとったから、あの息子に太鼓を持たせ、渡しの堤の手前に立たせ、足元に水が来たら太鼓をたたいて知らせてもらおうと思うんだがどうだろう。 私達は太鼓の音が聞こえたら逃げる準備をするんや」「私達が逃げるのはいいが、盲人(めしい)はどうするんや」「そんなこと心配しなくてもよかろう。 相手は18やで、適当なころを見計らって逃げるやろ」こんな話し合いがあって、わずかの銭と米で雇われて、目が見えないばっかりに渡しの夜の番をさせられた。

 ある日のことだ。 大雨続きやから今夜あたり堤が危ないぞと、村の人々は言い合っていた。盲人には川の水が無気味な音を立て流れ、段々水量が増えてくる様子が分かった。 やがて、堤の上を水が越え、川の水が足元を浸し始めた。

盲人は首から下げた太鼓をバチを右手に構えると力をこめてたたいた。

 太鼓の音を聞いた村の人々は大急ぎで逃げる支度を始めた。 にげる先は村のはずれの小高い山だ。 (まだ私は逃げるわけにはいかん。村の人々から何時も銭や米を貰って食わしてもらっているのだから、もう少し頑張ってみよう。 逃げるのはそれからでも遅くはない)と考えて太鼓を叩き続けた。

 村の人々は逃げたが、盲人が逃げる決心をした時、堤が切れてアッという間に流されてしまった。 何日か後に川下で太鼓とバチをしっかり握った若い男の死体が上がった。 その後、川の水が増えると渡しの方から太鼓の音が聞こえてくると言う。


 はだか武兵 🔝

 

 昔々、中仙道に「はだか武兵」と呼ばれる雲助がいた。いつもふんどし一つのなかなかの力持ちで、大酒飲みの暴れん坊で、誰も恐れをなして近寄らなかった。 ある日のこと、木曽からの帰りの遅れた武兵が須原でちょうどあった神社の床下に潜り込んで野宿することにした。寝てしばらくすると、誰か知らんが武兵を起こした。 よく見ると白いひげをはやした老人だった。「お前さんは誰やね」「わたしは疫病神じゃ、疫病神の中でも病気をうつして歩く役なんや」「ところで、お前俺と組んでこれから暮らしていかんか」 武兵がポカンとしていると疫病神はこう言って誘った。俺がどこぁの家に入ったら、必ず病人が出る。 そうしたらその家にお前が来る。わしはその家を抜け出す。「病人は治るというわけじゃ」(へぇ、不思議なこともあるもんじゃ、ひょっとしたらいいことがあるかも知れない)そう考えた武兵は「よっしゃ、承知した」と返事した。

 明くる朝、厄病神はもう居なかったが、中津川の宿に向かい、途中で知り合いの雲助に会い、よく知っている雲助仲間が今朝から急に病気でウンウンうなっておると言う話を聞いた。

早速その仲間の家に行き、武兵がその家に入ってしばらくすると、「おお、武兵か。お前が来てくれたら、何か知らんが急に気分がよくなった。「武兵は心の中で(あの疫病神の言ったことはこのことかな)と思った。

そんな事がその後も何度かあったので、中津川の宿では「はだかの武兵は病気を治してくれるそうだ」と評判になり、それはもう大忙しじゃった。

 ある日宿場で、ある殿様の姫君の病気をふんどし一つの武兵

が治した。 お付きの侍達は大喜びで「欲しいものは何なりと申せ」と言ったが、お礼を欲しがらず酒の飲みしろだけ貰って帰った。このうわさはたちまちに街道筋に広がり、益々「はだか武兵」の名が上がり暴れん坊ぶりも治まり、誰からも「武兵どん」と愛された。

 今では中津に「はだか武兵」の碑が建って参詣する人が絶えない。

(東海の民話)

 


 おまむ桜 🔝

 

 昔々、郡上八幡に小瀬次という若者がいた。 毎日魚を売って歩くのが商売であった。 長滝のお寺の花奪祭りに招かれた小源次はお寺の一人娘おまむと知り合い、若者同士のことで身分の違い気にしなかった。やがて二人はもう一度会う場所と時間を決めて別れた。 やがて二人はどんなことがあっても別れられない程恋し合うようになった。村中の評判になり、とうとうおまむの親の耳にも入ってしまった。 明日は花奪祭りという日、小瀬次はやしろの前の桜の本の下でおまむを待った。

二人で決めた時間になってもおまむは来ない。 こんなことは今まで一度も無かった。 先程からちらついていら雪におまむの身に何かが起こっなのかと思ったけれども、おまむがしばらく寺に来てくれるなと言ったことを思い出し、寒さに凍えそうになる身体の雪を払い退け,おまむはきっと来ると信じながら、じっと待った。

小源次の足元から少しずつ雪の中に隠れていく。その頃、おまむは小源次との仲を知られてからは身分違いを理由に「別れろ。別れなさい」と毎日責められていた。 とうとう今日は会いに行くのを見つかってしまい,厳しく叱責されていた。 雪は降り続いている。 おまむは思いあまって「小源次が待っているから、お願いです。 今日だけ行かせて下さい」と頼んだが、「この雪だ、侍っとるはずがないjと拒まれ、夜まで部屋の外にも出られなんだ。 明くる朝、村の一人があわてふためいてお寺に駆け込んできた。

「小源次が、小源次が、桜の木の下で雪に埋もれて死んどります」 それからしばらくして、小源次が死んだ桜の木の下でおまむも死んだ。 小派次が死んだ後のおまむの姿は誰の目にも涙を誘ったそうな。

(越美宿縁の北濃で下車、長滝白山神社を経ておまむ桜に至る)

(東海の民話) 

 


 感心する 🔝

 

 君達ば何時ものように、今こうして隊長の話を同じように聞いている。 

「なかなかいいことを言うなあ」と感心して聞いているスカウトもいれば、「なんだ、つまらないことを言うなあ」と思うスカウといる。

 それは人それぞれだからどちらでも楕わない。 しかし、どちらが好ましいかというと、勿論話の内容にも依るだろうが、「いいなあ」と感じるスカウトの方により多く、その聞いた話の内容から自分に役立つような何かヒントを得て、新しい発想をするといったようなプラスの価値が生まれてくるだろう。 これはちょっとしたことだけれども、人生とか、仕事の成功するか否かのカギは案外こうしたところにあるのではないかと思います。 人の話をよく聞いて、自分が学び取ることはないかと、何時も考えていれば、こうしたことも出来ると思います。

 人の意見を聞いてそれに流されてはいけないが、お互いに誰の意見にも感心し学び合うという柔軟な心を養い高めていきたいものである。

 君達はそう思いませんか。

(一日一話) 

 


 失敗を素直に 🔝

 

 たとえ、どんなに立派なしかも偉大な仕事に成功したという人でも、何の失敗もしたこと・がないといった人はいないと思います。 事に当って、いろいろと失敗してはその都度そこに何かを発見し、そういったことを幾度となく体験しつつ、だんだんと成長していき、ついには立派な信念を自分自身の心にしっかりと植え付け、偉大な業績を成し遂げるに至ったのではないでしょデか。 エジソンや湯川秀樹博士等もそうだったと思います。 ここで、大切なことは何らかの失敗があって困難な事態に陥ったときに、それを素直に自分の失敗と認めていくということです。 なかなか自分の失敗を認めることは困難であり、勇気のいることです。 勇気をもって、失敗の原因を素直に認識し、「これは非常にいい体験だった。「尊い教訓になった」というところまで心を開く人は後日進歩し成長する人だと思います。

どうしたら人間として成長し続けることが出来るか考えてみよう。

(一日一話) 

 


 なすべきことをなす 🔝

 

 「治にいて乱を忘れず」「喉元過ぎれば熱さを忘れる」、ということわざかある。

 太平・平和な時でも、非常時に備えて、物心ともに準備を怠ってはならないということで、私達スカウティングに志す者には極めて大切々心構えである。

 そうは言っても、人間というものはとかく自分の周囲の情勢に流されやすい。 自分の行動を考えてみると、他のスカウトの行動に左右されて自分が行動していることがありませんでしたか。 治にあれば、治におぼれ、乱に会えば乱に巻き込まれて自分を見失ってしまいがちである。

そういうことなしに、常に信念を持って主体的に生きるためには、やはり心静かに、「我何をなすべきか」を考え、そのなすべきことをひたすらになしていくことが大切である。 我々は唯「なすべきことをなす」ということをひたすら実行しようではありませんか。 我々のなすべきこととば「ちかい・おきて」の実践なのです。

(一日一話) 


 春を食べる 🔝

 

 春は生命の活動が活発になる季節です。

 野山で木々が芽をふき、柔らかい若葉が成長していきます。冬の間じっと耐えていた植物たちが、大地のエネルギーをその体いっぱいに受けて太陽のもとに顔を出します。

 春は「生命」「生きる」ということを考える絶好の季節でもあるのです。 私達人間は他の動物とたちと同様、ものを食べ無ければいけません。 しかし、この「もの」とはなんでしょう。 これは「生命」、に他ならないのです。いただいた「生命」は血となり肉となって私達白身の「生命」を生かしてくれているのです。 君達がハイキングやキャンプで見つけた野草を自分で料理してみるのは素晴らしいことだと思います。 林のかたすみにひっそりと葉を広げている野も、大地から水と養分を吸い上げて躍動する「生命」を持っています。 じっと目を凝らして見ましょう。 それは君達白身の姿でもあるのです。

 「生命」をいただいて自分を生かし、その自分をまた世の中に返していく。それが他の「生命」を生かすということでしょう。 そして他の「生命」と自分の「生命」を一つのものと見ることが出来たら、そこに仏というものを感じることが出来たと言えると思います。 何かややこしいことを言っていると思われるかも知れませんが、決してそんなことはないのです。

 料理の材料となる「生命」の、一つひとつを大切にし、生かそうという気持ちさえあれば、自然にわかってくることなのです。

 おいしくいただく方法さえ、そのものが教えてくれるのです。

(スカウト) 

 


 報 告 🔝

 

 君達は何かを命じられて使いに行き、帰ったら「あれはこうこうでした」と、必ず報告しているでしょうか。

 何か問題が起こったという場合はもちろん、何事も無かった時でも、何も無かったのだから報告なんかしなくてもよいと考えるのではなく、まずほうこくする。

 また、それがいい結果であったら、それはそれで報告する。 そうすると、報告を受けた方も「それはよかったな」と非常に愉快になるし、安心もします。

 打てば響くというか、以心伝心というか、肝胆相照らす仲であれば、命じた人め気持ちを察して必ず自分から報告するものです。

 こうしたちょっとした心掛けからお互いの信頼関係や信頼感も生まれてくるのだと思います。

(一日一話) 

 


 富士スカウトを目指して 🔝

 

 富士スカウトになった正田君は次のように言っています。 

 富士山は日本で一番高い山ですが、登るには決して難しい山ではありません。 ボイイスカウトの「富士スカウト章」も級としては一番上ですが、取得するのは決して難しくないと思います。 富士も進級章の一つに過ぎません。 ただ、登山でも一歩一歩歩いてゆかなければ頂上に立てないように、スカウト活動でも地道に続けることが必要です。 シニアースカウトになると、ボーイスカウトの時と異なり、自分で自分の進級の計画を立て、それに合わせて自分のプログラムをつくらなければなりません。 しかし、学校のクラブ活動に参加している人もあると思います。 だから、自分の意思をよほどしっかりと持っていないとスカウト活動に全く参加出来ないということになってしまいます。

 私は登山部に入っていたから、普段の日はトレ一二ングをし、2ヶ月に一回は土日と、夏休みには1週間ぐらいの合宿があった。 勿論ボーイの集会と重なることは度々ありましたが、可能なかぎりどちらにも参加するように努力しました。 特に学校のクラブの方を欠席する時は、ボーイスカウトの活動があるからとはっきり言い、どんな活動をしているかを一生懸命に説明した。 お陰で、初めは「ボーイスカウトなんて」という顔をしていた人も最後には判ってくれたようです。 スカウティングとクラブを両立させるにはかなりの決心が必要です。 私も途中でクラブをやめようと思ったこともありますが、今では続けてよかったと思っています。

 私が富士の個人プロジェクトをやり遂げることが出来たのも、クラブを続けていたおかげだと思います。

 スカウティングとクラブが車の両輪のようであった高校時代は本当に有意義なものでした。

 何事にも徹底的に取り組むことです。 そうすれば、富士スカウト章も無理なく取得出来ると確信しています。    

 (スカウト) 

 


 約 束 🔝

 

 ある日、一人の人が旅行をしている時のことでした。

 母に手を引かれた一人の女の子と出合った。 その女の子の目に止まったのが旅行者の持った美しい鞄である。 女の子は母親にそのカバンが欲しいと言って、だだをこねてそこを動こうとしませんでした。 その姿を見た旅人は困り果てて、「お嬢ちゃん、このカバンの中にはいろいろな物が入れてあるから、今貴女に上げることは出来ません。 しかし、明日貴女の家に持っていって上げますから、今日は辛抱して帰って下さい。」と言いました。  女の子は始めしぶしぶでしたが、「それなら、必ず明日持って来て下さい」と言いますので、その人も持っていく約束を堅くしました。

 さて翌日その人は約束通り女の子の家にカバンを持っていきましたが家の様子がおかしいので、そっと付近の人に訪ねますと、昨日の娘は帰りしなに事故にあい亡くなったと言うことです。 そこに母親が出てきて「昨日は大変ご迷惑を掛けて申しわけありませんでした。 ご覧の通り娘は死んでしまいましたから、そのカバンはもう結構です。 どうかお持ち帰り下さい。そのお気持だけで充分です。」と言いました。

 旅人は「娘さんが亡くなれれて非常に残念です。 しかし私は昨日娘さんに今日持って来ると約束しました。 どうかどうか仏前に供え、出来ましたならば柩の中に入れてあげて下さい.。約束は約束ですから。娘さんは亡くなられても、私は活きていますから約束を忘れることは出来ません。と言ってカバンを供えて合掌をしました。

 人が約束していても、ごまかしで約束を守ろうとしない人が多い世の中の人が多い世の中です。

 スカウトとして約束を守らないのは大変恥ずかしいいことなのです。 はじを知る者こそスカウトなのです。

 神様や仏様は全てを見ておらjれるのですが。

(スカウト夜話集) 

 


 母の教え 🔝

 

 一男君が学校から帰って来るなり母の前に座り込んでこう質問しました。

 「学校で先生が『お猿さんは人間より三木毛が少ないと云われていますが、お猿さんに無くて、人間だけにある毛とはどんな毛ですか?』って、お母さん教えて」母は暫く考えていましたが、やがてニコニコしながらこう話し出しました。

 「人間にだけあってお猿さんにない一本目の毛はネ、それは「しつけ」という毛なんですよ。 靴をきちんと並べる。食事の前に手を洗う。 こういったきまりをしっかり守ることを「しつけ」と言うのです。お猿さんは物を食べる時も手を洗わず、又人の前でも恥ずかしいことを平気でしますネ。 それはお猿さんには「しつけという毛がないからなんです。人間には『しつけ』という毛があるから、一男もこの「しつけ」をよく守ることによって、自然と美しい身になることが出来るから、漢字で「躾」と書くのですよ。

 お猿さんに無くて人間にだけある二本目の毛は「なさけ」という毛です。 他の仲間がおなかをすかせていても、自分の食べ物を分けてやろうとしません。 分けるどころか弱い仲間の分まで横取りして食べてしまいます。 休の調子の悪そうな元気のない猿がいても、平気でいじわるをします。  それはお猿さんに「なさけ」という毛がないからです。

 三本目の毛は「やりとげ」という毛です。 しつけを守り、なさけある立派な人間になるんだ!と決心したら、それをやりとげるごとですよ。 お猿さんは何でもやりっぱなしで、いつもキョロキョロとあたりをみてばかりいます。 人間は一度決心したら必ず「やりとげる」努力をすることが大切です。 先生はきっとこの三本の毛のことをおっしゃっているのですよ」と。

 スカウトの諸君、もう一度よく考えて見よう。

 ちかい・おきてを守っているでしょうか?

 果たして自分はお猿さんより立派でしょうか?

 


 幸 せ 🔝

 

 私達は幸せを求めて日々努力して暮らしています。

 「ちかい・おきて」も全てこの幸せを目標としています。

 今自分は幸せだ、と考えている人が何人いるでしょう。 もっと幸せになりたいという人もあるでしょう。 又、今の幸せを忘れて、何と自分は不幸なんだろうと悲しんでいる人が案外多いかも知れません。 人からは幸せそうに見えるが、幸せでない人、いつも不平・不満を.言い、感謝の気持を素直に言えない人、自分の幸せを全く感じない人等様々です。

 幸せとは何でしょう。

 1.健康であること

 2.経済的に自由であること

 3.好きなことが出来ること

 4.希望がかなえられること

 5.親しい友達を持っていること

 その他数えあげれば切りがありませんが、すべて順調にいっているー恵まれている一物が満ち足りているーという満足と感謝の気持からくる言葉で、ほんのささやかな、たあいのない充足感であると思います。

 私は幼い頃眼の不自由な人達とごく身近かに住んでいましたので、幼な心に眼の見えないことがどんなに大変なことであるかを知っていました。

 皆も知っているヘレン・ケラー女史は眼も見えず、耳も同こえず、口もきけない三重の苦しみを克服して他人の言葉を聞くことを学び、自分で語る喜びを知り、その上に社会事業に一生涯を捧げた立派な方です。 その明るい顔からは何の苦しみも悲しみも感じさせない美しい徴笑みがみちみちています。

 人間、五体満足であれば・・・とよく言いますが、全て満足

であっても不幸な人もいれば、三重苦を克服してなお人のために奉仕する喜びを持つ幸せな人もあるということを考え合わせて、じぷんの幸せを見出してほしいと思います。

 


 道 🔝

 

 ある時、スカウト達が春の山行きを計画した。

 目的の山はそう高くはない、 新入隊員歓迎の意味もあって、楽しいキャンプファイヤーをその山の中でやるつもりだった・     

 土曜日の午後出発、暮れかかった山道を元気よくスカウト達が登った。 綿密にたてられた計画通り、夜の5時には小川のほとりの杉と雑木林の中にテントが建てられた。 わいわいがやがやと夕食。 そして火を囲んで共に夏の計画や、学校のこと、友達のこと等話し合った。

 翌早朝出発。 家路についたがあいにくの霧。 リュックにブツブツと水滴がつく。 おまけにしっとりと濡れたテント。 肩が痛い。 尾根を歩いていたつもりだが、いつの間にか谷に降りていた。 班長がビニールめはった地図を見て、コース係に間違っていないかを聞いた。よく分からない。 とにかく進もう。 やがて何処からともなく湧いてきた水が流れとなって足元を洗い、道も無くなってしまった。 石ころと水とブッシュの中をかきわけて進む。 そして3時間、やっと出合いに出た。

 改めて地図を見たら、やはり間遠っていた。 ひどい目にあったと皆がブウブウ言う。 だけど、今歩いてきた道が石ころのけわしい道だったとしても、そして予定していた道では無かったとしても、楽な小鳥の声を聞きながら歩ける尾根道では無かったとしても、やはり歩いたのはその道だった。

 たとえ間違ったとしても、自分の足で歩いた道が谷筋の道だった。 だが、誰もが「もし霧が出なかったらすんなりと尾根を歩いて予定通り帰ってこれたかも知れない」と思ったことだろう。

 しかし、道を間違えたのは霧のためでも何でもないことをまず気付かねばならない。 そこから、スカウティングが始まる。

 我々は顔や家が皆遠うように、進む道も遠うでしょう。 

我々の歩いていく道、人間の生きていく道もこれと同じではなかろうか。

 


 上中野の「孝行息子」 🔝

 

 岡山の町に市村三蔵という先生が開いていj有名な書道の塾がありました。

 「文は人なり」とよく言われますように、作文を読んだだけでその作者の人柄が判るものですが、それにも増して書かれた文字の善し悪しでその文字を書いた人の人柄が一層よく判るものです。

 だから、市村塾へは毎日たくさんの生徒が通っており、その中に黒住権吉という生徒がおりました。

 権吉君は日頃おとなしく勉強好きで時間いっぱい熱心に習字をしていましたが、どうしたことか決まったように下校時になると、いそいそと家へ帰るのでした。 何か訳があるに違いないと、ある日先生が「権吉君、君は帰る時間がくるといつも帰りを急ぐが、帰りばかりを気にせず、もっと落ち着いて勉強してはどうかね」と注意されました。 すると、「先生・・・口答えをするようで申し訳けございませんが、実は僕が帰る頃には、お母さんが毎日門先で僕の帰りを待っていて下さるのです。 少しでも遅れると心配されますので、お母さんに安心して戴くために帰りは決まった時間に帰ることにしています」

 それから、誰言うともなく、「上中野の孝行息子」という評判が立ち、後に殿様からおほめを戴きご褒美にあずかったと言うことです。

 この権吉君はのちに神道の一派黒住教の教祖となちれた「黒住宗忠」と申す方なのですが、深ぐ太陽を信じ、丸く明るくあの太陽の心を心として人を生かし世を救う立派な人となられたのです。

 


 調 和 🔝

 

 君達はハイキングやキャンプに行って山の泉を見つけて水を飲んだ経験があるでしょう。

その泉の水が落ちる所に穴ができて、たいてい水溜りになっています。 したたる水の量が少ない時は、その水溜りから水をすくって飲みます。 その時、枯葉や泥が底に沈んでいても少しも汚いとは思いません。 濁らないようにそっとすくって飲みます。

もし、ご飯粒やカレーライスの残り等が沈んでいたりすると汚いと思います。 何故でしょう。 

 カレーライスは食物で彼はは食べ物ではないのに。  もしカレーライスがお皿にもってあれば汚いとは思わないでしよう。 枯葉が食卓の上やお皿の中にあったら誰でもすぐ取り除くでしょう。 それは何故なのでしょうか。

 周囲の環境との調和ということなのです。 山の中に枯葉があり、泉のそばに生えている木から枯草がヒラヒラ落ちれば、あるものは泉の水の中に落ちるのが自然です。 それを人間は直感的に感じます、環境にマッチしているのです。 私達は自然の世界から「調和のあり方」を学びます.        

 食卓の上にご飯粒があるのはごく当然です。 それが泉の中にあるのは自然ではないのです。 人間が手を加えたからなのです。 あるはずの無い処へ、人間が捨てたからです。 あきかんでも紙屑でも同じです。 周りの自然の環境に調和しないものは汚いと感ずるのです。 人間に不快感を与えます。他人がどのように感じるだろうかとい思いやりなしに、自分勝手にふるまうことから公害が起こるのです。 あきかんや紙屑々山の泉のご飯も公害の一種なのです。

 我々スカウトは自然を愛し自然から学びます。

 だから、自然の調和を壊さないようにそれを守り、そこから多くのことを学ぼうではありませんか。

 


 ブラッドレ一の請求書 🔝

 

 ある朝、ブラッドレーが二階の自分の部屋からおりて朝食のテーブルに着いた時、お母さんのお皿の中に丁寧に巻いた一枚の紙を乗せました。 お母さんはそれを開いて見ましたが、とてもそれを本当だと信ずることはできませんでした。 ブラッドレーの書いたものは次のような請求書だったのです。

 お母さんのブラッドレーからの借り

  お使い賃         200円

  お掃除した代       100円

  音楽の稽古に行ったご褒美 200円

      合 計      500円

 お母さんはにっこり笑って何もおっしゃいませんでした。 そして、昼食の時、ブラッドレーのお皿の上に500円を乗せてやりました。ブラッドレーはそれを見て、自分の取引の才能がすぐに報いられたことを考えて喜びました。

 けれども、お金と一緒に一枚の請求書がありました。 それには次のように書かれていました。

 ブラッドレーのお母さんからの借り

  親切にしてあげた代    0円

  病気した時の看病代    0円

  服や靴や帽子の代     0円

  食事と部屋代       0円

  ブラッドレーの借りの合計 0円

 これを読んだブラッドレーの目には涙が一杯になりました。 そして、お母さんの所へ走っていき、「お母さん、このお金をとって下さい。 そして、お母さんのために何でもさせてください。」と言いました。

(小学校道徳の指導資料) 

 


 ホームシックとモールス 🔝

 

 諸君はこの野営にきて家のことを考えましたか。

 野営していて家に帰りたくて帰りたくてどうにもならないような心の苦しみを味わったことのある人が多いと思います。

 何故私達はそんなに家のごとが心配なのでしょうか。 

よく考えて見ましょう。

 (1)私達がここに来ていることは家の人もよく知っています。

 (2)実は私達が家のこと、家にいる小鳥や犬のことが心配になり、両親に会いたいと思う心は決して恥かしいことでばありません。

 けれども諸君は何のために来たかという事をよく考えてみなければなりません。そして、家が恋しい、両親に会いたいという気持ちを作文に書いてみるのです。 文に書いて読んでみると、自分がちょっぴり弱虫であったナと判ります。 そんな弱虫になるために諸君はここに来たのではないですネ。

 アメリカにサミュエル・モールスという画家がいました。 彼は勉強のため、アメリカからヨーロッパに渡りましたが、お母さんに会いたくて仕方がありませんでした。 無事着いたという便りもヨーロッパから300マイルも離れたアメリカでは3ヶ月も掛かります。 今すぐお母さんと通信出来たらどんなに素晴らしいだろうと思うと矢も盾もたまりません。 彼は考えに考えたあげく電信機を発明しました。 お母さんと話したい一ーというホームシックネスによって素晴らしい発明をしたのです。 モールス符号は彼の名前をとってつけたものです。

 悲しい時、さみしい時、家の人に会いたい時、私達ぱもう一度よく考えてみましょう、 お母さんだけに判る秘密の手紙、英語の手紙、モールス符号の手紙等いろいろ書いてみましょう。

 そして、班長や隊長・リーダーに相談すれば、きっと君の心に一番必要なものを与えてくれると思います。

 


 パウロの道 🔝

 

 ユダヤ人である若者サウロはダマスコに向かって歩いていた。 人を殺そうと心に決心して歩いていた。

 人を憎しみながら歩いていた。

 人しかもキリスト信者を憎み殺すことが神様に最も喜ばれることだと本気で考えていたのである。

 間違っている道と知りながら、間違った道を行く人もいる. しかし、一番悲しいのことは間違っていることを正しいと思ってやっていることだ。 人間は誰でも道に迷い、道をふみはずすことのあるものだ。

しかし、迷ったと思った時、迷った所まで戻って、もう一度考えれば正しい道を歩くことが出来るということを諸君が真のスカウトである限り知っていると思う。

 人間の歩む道もその通りである。 しかし、問題は何時・何処で正しい道に立ち返ることが出来るかということである。

 サウロは人を殺そうとと考えて歩いていた。

 突然天から強い光がさし、サウロは目をやられて落馬した。

そして、天から声が聞こえた。 「サウロ、サウロ、どうして私を迫害するのか」と。

 サウロは声の主が十字架につけられた主イエス・キリストの声だと知った時、眼からうろこのような物が落ちた。 その時からサウロは主イエス・キリストによって開かれた道を歩くようになった。 しかし、人々の前で道を説くようになるまでには3年もかかった。

 サウロを巡り照らした光が私達に本当の道を示している。 サウロがパウロとなったように、私達もこの光によって正しい道を歩むのである。

 「ひかりは闇の中に輝いている。 そして、闇はこれに勝てなかった。」

 


 ポケットの中 🔝

 

空地では大勢の子供達が遊んでいた。

逃げる者、追う者、輪回しをする者、それぞれ思い思いの格好で、子供達は元気一杯でした。 

 そこへ、一人の老人が通りかかりました。 老人は優しそうな目で、暫く子供達を見守っていましたが、何に気付いたのか「ハッ」としたように、注意深く空地のあちこちを歩き始めました。目を地面に落とし、腰をかがめて熱心に何かを捜し歩きました。そして捜し物が見つかる度に、それを拾ってポケットの中に入れるのでした。 程なく、二つのポケットはずっしりと重そうに一杯になりました。 老人は両手でそれを押さえながら、「さあ、これで幾分かは救われようというものだ」とつぶやくと、まだ遊びに夢中の子供達に、目をやってから、ようやく空き地を後にしようとしました。        

 その時、むこうから、警官が近付いて来ました。 警官の目は、ポケットを膨らませた余り身なりの良くない老人の姿に鋭く注がれました。 警官はつかつかと老人のそばに寄ると、緊張した顔でポケットを指差して、「その中に何が入っているのかネ」と尋ねました(どこかでぬすみを働いたのか.)と、疑いを掛けているのでした。 けれども老人は心から愉快そうに「なあに、お見せする程の物ではありませんよ」と答えましたが、悪人では無いらしいとは判ったが、でも心の底に残っている不信の思いを正さないと、気の済まない警官はもう一度声を厳しくして、「何でもよいから見せなさい」と執拗です。 老人はすっかり困って、しぶしぶポケットから問題の品物を取り出しました。 なんと、それはガラスのかけらでした。 出るわ出るわ、様々な形をしたかけらが。 老人と警官の両手に一杯になりました。

 この老人こそ、愛の教育者としてその生涯を貧しい子供達のために捧げたペスタロッチだったのです。

 (小学校道徳の指導資料) 

 


 山の危険 🔝

 

 雪崩、吹雪、せっぴ、嵐、落雷、夕立、クレパス、苔、草付き、浮き石、落石など、山の危険は数えあげられぬ程多い。 しかも山では当り前のことばかりである。 しかし、それだから山が危険だとは言えない。

 これらの危険を避けずに山に登ったとしたら、それは登山ではなくて自殺行為である。 

 では、本当の山の危険とはどこにあるだろうか。 それは自然と人間との間のバランスが崩れた時に発生するのだ。 危険は山そのものにあるのではなく、実は登る人間の中にあるのである。

 「魔の山」という言葉があるが、これ程勝手な呼び方はない。山はあくまでも美しく、ただあるがままの姿で存在しているのに、登る人間が自分の不注意から勝手に遭雖したり、死んだりしたあげく、山に責任を押し付けて「魔の山だ」といっているのだ。魔は人間の心の中にこそある。そんな遭難も身からでたサビで、山に責任はない。

 「敵を知り、己を知らずば百戦危うからず」という言葉があるが、これは戦争のことばかりではなく、現代の登山のことにも生きている。山を知り安全に登るためには気象や雪崩等について必要最小限の知識だけでこも身につけておくべきである。いずれも専門家の書いた複威ある本が多く出版されているから併せて読んでおかれることを薦めます。

 備えよ常に

(登山技術) 

 


 二つの漂流物語 🔝

 

 1816年7月、フランスの軍艦メデューズ号がアフリカの西海岸で暗礁に乗り上げた。 軍艦といっても三本マストの帆船です。147人の乗組員は急ごしらえのいかだに乗り移った。 それは長さ20m、幅7mの大きなものでした。 それから15日たって、アルギュス号に救われた時、生きていたのは147人中たったの9人であったということです。 どうしてでしょうか。喉が渇き、腹が減った乗組員の中でジャンシャールという水兵が仲間の死体から一切れの肉を切り取り日光に乾かして食べ始めたところ、皆が真似をし、しまいには殺し合いになった。 水も食糧も少しは合ったのですが、自分だけ助かろうとしてこうなり、船長でもどうすることも出来ませんでした。

 1813年10月、尾張の船頭重吉は1200石積みの督乗丸に乗って江戸で商売をして帰り、御前崎の南方海上で暴風雨に会い、13人の仲間と1年5ヶ月も漂流した。 ホーストン号に救われた時生き残ったのは3名でした。先導重吉は熱心な仏教の信者で病気になった乗組員を熱心に介抱しました。  

 この9人のメデュース号の生き残った人々と3人の督乗丸の生き残った人々の生きた態度には天と地程の違いがあります。 たったの15日と1年5ヶ月です。 この違いはどういうわけでしょうか。

 人間ば平素ば何事もなく過ごしており、その本当の姿は隠されていますが、死ぬか生きるかというような時、平素随されていたものがはっきりします。 目に見えないもの、人生の尊さを自分めこれからの生活の上に築いていくのは、諸君が毎日をどう過ごすのか、どう生きるのか、つまり今、何を考えて生きるかということによって決まります。

 


 アンノン・ソルジャー 🔝

 

 それは第二次世界大戦(大東亜戦争)もたけなわの頃、太平洋の真ん中のマーシャル群島(南洋群島)のある小さな島で、小部隊の日米両軍が、どちらも全滅にひんするまでの戦いを繰り返していた頃のことである。

 重傷を負って苦しんでいる一人のアメリカ兵の目に、一人の日本兵が銃剣をふりかざして突込んでくるのが映った。 しかし、彼は重傷を負っており、身動き一つ出来ず、そのまま目を閉じました。 その時、彼は無意識のうちにボーイスカウトの三指の敬礼をしたまま気を失ってしまいました。 彼は子供の時から熱心にスカウト活動を続け、又戦争まではスカウト達のよき指導者であったから、死ぬに当り無意識のうちにそうしたのであろう。

 それから、数時間が過ぎた。 彼がふと我に返った時、どうしたことか、傷には立派に応急手当がしてあった。 そして彼のそばには小さな紙切れが小枝に挾んであった。 彼はその紙切れを取ったが何が書かれているのか判らなかった。 そこに、アメリカの赤十字隊が来て、紙切れを握ったままの彼を野戦病院に運んでいった。 落ち着いて紙切れを読んで貰うと、それにはこう書いてあった。

 「私は君を剌そうとした日本兵だ。  しかし、君が三指の礼をしているのを見て、私もまた子供の頃、日本のスカウトだったことを思い出した。 なんで私に君が殺せよう。君の傷は応急の手当をしておいた。 グッド・ラック!」

 戦争が終わり、そのアメリカ兵は帰国して、父親と共にアメリカのボーイ・スカウト本部を訪れ、「息子はスカウトのために救われた。 命を救ってくれた日本のスカウトを捜してほしい。」と、寄付をし、依頼した。アメリカから日本に来た人達からその話が伝えられ、せがまれるままに私どもも各県に頼んで捜したが、未だに誰もそれらしい人が名乗ってでてない。戦死しているのではないか。 

(音なき交響楽) 

 


 アンノン・スカウト 🔝

 

 1909年の或る冬の夜の濃い霧があたり一面を閉ざしていたロンドン郊外の小さな駅前でのことである。

  アメリカ・シカゴの有名な出版業者ウィリアム・ボイスさんは片手に大きな旅行鞄を下げ、片手に行き先を書いた地図の紙切れ棄持って、汽車から降りたものの、日はとっぶりと暮れてロンドンの霧は深くなるばかりで、どう行ったら良いか判らず途方にくれていました。その時、霧の中から一人の少年が現れたので、早速道を尋ねますと「私が、ご案内しましょう」と、鞄を取って、さっさと先に歩き出しました。すぐに目的地に着いたので、喜んだボイスさんはポケットから1枚の銀貨をだして、その少年に与えようとすると、「私はボーイ・スカウトです。 お礼は戴きません。 今日は私に善行をさせて下さってありがとうございました。」と言って、にっこりしながら霧のの中に消えていきました。

 ボイスさんは驚きました。 アメリカにはこんな時、チップを辞退して逆に礼を言う少年はいない。 それにしても、如何にもキビキビした明るい可愛らしい少年だった。 あの少年がボーイ・スカウトと言っていたが、それは一体なんだろう。ボイスさんは友人に聞いてみました。 すると、それは近頃、ベーデン・パゥエル卿が始めた少年のための運動だと判った。 彼はベーデン・パゥエル卿にも逢っていろいろ話を聞いて益々感心して、ボーイ・スカウトの書物を買いこんで帰国しました。 

 ボイスさんはトムソン・シートンやその他の人々とも語りあってス力ウト運動を始めました。 瞬く間にアメリカ全土に広がりました。 アメリカが正式にボーイスカウトを発足したのは1910年2月8日のことであった。

(音なき交響楽) 

 


 生存のための基本的な道具 🔝

 

 もし、誰かが君に向かって、君はこれから飛行機でカナダの大平原に連れて行かれて降ろされることになっており、持っていく道具を。一つだけ選ぶことが出来ると言われたら、君は何を選びますか。 銃か、ピストルか、その他同じような武器だろうか? テントか又は寝袋ぱどうだろうか? 或は又1箱のマッチが一番必要ではないだろうか。

 経験を積んだ樵(きこり)はこの質問を受けて、ちゅうちよすることなく「私の使い慣れた斧を持っていく。」と答えた。 斧で身を守り、小屋を作り、食糧を獲得するためのワナや、釣具を作る材料を準備することが出来る。と彼は言った。 彼の斧の鋼鉄はその地域の岩にぶっつけても火花を出し、必要な火を起こすのに使われる。 驚ぐべき発明や道具が満ち溢れている現代社会で、簡単な一振りの斧でこれら総てをやることができ、私達が生き残るのを保障しでくれる。とも彼は言った。

 斧が経験を積んだ樵(きこり)にとってこんなにも重要なじのであるとすれば、我々はもう少しそれを尊敬し大切にすべきではないか。その正しい使い方、保管手入れの仕方、そしてそれを非常の際に備え、いつでも研ぎ澄まして鋭くしておく方法を学ぶべきではないだろうか。

 樵(きこり)が「私の斧」と言った時、それは「いつも使っており、それはピカビカに研ぎ澄まされており、柄にしっかりと付けられ(いつでもどんな仕事にも使うことの出来る斧」のことを言ったのである。

 これらの条件に満たない斧は余り役に立だない。

 我々は自分の斧がいつでも使えるように必ずしておこうではないか。

(U.S.A連盟 BS隊活動集) 

 


 彼はうなずいた 🔝

 

 毎日の散歩の道すがら、途中のある汚い通りを通っていた私は、汚れた顔をして発育の悪い小さな男の子がバナナの皮で一人で遊んでいるのを見かけた。 ちょうど視線が合ったので、私は彼にうなずいて見せた。

 一一とその子はこわがって尻込みしながら後退りしてしまった。 翌日も私はうなずいて見せたが彼は同じようにした。

 3日目に又私はうなずいて見せた。 その子は別にこわがることはないと分かったらしく、私につばきを吐き掛けた。 次の日には、彼は私をじっと見た。 そのまた次の日に散歩している私を見ると、「今日は」と呼び掛けてきた。 そうしているうちに、彼は私のうなずきを待ち受けていて微笑み返すようになった。 おしまいにはその少年が一一その小さな子が一一街角で待ち構えていては、その小さな汚い手で私の指を握るようになった時、ついに勝利は完全と成ったのである。 私とその少年とは心が結び着いたのである。 それは物寂しいみすぼらしい通りであったが、私め生涯を通じて、そこは最も輝かしい明るい思いでの場所の一つとなったのである。

(ボー-イスカウト指導者の手引き) 

 

 

 

 

 

 

 


 誠実である 🔝

 

 昔、ウォーターローの戦いでナポレオンを破り、世界の英雄になった英国のウェリントン卿はその栄光につけあがって、とても手のつけられない権力者となっていたのである。

 ある日、馬に乗り、多くの従者を連れてロンドンから田舎へ出かけた。そこに大きな牧場があった。 牧場の外をぐるりと回ったのではとても時間が掛かり、自分の権威にも係わる。

そこで彼は牧場の中をつっきろうと一鞭いれて馬を牧場の中に乗り入れた。 すると、一人の少年が現れて入ることならんと両手を広げた。

 ウェリントンは馬上にふんぞりかえって、「おれを誰だと思う? ウエリントンだぞ!」とどなった。

 「ウェリントンだろうと誰だろうと、ここを通ることはならん」。 少年の眼には怒りの光さえ指していた。「きさま、生意気な奴だ。一体誰に頼まれて邪魔をするのか?」

「僕は番人です。牧場主のいいつけをただ忠実に守るだけです「」と答え,更に一段と男らしく胸を張って「それが僕のデューティです。」と、直立して叫んだ。

 ウェリントンはそのけなげな少年の最後の言葉に打たれた.そして馬から降り、帽子を脱いでごの少年にあやまり、とおまわりして馬を進めた。

(ちーやん夜話集) 

 


 幻より真実を 🔝

 

 或る禅宗のお坊さんのところに一人の修行僧がいて、金で作った仏像とお釈迦さまの骨だと言い伝えられる仏舎利の入った箱を大切にしていました。 その様子はとても極端でその箱にローソクと線香を立て、香をたいて朝晩拝んでいました。  或る時、お坊さんはこの弟子に向かって、そんなことをしても意味がないからお止めなさいと言いました。 しかし、その弟子は聞き入れませんでした。 お坊さんはそんなものは早く捨ててしまいなさいと言いました。 しかし弟子は聞くはずがございません。 3度目に箱を開いてみなさいと言いました。 弟子はいやいや大切なその箱を開いてみました。 すると、どうでしょうその箱の中に毒蛇がとぐろを巻いて入っていたのです。 この話をした人はこう言っています。

 仏像や仏舎利がいかに大切だからと言っても、それを拝んでさえいれば悟りが開けるなどと思うのは大変な間違いだ。 たしかに仏様を祭ったり、教えを聞いたり、お坊さんを敬ったりすることは大事なことである。 しかし、それさえしていれば良いのではない。 自分白身でそのやっていることの意味を知り、更に修行の道に励まなければ悪魔に取り疲れて自分を見失うであろう。

 この話は私達の生活に深い係わりを持っています。 私達は勉強していろいろな事を知っていると思います。 しかし、本当は何も知らないのです。 私達は着ているものの立派さや持ち物の立派さや地位で、人間を見てはいませんか。 そういうものに捕らわれている間は本当にその人を知っているとは言えません。

 私達は自分の都合のよいものを祭り上げてそれで事が十分終わったと考えがちです。 真理は私達が厳しく自分を研ぎ澄まし、心の垢を取り除いてゆく時、私達の回りに見えてきます。 しかし、何かを拝んだり、寄り掛かったりするものを見つける時私達の眼は盲にされ、それを見ることができません。 

 (正法眼蔵見聞記) 

 


 旅人への心づかい 🔝

 

 目を覚まして私はデルスウが薪を割りシラカバの皮を集めて、これらを皆小屋の中に運び入れているのを見た。 彼が小屋を燃やそうとしているのだと思い、私はそれを止めさせようとした。 処が彼はそれに答えないで、一摘みの塩と少量の米をくれと言った。 彼がそれらで何をするつもりか興味があったので、彼にその欲しい物をやるように命じた。 彼はシラカバの皮で丁寧にマッチをくるみ、塩と米を別々のシラ力バの皮に包み、それらを小屋の中に吊るした。 ついでに、彼は外部から屋根の樹皮を修理し、それから出発の身支度に掛かった。

 「君はここに帰ってくるつもりなんだね?」と、私は聞いた。彼は否定的に頭を横に振った。 そこで誰のために米一塩・マッチ等を置いたのかと、私は彼に聞いた。

「誰か、誰か、別の人来る」デルスウが答えた。

「小屋見つける、乾いた薪見つける、マッチ見つける、食い

物見つける。 死なない。」

 この答えがひどく私をびっくりさせたことを良く覚えている。 私は考え込んでしまった。 彼は自分の一度も見たことの無い人間、全く未知の人について心配していたのだ。 その人はまた誰が自分のために薪や食料を用意してくれたかを知らないのである。 私は兵士等が野営地を去る時、いつも屋根の樹皮をたきびで燃やしてしまったことを思い出した。 彼等はそのことを乱暴を働く気持ちがらではなく、ごく単純に面白半分にやったので、私もそれを禁止したことは無かった。 がこれに比べると、この野生の男はばるかに人間への愛に富んでいたのである。 旅人へのこの配慮・・・どうしてこの気持ちのいい感情、他人の利害に対するこの注意が町に住んでいる人々には荒れ果ててしまったのだろうか。

 これは都会人にも以前にはあったものであろうに。

(シベリヤの密林を行く) 

 


 永遠に消えないもの 🔝

 

 君達は高野山を知っていますか。 あの有名な弘法大師が開かれたお寺です。 日本全国から多くの信者がお参りに来ます。 その高野山には数多くの墓が並んでいます。 その中で一段と大きく目立つ立派な墓のほとんどは昔の大名の墓だそうです。 その大名の墓も今日では無縁仏になっているものもあるということです。 子孫が絶えしまつたのか、或いは何処に住んでいるのか判らなかったり、お墓が高野山にあるとは知らなかったり、いろいろな理由で連絡が取れず、お墓の管理や供養がされていないのです。

大名だから、昔は相当多くの一族や家臣等を養い、しかも明治時代になって、更に華族として身分も財産も保護されるという状態が長く続いたにも関わらず、お墓が無縁仏になってしまっています。こういう変化が時代とともにあったということを考えてみますと、人間のはかなさを身にしみて感じないわけにばいきません。

 やはり、世の中は形ではありません。 いくら地位があり、財産があっても、それがいつまでも続くものではありません。 そう思いませんか。 だから、永遠に消えないものはその人の心であり、思想でもあり、この世の中で果たした業績であると思います。          

 私達は永遠に消えないものを築く努力を続けていこうではありませんか。

 


 統率力 🔝

 

 自然界のおきての中に見る日本猿の行動には素晴らしいものがある。

彼等の食糧は主として木の実・草の実等植物性で、中でも栗や葡萄が実る秋は最も活気に満ちた行動で、行動半径も旺盛な時でもある。 猿は食糧を求めて一団となって行動する。

 鼻ザル(ボス)を頂点にそれぞれしっかりとした役割分担が決められていて、実に整然とした行動をする。 その一番手がトォミ(遠見)で、群れの安全を計る見張り役、つまり斥侯である。 高い木の上や山の蜂に陣取り外敵の進入を見張る。

群れが移動を開始する時、「道ヒキが先頭に立って道案内をする。これが、鼻ザルで群れの指揮統率に当たる。

次に4~5匹の群れがやってくる。「トマス」と呼ばれ、本隊の先発隊である。これが通り過ぎると本隊が通過する。本隊を遠巻きに数匹の猿が取り囲んでいる。 これを「ナカドリ」と言い、回りに必ずいて、本体から離れ猿を集める役目である。 このようにして、猿達は確実に行動していくのである。 奥羽山脈に、昭和の初期まで狩猟を生活とした「マタギ」という一族がいた。 旧正月も過ぎて、固雪のシーズンになると、「マタギ」と「猿」との闘いが始まる。 マタギ遠の狩猟はトオミ・道ヒキ・トマスを遣り過ごして、本隊に鉄砲をうつのである。 もし、この群れの道ヒキを誤って撃ってしまうと、群れは統率を無くしてバラバラになり、進む方向を失い全滅させることは容易である。 しかし、マタギ達は自然保護のために全滅させないように、本隊のみを撃ったとされている。 来年の狩猟のためにも自らが自らに課したおきてなのである。

  我々の隊の行動は日本猿の行動に似ていると思われる。 スカウトは班長を中心として、整然と役務分担を守り、パトローリングを行なう。

 


 ナイヤガラの氷事件 🔝

 

 真冬のナイヤガラの滝でおそるべき出来事が起こりました。 夫婦と少年の3人が流れの速い川にかかった厚い氷で出来た橋を渡っていました。 突然メリメリと音がして氷の橋が崩れ落ちたのです。 夫婦は元の氷から割れて流れ出した氷の上に乗り移ったのですが、少年は別の氷の上に乗りました。

 周り一面に、割れた氷と氷が互いにこすりあい、ぶつかりあって、とても泳ぐことは出来ません。 又、乗り移れるようなボートもありません。 唯流れのままに任せるしか方法はない。 この付近ではその流れは極めてゆっくりですが、彼等を3km程下流の急流へとゆっくり運んでいくのでした。 この危険な様子を川岸で見ていた人々や、叫び声を聞いで駆け付けた人々はどうして助けたら良いか判りません。 唯、大声で叫ぶだけでした。 この川筋には二つの橋が急流にかかる手前に掛けられていました。 1時間程、この気の毒な親子は浮いた氷と共に流されて橋の地点までやってきました。

 橋の上では人々がロープをたらして、流されてくる人々の道筋にぶらさげました.およそ水面まで30m位ありました。 氷に乗った少年は上手にロープを掴み、両手で上の方に上がり始めました。 しかし、だんだんと上がる力が無くなり、終わりにばロープを握っていることも出来無くなり、力尽きて氷の流れの中に落ちてしまい、とうとう見えなくなりました。 別の氷に乗っていた男の人は口一プを掴み、気を失っていた奥さんの身体をくくったのです。 そこで彼女は助かるようでした。 しかし、流れは彼等を押し流し男の人の両手はかじかんでいたのでロープ結びに失敗してしまいました。 しばらくして夫婦は物凄く渦まく急流の底に吸い込まれて見えなくなりました。

 「もし一人でもボーイスカウトがその場にいたら、なんとか良い考えを出して気の毒な人達を助けたろうに」と、見ていた一人の人がいいました。  「備えよ、常に」       

(スカウト) 

 


 偉大なる自発活動 🔝

 

 この夜、雨雲低くたれ恐ろしい風で海は荒れていた。

 私は防波堤の近くにある小店の前に立っていた。 その時、波は15m位の高さで防波堤を乗り越えてぶちあたっていた。

 2人の大人と2人の少年が波にさらわれ港の中に流されていくのが見えた。 1人の少年がエビの壺をしっかりと持っていた。 私ば防波堤を走ってロープの置場へ行った。長いロープを見つけ、そめ少年の方に投げたが、彼は大波のてっぺんに乗ったところで、不幸にしてロープは流されたのでもう駄目だと思った。

 すると、ロバート君が反対側から大荒れの海に飛び込み少年を捕まえようと泳いだ。やっと彼の腕を掴みロープの方へ泳いだが、腕が離れて少年は海中に沈んだ。 だが、ロバートは再び少年を捕らえてロープまで泳ぎ、もがきにもがき少年の身体にロープを縛りつけだのです。それで私と他の人々で岸へ引き上げたのです。

 岸へ上がるとロバートはもう1人大人が助けを呼んでいるから僕はすぐ引き返すと言うのです。私達はこんなに荒れているので行ってももう遅いと、止めましたが彼は言うことを聞かず暴れました。 ボートを出すことの出来ない程の大シケで、その上真っ暗でした。 何しろ、10 才の子供のことでしょう。 私はこんな勇敢な子供を見たことがありません。 

 ロバート家には暗くならないうちに、家に帰るというさだめがあった。 その晩、暗くなってもロバートが帰ってこないので、両親は彼が帰ったら叱らねばならんと話し合っていた。 夜8時になっても帰ってこない。 8時30分になって帰ってきたので両親から大いに叱られ、すぐ寝るように命ぜられた。 彼はこの事件については一言も親に言わず神妙に床についた。

 父母が彼の勇敢な行為を知ったのは翌朝。近所の人々がロバートが元気かどうか見舞いに来てくれた時であった。 ロバートほ実に良い少年である。彼は罰から逃れようとはしなかった。

 罰は罰、賞は賞。 彼は完全に叱られ、完全に誉められた。

 大人でも負けるロバーの偉大な自発活動。  

(ちーやん夜話集) 

 


 塩狩峠 🔝

 

 汽車は塩狩峠の頂上に近付いていた。 いまにも止まるかと思う程、のろのろと大きくカーブを曲がって登っていく。

 その一瞬、客車がガクンと止まったような気がした。

次の瞬間、客車が妙に頼りなくゆっくりと後退りを始めた。 

見る間に客車はどんどん速さを増した。 今まで後方に流れていた窓の景色がぐんぐん逆に流れていく。

「アッ、汽車が離れた! 大変だ。転覆するぞーー!」と誰かが叫んだ。 誰もが総立ちになって椅子にしがみついた。 

そこには声もなぶ恐怖にゆがんだ顔があるだけだった。

 旅行途中の鉄道員長野政雄は事の重大さを悟り、神に祈った。 デッキにハンドブレーキのあることが閃いた。 ドアの外に飛び出し、ハンドブレーキに手を掛け、ハンドルを力ー杯に回し始めた。 彼は必死に回し続けた。 だんだん速度がゆるんだ。 更に全身の力をこめてハンドルを回した。わずか1分とたたないその作業が彼にはひどく長い時間に思われた。 額から汗がしたたり、ハンドルを持つ手が汗で滑った。

 かなり速度がゆるんだ。 ホッと大きく息をついた。 もう一息だと思った。 だがどうしたことかブレーキはそれ以上きかなかった。 なぜブレーキがきかないのか彼には判らなかった。とにかく完全に止めなければ再び走り出すに違いなりと思った。 坂は急なのである.その時、彼は前方役50mに急な力一ブを見た。 こんしんの力を振るってハンドルを回したが何としてもそれ以上客車の速度は落ちなかった。 みるみるカーブは迫ってくる。 40m、30m。 再び走り出せば転覆するのば目に見えていた。

 たった今のこの速度なら、自分の身体でこの車両を止めることが出来ると彼はとっさに判断した。 一瞬家族や親しい友達の顔が浮かんだ。 それを振り払うように目を閉じた。

つぎの瞬間、その身体は線路めがけて飛び降りていた。 

肉がはじけ、骨が音を立ててつぷれた。 まっ白な原野にサッと血がしぶいた。客車は彼の上に乗り上げ完全に停止した。

(塩狩峠) 

 


 従 順 🔝

 

 君の両親が君に与えているよりも、もっと多くの自由が与えられているように見える友達を羨ましいなぁと思いますか。

確かに、彼筝は君よりも遅くまでテレビを見る事ができ、望み通り遅くまで外出していることができ、誰も彼等の頭を押さえるものはないようである。

 毎日うるさく宿題のことを言う人もいないようである。 両親がこんなに自分を取り扱ってくれればいいと、時々君は思いますか。 朝から晩まで自分を追っかけないでほしいと思いますか。自分のやることに両親は余り構わないでほしいと思ったことはありませんでしたか。 両親は時には君に恩きせがましい程の要求をするように見えますが、処で両親がそんなに君のことをやかましく言うのはどうしてだか知っていますか。

 君の両親はたった一つの理由、君を愛するという(我が子なんだ)、という理由のために色々と君に要求するのである。両親は人生のあらゆる良い事を君のために望んでおり、君がそれを得るにはたった一つの方法しか無い事をしっているからである。 君が幸福になるには一生懸命に勉強し、働かなくてはいけないことを両親は大いに知っているのだ。 君を余りにも愛するがために、正しい事を君にやって貰いたいために追いかけているに過ぎない。 自分を愛していないから、あんなに厳しく両親は世話をやくのだと君は考えたことがあるかも知れないが、それは違うのだ。 ここで、哀れまれるべぎ者はあらゆる自由を持った少年である。

 何故ならば彼が何をしようとも、誰もかまわないからである。 彼が正しい軌道を離れても彼の両親にとっては何ともないのである。 ところが、君の両親は大いに意に会するのである。 

君を愛するからである。 そうとは考えないか。

(U.S.A.BS隊活動集) 

 


 百円玉で買えないもの 🔝

 

 君達はこの硬貨が何であるかをしっていますネ。 またこれで何が買えるかということも知っていますネ、 今日ではこれ一枚でお菓子・切手などが買え、又バスや入場券の一部としても使用出来る。 このわずかな百円玉を沢山一緒にまとめると、もっともっと大きなことが出来るようになる。 しかしながら、どんなに沢山なお金を持っていても買うことの出来ないものがたくさんある。

 それは例えば、君の家族の愛・自由・友情等である。 スカウティングの価値もはっきりと決めることは出来ない。 又、我々が忘れることの出来ない経験・キャンフ・旅行・ハイキング・そして又営火の楽しみなどの価値も計ることは出来ない。 これらの価値が計れないのだから、当然買うことも出来ない。

 人々は我々の善行に対してお金を払うことをしないが、それは本当によいことではないか。 もし、お金を払われたら、我々が人に対して何かよいことをやった時のあのいい気持ちもなくなってしまうであろう。この小さな百円玉やその兄弟姉妹の硬貨は沢山のものを買・うことが出来るが、本当に人間の幸福と威厳を増すものを買うことは出来ないということを決して忘れてはをらない。

 我々の大先輩が言われたことを肝に銘じよう。

 「人のお世話にならぬよう、人のお世話はするように、そして報いはもとめぬように」

(U.S.A.BS隊活動集) 

 



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スカウティングと宗教(真宗)

奥田祐美  大阪第11団団委員長・圓通寺住職 難波別院にて

 

はじめに

 英国のウェーリントン侯は、「宗教心なくして人間を教育するは、利巧な悪魔を作るに過ぎぬ」と断言されている。

 古来を見れば、偉大なる教育者は偉大なる宗教者であり、偉大なる宗教者は偉大なる教育者であったといえよう。

 35歳で悟りを開き、80歳まで教えを説き続けられた大聖釈尊、ナザレに生まれ30歳で世を去ったイエス・キリスト、比叡山に三千の坊を開き

山家学生を育て、日本仏教の基盤をなした伝教大師、いずれも偉大なる宗教家であると共に、多くの人々を導いた大教育家であった。

 また現スタンツ孤児院で「児童と共に泣き共に喜び」し、ペスタロッチは、まことに偉大なる教育家であったと共に偉大なる宗教家であった。

ノイホフの近傍で、ペスタロッチの永眠する地、ビルの墓標に「・・・人類の教育者、真の人、真のキリスト教徒、真の市民として凡て人の為に計り ・・・」と記されている。

 教育も宗教もすべて帰するところ人生の向上であり、浄化でなければならない。

 

スカウティングについて

 B-P卿はスカウティングの目的を「隊長の手引き」『社会人を育てるスカウティング』に「国家の繁栄は、軍備の強大よりも、その国民の公民としての人格(性格)のほうがずっと肝心である。 ――(中略)――その人が社会に踏み出す前に、まだ少年で物事を受け入れやすいうちに、人格(性格)は養われるべきである。 ――(中略)―― 

それを引き出し、のばしてやる必要がある。」

「この点にボーイスカウト訓練のもっとも重要な―教育という 目的があるわけだ―しかし、教育といっても指図することではないのですよ。教育、つまり少年たちが自分から望んで、人格(性格)を養成するにふさわしい物事を、自分たちで学ぼうとするように引っ張ってやることである。」

「ここで、隊長の人格(性格)と能力がものをいうことになる。」と申されている。

識見の発展―敬虔の項では「識見の発展は、神(仏)への尊敬―『敬虔』ということばが最も適当であろう―からはじまる。

神(仏)に対する敬虔、他人に対する敬虔、神(仏)とボクとしての自分自身に対する敬虔、これが宗教心のすべてのありかたの根底である」と示し、「宗教とは『教えられる』ものではなく、ただ『とらえられる』ものである」とし、信仰を強制するのではなく、少年に信仰心を持たすべく奨励することの必要なることを明らかにされている。

 

スカウト活動になぜ信仰奨励が必要か

 少年がスカウトになるとき、「ちかい」をたてます。

その第1条に、

   (仏)と国とに誠を尽し おきてを守ります」

とあります。誓をたてたからには、スカウトは信仰心をもたなければなりません。しかし、スカウトは宗教について十分な認識がありませんので、信仰奨励が必要となります。

そのために、先ず指導者が確実な信仰をもち、『口で教えるより、背中で教え』なければなりません。指導者がなにげなく行う動作の中に、スカウトは深い感動を受けるものです。

 

キャンプ夜話「悪人と善人」

 3人家族と7人家族がとなり合わせて住んでいました。3人家族は夫婦と子ども1人、7人家族は祖父母と夫婦と子ども3人。

 3人家族は毎日言い争い、7人家族は毎日楽しい日々を送っています。

 ある日3人家族は、「家では毎日言い争っているが、隣は朗らかに楽しい日々を送っているではないか」と気がつき、7人家族に尋ねました。

「それは、あなたの家は善人が住んでいるから争いがおこりますのや、私の家は悪人が住んでいるから楽しい日々が送れますのや」

「そんなこと言って、私たちをからかうのですか」

「それはな、何かしても自分が正しい(善人だ)、間違いない(賢い)と思うから、相手もなじるから争いが起こる。私たちは自分が悪い愚か者とふり返って、み仏の前に深くわび、今日一日を感謝した日を送っていますのや、この姿を見ている子も親も、自然とみ仏に手を合わせますのや」と。

 この話を聞いた3人家族は、それから仲良くなりました。

 親鸞聖人は、生きていること事態が罪なのだと申されています。

 

仏教について

 仏教とは仏の教えであり、仏となるべき教えです。仏教を仏法とも言います。仏法とは、仏になるべき方法です。

よく○○の何回忌の法事を勤めますと言います。法事を勤めるということは、仏になる方法を勤めることなのです。

無くなった人を縁として、やがて私もこのような姿にならなければならないのかと、深くふり返って人生をいかに生くべきかを考えなければならない行事です。

 

七歩目の世界

 仏陀は、お生まれになると、東西南北に七歩お歩きになって、天上天下唯我独尊と申されたと、花まつりに話をします。

 仏陀は六道の世界を離れ、仏(七歩目)の世界に入りなさいと教えられたのです。

六道とは、地獄 餓鬼 畜生 修羅 人間 天上 のことです。

 

 地獄とは、「火の車作る大工はなけれども おのが作りて おのがのる」の歌の通り、人間の諸業の結果に苦しむ世界です。

 餓鬼とは、求めても求めても満足の心の持てない苦しみの世界です。

 畜生とは、動物本能のままの心でうごめき、その結果に苦しむ世界です。

 修羅とは、争いの世界・良心と悪心、人と人、家と家、国と国との戦争に苦しむ世界です。

 人間とは、人間として生きてゆく苦しみで、その中に老いがあり、病があり死がある世界、仏陀は「四大苦」と申されました。

 天上とは、人間としての希望が達成した世界であるけれども、そのことによって始まる地獄の苦しみの世界です。

この六つの世界をいったり来たりしているのが、私たちであると教え、早く七歩目(仏)の世界に入りなさいと示し、自分がこの世に生を受けた意味が何なのかと、覚ることの必要があるのです。

 

死刑囚との出会い

 昭和28年、ある人の勧めで刑務教悔師となり、初めての仕事が死刑囚に話しをすることでした。

悪を犯したとはいえ、法のもとに死んで往く彼等の姿に接し、深く自分の人生を考えさせられました。

罪を犯して仏教を知り、安らかに死んで往く死刑囚。一般社会にあっては、死をおそれおののく人々。あまりにもかけ離れた世界に、ただ驚くのみでした。

「先生、先生は刑期の無い死刑囚ですね」と笑われ、「先生、お先にまいります」と言われ、人間生活をごまかしている自分に悲しみを覚えたものです。

「世間の人が、私のようなバカなことをして死なないように話をして下さい」と他人の上に思いをはせる彼等の上に、仏教の自利他圓満の境地・親鸞聖人の往懇・還想の二回向の世界を見ることができました。

B-P卿の最後のメッセージ

「あなたが幸福になりたければ、他人に幸福をあげなさい」と言われた世界に通じる彼等の生活に教えを受けました。

 

幸福を求める道

 仏陀は、幸福を求める道に二つある。一つは外へ外へと求めること---外的物件を調えて幸福になろうとする方法――それは一見幸福そうに見えるが、苦悩がかならず起こる。

そこで、もう一つの方法、それは自分の心を静かに反省し、生きていることの感謝と、世間に対する奉仕(布施)をすることであると申されています。

 

真宗(親鸞聖人)について

 真宗をお開きになった親鸞聖人は「報恩感謝のお念仏」と申されています。

親鸞は、承安三年(1173)京都山科の里、日野でお生まれになり、9歳のときに得度(僧となる式)をお受けになりました。

その折りの有名な歌があります。

   「明日有りと 思う心のあださくら

       夜半にあらしの 吹くかぬものかは」

20年間、比叡の山で勉学と修行をされましたが、自分の心の醜さと比叡山の現実の姿に疑問を感じ、建仁元年(1201)3月14日山を下り、京の都で念仏の教えを説いておられた法然の弟子になられた。

「比叡の山で20年間、勉学修行をしてまいりましたけれど、救われません。たった六字南無阿弥陀仏と称えるだけで、救われるのですか」

「そうだよ。南無阿弥陀仏と称えるだけで救われるのだよ、疑っているのだね。疑って疑った後に真実であることが分かりますよ。」

このときの心を、嘆異抄(たん に しょう)の二条目と九条目に詳しく述べられています。

この法然こそ生涯師と仰ぎ、弟子として従っていこうと決意されました。

 その後、念仏の教えは都一円に広まりました。宮中に仕えていた女官松虫・鈴虫までも、尼僧となり後鳥羽上皇の怒りと、他宗のねたみで、健永3年(1208)念仏停止と流罪となり、法然は土佐の国、親鸞は越後の国へ流されました。

「み仏の思召しだよ。都の人々に念仏を広められたが、遠い国の人々まではとどかなかった。

このたび私は土佐に、あなたは越後に、お念仏を広めることができます。ありがたいことです。」

「寂しいときも、お念仏を称えましょう。お念仏の中に私がおりますよ。」と3月16日流罪の旅につかれました。

これを機に、愚禿親鸞と名を改め、恵信尼と結婚されました。

 建暦元年(1211)39歳の時、釈免の通知を受け、京都に帰ろうとされましたが、法然他界を知らされ、京に帰ることをあきらめ、関東の地に移られました。

その間、布教生活を送られるとともに、真宗の本典とされている「教行信証」の執筆をされ、52歳の頃完成しました。

貞永元年(1232)京都に帰られ、関東のお弟子を指導されつつ、数多くの著作をされました。

弘長2年(1262)11月28日親鸞聖人は、静かに息をひきとられました。お年は90歳でした。

   「恋しくば 南無阿弥陀仏と唱うべし

        われも六字の中にこそすめ」

また「私が死んだら加茂川にすてて、魚のえじきにしておくれ」と申されました・

親鸞聖人は、建前を遠ざけ、あくまでも人間としての本音(弥陀の本願)に生きられた方です。

 

生きて往く喜び

 私たちの団では、キャンプ地を選ぶのに、できるだけ手の入っている場所を避け、自然のままの所を選びます。

キャンプに入るとき、班に一羽のわりで鶏をつれて行き、キャンプ中に餌を与え、最後の夕食に料理をします。

スカウトはなかなか料理はできませんが、夕食が待っています。やっとの思いで料理し、一・二週間鶏料理が食べられないようです。

親は、残酷なことを止めてくださいと、報告会の席上で言われます。なるほど残酷かもしれませんが、こうした尊い生命の上に人間の生命がなりたっていることを、親ともどもスカウトに教え、生きている喜びを味わっていきます。

自然こそ偉大な教師であり、自然こそ慈悲に満ちた導師である ことを知り、全てのものに感謝する心を起こさせるものなのです。

 親鸞聖人は、

  「弥陀の誓願不思議にたすけまいらせて 

   往生をばとぐるなりと信じて

   念仏まうさんとおもひたつ心のおこるとき、

   すなはち摂取不捨の利益に

   あずけしめたもうなり」

と申されています。

 

 私たちは、多くの生命の上に生きていることを知ったとき、心の底より、感謝せざるをえない自分を覚ることができるのです。

        [1981(昭和56)年12月5日 難波別院にて]

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