スカウトに伝えたい話

 

2007年にボーイスカウト100周年記念として、大阪にゆかりのある事柄を含めてまとめられたものです。




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1.いやさか 弥栄

 

 日本に初めてスカウト連動が始まった頃のことです。私たちの大先輩佐野常羽氏がイギリスのギルウェル指導者訓練所で学んでいた畤、所長のイルソンは入所していた13ケ国の全員に「各国のスカウトの祝声をやってみよ」と言いました。

 日本連盟は古語の「弥栄」を使っていたので佐野富羽氏は<いやさか・いやさか・いやさか>と3回叫びました。このことばの意味は「良いことはますます良くなるように、禍も転じて福となるように」と言うことですと説明すると、所長は非富に喜んて「発声法は日本が一番良い。その上哲学が入っている」と賞賛して「これから、このいやさかをもって本訓練所の祝声とする」と言われました。

 その後も続々とこの訓練所で.世界の指導者は訓練を受けて各国へ帰っていったので、世界のリーダーでこれを知らない者はありませんでした。

 

参考文献:スカウティングの原点を探るシリーズ第1集 大阪スカウトクラブ編集複製

 


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2.アンノンスカウト

 

 1909(明治42)年の霧に閉ざされた冬の夕暮れロンFン郊外の駅に、一人の紳士が地図と旅行カパンを持って汽車から降りました。紳士は訪ねていく事務所への道がわからなくて困っていたら、そこへキビキピとした少年が現れたので紳士は道を尋ねまLた。少年は「私が案内しましょう」とカパンを持ち先に歩きました。そして、目的地に着いたので紳士は、アメリカ人の習慣で硬貨を出しチップとして少年に与えようとしました。                  

 少年は私はボーイスカウトです。今日も何か良いことをするつもりでいました。お役に立ててうれしいと思います。スカウトよ他の人を助けるることで、お礼はもらいません。とニッコリして霧の中に消えて行きまLた。どこの国の少年も、こんな時は喜んでチップをもらうのにそれを断り、逆に礼を言って立ち去るとは。・・・・・紳士は驚きまLた。

 紳士は米国人のウィリアム・ボイスという有名な出版叢者で、ボーイスカウトについていろいろ調べて、帰国後、いろいろと準備をして1910(明治43年)年2月8日にスカウト運動が米国に発足しまLた。その後,全米にこの運動が広かって当時の功労者を表彰することになって、第1の功労者はポイス氏を案内した英国少年だと言うことになりいろいろ捜したが分からないので協議の末。米国スカウト功労章のパッファロ(野手)の形と同じ型の銅像を作り、日々の善行を努めんとする一少年の忠実が、合衆国にポーイスカウト運動を起こさせた。アンノン(名の知らざる)少年のために」と書いて英国連盟に贈りました。

 

参考文献:スカウティングの原点を探るシリーズ第1集 大阪スカウトクラブ編集複製

 


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3.道心堅固

 

 これは、指導者の訓練に多くの功績を残された佐野常羽氏の言葉です。この道心堅固の意味は、実行して評価反省を繰り返しながら「悟り」をひらき、永遠に滅びることのない心境を開くことです。

 その言葉の碑は、指導者実修所開設のゆかりの地である日本連盟山中野営場内の佐野広場に1938(昭和13)年8月22日に建てられました。

 

参考文献:スカウト用語の基礎知識 長 八洲翁署

 


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4.ちーやん夜話集

 

 ちーやんは中村知(さとる)氏のニックネー厶で、1950(昭和25)年頃からボーイスカウトの研究や資料の翻訳に専念されていました。そして、スカウティングについていろいろな思いを大阪連盟の機関誌や地区の機関誌「なんとう」に掲載されたので、当時の指導者は夜話とLて活用したり、 また、読み物としてスカウトたちに深い感銘を与えました。

 しかし、いつの間にか先生の責料が散逸したり本棚の隅に哩もれたりしてきたので、一冊にまとめて指導者やスカウトたちか好きなときに読めるようにしたいと言うことで、1962(昭和37)年当時、なんとう誌の生みの親である松本石翠、住谷 豊両氏をはじめ関係者の努力で各文が整理されて1970(昭和45)年に発行されました。

 

参考文献:ちーやん夜話集刊行会 宮本守雄 紂田正雄 松本石翠 住谷 豊

 


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5.ウッドクラフト

 

 ウッドクラフトを辞典で引くと、森林の知識、森林学、山林技術、木彫り、木工術などの訳が出ています。しかし、これらを含めた非常に広範囲な森林生活法で、追跡、読図、方位測定、結索、縛材、開拓、天文、野営などすぺてを含みます。

 ウッド(wood) は森のことですが、これだけでなく大自然ということにもなります。ベーデンパウエ

ル卿はクラフト(craft)は技術だが「技術は技術だけで終わらず、さらにそれから放出するエネルギーが人(原文は男らLい男づくり)を育てる」といっています。また、ウッドクラフトを通して「美」と「驚異」を発見しなかったら単に技術に終わってしまうとも言っています。

 そして、ペーデンパウエル卿の最後のメッセージには「自然研究というものは、この世界が美と驚異とに満ち満ちていることを教えるでしょう。それは神さまがそういう世界を君たちが楽しむために贈ってくださったことを示します」と述べています。

このことを深く味わいましょう。

 

参考文献:指導者のための宗教ハンドブック ボーイスカウト日本連盟発行

 


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6.奉仕の心

 

 スカウトの「ちかい」の3番目に「からたを強くし、心をすこやかに、徳を養います」という言葉がありますが、佐野常羽氏はその中の「徳を養います」について、「おかえしのはねかえり」と言われていまLた。

 「徳」とは、宇宙の大エネルギー、大自然の生命力、神、仏、そして国、世界、先祖、父母、先生、大人、時として未知の人、動植物、鉱物などからの恵みに感謝Lて、そのおかえしとして他の人々が幸福になるようなことをする。そLて、そのはねかえりのよろこぴをいただき、感激して自分をささげることができることが奉心で、その心を養うことが大切だと言われました。

 

参考文献:スカウティングの原点を探るシリーズⅡ 大阪スカウトクラブ編集複製

 


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7.ルックワイド

 

 1950(昭和25)年頃、イギりスで当時のシニアースカウト(現在の日本のベンチャースカウトのために刊行された書物のタイトルからきています。これは「物事を広く見よ」)の意味でシニアースカウトの合い言葉になりました。

 スカウティングの周囲には限りなく広い世界があり、スカウトの興味を引くものは導入して観野を広げていくようなプログラムの企画・実行をするようになりました。

 

参考文献:スカウト用語の基礎知識 長 八洲翁著

 

 参考

 

B-P卿のことぱ

 

・視野を広くもて。自分で視野を広く見ていると思っているときも、もっと広く見渡しなさい。

・私の目前にある山は、「もっと広く見よ、もっと高く見よ、もっと遠くを見よ、そうすれば道が見いだせる」と、私に告げている。

 

 スカウティング1964(昭和39)年5月号に中村 知先生(ち一やん)は、ルックワイドについて次のような記事を掲載されていました。

 

 シニアスカウト(現在のベンチャースカウト)の標語として英国でぱ”Look Wide”ということぱをあげている。広く見よ・・・とか、視野を広くせよ・・・とかいう意味だとうけとられる。けれども、それは単に、かけ声だけにとどまらないことに気づく。

 それは、スカウティングは国内だけでなく、広く世界的にひろがった運動であるから、カブからローバーに至る課程(あるいは過程)のなかの、シニアの段階で、Wold Scoutingについての勉強をすべきだ

という意味をこめていると解すのである。

 この勉強のお手本は、B-P自身が身をもって示した。その年譜を一覧しただけでも1910年から1938年に至る28年間に、20回の海外旅行をしているのである。そLてそれは彼の力だめしであった。

 自分の隊、自分の県、自分の国のスカウティングにだけ力を尽くし、思いをよせていれぱよいというような、狹い心ではスカウディングの真の大きな姿を発見できないだろう。世界的な市民にはなれない。

 われらは、わが国に欠けている広域スカウティングをもりあげねぱならない。それは。今後の日本のシニアスカウティングのあり方のいかんにかかっているのではないだろうか?

 (原文のまま)

 


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8.スカウツオウン

 

 これは「ちかいとおきて」の実践をより深めるものです。中村 知(さとる)先生は、スカウト活動全般の中で、もっとも大切なスカウトによるスカウトのための活動と言っています。

 宗教儀礼に代わるものではなく「ちかいとおきて」の理解を深め実践することによって信仰心を高めるようにするものです。

いつでも、どこでも、スカウト自身が計画し参加して自然のままで教宗派にとらわれない形で、自発的な参加か望ましい」と言われています。

 

 参考文献:スカウトティングの原点を探るシリーズⅥ 大阪スカウトクラブ編集複製

 

 参考

 

スカウツオウンScout's Own

 

スカウト自身か行う礼拝の事。

この言葉のあとに略された言葉がある。正式にはScout's Own Servjceである。

「自身の」という言葉の中には、of the Scout by the Scout for the Scoutという意味を含む。

従って「スカウト礼拝」ということである。

スカウツオウンヘの出席は自由参加を原則とされる。また、キャンプ期間中の日曜日に行うものであると考えられていた時期もあるが、スカウツオウンはいつ行ってもよいものであり、隊集会や班集会でも行うことがある。

 

教育規定 第1章 一般原則1-22 スカウツオウン

「スカウツオウンは、加盟員各自の信仰心を高揚するために行われ、それはちかいとおきての実践をより深めるものである。」

 


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9.スカウト運動のはじまり

 

 1907(明治40)年の夏、イギリスの小さな島「プラウンシー島」に、当時英雄だったベーデン・パウエル卿が20人の少年を集めて、キャンプを始めました。

 そして、8月1日の朝にベーデン・パウエル卿がシマカモシカの角笛を吹いて少年達に合図を行いました。ここからスカウト運動がスタートしました。

 キャンプは8日間で、少年達は5名ずつ牛・たいしやくしぎ・わたりがらす・おおかみの4班に分けられ、それぞれの班の印として肩に緑・黄・赤・青の紐飾りを付け、帽子には後のスカウトパッシにな百合の花のバッジを付けました。

 そして、沿岸警備隊将校の指導で、縄結び・救急法・人工呼吸などを学び、技能を修得した者は胸のスカウト章の下に「そなえよつねに」と書いた巻物の形をしたパッジを付りるようにしました。こうしてキャンプか続き、都会育ちの少年達にとって、夢と冒険に満ちた素晴らしい体験でした。

それから100年か過ぎました。今、私たちは新しい100年に向かってしっかり頑張りましょう。

 

参考文献:スカウト運動 ボーイスカウト日本連盟発行

 


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10.スカウトの日

 

 1974 (昭和49)年に北海道千歳市内で開催さねた第1回シニアースカウトフォーラム(現在はスカウトフォ一ラム)で「より良い社会を目指して。スカウトは何をすべきか」について討議した桔果、「スカウト奉仕の日」を全国的に展闘することが提案されました。

 日本遭盟では、この提案を受けて1975(昭和50)から5月のこどもの日を中心にした1週間を「スカウト週闘」として全国的に奉仕活動を展開してきました。

 現在は、9月15日を「スカウトの日」として全国一斉活動を行い、さらに9月を強化月間として、環境・美化活動に限らず、地域の福祉、人権、平和、国際理解をテーマとした幅広い活動を身近なところから展鬧しています。これからも継続してみんなで頑張りましょう。

 スカウトカントリー大作戦は、1989(平成元)年に大阪連盟がポイ捨て空き缶の回収をカントリー(缶卜リー)大作戦として行っていたものを全国的に展開することになったものです。

 


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11.ジャンボリー Jamboree

 

 世界的に呼ばれているボーイスカウトの野営大会のことです。

もとはアメリカの日常的な言葉で、底抜けの騒ぎ・騒がしい・陽気な会合のことでベーデン・パウエル卿は、アメリカ旅行中にこの言葉を聞いて響きがいいから、ポーイスカウトの大会に使おうと決めました。

 そして、ペーデンパウエル卿は世界のスカウトが会場に集まって兄弟愛を過して、新しい世界的な運動に展開していくことを考えて、その名称を今までのエキジピジョンやラリーなどの言葉を使わずにこのジャンポリー」を採用しました。

 スカウト運動が100周年を迎えた第21回(イギリス)からは「世界スカウトジャンボリ一」と名称が改められました。

 

参考文献:スカウト用語の基礎知識 長 八洲翁著

 

 

「第1回世界ジャンボリー」

 

 1917(大正6)年にスカウティング発足10周乍を記念して、何らかの形で祝典を行いたい希望がありましたが、第1次大戦が長引いて実現が出来ませんでした。やむなく1920年まで延期されイギリス・ロンドン・オリンピアで行われました。

 そこで間題になったのが、適当な名称をつけることでした。B-P卿は記憶に残っていた「ジャンボリー」という名称を提唱し、世界中のスカウトが集まるのを望みましたが、この時代はまだ世界友情というスカウティングの理想はあまり受け入れられませんでした。しかし、B-P卿はスカウティングは国際観善に十分な力があると信じて世界的な大会にしました。

 そして、この世界ジャンボリーに日本から「小柴 博氏、千田豊松氏、鈴木リチャード氏」が参加し

ました。

 

「第23回世界スカウトジャンボリー」開催に立候補

 日本連盟では、2015年の第23回世界スカウトジャンボリーを山口県山口市きらら浜で開催する

よう立候補しています。

 


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12.連盟歌「花は薫るよ」

 

 「花は薫るよ」はボーイスカウト日本連盟の連盟歌です。歌詞は「花は薫るよ花の香に 陽は輝くよ 陽の光 われらに名誉の重きあり・・・」で始まります。

 この歌の意味は、本物の花は香りをまわりにただよわせる。大陽は陽の光をまわりに輝かせる・・・。

 このように、スカウトは名誉を重んじ、花に薫りがあるように、太陽に光があるように、スカウトはただ生きるのではなく、名誉という「かおり」や「輝くもの」をもって生きると唱うのがこの連盟歌です。

 この意味を今一度思いながら唱いましょう。

 

参考

 この歌は1924(大正3)年に正式に採用されました。作詞:葛原しげる作曲:山田耕筰

 

少年団団歌 ボーイスカウト日本連盟歌<JASRAC作品より>

 


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13.懐かしの森へ

 

 われはふくろ楽しきふくろ・・・・から始まるこの歌は、イギリスのスカウトソングに吉川哲雄氏が作詞したものです。

 1927 (昭和2)年に山中湖畔の日本連盟「山中野営場」で指導者の訓練(実修所・所長 佐野常羽)か行われ、所員の中に吉川哲雄氏がいました。

 その頃は、今のように交通綱が十分に発達していないので.馬車や徒歩で辿り着くことしかできませんでした。この人里離れたところでの実修は非常に効果的でありましたが、設備も不十分で所員もわずかで準備は大変に辛いものでした。

 そのような状況の中で7月の中旬頃、何回も準備のために往復した籠坂峠の道で、森の中の野営地へ帰りを急いでいるうちに、日がドップリと暮れて星がまたたいてきました。気分は、開設準備も終わってホットしている中で、仕事を終えて責任を果たし心静かに星空をみているうちに吉川哲雄氏は感にうたれておのずから歌の言葉が浮かんだと言い伝えられています。

 この歌を唱う時は、大先輩の心を感じながら唱いましよう。

 

参考文献:大阪ボーイスカウト運動史 初版

 

 参考

 この歌の碑は、古川哲雄氏の没後、その遺徳を偲ぶスカウターをはじめ各種関係団休など約500名の協賛によって、1968 (昭和43)年 久留島秀三郎総長が揮毫した碑が建てられた。

 山中野営場は、大正末期に開かれたボーイスカウト日本連盟の常設野営場 昭和46年7月にできた本館宿泊棟のほか各施設があり、大洞街道から北方を望む中央広場、佐野常羽の道心堅固碑がある佐野広場、吉川哲雄氏を記念して作られた「われはふくろ」碑のある富士見台、などがあります。

 

 

注:野営場の碑は「 山中の森へ」で、歌詞の前段も「われはふくろよ・・・」となっています。

 


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14.第1回大阪連盟カブラリー

 

 大阪連盟内のカブスカウト隊もようやく4ケ隊となったので、合同の集会をしてはどうかとの意見があり、話がまとまって1952(昭和27)年9月19日の秋晴れの大阪城内桐畑に、80人のカプスカウト(指導者保護者含めて250人)が集まってカプラリ一が行われました。

これが第1回目のカプラリーです。

 「ジャーン!ドンドン、シャン!ドンドン・・・狩りの歌」で幕があき、愉快なゲームや勇壮な騎馬戦、棒倒しなどが行われました。

 

参考文献:大阪ポーイヌカウト運動史 初版

 

 参考

 第2回 1954(昭和29)年8月8日  「服部緑地」  参加450名

第3回 1956 (昭和31)年6月17日 「大阪城桐畑」 参加350名

第4回 1958 (昭?II33)年5月3日  「靱公園」  参加3500名(近畿カブラリー)

第7回 1960 (昭和35)年4月29日 「中央体育館」 参加2000名

第11回 1968 (昭和43)年9月8日 「大阪城西の丸」 参加6700名

 

第24回 2007 (平成19)年4月29日「淀川河川敷公園」参加3938名

 


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15.初の大阪連盟キャンポリー

 

 快晴 無風の好条件に恵まれた1950(昭和2)年7月29日~30日に大阪連盟結成以来初めてのキャンポリーが大阪城内桐御殿跡(桐畑)で500名が参加して行われました。

 大阪市の中心地で交通も便利で木陰もあり広さもよく、外界とも隔絶されて絶好のキャンプ地でした。

期間中は、報告書や班活動、炊事や美化などの9項目30細目について採点があったり架橋や信号台、測量の競技や旗あげ競技、各種ゲー厶などに全員が楽しそうに炎天下で活動を続けました。

 

一大阪連盟キャンボりーの歴史一

・1950(昭和25)年7月29日~30日 大阪城内桐御殿跡 500人

・1954(昭和29)年8月7日~10日 豊中市服部緑地公園 2000人(内他県600人)

・1958(昭和33)年8月8日~11日 豊中市服部緑地公園 3000人(他県含む)

・1964(昭和39)年8月5日~9日 山中野営場   1900人

・1985(昭加60)年8月8日~12日 兵庫県神鍋高原 7000人  (OSLOCC’85)

・1999(平成11)年8月4日~8日 兵庫県神鍋高原 3500人  (OSCAP’99)

 

参考文献:大阪ボーイスカウト運動史 初版

 

 参考

大阪連盟創立50周年記念野野大会

1999 (平成11)年8月4日(水)~7日(土)兵庫県城崎群日高町神鍋高原

 


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16.アグーナリー Agoonoree

 

 障がいを持っているスカウトのキャンプ大会のことで、第1回の国際大会は1958年オランダで開催され、アグーン(AGOON)と呼ぱれたが、その後はアグーナリーと呼ばれるようになった。

 ギリシャ語のAGOON (集会、競技場の意味)からきた言葉で、ボーイスカウトでは「一つの国や数力国の障がい児スカウトが集まって開く大会」のことです。シャンボリーやキャンボリーのようにOREEをつけてアグーナリー (AGOONOREE)になりました。

 日本では、1973(昭和48)年に名古屋市で第1回が開かれました。

 第3回は1979(昭和54)年に大阪市長居公園で開催されました。

 

参考文献:大阪ボーイスカウト運動史 初版

 


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17.選抜高校野球の奉仕

 

 甲子園球場で行われている恒例の全国高等学校選抜野球大会開会式の参加校名プラカード保持手として、ボーイスカウトの節度あるキピキピとした動作に着目した主催者の毎日新聞社の要請によって、1950 (昭和25)年から奉仕スカウトを大阪連盟から派遣することになりました。

 それから現在まで連続してペンチャースカウト奉仕を行っています。

 また、第73回(平成13年)から女子スカウトも参加できるようになりました。

 2008(平成20)年3月の第80回選抜高校野球大会から、プラカード保持は出場校の代表者がもつことになり、ボ-イスカウトは国旗及び大会旗の入場や式典関係の補助等のセレモニー要員として奉仕することになりました。

 

参考文献:大阪ボーイスカウト運動史 初版

 


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18.ポケットブック

 

 大阪でスカウト運動再建の中でOBSC (大阪ボーイスカウトクラブ)が大きな役割と功績を残したものにボーイスカウトポケットブックの発行かありました。

 当時は、日本連盟をはじめ国内のどこにもボーイスカウトの参考書らしきものやパンフレットなどは一つもありませんでした。そこで、OBSCでは米国のハンドブックを中心に手引き書の発刊を計画してガリ版刷りのポケットブック初版を作りました、そして、この冊子を希望する人が大阪だけでなく東京をはじめ全国的に広がったので、活版印刷による出版を企画して1947 (昭和22)年7月に上質紙B6版64頁で2500冊が発行されました。これは、現在のポーイスカウトハンドブックと同じで発行された時からスカウトの必携書でした。

 

参考文献:大阪ボーイスカウト運動史 初版

 


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19.年長隊富士野営

 

 年長隊というのは今のベンチャースカウト年代のことで、1955 (昭和30)年7月に第1回1級スカウト富士特別訓練が日本連盟山中野営場で行われ、富士野営と呼ばれてから1969(昭和44)年の第12回年長隊富士野営まで実施されました。そして、1958(昭和33)年の富士野営は828名の参加者かありました。

 プログラムはパイオニアリング、開拓伐採作業、調理法、救急法、読図、一泊ハイク、水泳、筏づくりなどが行わわて、参加者はいろいろな技能を身につけなから精神的に自信と自覚を持つうことが出来て、自分のスカウティングに明るい光を見いだすごとができました。

 現在、年配の先輩スカウト仲間にはこの富士野営の経験者が多くいます。

 また、1964 (昭和39)年の大阪連盟15周年記念事業として、大阪連盟富士野営大会が行われ、1962名が富士山麓に集まり五泊六日の独自企画で実施されリ毎日新聞全国版に掲載されました。

 

 参考

 世界スカウト運動創始100周年記念事業

○大会の名称「富士チャレンジキャンプ」

○大会テーマ「ルネッサンスオブスカウティング(スカウテイングの復興)」

○大会期間 2007 (平成19)年8月14 日 (火)~20日 (月)六泊七日

○会  場 ボーイスカウト日本連盟山中野営塲

○参加者数 スカウト131人(内大阪14人)

 


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20.国際平和に寄与する運動

 

 1920 (大正9)年、イギリスのロンドンで第1回世界ジャンボリーが開催されました。世界の33の国と地域から8000人が参加しました。8月6日夕刻から始まった世界ジャンボリーの開会式で、ベーデンパウエル卿がスカウトに語りかけました。

 

 「スカウト兄弟諸君、私はスカウト諸君に重大な決意をしてもらいたい。

 世界の人々は言葉や姿が異なるのと同じように、その思想、感情が異なっている。第1次世界大戦は私たちに大きな教訓を与えた。特定の思想を他国に強要すると、大きな戦争になるという教訓を与えてくれた。

 そしてジヤンポリーは、私たちに大きな教訓を与えた。お互いが寛容な心をもち、助け合う精神で接するなら、そこに思いやりと調和が生まれてくることを教えてくれた。

 スカウト諸君か私の思いに同意してくれるなら、私たちスカウトの間に友愛を広め、スカウトの世界友情を高め、そLて人類の平和と幸福のために奇与できると思う。」

 

 そう語ったあとペーデンパウエル卿は「スカウト諸君、諸君は私と手をつなぎ、世界の平和と幸福のために尽くす意志があるか」と問いかけたのです。

 このベーデンパウエル卿の問いに答え、会場のスカウトは「イエス」の声をあげたのです。

  ここにボーイスカウト運動は国際平和に奇与できる運動であることが認識されたのです。

 


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21.日日の善行

 

 日日の善行は、ピーパーからローパーまでのすぺてのスカウトと指導者のスローガンです。

 ボーイスカウト活動の中では日日の善行を実践するように努めています。他の団体でも一日―善という言葉を掲げて善行を奨励Lています。

 始めは意識してそれを行っているうちに、いつの間にかその習性が身に付いて友第に意識しないで善行をしていくようにしています。

 以前は、ポーイスカウト活動の中でネッカチーフの先端を結んでおいて、何か善行をした後ネッカチーフの結ぴ目を解くようにすることをして、日日の善行を奨励していました。

このような習慣はいつまでも続けるようにしましょう。

 

参考文献:スカウト用語の基礎知識 長 八洲翁著

 

 参考

-プロミスコイン-

 

 スカウトが善行を行うと、左のポケットに入れておいたコインをそっと右のポケットに移します。スカウトは毎日このコインをポケットに忍ばせています。この習慣は、スカウティング発祥の頃から行われ、このコインを『プロミスコイン』と呼んでいます。このコインを販売している国の連盟も多くあります。

 

 あなたもやってみては?

 


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22.ハイキング

 

 ハイキングということぱは知っていても、この語源を知っているものはまずないでしょう。ハイクとはスコットランドの古語で、仲良く歩くという意味でもう死語になっていたものをB-P卿がスカウトの”訓練の旅”に使いました。その言葉が一般社会にも広まりました。

 仲のいい友と協力する旅ほど愉快なものはありません。スカウトのハイキングにも種々多様のやり方がありますが、人作りへの一つの道であります。

 これはわか国では、古来から行われてきたことで、雲水、托鉢、行脚、巡礼、お遍路.武者修行などみんな一つのハイキングでありました。宗教家の中には、実に偉大なハイカーが沢山おられまLた。弘法大師、西行法師など頭の下がる人々です。

 しかし、今のわか国のハイキングは自然をこわしたり汚している者が多すぎます。わか国の昔の「行脚」の心は決してそんなものでりませんでした。

 俳人の松尾芭蕉は[行脚の掟]の中でいろいろなことを言うていましたが、これらは、今のスカウトのハイキングの心とピッタりなのに罵かされます。世界ジャンポリーに派遣するのも一つの大きなハイクで、その心は少しも変わりません。修養としてのハイキングの妙味は実に深く広いものがあるのです。

 

参考文献:スカウティングの原点を探るシリーズ第1集 大阪スカウトクラブ編集複製

 

 参考

 

 俳聖芭蕉は「行脚の掟」の中に

・[一宿なすとも故なき再宿すべからず(これは旅には変化が必要との意)]

・[樹下石上に臥すともあたためたる“むしろ”と思うべし]

・[腰に寸鉄たりとも帯すべからずすべてのものの命をとることなかれ]

・[衣類器財相応にすべし。すぎたるはよからず。足らざるも然らずほどあろべし]

・[主あるものは一枝一草たりとも取るべからず]

・[川江沢にも主あり]

・[夕日を思い明日を思うべしにれは日々のプランをよく立てろゆきあたりばったりはいかんの意)]等々

(細野浩三の芭蕉研究による)

  


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23.野帳

 

 野帳とは、測量に際して現地で測った方向や方位、距離、目標物、地形などを簡易測量によって測定したり、その他いろいろな状況を記入しておきます。それを後で図面を作り上げ面積を算出したりします。図面を作らない場合でもいろいろな流れを記載することによって、現地の状況を後日に自己の計画や他の人役立つように、出未事の内容を時間を追ってすぺて簡潔に記録するノートや用紙のことです。

 ボーイスカウト活動では、その他に測量した年月日やその日の天候、経過地の所要時間、周囲の観察、所感、同行協力者など、いろいろな状況や出来事の内容をすべて簡麗に記録することが大事なことです。

 あるスカウトが野帳の記入が上手で、成人して仕事の中でいろいろな実験や研究の場で、系列的に経過、状況を観察して記録するのに野帳が大変役だったと言うことです。

 

 参考

 測定用語では、現地での観測データを直接記録するもので、一般的に手帳サイズの小さなノートのことで防水加工をしたもので、日本では、豊臣秀吉の時代に役人が農地の検地の際に携行した「野帳(のちょう)」が手帳の始まりと言われています。

 検地とは土地の測量調査であり、現場で野帳にその土地の面積・石高などの内容を記録してそれを基礎に最終的に検地帳(土地台帳)を作成して領主に報告Lていました。

 


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24.そなえよつねに Be Prepared

 

 ボーイスカウト以上のスカウトと指導者のモットー(標語)のことで、英語の頭文字のB・Pはスカウト運動の創始者であるベーデンパウエル卿のイニシャルにもつながります。

世界共通のモットーで、世界中のスカウトはそれぞれの国のことぱで掲げています。

 これは、スカウトは「いつでも心にも身体にも準備ができているぞ」という物事に対する積極的な姿勢を示しているということです。そのためにスカウト技能の取得や将来、社会で役に立てるようにスカウトとしての準備をしっかりと身につりることが大事です。

 

参考文献:スカウト用語の基礎知識 長 八洲翁著

 

 参考

 カブスカウトのモットーは「いつも元気」でどんな権力や宝物よりも、明るい健康な生活は大事なことです。積極的で活気に満ちた楽しい雰囲気で過ごせるようにということです。

 ピーパースカウトのモットーは「なかよし」です。

 


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25.ジャングルブック

 

 イギリスの文豪ジャード・キップリングが1894(明治27)年~1895(明治28)年に書いた作品で、ペーデンパウエル卿は、年少者の教育のポイントを人格と肉体的健康に重点をおいてウルフカブ部門(カプスカウト)の基盤としてこの「ジャングルブック」を採用して、1916 (大正5)年に「ウルフカブスハンドブック」の本を作りました。

 物語の内容は、インドのジャングルが舞台になって、赤ん坊の時に両親から離れてオオカミに育てられた少年「モーグリ」のお話です。

 

参考文献:スカウト用語の基礎知識 長 八洲翁著

 

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26.大英帝国と文化遺産

 

 「興亡の世界史」という全21巻の歴史書の中に「大英帝国という経験」と題された1巻があります。

その中で著者の歴史学者は19世紀、20世紀と繁栄した大英帝国が残した文化的な遺産を列挙しています。女王、紅茶、大英博物館、万国博覧会と列挙し、これに続けて、ポーイスカウトを挙げています。

そして、海外旅行と続きます。

 ボーイスカウトは大英帝国が誇る文化遺産に数えられているのです。加えて「ジャンポり一」は青少年の国際交流話動と評価されています。

 私たちがかかわっているこの運動は、歴史家が大英帝国の文化遺産、青少年教育運動と評価しているものなのです。誇りをもって活動Lましょう。

 

参考文献:興亡の世界史16 大英帝国という経験 井野瀬久美恵著 2007年発刊


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27.蒸気機関車ボーイスカウト号

                

 1930(昭5)年頃、イギりスの鉄道会社では当時、蒸気機関車の中で旅客用機関車に例外的に命名されていました。名前には、由緒ある場所や王名、歴史上の人物、文学者・訝人名、城、館、公園、湖、山、等のいろいろなシリーズがありました。各会社それぞれのデザインでネームプレートに刻まれて、車体の左右や動輪などに取り付へられていました。

そして、スカウト運動にゆかりのある名前の蒸気機関車もあり、その中で「Baden Powel」号と「The Boy Scout」号のネーム・プレートはロンドンのイギリススカウト連盟事務局と「The Boy Scout」のプレートはガールガイド連盟事務局に保管されているということです。

 

参考文献:鉄道の夢を追い続けたボーイスカウト 上島貞一郎著(ボーイスカウト日本連盟常務理事)

 


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28.ギルウェルパーク

 

 1919年当時のスコットランドの地区コミッショナーW.F.マクラーレンが指導者の訓練場として寄贈した約297,000㎡(約9万坪)の土地のことで、イギリスのロンドン東部にあります。

1540年頃のエドワード6世の時代は貴族の狩場で、なだらかな草原の起伏に川や森があり素晴らしい環境の土地でした。

 この土地で、1919年9月にウッドパッジコースと呼ぱれる指導者のための第1回実修所が開かれました。

 ベーデンパウエル卿はこのマクラーレン家の好意に感謝するためのギルウェルスカーフを作り、その表にマクラーレン家のギルドの紋章をつけて末永く感謝することにしました。

 

参考文献:スカウト用語の基礎知識 長 八洲翁著

 


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29.スカウティングはゲームだ

 

 “スカウティングリゲームである”というベーデンパウエル卿の名言がありますが、もし、私たちの日常生活が一つのゲームとしてこれを楽しむようになったら、その人の人生はB-P卿の理想に叶うと大先輩中村 知(さとる)氏の話です。

 そして、ゲームには必ず相手かあり仲間が出来ると言うことで、人と人とのつながりや

人に対するあり方、思いやり、責任やお互いに励まし合い、助け合い、協働することなどの生き方がいつのまにか身に付いてくるようになります。

ゲームをみんなで楽しみましょう。

 

参考文献:ちーやん夜話集刊行会 宮本守雄 村田正雄 松本石翠 住谷 豊

 


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30.スカウトサイン

 

 「スカウトサイン」を大切に見極めましょう。

 例えぱ、野球の監督が出すブロックサインや仲間の出す信号もそうですが,そんな意識されたものではなく「何かが起ころうとしている・何かが起っている・何かが起った」というような時は、すぺて何かサインが出ています。スカウトはそのサインを見逃さずに、その時に最善の役創を果たすことが使命であり大事なことです。

 そのためにスカウト活動では、ペーデンパウエル卿の畤代から日常的に「サイン」によって意志を伝えることを行って、スカウト一人ひとりが常に周りに注意を払い状況を見逃さないように習慣づけるようにしています。そしてそれを果たすためにスカウト活動では、知識や技能を体験によって身につけるとともに「サイン」を見逃さないようにしていくことが必要です。

 ベーデンパウエル卿の著書「帝國の若き騎士たち」のまえかきに

<そこにこめられた理論や考え方が習慣として実践されない限り、さほど価値を持たない>

と書かれています。

 


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31.日本で発行されたスカウト切手

 

 日本初のスカウト切手は、1949 (昭和24)年に開催された「全日本ボーイスカウト

大会」を記念したものです。現在まで5種が発行されました。(他に沖縄切手で1965

年に1件あり)

 最も新しいのは2002(平成14)年に大阪の舞洲で開催された「第23回アジア太平

洋地域ジャンボリー・第13回日本ジャンボリー」を記念し、ふるさと切手大阪版として発行されました。

 また、ガールスカウト切手としては、1963 (昭和38)年と1970 (昭和45)年があります。

(他に沖縄切手で1964 (昭和39)年に一件あり)

 

 参考

「さくら日本切手カタログ」(財)日本郵趣協会発刊

1949年に発行された「全日本スカウト大会」切手の制服姿のスカウトが描かれていますか、このモデルは日本人ではなくアメリカ人のジョージ・ラッセル少年です。

 


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32.世界最初のスカウト切手

 

 スカウト関係の切手は、150を超える国や地域で発行されています。小型シートを含めると5,000種以上になると考えられます。世界最初のスカウト切手は「メイフェキングの臨時切手」です。(写真のものです)

 1899年の第2次南アフリカ・ポーア戦争で、メイフェキングの町が包囲された時にベーデン・パウエル大佐は9歳以上の少年たちを招集し、斥候訓練(Scouting)を行い、メッセンジャーの役割を与えました。少年達は勇敢に機敏に活躍し英軍の士気を鼓舞しました。

 当時。町ではあらゆる物資が不足し切手も無くなったので「ペーデン・パウエルの肖像」と「自転車に乗るグッドイヤー少年」を描いた青写真の3種の切手を1900年に製造発行して使用しました。

これが「メイフェキングの臨時切手」で発行枚数は3,000枚余りです。

 2007年ヨーロッパで発iiされるヨーロッパ切手のテーマが「スカウト運動100年」で各国で多くのスカウト切手が発行されました。

 

参考

日本スカウト切手協会

事務局:〒150-0023 束京都胯川谷区若林3-17-6 大塚亜夫方 TEL/FAX 03-3412-5631

 (国際スカウト切手協会第17番支部ボーイスカウト日本連盟公認団体)

 

文献

「世界スカウト切手」 村山 有著(昭和4年刊)

「ボーイスカウト切手の解説」 郵趣誌 1967年~2006年の各誌

 


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33.ボーイスカウト運動100周年と欧州切手

 

 毎年、洗練されたデザインや色彩などで、ヨーロッパ各国や地域ごとに制作されたバラエティの豊かさで切手収集家にとって人気の高いヨーロッパ切手の2007年のテーマは「スカウト100年」で、ヨーロッパ各国や地域「40数力国と地域(ヨーロッパ地域・ユーラシア地域)」でスカウト100年をテーマとする切手が発行されました。

 1956年、ベルギー、フランス、西ドイツ、イタリア、ルクセンブルグ、オランダの6力国が初めての「ヨーロッパ切手」を発行しました。以後、年1回、様々なテーマを決めて各国で切手を発行しています。1969年にはCEPT(Conference of European

Tecommunications Administration)が発足し、現在まで50年以上の歴史を重ね、旧ソ連の崩壊などに伴い、参加国も年々増えていき。2006年には58力国と地域となっています。

 


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34.月へ行ったスカウト章

 

 1969年7月20日、アメリカ合衆国の宇宙ロケット、アポロ11号が月面に着陸し、アームストロング船長が人類史上初めて月に降り立ち、人類最初の一歩を踏み出しました。

 この人類最初の一歩を踏み出したアームストロング船長は、ボーイスカウトアメリカ連盟のイーグルスカウトでした。イーグルスカウトというのは、アメリカ合衆国の最高進級章を取得したスカウトで、日本で云えば富士スカウトです。アームストロング船長は、月面に降り立つ時、ポケットに「世界スカウト章」を持っていたのです。月に「世界スカウト章」を持って行ったのです。

 この月へ行って帰ってきた「世界スカウト章」は、後日、世界スカウト機構に贈られ、

現在も保存されています。スカウト仲間には楽しいエピソードです。

 また、アメリカ合衆国の最初の宇宙飛行士54人中、47人がボーイスカウト出身者でした。

 日本でも、野口聡一さんが現役の指導者として宇宙飛行士に選ばれ飛行の際「100周年記念旗」を宇宙に持って行きました。

 


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35.シートンとボーイスカウト

 

 「シートン動物記」で有名なシートンは1900年、アメリカ合衆国ニューヨーク郊外の自分の農場に少年を巣め、「ウッドクラフト・インディアンズ」と名付けた森林生活を取り入れたキャンプを行いました。ベーデン-パウェルがプラウンシー島で実験キャンプを行うより7年前に実施していたのです。

 そして、シートンはウッドクラフト・インディアンズの活動をアメリカ合衆国に広めたのです。そうするうちに、ボーイスカウト運動がイギリスからアメり力合衆国に広がり、シートンはウッドクラフト・インデiアンズの組織を率いて、ボーイスカウト運動に加わりました。1910平に設立さねたボーイスカウトアメリカ連盟の初代総長に、シートンが就任したのです。

 そして、ポーイスカウトアメり力連盟のハンドプックは、シートンとペーデン-パウエ

ルの共著とLて出版されたのです。このようにシートンもボーイスカウト運動に貢献した1人なのです。

 


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36.ボーイスカウトと皇室

 

 

 ボーイスカウトの全国大会である日本ジャンボリーに、毎回、皇太子殿下が臨席され

お言葉を戴きます。

 それは、ボーイスカウト運動と皇室との間に深いつながりがあるからなのです。

1921(大正10)年、昭和天皇が皇太子であった時、英国訪問をされました。その折、皇太子殿下(昭和天皇)はボーイスカウト運動に関心を持たれていて、ロンドンでベーテン-パウエル卿と会見しました。そしてエジンバラでボーイスカウト活動を実際に見られたのです。

 1922年には、皇太子訪英の答礼として、英国からエドワード・アルバート皇太子が来日しました。その時。アルバート皇太子は日本のボーイスカウト全国大会に出席されたのです。

 このような経緯があり、皇室がボーイスカウト運動に理解を示された歴史から、ボーイスカウトの日本ジャンボリーには、毎回皇太子殿下が出席されているのです。

アグーナリーやベンチャー大会にも、皇太子殿下あるいは秋篠宮殿下が臨席されてます。ボーイスカウト運動に対する理解を得ているのです。

 また、富士章を取得したスカウトの代衣表敬として、毎年東宮御所への代表表敬が行われ皇太子殿下から激励のお言葉をいただいています。

 

 

 


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37.世界スカウト記章

 

 1969年の世界スカウト会議で、世界スカウト記章が定められました。

 世界スカウト記章の中央はゆりの花で、3つの花びらで構成されています。中央の花びらは神へのつとめ、左側の花びらは他へのつとめ、右側の花びらは自分へのつとめを表しています。

 ゆりの花を取り囲むロープの輪はスカウト同士の絆を表し、2つの星は真実と智恵を表します。星は5角星で、2つあわせて10個の星の角は、スカウトの10のおきてを表しています。日本ではおきては8つですが、10の国が多いのです。

 ロープの結び目は、本結びになっています。どんなに強く引いても解けることはなく、世界のスカウト活動の一致団結を表します。 

 記章の白地は純潔を表し。紫色はリーダーシップと奉仕を表しています。       :

 

参考文献:イギリススカウト連盟「ボーイスカウトが目指すもの」

 


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38.平和の使者

 

 1929年、英国パータンヘッド市アローパークで、第3回世界スカウトジャンボリーが開催されました。65ヵ国から3万人以上のスカウトが参加しました。

 このジャンポリ一の開会式の場で、ベーデン-パウエル卿はアリーナの中央に斧を持って立ち、スカウト違に語りかけました。「ここに斧を埋めます。この芹は、戦争であり、敵意であり、悪意なのです。」そして、ベーデンーパウェル卿は斧を埋めると、木製の大きな金色の矢を各国代表団のリーダーに手渡して、語ったのです。

 「諸君は世界中のあらゆる国々から兄弟愛を持って、このアロー会場に集まりました。

今日、私は、平和と善意と友情のしるしを諸君に託します。今日、この瞬間から、金の矢が平和と友好のシンボルです。この矢を祖国に持ち帰り、この運動が平和と友好の運動であることを祖国に示すのです。祖国の同胞に、この世界ジャンポリ一の場で実証されたように、いかにわれわれの運動が素晴らしいか、余すところなく伝えてください。今日から諸君は平和と友好の使者となるのです。」

 第3回世界スカウトジャンボリーにおいても、ベーデン-パウェル卿は、ポーイスカウト運動が平和に資する運動と認識し、各国の参加スカウトに平和の使者となることを望んだのです。

 

参考文献:イギリススカウト連盟「ボーイスカウトが目指すもの」

 


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39.ジャンボリーテント

  Jamboree Tent

 

 鉄パイプ組み立て式構造の家型テントのことです。親綱(メインロープ)が無いので、テントの出入りが楽です。サイドも広く吊り下げ式の本体はあおり止め(ストームライン)で固定するので、荒天にも強い構造になっています。テント一式の重量は非常に重いですが、長期の固定キャンプに使用するときは最適です。 

 「ジャンボリーテント」の名称は、1971(昭和46)年の第13回世界ジャンボリーの時に、ボーイスカウト日本連想が宝くじ協会よIにのテントの寄付を受けて、これを各団へ配布したことからこの呼び名が使われるようになりました。

 


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40.スカウトハット

 

 ボーイスカウトの隊員や指導者が用いていた「つばが広い帽子」のことです。日本でも正帽として扱われていましたが、今は緑のベレー帽が正帽になっており、スカウトハットは副帽です。

 B-P卿が南アフリカでズール族と戦った時、つぱの広い帽子をかぷっていました。この帽子は太陽の直射日光から首筋を守り、ジャングルの中では木の枝から顔や眼を守ることができたことから、ボーイスカウトの正帽として用いられました。

 そして、その後世界各地で使用されるようになりました。

 スカウトハットは頭部の前後左右にくぼみ(凹)をつけ、先端をとがらせ紐は頭の後ろに回し、つぱの前の上側で結びます。帽章の最下部が帽帯(リボン)の上ふちにかかるようにハットの正面につけました。指導者は、ハットの左側に革製帽帯の上から帽章を付けます。

 


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41.パトローリング

   Patroling

 

 スカウトのハイキングは、一般の人々が山野を歩くハイキングと少し違います。

 スカウトは、パトローリングをしながら歩きます。パトローリングをすることで普通のハイキングと違って、スカウトのハイキングになります。

 パトローリングとは、班で行動する隊形(Patroling Formation)のことで、 B-P卿によって考案されたものです。

 ハイキングをするときに、チー厶ワークで観察・推理を効率的、自発的にそれぞれ分担して行い、その役務と責任を通して協働することによって班活動を楽しくさせるものです。

 隊形は前後に約10m位に広がって、先頭に次長、班長は真ん中で、左右にサインなどを見つけるためのスカウトがいて、最後尾のスカウトは行動中に異常の有無や安全を確認しながら進みます。その他のスカウトは、班長の助手として班長の側で計時や記録、伝令などをします。

     ←⑤

        ←⑦

←②   ←① ←⑧ ←③

        ←⑥

     ←④

 

 参考

・パトロール(Patrol)はスカウト用語では「班」のことで、巡視や巡回、偵察のこと。

・パトロールシステム(Patrol System)は「班制度」のことで、進歩制度とともにスカウト活動にとって重要なものです。

 


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42.大阪ボーイスカウトクラブの誕生

   (OBSC)

 

 太平洋戦争後、日本のボーイスカウト連盟の結成がなかなか正式に許可されないので、その再建まで取りあえずの組織として、東京ボーイスカウトクラブができました。

 それに応じて、1947 (昭和22)年6月16日に大阪ボーイスカウトクラブ(OBSC・

通称オプスクと呼んだ)が結成され、この日が大阪におけるスカウト運動再建の日となりました。

 かかわった人は、今田忠兵衛、宮本守雄、古田誠一郎、古川哲雄、中村 知、井上定次郎、中野忠八、松田 哲など戦前からの長い経験をもつベテランと、戦後新しく復興の意欲に燃えて運動に加わった人々による組織でした.

 その後、活発な活動が展開され、大阪市が主催する講習会を開いたり、西宮市甲山の北山公園キャンポリーや近畿各団のラリーなどが行われました。

 特に、当時はボーイスカウトの参考書らしいもの、国際パンフレットなどは国内のどこにも無かったので、「OBSC」でアメリカのハンドブックを中心に手引き書の発刊を計画して、ガリ版刷りのポケットブックをつくりました。

 


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43.大阪府連盟(現大阪連盟)の結成と日の丸掲揚

 

 

 1949 (昭和24)年9月10日の午後に日本ボーイスカウト大阪連盟の結成式典が大阪城公園教育塔の広場で行われました。そして、夜には結成記念キャンプファイヤーがあり、戦後大阪でのスカウト運動の対外的な幕間けとなりました。

 集まったスカウトたちのユニフォームはまだ揃っていませんでした。白のカッターシャツにネッカチーフ、あり合わせの半ズボンが大体みんなのスタイルでした。中にはネッカチーフの代わりに首に風呂敷を巻き付けたスカウトもいたようです。

 当時、GHQにより禁止されていた国旗掲揚や君が代斉唱がこの時認められ広場の掲揚柱に国旗が高々とひるがえりました。

※大阪連盟の創立は、日本連盟に正式加入登録をした昭和24年8月25日としています。

 

 参考

大阪ボーイスカウト運動史第4巻から抜粋

 

 終戦後、初めて国旗の使川が許可されたのは、この数日後の9月23・24日に、東京で日本連盟再建第1回の総会後、引き続き戦後初めての第1回全日本ボーイスカウト野営大会が皇居前広場で開催され、国旗をひるがえして堂々たる大行進を行った際とされているが、それに先だって大阪府連盟が実施していたことは、あまり知られていないようで、残念である。

(勿論当時は、国旗の掲揚は占領軍によって禁止されていて、ボーイスカウトは特別に許可されて実施したものである)

 


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44.大阪連盟事務所所在地の今昔

 

 大阪のボーイスカウトの起源は、明治の終わりから大正にかけての永い間手さぐりの状態だったが、1924 (大正13)年になって初めて連合組織体として「大阪連合少年団」として発足されたと言われています。その後、いろいろな動きを経て1927(昭和2)年12月に「少年団大阪地方連盟」と改称され、事務所は心斎橋「大丸呉服店2階」に置かれました。

 その後、時局の変化を受けて事務局を「大丸」から西区京町堀通4-1の「今田忠紙店」に移転開設されましたが、太平洋戦争中1945(昭和20)年3月13日に戦災で消失しました。

 そして、戦後の大阪連盟結成に際して、東区平野街2-7 (堺筋)今田紙業株式会社内に大阪連盟事務局ができました。1957(昭和32)年1月から1年2カ月の間は津村別院内に事務局が置かれました。

 それから1958 (昭和33)年3月20日に当時の西区靱下通り1-75の地に独立した事務局ができました。通称「うつぼの事務局」と言われて親しみがありましたが、老朽化や都市計画などのために移転することとなり、陳情の結果。大阪府の英断により、1972(昭和47)年2月、現在の「大阪府立青少年会館」内に事務局が開設されました。

 


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45.オスピック (OSPIC '77)

 

 昭和57年度は、大阪連盟に所属するシニアースカウト(現在のベンチャースカウト)と指導者数が2,500名を超えましたので、「シニアーの輝ける年」としました。

 そして、三重県伊賀霊山地区にオープンした「大阪市立伊賀青少年野外活動センター」で、「シニアーの手により、シニアーの力で、シニアーの汗と脂で」の合い言葉のもとに、OSPIC'77とネーミングし、野外活動センターのキャンプ場を開拓する計画をたてて、1 9 7 7 (昭和52)年7月14日から20日の6泊7日の間、青年合同ワークキャンプを行い、7月21日~24日、24日から27日の各3泊4日で実施しました。

 

 プログラムをはじめキャンプサイトの開拓など企画の段階から実施

にいたるまで、スカウトのニーズが集約されて、スカウト全員が主役となって活動しました。

参加者はスカウトと指導者合わせて約500名でした。

 


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46.オスロック (OSLOCC '85)

 

Osaka Local Council Camporee 1985

 

 大阪連盟は発足してから35年が経過して、当初の12個隊3 0 0名から330団33,400名に充実発展してきました。

 そして、創立35周年を記念する野営大会(OSLOCC'85)が1985(昭和60)年8月

8日から12日まで、兵庫県城崎郡日高町神鍋高原で盛大に闘催され7,000名を超える参加者がありました。

 このような規模で野営大会を実施するのは初めてのことで、その計画、凖備に大変苦労があったようです。

 


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47.左手の握手

 

 一般に握手は右手でしますが、スカウト仲間は、親しみの心や仲良しのしるしを表すた

めに「左手の握手」をします。

 これは、全世界共通のスカウトの挨拶する仕方になっています。左手の小指をあけて三指として、スカウトサインの形で握手をします。

 ボーイスカウトが左手で握手を用いるようになったのは、B-P卿が西アフリカで軍人として戦争中、1896年にアシャンティ族との戦いで、負けた相手の酋長が風習で左手で握手をして欲しいと願ったことからヒントを得て使うようになりました。

 左手の握手はアシャンティ族の風習では、酋長と最も信頼されている者との間に交わされる特別なしるしなのです。

 


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48.クードゥホーン 

  Koodoo horn

 

 

 クードゥは南アフリカにいる「しまかもしか」のことで、その角で作った角笛が「クードゥーホーン」と呼ぱれています。

 1896年のマタベル事件で、当時、軍人であったB-P卿がアフリカのマタペルラン

ド遠征軍にいたときに、反乱してきた原住民たちがお互いに連絡をするのに、このク一ドゥーの角笛を吹いていまLた。

 戦いが終わってB-P卿は戦利品として、この角笛を持ち帰り、1907年のブラウンシー島での実験キャンプの始まりの合図に使用しました。

 その後、1919年のギルウェルパークでの実修所では当番班長が吹き、第1回及び第3回世界ジャンポリーでもB-P卿自身が吹き鳴らしたと言われています。

 


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49.三島通陽と那須野営場

 

 三島通陽は、1951 (昭和26)年から1965 (昭和40)年の闢、ボーイスカウト日本連盟第4代総長を筋め、ボーイスカウト日本連盟に那須野営場を寄付された方です。

 明治30年1月1日に東京の麻布で生まれ、小さい頃は病弱でしたが、文学が好きで創作活動と国文学を研究し、父のあとを継いで子爵となりました。

 23歳のときからボーイスカウト運動を始め「少年団日本連盟」の創立に当たり、副理事長に選任されました。その後、後藤新平総長や二荒理事長の信任を受けて組職確立の陣頭にたち、第2回世界ジャンボリーや第3回国際会議に参加しました。また、外国文献の翻訳をはじめ指導者用の書籍を編集出版しました。

 太平洋戦争後は、ボーイスカウト運動再建のために努力され、52歳の時に戦後初めての日本連盟理事長に就任し、昭和26年に第4代総長になりました。また、栃木県西那須野町に所有していた土地家屋(三島家の別荘)を日本連盟に寄付されました。それが私たちが大いに活用している那須野営場です。

 この那須野営場は、もともと、那須開墾の人と地元の人たちから尊敬されていた子爵三島通庸(三島通陽の祖父)の思考発想の場所でした。

彼は、「開墾の心は土と人の愛情がある結びつきである」「私の開墾事案は善良な人間作りにある」といつも語っていました。

 今、その場所でスカウトの育成や幾多の指導者の養成が行われている由緒ある野営場なのです。

 


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50.ちーやん歌集

 

 数多くのスカウトソシグを作詞・作曲された私たちの大先輩中村 知著作の歌集です。

 中村 知は通称「ちーやん」と呼ぱれましたのでちーやん歌集と愛称されています。

1969 (昭和44)年に発行されましたが、現在は絶版になっています。

 よく歌う「永遠のスカウト」「B-P祭」「カプコール」「狩りの歌」「山鳩」「月下

の営火」などが納められています。その「あとがき亅に次のようなことを書いています。

 その内容をまとめてみると

「私の作詞・作曲したものを集めて本にしてあげると言われてまとめましたが、専門家ではないので、音楽の通念では脱線しています。作詞家や作曲家ではありません。音楽家として作ったのでもありません。

 私は60年の長い間、ボーイスカウトまた指導者としての生活の中から生まれて作ったもので、スカウト生活やその教育に歌「Song」は欠くことができません。

 スカウトの皆さんが、この歌集によってスカウト精神を高め、立派な市民となって世のために尽くして欲しいと願っています」。

 

 このようにスカウトソングはスカウト活動を楽しくする効果があるので、いろいろ活動の中で大いに心から唱うようにしましょう。

 

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51.野営工作 Camping Craft

 

 テントを使って野営(camp)するときに、その生活に必要なものを竹や木をひもなどで縛って作ることを野営工作と呼んでいます。

 今は、電気・ガス・水道などが自由に使えて。大変便利な世の中になっていますが、野営地でその場所にある材料を利用して野営工作をすることは、都会生活では経験出来ない創意工夫や応用能力などが身に付くようになります。

 ボーイスカウトでは.立ちカマド、食卓、調理台、流し、食料保管庫、物干し、工具置き場など生活に必要な数多くのものを創意工夫して作ります。また、作るときには角しばりや巻き結び、すじかいしばりなど縄結びをしっかりマスターしておくことが大事です。

 


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52.追跡サイン

 

 私たちの町の中では、行く先や道順などはわかりやすい表示があって、特に迷うことなどはありませんが、山野をハイキングする時は様子が違います。

 ボーイスカウトでは追跡ハイキングをします。追跡ハイキングをする場合、後のスカウトが道を間違えないで正しく目的地へ到達するように、木や草や石を使って表す秘密のサ

インをつけます。

 そのサインは「この方向に進め」「目的地近し」「目的地まであと○○キロ」「注意亅「帰った」などがありますが、白分たちでも新しいサインを工夫して楽しいハイキングをしましょう。

 

 参考

 平成14年1月、熊本県球磨郡で4人が乗った小型飛行機の墜落事故が発生しました。重傷を負っていた高校2年生が、山中から助けを求めて下山しました。

 この高校生はベンチャースカウトでした。彼は下山の途中、林道の分岐点ごとに後で捜索隊を墜落現場に案内できるよう石を積んでサインを残したのです。このサインのお陰で捜索隊を現場にすみやかに誘導することができ、骨折で動けなかった1人が救助されるという事がありました。

 追跡サインを残すという機転が人命救助に役立ったのです。

 


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53.斧のマーク (Axe and log)

 

 このマータは「イギリス・ギルウェルパークのキャンブエムプレム」です。

 考案したのは、フランシス・キドニー(Francis Gidney)です。キドニーはギルウェルパークを新しい発想のキャンプ場にしようとして、アウトドアーとウッドクラフトを結びつけて作ったのがこのマークです。

 キドニーは1919年に開設されたギルウェル実修所のスタッフで、その後B-P卿から任命された最初のキャンプチーフとして、コースの中ではアックス投げの名人でした。

 また、マクラーレン家のタータンを取り付けたギルウェルスカーフの考案者でもあります。

 

 参考

最初のコース

 1919年9月8日(金)から9月19日 (金)にかけて開催されました。名称はスカウトオフィサーズ訓練コース(Scout Officer's Training Course)と呼ばれていました。最初の隊長コースはウッドクラフト訓練場でした。イングランド及びウェールズの各地から、また広範な年齢層や職種からなる19人の隊長が試された。

 


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54.B-P卿肖像画

 

 戦後、日本連盟再建に連合軍のオランダ代表部のハウト少佐が終始援助をしてくれました。少佐が帰国することになったので、昭和24年1月13日、感謝の意を表すため感謝章並びに記念品を贈呈しました。

 その時にハウト少佐から2枚のペーデンーパウエル卿肖像画の写真が返礼に贈呈されました。その1枚は日本連盟本部にもう1枚は大阪連盟に飾られたのです。

 その写真は、今の大阪連盟事務局に掲げられています。

 

(ハウト少佐はオランダスカウト指導者で、ギルウェル実修所を修了したのです)

 


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55.アンノウンソルジャー Unknown Soldier

 

 太平洋戦争の終わりに近づいた頃、南太平洋の小さな島で起こったことです。一人のアメリカ兵が重傷を負って倒れていた時、人の足音に気がついて眼を開くと、一人の日本兵が銃剣を持って突っ込んでくるのが見えてそのアメリカ兵は気を失ってしまいました。

 やがて気がつくと、日本兵は居なくなってそぱに紙切れがおいてありました。

 アメリカの赤十字に助けられ、タンカで病院に運ぱれていた時に。紙切れを思い出して「ペーパー、ペーパー」と云ってドクターに渡しました。

 その紙切れには「私は君を殺そうとした日本兵だが、君が三指の敬礼をしながら気を失っている姿を見て、私も子どもの時はスカウトだったことを思い出して、スカウト仲間の君を殺すことなんかできないので傷の手当てをしておいた。グッドラック。」と書いてありました。

 この重傷のアメリカ兵は無事にアメリカに帰り、お父さんとアメリカ連盟を訪ねてこの話をして献金をして帰ったそうです。

 三鳥通陽総長はこの元スカウトだったこの日本兵を探しましたが見つからず、名前も分かりませんでした。後にこの話が伝わり、日本中のスカウトの募金運動にまで発展しました。

 そして、当時の日本連盟理事長の久留鳥秀三郎氏らが中心となって、無名の戦士の記念像が作られ神奈川県の子どもの国に建てられました。

  


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56.ウルフ・カブ Wolf Cub

 

 ボーイスカウト年代以下の子ども達が活動できるようにベーデンパウエル卿が考えた部門で、日本のカプスカウトのことです。

 ペーデンーパウエル卿はスカウト運動が始まった後、ボーイスカウト年代以下の子ども達ためのプログラムを考えました。そして、英国の文豪ラジャード・キップリングの「ジャングルプック」を基盤として1916年に「ウルフカプス・ハンドプック(Wolf Cubs Handbook)」を執筆し、それが活動の基本となりました。ウルフカプは狼の子という意味です。

 日本では、1924(大正13)年6月に古田誠一郎氏によって神戸市須磨に最初のウル

フ・カプ隊が誕生しました。

 そして、ジャングルブックの中に出てくるウルフ(狼)は日本には生存Lないので、日本に向いたいろいろな物語が試案されました。太平洋戦争後の昭和26年、日本のカビングは、ウルフカプス・ハンドブックに倣って日本昔話の「金太郎」を中心とした「足柄山物語」を創作しました。

 

 これをカプスカウト活動の中核となる物語としたのです。

 


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57.ローランド・フィリップス

 Roland Erasmus Philipps

 

 B-P卿が考案したパトロールシステム(Patrol System)「班制度」のことを本にまとめたのがローランド・フィリップスと言う人です。

 彼は英国の貴族の家に生まれました。B-P卿がボーイスカウト運動を始めた頃にそのスカウトになりました。オックスフォード大学を出ると単身ロンドンのスラム街で、小さな家を買ってクラブハウスのようなものを改造して、周辺の少年たちを集めてボーイスカウトを作り、隊長となって周辺の有名だった不良少年たちを指導して立派なスカウトにしてました。

 その頃、第一次世界大戦が勃発したのでローランド・フリップスも従軍に志願しました。そして、自分の邸宅を売り払い、朝食会の時に友人に次のような事を話しまLた。

 「おそらく生還はできないだろう。そこで頼みがある。イーストウッドの子供たちのことで、このお全で家を建てて子供たちを教育してくれ」と言いました。そして彼は戦死したのです。

 友人達はその意志を継いで立派なスカウトハウスを建てて、「ローランドハウス」と名付けてフリップスの使っていたものを展示されています。

 


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58.聖ジョージ

 (St. George)

 

 B-P卿は、スカウティング・フォア・ボーイズの中で、イギリスの騎士道のことについていろいろと書いています。その中で唯一人馬に乗っている聖ジョージは騎士の守護聖人で、B-P卿はその聖ジョージを世界中のポーイスカウトの守護聖人であり、だからスカウトは彼の話を知っていなけれぱならないと云っています。

 B-P卿はスカウティング・フォア・ポーイズには次のように書いています。

 騎士の守護聖人の聖ジョージは聖人の中でたた一人馬に乗っていて世界中のボーイスカウトの守護聖人だ。聖ジョージは西暦303年カッパドキアに生まれた。17歳の時に騎兵になりすぐに勇敢なことで有名になった。

 それは、ある時セレ厶という町に行ったが、そこの近くには龍が住んでいて、毎日一人づつくじに当たった住民を食べていた。ちょうど聖ジョージがこの町に来た日、王様の娘オセリングがくじに当たった。聖ジョージはこの娘を殺してはならないと決心して沼に住んでいる龍と戦って龍を殺した。彼は、困羅や危険に直面したとき、それがどんなに大きくてもそれを避けたり恐れたりすることなく、自分と馬の全能力を発揮して立ち向かった。やりを持っているだけで戦いに十分な武装をしていなかったが勇敢に突進して全力を傾けて、とうとうだれも立ち向かおうとしなかった困難に打ち勝つことに成功した。

 これこそ困難や危険がどんなに大きく恐ろしいものに見えても、またその戦いに対して装備が不十分であってもスカウトがとらねばならない道なのだ。

 

 

 参考

道臣命(みちおみのみこと)

 大正天皇からボーイスカウト初代総長の後藤新平氏が御造物として賜ったのが、建国のパイオニアであった木彫の道臣命(みちおみのみこと)でした。

 パイオニアとスカウトということで、後藤新平総長は道臣命(みちおみのみこと)は自分が持っているよりボーイスカウトの守護神としてお祭りするほうが良いと思われて、神武天皇祭にあたる1928(昭和3)年4月3日に全国一斉に、奉斎式が行われました。以後、少年団健児(今のボーイスカウト)の守護神として、橿原神宮の南方に鳥坂(つきさか)神社に祭ってあります。

 


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59.合同野営大阪大会

 

 昭和29年8月17日から10日間、大阪府貧中市服部緑地公園で合同野営大会が華々しく開催されました。この大会が太平洋戦争後関西で開催された初めての大規模な野宮大会でした。岡山をはじめ福岡、鹿児鳥、富山、長野など2府12県からスカウト約2,000人がリュックを肩に参加しました。

 日頃はあまり人の気配もまれな服部緑地の緩やかな45万坪の芝生の上に、テントの大群が出現し、これまでにない壮大な大規模の野営が展開されました。

 今日の服部緑地では、 2,000人がテントを張ったことなど想像もできないことです。

 


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60.大阪連盟の地区の変遷

 

 大阪連盟では大阪府下のスカウト隊が増えたのに対応して、地域を設けました。その変遷は次の通りです。

○昭和24年大阪連盟創立当初は7つの地区でした。

 大阪市北部、大阪市南部、中河内方面、豊能方面、三島方面、北河内、大阪南部

 

〇昭和26年9月は地区が8つになりました。

 淀川地区、城北地区、中央地区、南東地区、三島地区、北河内地区、豊能地区、泉川地区

 

○昭和28年9月現在の地区区分は

 淀川地区、城北地区、中央地区、南東地区(住吉地区、中河内地区、南河内地区)三島地区、北河内地区、豊能地区、泉州地区

 

O昭和44年10月現在の地区区分は11地区になりました。

 淀川南地区、淀川北地区、岐北地区、中央地区、南東地区、阪南地区、東阪地区、豊中地区、 泉州地区、泉州南地区、三島地区

 

○昭和55年10月現在の地区区分は16地区となり増加の一途をたどりました。

 淀川南地区、淀川北地区、城北地区、北大阪地区、中央地区、南東地区、阪南地区、東阪地区、豊能地区、豊中地区、三島地区、吹田地区、泉州地区、泉州南地区、南大阪地区

 

○平成元年3月現在の地区区分は17地区となり広く活動が盛んになりました。

 豊能地区、豊中地区.三島地区、吹田地区、淀川北地区、淀川南地区、中央地区

 城北地区、北河内地区、北大阪地区、南東地区、阪南地区、東阪地区、南大阪地区、泉州地区、泉州東地区、泉州南地区

 

○平成20年3月現在の地区区分には名称変更や合併などで16地区になりました。

 豊能地区、豊中地区.三島地区、吹田地区、淀川北地区、なにわ地区、城北地区、北大阪地区、北河内地区、南東地区、阪南地区、東阪地区、南大阪地区、泉州地区、泉州東地区、泉州南地区

 

 


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61.大阪連盟の歌

 

 大阪連盟満20年を記念して昭和44年10月12日「結成20年大会」を開催しました。多くの関係者の熱意と努力があって、大阪厚生年金会館で式典が行われ、大阪会館で祝賀パーティありました。

 そして、この20年大会を記念Lて「大阪連盟の歌」を募集したところ、当時の大阪第67団少年隊班長赤松正志君が作詞したものが選ぱれ、それに中村 知日本連盟嘱託が補詩作曲し、カブスカウトとリーダーによる合唱隊により記念式典で発表されました。

 みんなで唱いましょう

 

1大阪連盟スカウトは

 やくそく・ちかいの仲よしだ

  あおぐ全剛・葛城の

   豊かな史跡と伝統を

 心に刻み B-Pの

  教えを伸ぱそう

   われら ソラわれら

2大阪連盟スカウトは

 さだめとおきての仲よしだ

  ひかるうしおのちぬの海

   あふれる希望と 胆力を

 からたにみたし 感謝こめ

  世のためつくそう

   われら オオわれら

 


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62.スカウトサインと敬礼

 

 スカウトサインはボーイスカウト年代以上のスカウトや指導者は三指の形を用います。

スカウトサインをするときの手の形で、右手の親指と小指を付けて人差し指・中指・薬指の三本をつりて立てます。

 三本を立てる意味は、スカウトの三つの「ちかい」を示していることと、コンパス(磁石)のN(北)に合わせて人生の正Lい方向を指示し、これを上に上げることによって向上することを表しています。

 敬礼はスカウト仲間の挨拶や国旗儀礼の畤などに使います。姿勢を正しくしてスカウトサインと同じく右手で三指を作り、人差し指と中指の間を右目の右上と帽子(ベレー)に触れるくらいのところに、指の腹を少し外向けにする。肘の肩の高さまであげます。手の上げ下ろしは最短距離を通るようにします。

 スカウトは歳の老若に関係なく、相手を先に見つけた者が先に敬礼をします。

それがスカウト仲間のルールです。

 

 このスカウトサインは全世界共通のものです。

 

 参考

 カブスカウトのサインと敬礼 ビーバースカウトのサインと敬礼

 

○カブサイン

右手で二指をつくり、まっすぐ上に高くあげ、人差し指と中指を広げる。世界中のカブスカウトのサインで、仲間であることを意味しています。「やくそく」をする時や「カブ隊のさだめ」を唱える時などで使います。

 

○カブスカウトの敬礼

右手の人差し指と中指を広げて、人差し指の先が帽子のひさしに付くようにする。二本の指は、二つの「やくそく」を表し動物の耳の形を表しています。

 

○ビーバーのサイン

ビーバーの「やくそく」と「きまり」を唱える時などで使います。右手の人差し指と中指を付けたまま伸ばして右腕を垂直に立てます。

 

○ビーバーの敬礼

  右手の人差し指と中指を付けたまま仲ばし、人差し指を右眼の横に付けます。二本の指の腹は少し

 外向けにします。二本の指は、ビーバーに「やくそく」を表しています。

 


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63.大阪のボーイスカウト運動のはじまり

 

 明治の終わりから大正にかけて、当時の青年団や子ども会のような活動を運営していた人々が、英国でのボーイスカウト運動に注目して、自分たちの団体にその教育方法を採用するようになりました。

 その流れの地域の団体としては、御津ボーイスカウト団、曾根崎義勇団、清堀少年団、YS少年義勇隊、豊崎第1~第5少年団、大仁少年団などがありました。また、職域の団体とLて大丸ボーイスカウトや宗教団体では金光教少年団や本願寺派の団がありました。その他に連合結成時にはなくなっていましたが、1914 (大正3)年に発足した大阪YMCAの団がありました。

 

 1924(大正3)年になってそれらが集まり、初めての連合組織体が結成される運びとなりました。

大正13年2月23日に東区久宝小学校に三鳥通陽氏等を迎えて、「大阪連合少年団」として結成式典を行い発足することになりました。

 初代の大阪連合団理事長に。御津ボーイスカウト団長の奥村幸二郎氏が就任しました。

 

 

参考文献:大阪ボーイスカウト運動史第1巻

 


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64.オスキャップ

  OSCAP-J '99

 

 オスキャップ OSCAP-J'99

(OSAKA JUBILEE CAMPOREE 1999)

 

 大阪連盟創立50周年記念野営大会は、1999(平成11)年8月4日(水)から8月7日(土)までの3泊4日の日程で、兵庫県城崎郡日高町の神鍋高原を会場として開催されました。

 海抜300~400m、約30万㎡の広大な高原地帯での開催でした。テーマに「自然ひと 感動-新世紀へ」と掲げ、海外等も含めて参加団(230団)参加隊(206隊)参加者総数(3,205名)が集まりました。

 期間中は、キャンプサイト生活をはじめ各種の楽しい選択プログラムを但馬ドームアリーナを中心に展開し、スカウトたちは挑戦しました。

 

 参考

 オスキャップに参加した海外スカウト(14ヶ国216人)

 

・招聘9カ国27人(万国博覧会記念協会からの補助金によって招聘した)

フィリピン(3)、モルジブ(3)、パプアニューギニア(3)、バングラディシュ(3)、タイ(3)、スリランカ(3)、インドネシア(3)、インド(3)、モンゴル(3)

 

・自費渡航7カ国219人

インドネシア(1)、モンゴル(5)、シンガポール(1)、台湾(90)、韓国く日韓スカウト交歓事業>(70)、韓国<泉州・泉州東交歓事業>(39)、アメリカ<泉州・泉州東交歓事業>(12)、アジア太平洋地域事務局員(l)

 


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65.ブラウンシー島の実験キャンプ

 

 B-P卿がスカウト運動をはじめた実験キャンプは、1907 (明治40)年8月1日~8日(実際のキャンプ期間)イギリスのドーバー海峡にあるブラウンシー島のー角で行われました。

 参加した20人の少年達は、オオカミ(狼)、シギ、カラス、牡牛の4班に分かれてテント生活や活動を始めました。その内容は、ゲームや競技、観察訓練、騎士道、人命救助、愛国心など非常に広範囲なものでした。

 少年達の服装は指示されていたフランネルの半ズボンで、B-P卿も半ズボン、モール刺繍の袖飾りのあるシャツ、肩布、ネクタイ、フェルト帽子でした。

  当時としては、オシャレな服装でした。

 


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66.飯盒(はんごう)

 

 屋外で米を炊くための携帯用食器兼用のアルミ製の深底の炊事用具です。つる型の取っ手が付いた本体に、蓋と中蓋で1セットになっています。

 ルーツはヨーロッパで生まれたと言われていますが。ドイツでは19世紀末から現在と同様なものが使われていたようです。

 日本では、明治維新以後に徳川慶喜が自宅で飯盒で米を炊いて楽しんだという逸話があります。

 陸軍が日清戦争の頃から使用していたものは、漆塗りやホーローの素材で作り食器としての機能しかなかったそうです。明治31年頃から陸軍で製造された飯盒は米が炊ける機能をもち、昭和7年頃に採用された飯盒が内盒とタト盒の形式になったとされています。中蓋は計量用のマスになって330cc 米280g (2合)が入ります。外蓋は米3合が入ります。

飯盒の本体のくぼみ側に目印(水量線)が上下2カ所にあljます。中蓋1杯(2合)の米を炊くときは下の線まで。中蓋2杯分の米の時は上の線まで水を加えるとうまく炊くことができます。

 しかし現在では、飯盒はキャンプ用品としては見かけられなくなってきました。

 


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67.助松海岸での合同野営

 

 1930(昭和5)年、以前から念願であった合同野営が、助松海岸(現在の大|双府泉大津市助松)で8月1日から8日間開催されました。

 当時、助松海岸は大阪湾に面した白砂青松の海辺で、そこの土地の豪族田中正治氏の邸宅「遠州園」があり田中氏の好意で海岸の松林一帯の土地15万平方メートルを借用して開催しました。

 南海電車の沿線で交通の便宜もよく、以後毎年合同野営が行われましたが、戦時体制の国際情勢や国内事情が悪化して、1938(昭和13)年を最後に無くなりました。

 昭和11年からは、今田忠兵衛を野営長に宮本守雌、松田松太郎が副野営長、本部付に中村 知、今田忠二郎、東京からは古田誠一郎という顏ぷれで、戦前のスカウト仲間の思い出の野宮地でした。

 


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68.スカウトペース

  Scout Pace

 

 目的地へ急ぐ時、早足では間に合わないからと言って、駆け足ばかり続けていくと疲労してしまいます。ハイキングやいろいろな行事の中で、目的地を目指して疲れを最小限に、体調を崩さずに歩くことができるのがスカウトペースと言われています。

 それは、はじめの10歩は早足で歩き、次の40歩を駆り足で進みます。これを繰り返しながら行うもので、スカウトペースは15分間に2km(時速8km)で進むのが一番良いとされています。それよりも早くても遅くても効果はあまり期待出来ないようです。

 また、何分経つたから何km歩いてきたなど測量にも役立ちます。

 

 活動の中で。何度も繰り返し体験して身に付けましょう。

 


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69.手旗信号

 

 手旗信号は船乗りが考えたものと言われています。広い海の上では大声をだしても船と船の間では風と波のために人間の声は切れ切れになってとても聞こえません。今では、無線やレーダーなどで通信や確認が出来ますが、昔は眼で見える合図をするしか方法がありませんでした。

 日本では1893 (明治26)年頃当時の海軍だった釡谷忠道と道本場声が協同して力夕カナ文字を考案したと言われています。

スカウト活動で体得する手旗信号は、単に技術の修得だけでなく人間として人格や健康、技能、奉仕の基本が身に付かなければなりません。動作の中には、筋肉の運動や神経系の活発な働き、りズ厶感覚などを養い心身の発達に役立ちます。

 

 正しい動作を身に付けていろいろな場面で大いに活用しましょう。

 


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70.キャンプおおさか

 

 指導者の研修場として活用されてきた借用地の「畑キャンプ場」が、地域間発に伴い閉鎖されることになったので。大阪連盟のキャンプ場に適した場所を探していたところ、枚方市穂谷地区の地主のご好意で、2万坪の土地を借用できるようになりました。

 そして平成4年10月1日地主との契約を交わし、この場所を「キャンプおおさか」と命名して、管理委貝会を設け初代委貝長に星野信二氏が就任し、キャンプ場内の道路や電気設備、水場の整備などが行われました。

 このキャンプ場は管理楝を設けないで、自然を残したキャンプ場として運営するようになっていますので、活用する時は自然愛護の精神を忘れないで活用しましょう。

 2007(平成19)年のスカウト運動100周年記念事業で、このキャンプ地に「サンライズの鐘」と呼称する記念の鐘が設置されました。

 


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71.スカウト章が入っているコイン

 (100周年50ペンスコイン)

 

 世界スカウト運動創始100周年を記念して、ボーイスカウト発祥の国である英国で、スカウト章が入った記念コインが王立造幣局から発行せれました。

 日本連盟では、記念畳(タトウ)神入りを限定50個が商品として取り扱われました。

 

 意匠及び仕様

貨種 50ペンス

意匠 表:エリザベスⅡ世女王陛下の肖像

   裏:スカウト章

量目 8.00グラム

素材 白銅

 

 参考

 畳(夕トウ)紙には、B-P卿の紹介からボーイスカウト発祥、ボーイスカウトのちかい、今日のスカウティング、2007年の記念行事などが印刷されています。

 英国では、エリザベスⅡ世女王陛下ご時世記念として、王室を主とした国家事績に基づいて記念コインが発行されてきました。

 1953年の戴冠式が初回で、1965年にチャーチル卿迫悼、1973年に欧州共同体加盟、1981年にチャールズ皇太子ご成婚などが有名です。

 

(現在、英国はEUに加盟していますが、通貨ユーロには参加していません。)

 


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72.緑の募金

 

 昭和25(1950)年頃は、4月1日から7日間「緑の週間」の行事が行われ、太平洋戦争後の荒れ果てた土地を緑豊かな国土に戻すために、ボーイスカウトも協力し文化日本建設の基盤に役立ちました。

 昭和27 (1952)年からは緑の羽根の街頭募金に協力することになり集まった募金でスカウトが購入した苗木を募金に携わったスカウトが植樹して育てるという活動につなげています。それから以降は、毎年この募金活動に各団や隊が参加協力しています。

 現在は大阪府では、(財)大阪みどりのトラスト協会が募金団体に指定されて、これにボーイスカウトも奉仕活動の一環として、舂と秋の一定期間に緑の募金の呼び名で街頭募金を行い、街の緑化や飛林づくりに取り組んでいます。

 大阪府下の街頭募金の大半はボーイスカウトの手で集められています。

 

 

参考文献:大阪ボーイスカウト運動史第1巻

 


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73.世界の総長

 

 1920年8月、イギリスのロンドン、オリンピアで開催された第1回世界ジャンボリーの最終日となった8月6日、夕刻から閉会式が開かれました。アリーナには33ケ国、8,000人のスカウトが集まり、各国の旗、スカウトの班旗がひるがえりました。アリーナにB-P卿が立つと、会場の一角からスカウトが、B-P卿に対し「チーフ・オプ・ザ・ワールド」の声をあげました。

 その声は次々と広がり、アリーナ中のスカウトが「チーフ・オプ・ザ・ワールド」と声をあげ、スカウトたちがB-P卿を肩車で会場を練り歩きました。

 「チーフーオブ・ザ・ワールド」は「世界の総長」と日本語に訳されています。

 これはプログラムに計画されていませんでした。スカウトの中から発せられた称号で。

 

以来、B-P卿は「世界の稔長」と呼ばれています。

 


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74.スカウティング・ファア・ポーイズ

 

 1908年1月から2週間に1回、計6回にわりて6分冊の「スカウティング・ファア・ポーイズ」という少年たち向けの本が出版されました。著者はB-P卿です。プラウンシー島での実験キャンプの話、スカウティング活動の方法、B-P卿が少年たちに語る夜話等で構成されています。

 この本は、1908年5月に改定され。1冊の本とLて再版されました。

 冒険的で、ロマンチックな雰囲気がかもし出され、追跡、忍び寄り、開拓作業、キャンピング、野外生活等々、少年たちの心をとらえる内容の本であったので、多くの少年たちが読みました。この本は発行されると、イギリスでベストセラーになったのです。そして、ボーイスカウト活動発展の基礎になり、現在も世界中で読まれています。

 

 また、聖書、コーラン、毛沢東語録に次ぐ世界的なベストセラーと云われています。

 


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75.EXPO '70記念カブラリー (第12回)

 

 昭和45 (1970)年3月15日~9月13日まで大阪千里丘陵で、日本万国博覧会(ExPO' 70)が盛大に開催されて世界中から注目を浴びました。

 この期間中の9月6日に第12回カブラリーが大阪城の西の丸庭園に約800名が集まって絶好の秋空のもとに華々しく開かれました。

 「ぼくらのEXPO」テーマに従って各地区はそれぞれの国名を決めて、それぞれの国のことを調ぺて出し物や扮装してパレードなどを行いました。

 豊能地区はギリシャ、三島地区はフランス、淀川北地区はイギリス、淀川南地区はアフリカ、中央地区はソ連、城北地区はメキシコ、南東地区はカナダ、阪南地区はオセアニア、東阪地区はアメリカ、泉州、泉州南地区は日本で、それぞれの国の特徴を出しました。

 

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76.第1回大阪連盟代表スカウトフォーラム

 

 スカウト運動に青少年自身の声を反映させる目的で、スカウトフォーラム(Scout Forum)を

開催する提案が、1969年フィンランドのヘルシンキで開かれた第21回世界スカウト会議で採択されました。

 それを受けて大阪連盟では、第1回大阪連盟代表スカウトフォーラムとして、各地区から代表が昭和53年(1978)年6月18日(日)と7月14日(金)の2回にわたって大阪府立青少年会館特別室(大阪市中央区森ノ宮中央)に集まりました。

 そして、「シニアースカウト(現在のベンチャースカウト)は、いかにして社会の向上に貢献するか」などをテーマに話し合い、全国スカウトフォーラム代表スカウトを選出しました。

 

 以来、現在までいろいろなテーマのもとで続けられています。

 


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77.ガールスカウト運動

 

 ガールスカウト運動は、ボーイスカウト理動に加わりたいという少女たちからの要望に応えて、1910年にイギリスでペーデンーバウェルの妹アグネス・ペーデンーパウエル夫人によって「ガールガイド」として発足しました。

 そして、ペーデンーパウエル夫人のオレブ・ペーデンーパウエルが初代のチーフガイドになりました。

 日本では1920年1月に最初の団ができました。現在は、ガールガイド・ガールスカウト世界連盟に140ケ国、約1,000万人(1999年現在)が加盟しています。

日本では約65,000人(2002年3月現在)のスカウト・リーダーが会員として加入し、基本的な活動理念はボーイスカウト運動と共通しています。

 


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78.ビーバースカウト活動はじまる

 

 1970年代に世界各国で、カブスカウト年齢未満の子どもたちのための新しいプログラ厶づくりの研究が始まり、一部の国での実験段階を経てボーイスカウト運動の一部門として正式に採用されるようになりました。

 諸外国で、カブスカウト年齢未満の子どもを対象としたプログラムが発足していることから、日本連盟も昭和50年より検討を開始して、昭和57年・58年度に全国で19の実験隊が活動しました。

 さらに、昭和60年度の全国183ケ隊の試行隊の結果を受けて、昭和61年度に正式に日本連盟の組織として採用されました。

 最初は「ヒーバー」と呼称していましたが、昭和62年から「ビーバースカウト」と改正されました。

 

 

参考文献:スカウト用語の基礎知識 長 八洲翁著

 


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79.スカウトカントリー大作戦

 

 スカウトの日は、全国のスカウト・指導者が地域社会への奉仕活動をはじめとして、様々なスカウト活動を全国の各地域において一斉に展開し、加盟員一人ひとりが地域社会に貢献するとともに、スカウト運動が地域社会に根ざした実践活動であることを広く社会にアピールすることを目的としています。

 そのような中で、スカウトカントリー大作戦は、平成元(1989)年4月30日に大阪連盟がボイ捨て空き缶の回収を「カントリー(缶とり)大作戦」と.名付けて初めて行いました。その結果が非常に良かったので、全国的に展開することになり「スカウトの日」の統一テーマとして現在も続いています。このカントり一大作戦は、大阪連盟が開催する数年前から泉州南地区で泉南の団で行われていました。

 これからも環境・美化活動をはじめ地域の福祉、人権、平和、国際理解など幅広い活動を身近なところから展開していきましょう。

 


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80.日本万国博覧会開会式の奉仕

 

 昭和45(1970)年3月15日~9月13日の間、大阪の千里丘陵で開かれた日本万国博覧会の開会式において大阪連盟はもっとも重要なセレモニーである参加国の国旗掲揚を行いました。

 国旗掲揚はガールスカウト大阪府支部と連携してボーイスカウトが正手、ガールスカウトが副手となり、参加国77の国旗、参加国際機構4、自治領・洲・市10の各旗を、NHK交響楽団演奏の「エキスポ70讃歌」のメロディに合わせて掲揚しました。

 参加したのは、ボーイスカウト大阪連盟95名、ガールスカウト大阪府支部95名で「エキスポ・スカウト隊」を特別編成しました。

 


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81.ラッシング (Lashing)

 

 綱やロープで木材を縛ることをラッシングと云い、ノッテイング(Knotting)の「結ぶ」と合わせて結索と言われています。

 その縛り方には、角しばり、筋かいしばり、はさみしばり、8の字しばりなどがあって、いろいろなところで応用することができます。

 ボーイスカウトでは、綱のロープで木材を縛って、構築物を作るプログラムをラッシングと読んでいます。

 


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82.中村 知 なかむら さとる

 

 明治26(1893)年2月21日。愛媛県松山市で生まれました。広島高等師範学校(現広島大学)附属中学校に在学中、北条時敬校長から1907年にイギリスで始まったボーイスカウト活動を視察した話を聞きました。そして、生徒の仲間30人が集まって1909年11月に「城東団」を結成して班長になりました。

 その後、大学等で勉強したのち、大阪府立高津中学校(現高津高校)歴史科の先生になりました。

17年間の在職中にクラブ活動の一つとして「スカウト部」を倉』設して、公立中学校のボーイスカウト隊を発足させて自ら隊長になりました。

 1929年には第3回世界ジャンボリー日本派遭団員に選ぱれて渡英しました。その機会を利用してギルウェルパークの国際指導者訓練コースを修了することができました。

 昭和14(1939)年には、少年団日本連盟(現ボーイスカウト日本連盟)の教務部長で指導者養成を担当し、ボーイスカウト運動発展のために尽力しました。

 私たちが唱っているスカウトソングの作詞作曲をはじめ、指導者に向けた数多くの書物を執筆されました。

 また、「ちーやん」と愛称されました。

 

 

参考文献:ちーやん夜話集 ちーやん夜話集刊行会発行

 


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83.今田忠兵衛

 

  明治36 (1903)年11月30日、大阪市西区京町堀で生まれました。大阪大倉商業学校卒業後、家業の井筒屋今田忠兵衛商店に勤め、金光教京町堀少年団副団長として指導にあたりました。

 1929年、佐野常羽を団長とする第3回世界ジャンボリー派遣団員として参加して、派遣団会計役の古田誠一郎と一緒にてきぱきとした会計処理を行ったので「テンポ」というニックネームがつきました。

 太平洋戦争後の大阪連盟再建の中心的な人物でありました。

 初期の大阪連盟の運営面で、井上定次郎、奥村幸二郎、中村 知、吉川哲雄らとともに実質的な運営にあたりました。

 元日本連盟総コミッショナーで第3代大阪連盟理事長として昭和27年から昭和48年まで務めました。

 また、関西経済界の有力者たちに声をかけて財団法人「大阪ボーイスカウト振興協会」設立に尽力されました。

 


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84.古田 誠一郎

 

 明治30(1897)年6月27日。和歌山市に生まれました。若い頃にキリスト教徒になって洗礼を受けましたが、先祖が豊臣家の家臣で縁があったので、父親から勘当されました。そして、神戸の町に住むようになり、教会の宣教師のウォーカー氏からボーイスカウトのことを知りました。

 大正8(1919)年にウォーカー氏らとともに神戸でボーイスカウトを始めました。

 大正12(1923)年にボーイスカウト年齢以下の子供たちのために、ウルフ・カプ(今のカプスカウト)の組織を作り、「須磨向上会ウルフ・カプ」と名付りました。

これが、日本で初めてのウルフ・カプでした。

 その後、昭和13年にイギリスのギルウェル実修所を修了し、実修所の所長やスタッフとして活躍しました。また、スカウトソングを数多く作りました。第3回世界ジャンボリーに参加したとき派遣団の会計係の名称が英語のパーサーに因んで。ニックネームが「パーやん」と言われるようになりました。

 太平洋戦争後、当時の高槻市長で聖ヨハネ学園長の古田誠一郎は大阪連盟の初代理事長に選ばれました。また。中村 知と

 

ともに歓多くのスカウトソングを作りました。

 


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85.村田 正雄

 

 大正3(1914)年3月24日、大阪で生まれました。子どもの頃、大阪清堀第1少年団に入団してスカウト活動を始めました。昭和24 (1949)年に大阪連盟が結成された時、理事に就任して運営に当たり、その後県連コミッショナーの役務を行い、昭和49(1974)年から大阪連盟理事長として大阪連盟

の発展に尽くされました。

 日本連盟では、中央審議会議貝に昭和32年に就任Lてから以後は、指導者養成委員長。トレーニングチームデレクターとして指導者養成に努めました。昭和55(1980)年、今田忠兵衛の後を受けて日本連盟総コミッショナーに就きました。

 そして、日本連盟の運営は勿論のこと、わが国のスカウト運

動の純粋な発展のために情熱を傾けられました。

 

 国際面では、度々の会議に出席しました。

 


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86.サンライズセレモニー

 

 1907年8月、イギリスのブラウンシー島でベーデンーパウエルが20人の少年たちと実験キャンプを行ってから、2007年(平成19年)は、世界スカウト運動創始100周年の年にあたり、ボーイスカウトの世界組織「世界スカウト機構」は、「ひとつの世界 ひとつのちかい」をテーマにいろいろな事業を展開しました。

 その中で。「世界スカウト機構」は8月1日、世界各国の代表スカウト2名が、ブラウンシー島に集結し、ペーデンーパウエルが実験キャンプでクードウーの角笛を吹いた時刻(午前8畤)にあわせてサンライズセレモニーを行いました。

 大阪連盟もこれに合わせて、大阪連盟の野営地「キャンプおおさか」でサンライズセレモニーを盛大に行いました。

 また、この時に選抜された菊章受章スカウトとともに 実験キャンプの再現を試みました。そして、キャンプ場内の広場に記念の鐘を設置して「サンライズの鐘」と命名しました。

 


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87.大阪連盟蝶に谷井昭雄氏を推戴 (OSCAP '99)

 

 平成11 (1999)年8月4日から8月7日の間、兵庫県城崎郡日高町神鍋高原を会場として開催された大阪連盟創立50周年記念野営大会で就任式が行われました。新しく推戴された谷井昭雄連盟長は、8月5日午後4畤、キャンボリー会場に到着後、夕闇が包み込んだ宮火場で就任式に臨まれ、厳粛な式典の中で名実ともに連盟長に就任されました。

 

参考

 記念野営大会新聞より 理盟長 谷井昭雄

 私は、この7月1日付で山下前連盟長のあとを受りて新しく大阪連盟長に就任しました。

昨日は、生まれて初めてスカウトのユニホームを着て、この神鍋の大会場に入りました。

夕方のキャンプサイトの一部を拝見させていただいた上で、夜の連盟長就任式に臨みました。

 赤々と然える営火の前でスカウトの3つの誓いをたてました。折しも連盟創立50周年の記念行事の中で、このような、おごそかな雰囲気の中での式は大変緊張しました。

 この感激を忘れずに微力ではありますが、皆さんとともに連盟長としてがんばって行くことをお誓い申し上げます。

 この大自黙を大いに満喫し、互いに友情を交換し合って。この大会を生涯忘れ得ぬ思い出にしてくださるように希望します。

 


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88.BP卿の日本訪問

 

 B-P卿は日本を訪問しているのです。

 B-P卿は夢を見ました。天国の門のところで、日本を気に入ったかねと尋ねられたのです。私は、日本に行ったことはありませんと返事をすると、美しいあの国へ行ってきなさいという声が聞こえ、目が覚めたのです。

 この夢を見て、B-P卿は世界旅行の途上に日本訪問をすることを決めて実行しました。

 アメリカ合衆国での講演の後、1912年4月2日夕刻、B-P卿が乗った船は、ペーデンパウエル・ペーデンパウエル

と叫ぶスカウトに迎えられ、横浜港に着岸しました。

 この時、雲間に金色に彩られた富士山が見えたのです。

 4月4日、日光東照宮を訪れ、4月5日には東京、高輪の泉岳寺や芝の増上寺を訪れ、満開の桜も見ています。

 その後、夜行列車に乗り、4月6日京都を訪れました。

知恩院ではぴんずる様のスケッチ画を描いて残しています。

大阪は通過して、4月7日夜神戸港から船で上海へ向かったのです。

 B-P卿は日本の風景が美しいこと、人々は信仰心が篤いこと、礼儀正しいこと、日本人は極めて美的だ、下駄の音は音楽的だ、と日本についての好印象を日記に記しています。

 

 参考

 ベーデンーパウヱルがアメリカに向かった1912年1月3日、8,000トンの豪華客船アルカディアン号に乗船したその同じ船

に、後の花嫁となるオレーブも父と共に、西インド諸島を巡航するため乗っていました。

 ベーデンーパウエルは船上で、ミス・オレーブ・ソアムスを紹介され、一目で好意をもったとのことです。そして二人とも2月22日が誕生日であることも奇縁として毎日甲板で語り尽くされたそうです。

 その後、日本に向けて船旅を続けたベーデンーパウエルは、週に一度はオレーブに手紙を送っており、1912年10月30日に2人は結婚しました。

 ベーデンーパウェルは55歳、オレーブ・ソアムスは23歳でした。

 


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89.ユニフォーム制定される

 

 大正11 (1922)年に日本連盟が創立されて以来、日本連盟は加盟員からの強い要望で、初めての試みとして全国のアンケート調査や隊長からの聞き取りを行った上、ユニフォームを一新しました。

 新しいユニフォームは平成2(1 9 9 0)の日本連盟全国会議に諮られて、同年12月8日に制定されました。

 新しいユニフォームは、アメリカのファッション界で有名なラルフ・ローレン氏によってデザインされたものです。そして、平成3年3月の第63回全国選抜高校野球大会の開会式に、初めてこのユニフォームを着た大阪連盟のスカウトがプラカードをもって行進しました。

 

 

参考文献:大阪ボーイスカウト運動史 第4巻

 


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90.スカウティングワールド大阪(SWO)開局

 

 高度情報化時代に対応して、平成6年12月に大阪連盟理事会でパソコン通信ネットワークの開設が提案されました。翌年の平成7年3月に関係者によってパソコン通信ネットワークの開設の具体的な方法が検討されました。

 その結果、平成7年7月7日午後7時大阪連盟にパソコン通信「スカウティングワールド大阪」が開局することとなりました。

 「スカウティングワールド大阪」では、スカウト・指導者のために情報の提供、資料の公開、意見交換の場としてフォーラム闘設などがすすめられまLた。

 平成9年に実施された日本連盟75周年記念自転車全国一周友情ラリーでは、全国をかけめぐる75台の自転車に乗ったスカウトからのメッセージをリアルタイムで伝えて、パソコン通信「スカウティングワールド大阪」の有用性を発揮しました。

 それが平成10年5月にインターネットのホー厶ページの開設につながりました。

スカウティングワールド大阪のURLはSWOの3文字という極めて簡素なものになっています。それは、開設前にみんなが覚えやすいように3文字で取得できるプロバイダーを世界中に探し、トンガ王国を見つけ出しSWOを獲得したものです。

 

○公式ホームページ

  http://swo.to/

 

 

参考文献:大阪ボーイスカウト通動史 第4巻

 


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91.国際花と緑の博覧会の奉仕

 

 平成2年3月31日から9月30日の間、大阪市鶴見区の鶴見緑地で開催された「国際花と緑の博覧会」の開会式は名誉総裁皇太子殿下をお迎えしてメインホールで開かれました。この開会式の国旗掲揚には旗手としてシニアースカウト(現在のベンチャースカウト) 200人とリーダー14人が奉仕しました。

 また、受付や案内、誘導などの運営関係にシニアースカウト160人とローパースカウト、リーダー53人が奉仕しました。その他、皇太子殿下とー緒に行った風船飛ばしにカプスカウト153人とリーダー34人が参加しました。

 平成2年9月30日の閉会式では、メインホールで参加各国の国旗降納の旗手などにシニアースカウト321人、ローパースカウト、リーダー100人が奉仕しました。

 

 

参考文献:大阪ボーイスカウト運動史第4巻

 


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92.先達の称号とニックネーム

 

 先達(せんだつ)と呼ばれているこの言葉は、世の中で他の人より先にその分野で活躍し業績を残し他の人々を導く人のことを言います。

 一般に、修験道やお遍路行脚で称号として多く使われていますが、ボーイスカウトでも、経験豊かで業績があった大先輩をこの先達と呼んでいます。

 

参考:日本連盟規定(平成18年度版) 3-55 長老、先達

本連盟は、理事会、評議員会の議決を経て長老、先達をおくことができる。

②長老及び先達の称号は、教育及び指導面に特に功績顕著であった者に対し贈ることができる。

 

 ニックネーム 

スカウト運動の発展に努力されてきた大先輩の時代は、スカウト同志は今よりお互いに仲間意識や兄弟意識が強かったから、自然に愛称(ニックネーム)で呼び合ったことが多かったと云

われています。

 大阪スカウトクラブ会報「やまひこ」の中で、故栗山隆司氏が”ムラタさん(故村田正雄元大阪連盟理事長)の思い出よもやま話”で、お互いに愛称で呼び合う多士多才な人がいました。パーやん、ちーやん、テッちゃん、ジャマはん、もりやん、エイやん、ペニやん、等々、いろいろな愛称(ニックネー厶)で呼ぱれている人がいました。

 その愛称名や語源、謂われなど定かではありませんが、私たちスカウト仲間も仲間意識を強める意味で、お互いの唆称を見つり呼び合って絆を深めましょう。

 

 

参考文献:大阪スカウトクラブ会報「やまひこ」第2号

 

 

参考

長老・先達(日本連盟発行のスカウティング誌に掲載された中から抜粋)

○長老:佐野常羽

○先達:深尾 韶(静岡)井上定次郎(大阪)今川忠兵衛(大阪)松平頼明(香川)八木 清(京都)山口季次郎(大阪)阿合寿三郎(埼玉)下田豊松(北海道)小野平八郎(宮城)伊藤為道(広島)尾崎忠次(静岡)古田誠一郎(東京)山口勝治(東京)

 

ニックネーム(一般に周知されている中での一部)

〇ちーやん :中村  知(ちーやん歌集、ちーやん夜話集)高津中学校の先生時代)

○ジャマはん:山口季次郎(元大阪連盟先達)

○デンジー :古田 伝一(元日本連盟那須野営場長)

○タヌやん :栗山 隆司(元大阪連盟指導者養成委員長、ふくろうのイラスト作成者)

○ペニやん :村田 正雄(元大阪連盟理事長)

○パーやん :古田誠一郎(太平洋戦後初代大阪連盟理事長、第3回WJ時会計係から事務長の名称パーサーに因む)

 


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93.野外活動の安全Q&A

 

 大阪連盟は、平成6(1994)年11月に野タト活動におりる安全対策の一つとして。指導者のために安全対策の具体的な事例を示し解説した「野タト活動の安全Q&A」を発行しました。当時の大阪連盟健康安全委員会が中心になって作成したものです。プログラム展開の時に求められる安全にかかわる事柄を現実に合わせて、正確に幅広く取げ上げてまとめました。

  これは、ボーイスカウト

活助はもとより,ガールスカウト、子ども会、サークル活動などにも利用できる内容で、子どもたちのより良い野外活動のプログラム展開に役立つ本です。

 

 引き続き翌年の平成7 (1995)年10月に「野タト活動安全のQ&AⅡ」を発行しました。

 


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94.歌「永遠のスカウト」

 

 「永遠のスカウト」という歌があります。この歌は英語の「Once a Scout, always a Scout」というキッチー元帥の有名な言葉を歌に表現したものです。日本語に訳すと、「一度スカウトの誓いを立てた者はいつもスカウトなのだ」という意味です。その「Once a Scout, always a Scout」の意味を歌に表現したものです。

 また、B-P卿がスカウトに向けて残した最後のメッセージの終わりには「そなえよ常にを忘れずに、大人になるまで、そして大人になってもスカウトの誓いとおきてを守るのだ」という言葉があります。

この言葉にも通じる歌なのです。

 1番は、「一度スカウトに誓いをたててなりし身は、いつもいつもスカウトだ」です。

 2番は、「いまのいまもスカウトだ」です。

 3番は、死ぬときまでスカウトだ」と続くのです。

 そして、4番は「この世のスカウトに命捧げてつかえなぱ、死して後もスカウトだ」という歌詞となっていますので、スカウト運動に生涯奉仕をされた指導者を送る歌として使われています。

ボーイスカウトの先達中村知の作詞作曲です。

 

永遠のスカウト

1.一度スカウトに ちかいをたててなりし身 はいつもいつもスカウトだ

2.一度スカウトに ちかいをたててなりし身は いまのいまもスカウトだ

3.一度スカウトに ちかいをたててなりし身は 死ぬときまでスカウトだ

 

4.この世のスカウトに 命捧げてつかえなば 死して後もスカウトだ

 


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95.営火

 

 営火は野営火のことを省略した言葉で、英語ではキャンプファイヤー(Campfire)と云われていますが、営火と言う言葉はスカウト用語です。

 B-P卿は、営火を中心にして集うことをボーイスカウトプログラムに取り入れたものです。それがキャンプファイヤーとして広まりました。

 火は太陽と同じようにエネルギーの源で、霊に通じ人間だけが作ったり扱ったりすることが出来ます。

 野営生活で、夜になって営火のあかりを目指して集まった仲間たちは、美しい炎、立ち上る煙、木の燃える匂い、静かさと賑やかさの中で人の心と火のエネルギーが一体となることを経験します。

 このような中で、神・仏への畏敬の念や大宇宙一大自然の偉大さを感じとることが大切です。

 

 

参考文献:ボーイスカウト日本連盟「宗教ハンドブック」 大阪ボーイスカウト運動史第1巻

 

参考

 昭和31年8月3日から7日の間。長野県軽井沢で開かれた第1回日本ジャンボリー(第4回全国大会)の大営火で、大阪連盟は天神祭のお迎え船の様子を演出しました。

 みんなで分担して大道具や小道具を作って軽井沢の野営地に賑やかなドンドコ船が再現されました。

 また、そのバックには大阪城が作ってあったのも印象に残ったと言われています。

 


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96.御堂筋パレード

 

 昭和58(1983)年「大阪城築城400年記念御堂筋パレード」が行われました。

 これを継承して、翌年から毎年10月に「御堂筋パレード」が行われるようになり、御堂筋完成70周年記念の第25回目(平成19年)には、大阪連盟は奉仕の他に「スカウト運動創始100周年記念」として「隊旗集団」「ロープ回し」「世界のユニフォーム」「鼓笛隊<静岡第9団>の隊列でパレードに参加出演しました。

 この御堂筋パレードは第1回目が行われる10数年前から大阪府・大阪市関係者の夢でした。

 その実現のために毎年秋に「いちょうまつり」を開催して、御堂筋緩行車線の一部を行進していました。

そして大阪城築城400年を契機に、その直前にできた大阪21世紀協会が主催して実現したのです。

このパレートに奉仕する団体として最初にボーイスカウトへ依頼がありました。パレードの先頭には横断幕をもったボーイスカウト8人に続き21世紀協会旗を保持したボーイスカウト・ガールスカウト100人が行進し、パレードの最後尾は50人のボーイスカウトが21世紀協会旗を持ち、8人のボーイスカウトが横断幕を共って歩きました。

 沿道の警備・案内も加え、シニアースカウト・ローバースカウト・指導者約300人が奉仕

しました。

 以来、3回のパレード出演(平成9・11・19年)を含め、毎回、御堂筋パレードの重要な部分で奉仕をしました。

 


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97.大阪連盟旗

 

 平成17年1月30日に開催された「大阪連盟[組織拡充推進団役員]の集い』で、参加者から毎年大阪で一番の団を競い合い、大阪連盟長旗争奪のようなことをしてはどうかとの提案がありました。

 これを谷井昭雄大阪連盟長が取り上げられて、大阪連盟長旗を寄贈されました。

 毎年、テーマを決めて一番を競い合う「大阪1番賞」を設定し、大阪で一番の団に大阪連盟長旗が贈られることになりました。

 平成18年1月に大阪連盟長旗が完成し、第1回目の受賞団「大阪第ll団」に1月22日に行われた『大阪連盟「組織拡充椎進団役員」の集い』で贈呈されました。

 第2回は「富田林第2団」(平成18年度)、第3回は「豊中第12団」(平成19年度)が受賞しました。そして、この旗は、毎年の受賞団の持ち回りとなっており、受賞団には別にレプリカが贈呈されます。

 


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98.ボーイスカウト大阪連盟の基金

 

 スカウト基金は。昭和49年11月に大阪連盟が大阪府・大阪市から『大阪文化賞』を受賞した際の副賞を「基金」として積み立てたことから始まりました。

 その後、川崎副理事長(S53年)・村田理事長(S53年)・弘世連盟長(H4年)・東野副理事長(H5年)のご遺族からのご寄付をそれぞれの方のお名前を付りた教育基金としていましたが、平成7年に今田副連盟長ご遺族からのご寄付の際、これらを統合し「教育基金」としました。それから以降も色々な方からの寄付を受り入れ、平成11年に基金は約500万円になりました。この年開催された「大阪連盟50周年記念事業」として、多くの企業等から寄付をしていただいた金約1,500万円と合わせて「スカウト基金」が新設されました。

 この基金は、スカウトのための活動に使用することになっています。

 平成17年度に、かねてから検討していた活用事裏として「第1回ハワイ・レインボー・キャンプ」が実施されました。この事業は、菊スカウト章を取得しているペンチャースカウ卜を対象とし、自身が企画したプロジェクトを実行するボーイスカウトの事業に使われています。

 

「芦原基金」

 芦原基金は、財団法人大阪ポーイスカウト振興協会初代会長戸原義重氏が、平成7年に1,000万円・平成9年に2,000万円合計3,000万円を大阪のボーイスカウトのために寄付してくださいました。

 これを財団法人大阪ボーイスカウト振興協会は、「芦原基金」として、主にホー厶ページ等の運用の費用に充てています。

 


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99.スカウトクラブ

 

 昭和62(1987)年5月に当時の村田正雄大販連盟理事長から、大阪連盟のスカウト運動活性化のための「組織強化対策会議」で、性貉は大阪連盟の外郭団体とし目的は「大阪連盟を支援し、会員相互の親睦を図る」として、仮称「スカウトOB会」を設立する準備委員が委嘱されました。

 それから。いろいろと検討されて名称は「大阪スカウトクラブ」となり、昭和62(1987)年8月22日に設立総会が開かれました。会員は63名で初代会長に日野照正氏が選ばれました。

 そして、「大阪スカウトクラブ」は日本連盟登録第1号のスカウトクラブとなりました。

 その後、各地でスカウトクラブが誕生しました。

 また、会報「やまひこ」の第1号が昭和63(1988)年2月に発行されてから現在の52号まで発行が続いています。

 


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100.世界スカウト運動創始100周年記念事業

 

 1907年8月1日、プラウンシー島で始まった実験キャンプから100周年を迎えるスカウト運動を、世界中のスカウト仲間がそれぞれの国で記念事業として展開しました。WOSM(世界スカウト機構)の提唱により、100周年を迎える2007年までの3年間は。世界中のスカウトが、同じ100周年記念ワッペンを着用して活動しました。記念ワッペンに記載された統一テーマ「ひとつのせかいひとつのちかい」は、2007年にイギリスで開催された第21回世界スカウトジャンボリーのテーマでもあり、期間中の8月1日にはプラウンシー島はもとより、世界中で「サンライズセレモニー」が開催されました。

(スカウトに伝えたい話100選 No.86参照)

 

 日本連盟でも各地で記念事業が展開され、大阪連盟では以下の独自事業が展開されました。

1.第24回大阪連盟カブラリー(2007年4月29日):大阪工業大学付属高等学校及び淀川河川敷

 

2.サンライズセレモニー(2007年8月1日):キャンプおおさか

 

3.サンライズキャンポリー(2007年8月1日前夜~8月2日):キャンプおおさか

 

4.「スカウトの日」府内一斉活動(2007年9月17日):御堂筋一帯

 

5.御堂筋パレード参加出演「キッズエリア」展開(2007年10月14日):御堂筋・

 

6.大阪一番賞:年間を通じて、「100」をテーマとした活動を各団・隊で企画・展開。

 

7.クロージングセレモニー(2008年6月1日):大阪連盟年次総会直前に開催

 

 

8.スカウトに伝えたい100の話材集]発行・・・このカードです。

 

 

大阪連盟における100周年記念事業のヒトコマ

・カブラリーでは、B-Pの分身として17名のB-P(理事長と各地区委員長)が登場しました。

 

・サンライズセレモニーでは、B-Pのクードゥーホーンでスタート、サンライズの鐘が記念設置されました。

 

・サンライズキャンプには、大阪連盟の菊スカウト32名が参加し、ブラウンシー島の実験キャンプを再現しました。

 

・「スカウトの日」には、大阪市内団を中心に、翌月にパレードを控えた御堂筋を一斉清掃しました。

 

・御堂筋パレードでは、20ヶ国の世界のユニフォーム隊や、ロープ回し隊が参加しました。

 

・「100」をテーマにした活動を、各団・隊で企画(内28ヶ団が大阪一番賞にエントリー)実践しました。

 

・クロージングセレモニーでは、1年間の100周年事業を映像で振り返ったあと、大阪一番賞エントリー全団に、団名が刻印された記念の鉈授与、優秀賞・特別賞の表彰、最優秀賞団には、直後の大阪連盟年次総会席上で大阪連盟一番賞として、大阪連盟長旗が授与されました。

 

・100周年の記念品として発刊した、スカウトに伝えたい「100の話材集」は、100周年の運動の中で、これからもスカウトに伝えていきたい話材に、特に大阪にゆかりのある事柄を含めて、まとめたものです。

 

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