かがりび記念誌Ⅱ・Ⅲ

パート Ⅱ 

1981年(昭和56年)

かがりび 表紙   
記念誌 表紙    
口絵写真   
  創立者・初代隊委員長 故奥田祐道 
BGSCマークとその意味
はじめに    
目次    
あ い さ つ    
 あ い さ つ     
 育成会会長 田保 昭 

 より一層の努力を

  BS第11団団委員長 奥田祐美 
 道
 BS第111団団委員長 津田 修 

 良き夫人を目指して

 
GS第62団団委員長 奥田稔子 
あしあと    
隊  旗    
大阪第11団・第111団登録番号
記念座談会  リーダーの言いたい放題
おもいでの写真集  
活動記録    
 活動記録    
 全国大会・日本開催ジャンボリー派遣記録 
 野舎営記録    
 海外派遣記録    
 スカウティンピック開催記録 
 スキー教室開催記録
 テーブルマナー開催記録
 進歩記録    
指導者研修歴    
 指導者研修歴   
 指導者養成講習歴   
 奉仕記録    
 表彰記録    
OBより一言    
 同じこの手で     
 元11団CS隊隊長 宇田志津子 
記念式典にあたって
 30周年に際して カブ隊隊員・デンマザー
 ローバースカウト隊 ひとりごと PART2
 ローカル通信・BGSC合同キャンプ 同行ルポ
ボーイスカウト歴代指導者年表 
我が団を語る 大阪第11団
我が団を語る 大阪第111団
スカウトファミリー

記録映画になった日本アグーナリー

  森君との友情

営火夜話    
あとがき    

 

記念誌表紙 

 

日本ボーイスカウト大阪第11団

 結成30年 

日本ボーイスカウト大阪第111団 結成15年

日本ガールスカウト大阪第62団

結成15年

 

記 念 誌

 

 

 BGSCマークとその意味 

 シンボルマークは、鶴見区の「」を表し、要の部分に、赤で力強くBGSCを表現しています。

 鶴のように優しく、そして惜しみなく愛を与え、新しき希望と熱意に燃え、大空高く舞い上がるという意味をこめています。

 四本に割られた両方の羽根は、スカウティングフォアボーイズの巻頭に述べられた、

「人格・健康・技能・奉仕」

「親の恩・師の恩・友の恩・社会の恩」

を表しています。

  また、尾の五本は、スカウト精神に身をつけ、班(組)制度の中で進級を図り、いつも他の人々を助けるために、

「そなえよつねに」を帯し、

「日々の善行」に

努めようということです。 

 

 は じ め に

 

 昭和51年春に、日本ボーイスカウト大阪11団結成25周年、日本ボーイスカヴト大阪111団結成10周年、ガールスカウト大阪62団結成10周年の式典を持ちましたのがつい先日の様に思われますが、あっと云う間にもう5年も経ってしまいました。

 この5年間を振り返えりますと、50年夏の第1回富士合同野舎営も、54年には名称も変え、富士キャンピックとして、B.G.S.C.のリーダー・スカウトが山中野営場、忍野の民宿に分散して開催されました。

昼は、富士の裾野一帯でくりひろげられるプログラム、夜はジョイン・イン・ジャンボリーにちなみ全員、各国の民俗衣裳を身にまとって大営火を囲み、夜空に舞い上がる火の粉を眺め、星が降るような夜空の下でスタンツが繰り広げられました。

 昭和52年にはスカウトの増加により111団にシニア一隊が誕生しました。

またB.G.S.C.では昨年より昭和58年夏に実施を計画されているアメリカキャンプの為の積み立てを始めました。

 この様に順調に発展してきましたのは、確固たる地盤を築かれた育成会の協力、陰からりーダーたちに助言を与え、団の運営に努力する団委員会、奉仕の精神で年代の異なるスカウト達を指導するりーダーたち、リーダーを信頼し先輩を尊敬し、後輩をいつくしむスカウト、これら全員が一家族の如く和やかさを持ってきた為でしょう。

 この記念誌は昭和51年4月に発行された冊子のPART-2として編集しました。

前号の様に完璧な物ではないかも知れませんが、過去5年間の記録を収録しました。 

 

 ごあいさつ

BGSC育成会会長 

 赤塚勝巳 

 

 大阪第11団結成30年、大阪第111団結成15年、GS大阪第62団結成15年、お目出度うございます。

記念誌発行に当り、ご挨拶申し上げられる機会を与えられたことは私にとって無上の喜びと存じます。

 一口に30年、15年とは言いますが、此の永い年月は決して平隠無事の日ばかりではなかったろうと察します。

今日の記念すべき日を迎える迄、信頼されるリーダーの育成に御尋力下さいました各団委員長に厚くお礼申し上げます。

団の運営に当って未られた団委員の方々と又スカウトの育成に御尋力下さいました指導者、リーダーの方々にも厚くお礼申し上げます。

 30年、15年という一つの区切りを契機に原点を見詰め直し、全員が一丸となって目標に向かうならば、古き伝統、輝く実績を引きつづき後世に残していくことができると確信いたします。

築き上げられた歴史に甘えることなく、一人一人が悔いのない満足のゆく活動を続けていくには、スカウトとしての個人の自覚を深めて自己のスカウティングに励むと共に、人間形成を行ってゆく心構えが必要ではないでしょうか。

指導者の尋力があったればこそ30年と言う年月が積み重ねられた事を考えますと、会員各自も一考を要し今後も自我に取らわれず、スカウティングの主旨を深く理解し、よりよき公人、社会人となる様に、子供と共に取り組んで下さることを確信します。

スカウトの皆さんも、輝かしい団歴をもつ団に人団したほこりを持ち、常に学校にあっても、又地域にあっても、友人に模範を示して下さい、そうする事によって皆さんが舎営で、キャンプで、集会で学んだ事が社会の為に役立つ事になるでしょう。

 私も団本部に足を運んだのも最近であります、未だ何も解って居ませんが解らないままに何かスカウティングの不思議な魅力を感じます。その魅力を自分なりに考えますと、先づ一つは笑い(舎営、キャンプでのスタンツ、又日常会話等での)、次に規律(日常の挨拶、歩いて居て知らない子供から挨拶されて、ふと考え名前を問う事もあり、集会、訓練の時等)、三番目に厳粛さ(色々な式典でのセレモニー等)ではないかと考えます。我々育成会会員もスカウティングの奉仕者として参加し、一般の社会と全く違った楽しみを味わい、子供の交流を深め、野外活動で会員同志の交誼を通じ、奉仕者として訓練を受け、自己の知識を広め社会に役立つ事が出来ればどんなにすばらしい事でしょうか。

これから誘われるままに熱心に奉仕に参加し、青少年の育成に御尋力下さいます様お願いして私の御挨拶と致します。

 最後になりましたがスカウト運動を深く理解し、円通寺、円通寺学園、奥田家を開放して下さいました、スカウトファミリーの奥田家の皆様に厚く御礼申し上げます。 

 

 より一層の努力を

大阪第11団団委員長 

奥田祐美 

 

 昭和51年4月18日(日)、今津小学校に於て盛大に結成25周年(復活15周年)記念式典並びに大会を開催してより、早くも5年の歳月が流れ去りました。

 幸にして、11団も順調な発展を吃ることができましたのは、育成会を始め保護者の方々の御協力と地域有志の皆様の暖い御援助の賜と、心より感謝申し上げます。

 この5年間をふり返って特筆すべきことは、

 ①シンボルマークができたことです。

そのマークの基に、11団・111団・GS62団が、兄弟・姉妹団として互に手を取り合って行動を共にしたことです。

 ②その結果51年度には、イギリス1名・アメリカ3名・韓国1名・計5名のスカウト、52年度には、第3回アジア太平洋ジャンボリーに日本派連隊々長として1名、フィリッピンジャンボリーに日本派連隊副長として1名、計2名の指導者、53年度には、スコットランド1名、マレーシア2名、スウェーデン1名、アメリカ1名、オーストラリア1名、計6名のスカウト、54年度には、アメリカ1名と海外スカウト活動の視察に4名の指導者、合計18名の指導者、スカウトを海外に派遣することができました。

 ③国内的には、昭和53年8月静岡県御殿場市で開催された、第7回日本ジャンボリーに、指導者6名・スカウト21名計27名を始め、第3回日本アグンナリーに7名のローバースカウトが奉仕し、種々な行事に参加することができました。

 これらは、スカウトが平素の訓練に励んでいることは勿論ですが、その陰には自分の時間も忘れて、スカウト教育を充分理解してプログラムの展開に努力して下さっている、指導者の方々を忘れることはできません。

 30周年記念事業の一環として、昭和58年度夏にはアメリカキャンプが計画されました。

約2週間の予定でサンフランシスコ・ロサンゼルス(ディズニーランド)を訪れ、国立公園ヨセシテにてのキャンプ、現地スカウト家庭でのホームスティと夢にまで毘る楽しい行事が実施されようとしています。

多くのスカウトがこの計画に参加を希望し、毎月積立てが行われスカウトの眼は広く海外に向けられたことです。

 今、団が結成30周年(復活20周年)という一つの節を迎えるに当り、スカウト活動に携れる一人一人が、

過去の{云統と栄光に溺れることなく、常に脚下照覧しB-P卿が残して下さった、”班制度・進歩制度”の上に立って、”ちかい・おきて”の実践に、より一層の努力をし、社会有用の人にならなければなりません。

 ここに記念誌”かがりび”を発行することができますことを心から喜ぶと共に、40年・50年に向けての努力を積み重ね、より良きスカウティングを展開し、優秀なスカウトを育てたく思います。

 皆様におかれましては、より一層の御援助をお願い申し上げます。 

 

 道

大阪第111団団委員長 

津田 修 

 

 「道」について、考えてみたい。広辞苑によれば、

①(みち)〔道・路・途〕のみや車などが往来するための所。通行するところ。道路。通路。

②目的地に至る途中。

③みちのり。距離。

④(転じて)人が考えたり、行なったりすることがらの条理。道理。

⑤とくに、儒教、仏教などの特定の教義。

⑥道理をわきまえること。分析。

⑦てだて。手法。手段。

⑧方面。そのむき。

⑨足場。踏台。と、簡潔である。

 人として生まれ、人生を終るまで、幾多の変遷があり、岐路に立つ時の取捨選択で、その後の人生が大きく変ることが多い。

 人それぞれが、皆満足して、悔いのない人生を送るには、明確な目標をもつことが大切である。目標がハッキリしないと、道に迷ったり、間違えたりしてゴールに到達できないこともあるが、目標さえシヅカリしていれば、そこに至る道が、いかに起伏が激しく変化に富み、迷路があっても適確な判断と努力することによって、ゴールに到達することができる。

 昨今、社会問題としてクローズアヅプされている校内暴力や家庭内暴力、それに暴走族などは、概して、家庭(両親)や学校(教師)が、青少年達を問題行動に走らせているのではないかと思われる。

小さい時からの塾通いや、放任あるいは過保護、過干渉、個性を無視した教育など、青少年の生活環境をみるとき、まことに心寒いものがある。

 私達スカウト関係者(両親、指導者)も、これを他山の石とせず、スカウト個々にとって真に必要なものは何か、を洞察してもらいたい。

 スカウトの歩む道は、嶮しく、また果しなく遠い道でもある。決して、楽をして行ける道ではないだろう。

然し反面、工夫と根気よく努力さえすれば、淮でも栄光のゴールに到達することができる。その長くて、嶮しい道を、スカウトの個性と能力に適した行動を見極め励まし、勇気づけ、楽しく少しでも短かくゴールに到達するよう導くのが指導者の務めである。

 いかなる困難に遭遇しても、挫折することなく、初心を忘れず、ゴールを目指して奮闘することを期待している。

 我がBS大阪第11団が発足して、早や30星霜を経た。その間、弟団の大阪第111団や妹団のGS大阪62団も結成され、300名を越える大スカウト・ファミリーに発展し、二世リーダーが続々と誕生しつつある。

 この素晴しい成長と伝統を、永遠に遺すよう、皆さんと共にスカウト道に精進しょうではありませんか。

 スカウトよ永遠なれ!! 

 スカウトに栄光あれ!!!

 弥 栄  

 

 良き婦人を目指して

ガールスカウト第62団団委員長 

奥田稔子 

 

 本日は、お忙しい中をガールスカウト大阪第62団の結成15周年記念式典にお集り下さいましてありがとうございます。

 平素は何かと御指導と御援助を賜り厚くお礼申し上げます。お陰をもちまして62団も順調な発展を遂げ、着々その成果を挙げてまいりました。

 スカウトの皆さんの努力は勿論ですが、指導者の皆様方の弛まざる尽力のお陰と深く感謝いたしております。

幸にしてスカウト生酒を経験した、ヤングリーダーが次々と育ち、よき先輩の跡を継いで各部門で、奉仕下さっていることが何よりも心強く、頼もしいかぎりです。

 スカウト活動を始められた、イギリスのベーデンパウエル卿は最後のメッセージで、「私は最も幸福な生涯を送りました。ですからあなた達一人一人もまた幸福であるよう、私は念じます。

・・・中略・・・けれども、幸福を得る本当の道は、他の人々に幸福を与えることによって得られる」と申されています。

 誰でも幸福を求めています。幸福を求めない人は一人もありません、只その求め方を間違っているのです。

お金を持ち、大きな家に住み、美味しい食物をたべ、綺麗な着物(服)を着て、自動車に乗って等々のみです。

個人の欲望に走り、利己主義となっているのではないでしょうか?

 又、半面現在社会に失望し、希望もなく落ちこぽれとなり、非行化してゆきます。

 故中村知先生(スカウト運動の先達)は、「奉仕は力だめしですよ、自分がどれぐらいお役に立つだろうか、という力をためすのですよ」と申されています。

 私はどれぐらい役に立つのだろうかと考えた時に、未熟なことに気がつくでしょう。

「もっと自分を鍛えなければ」と思うでしょう、そこに成長への道が生れるのです。

 スカウト教育はちかいとおきでの実践を通じて、日々の善行、そなえよつねにを何度となく、くり返し訓練を続ける中に、自然と身につくようになり、何のわだかまりもなく奉仕することができるようになります。

 スカウトの皆さん、途中で止めることなく続けてよき先輩の後を継いで、後輩のためよい指導者になり、真の幸福を得て下さい。そしてこの62団が20年、30年と発展すると共に成長して下さい。

 保護者の皆様におかれましては、より深く理解して、この運動発展の為御協力下さいますことを、お願いします。

 終りになりましたが、この良き婦人づくりを目的とするスカウティング(スカウト教育)が、一人でも多くの少女の為、益々発展する事を念願して、尚一層の御支援を賜りますことを、切にお願い申し上げます。 

 

ボーイスカウト日本連盟登録番号 

 日本ボーイスカウト

 大阪第11団 

1737号
 カブスカウト隊  1108号
  ボーイスカウト隊  734号
  シニアースカウト隊  361号
  ローバースカウト隊  554号

 日本ボーイスカウト

 大阪第111団

2899号
  カブスカウト隊 1211号
  ボーイスカウト隊 5193号
  シニアースカウト隊 2017号

 

記念座談会

リーダーの言いたい放題

 

司  会

 本日は、お忙しい中お集まりいただきましてありがとうございます。

さて、大阪第11団が今年の4月に結成30周年を迎えることになりました。そこで今日は、集まっていただいたリーダーの方に30周年を迎えるにあたってのいろいろなお話をうかがいたいと思います。

まず30周年を迎えるにあたっての感想を述べていただきましよう。

西  尾

 私自身、振りかえってみますと、スカウト活動をしていることが自分自身に対しての一つの戒めでありますし、そういう気持で自分が動ける時に、団の方針に従ってスカウト活動をしてきました。

坂  田

 私は小学校5年生から今までお世話になった訳ですが、今更ながら本当に早いものだと思い、何も自分かできなかったのではと振り返えっています。ボーイスカウト活動をやっていたことが良かったと思ったことは何度かありましたし、また、心の中の支えと旨うんでしようか、誇りをもってやってきました。

斎  藤

 僕の場合は、今後長く何10年と団が続いて欲しいという事です。

奥  田

 昔は10年一昔といいましたが、今は5年一昔という程、中学生の気質が変わってきてリーダーとしてもとってもやりにくいですね。

川  端 カブで7年間リーダーをした後、ボーイをやらずにシニアーを受け持ったんですが、最初は何も知らずに無茶なことができた。

だけど、ボーイやシニアーのこと知る様になり、シニアーに7年間も居るとそういうこともできん様になってきた。

今振返ったら、無茶なことをした頃のスカウトが良く残ってくれている。

伊  野

 30年の10分の1位しか、ボーイ活動に入って間がないのですが、今のスカウトを見ると言葉使いが悪いことは世間一般同じで、先生に対しても、親に対しても、友達と同じ様に話してる。スカウト活動の中だけでも、リーダー、年長の者に対しての言葉使いを正しいものにして行きたいのですが。

司  会

 言葉使いが悪いという話がでましたが、それは今のスカウトの気質が昔のスカウトの気質と変ってきたことにも関係があるのではないでしようか。今と昔のスカウトの気質の違いについて、どう思われますか?

阪  口

 昔のスカウトは、僕もそうでしたがリーダーは神様の様な存在で、あまり気軽に話したことがなく、班長、上班を通じてしか話やふざけることができんかった。

今は平気で何かあっても『隊長』と言ってくるんです。いい事かも知れませんが、ケジメがないというか、もう少し隊長-副長-上班-班長-隊員というケジメをつけて欲しいと思います。

福  井

 僕らの頃というのは、縦のつながりというか、班の中でのつながりが大きかったんですが、今は班より同じ学年のつながりが大きく、それが班制度に悪影響をおよぼしている気がしているんです。

リーダーとしても今の子供の考え方を勉強していく必要があると思います。

司  会

 子どもの中にもっと入っていくということですか?

福  井

 そうですね。しかし中に入っていくといっても班制度をくずさない程度に間隔をおいて、私らの先入感をもって入っていくより、第三者的な目で入っていけばと思うん

ですが。

赤  塚

 30年のうち、スカウトになってから15年目位になるんです。リーダーとしても一年目ですが、スカウト時代は隊長が目茶目茶恐かって、特にカブの時の川端隊長が恐わったんです。

といって、スカウト意識というのが、小さいなりに中学生頃までありました。

最近はあまりなくなってきているので、昔の気持に返らなければならないと思っています。

今のカブをみると”ええ子”振ろうとする子が多いと思う。

奥  田

 僕らの頃は、自分自身好きでやりたいからやっていたんですが、今のスカウトは引張られてやっているといった感じで、自分から進んで行動を起さないですね。

今後は、自分から進んで何事もやるスカウトを育てたい。

川  端

 この間のシニアーのラウンドテーブルに出た話なんやが、僕らが若い頃は、苦労したら後に楽があるという言い方されたが、今の若い者は苦労することになったら苦労したらよい、しかし避けて通れるものなら避けたらいい、まして明日のことはわからないので、苦労の後に苦労するかもわからんし、楽の後に楽あって一生楽して過せるかもしれんという気持を持っているらしい。そんな子がスカウトにいるんやから、リーダーとして『あんたどうしますか?』というたら『しようないなあ』という答えが多かった。

それで30周年というひとつの区切りに先行き不安な気がします。

 

柴  崎

 私は若い頃の苦労は買ってでもしろという時代に育った人間ですが、また脚下照光で自分の脚元を見て大きくなれと言われました。それが今それで良うたかというとあんまり得したとは思えんけど、そういう時代の方がよりまともやと思います。

今の子にそういう事を教えるべきか、そうでないかは一つの悩みです。

 明日の努力、一夜漬けやない一つ一つの雨だれの様に努力を積み重ねるのが大事やと思いますし、そういうことが団にも言え、この30周年につながったものだと思います。

川  端

 話は変わるけど、昔のスカウトの親というのは、親の方からリーダーにいろんな事が先に耳に人ぅてきたんやが、今は団委員長の方に先に入ってそれから『こういう事があるんやが』とりーダーのなに伝わってくる。

こういう親の姿勢も問題やと思うし、昔のリーダーの方がやり易かったと思う。

西  尾

 親そのものも時代と共に移り変わっていると思います。確かに隊長と親とが話し合いをする機会が少なく、親から隊長へ子供のことでこういう問題をかかえていますという相談が少ないんじゃないかなあ。

ボーイやシニアーの親の方が積極的にかかえている問題を出して欲しい。それが親同志話して、団委員長の方へ入ってきてそれから隊長の方へ来るのが多い様です。

 先に隊長の方に入ってきて、隊長が手を打ってそれでも駄目なら団委員の方へ相談していくのが筋やと思います。そして小さいことを一つ一つ解決すれば、大きい事が起らないと思います。

柴  崎

 昔は、組集会も班集会も園舎でしたのですか?

福  井 

 私は、仮入隊でボーイに入りまして、園舎や本堂の横で集会をしたり、ゲームやソングをしました。

柴  崎

 今の組集会や班集会を見ていますと、皆一緒にするので組集会や班集会でなく隊集会の様になるんですね。それが妨げになっていると思います。本当は組集会や班集会しかできない場所ですれば、月一回の皆が集まる隊集会が楽しみになると思うんですから場所的には恵まれているんですが、先程の班より同年代の横のつながりが大きい要因だと思います。

組集会、班集会を独立に別の場所ですれば、組長や班長の独断と偏見が先走るかも分かりませんが班のまとまりはそれでいいんじゃないですか。そしてまたそれが組集会や班集会のねらいじゃないですか。

伊  野

 スカウトの人数も昔に比べて、はるかに多くなっていますし、分かれてする

が理想ですね。

司  会

 場所が同じでも、曜日を変えてやればいいんですが。

阪  口

 僕らの時は、一緒にやっていて、班長同志も仲が良かったんですが、集会の時は2時間、班は班として別なことをしていました。たとえ一緒こしていても、そういうやり方が理想やと思います。

奥  田

 グリンバー訓練では、一応班集会のやり方を指導しているのですが、できないみたいですね。班集会の中まで入り込めないのですね。

西  尾

 スカヴトの方が認識過乗。実行不可能といった具合で、自主性がないんで、皆でワーとやってしまう様ですね。またリ一ダーシップをとって行動する子がいないですね。

あいさつにしでも、顔を知っているはずなのにしない子が多いですね。

伊  野

 ボーイでも、こちらから『今晩は』と言わないと、あいさつが出てこない。だから隊の違うリーダーには、もっとあいさつが少ないのと違うかな。

簡単なあいさつ一つができなくて、こちらが考え込みますよ。 

久  保

 自分のスカウトの頃を振りかえってみると、隊長の顔を見るのは、朝礼の時とプログラムの時位で、あとはサイトの中で班長に言われたとをやるのが精一杯でした。

隊長は班員にとっては居ても居なかっても同じでした。(笑)

斎  藤

 スカウトの頃は目上の人の良い所を見習い、俺が班長になったら、ああしよう、こうをしようと考えてました。

それが今はなく自分の好き勝手にやっている様にみえる。

坂  田

 昔は、ガキ大将というのがいて、ある時はたたき、ある時はなだめるといった貝合で、人の操縦術をもっていたんですね。

それが今は、そういう事を知らないので子分をつけてもどう使ったらいいかわからないんと思うんです。

斎  藤

 スカウトに入ってくるのは親が勧めて入ってきた子と好きで入ってきた子の二通りあり、僕らの時はキャンブなどボーイ活動をしたくて入ってきて、そういう者が今も残っているんですね。

親が勧めた子でおもしろなかったら途中でやめたりするのが多いですね。中にはそこから伸びて行く子もいますが。

柴  崎

 それは、時代、社会が変ったからでしようね。(一同うなずく)

司  会

 最近は若いリーダーが多くなってきましたが、スカウトからリーダーになって教える事のむつかしさがあると思うんです。

その点どうでしようか?

石  川 

 僕は、リーダーになった動機が大事だと思うんです。僕なんかスカウトの時は楽しかったんですね。現役を去ってハイさようならでは、何か悪い気がして、1~2年はお手伝いしようと思ってリーダーになったんです。

一年経って振り返えると自分からは何もしていないし、下働きが多かった様です。これからはやっていくにしても、自分の思う事を言っていくべきだと思います。

辻  野

 僕も若い若いと召われても、いつの間にか2~3年経ち、技能面では確かにスカウトに教え易いんですが、反面心構えというか精神面の指導性を教えるのにとまどいますね。まだまだ勉強していかなあかんと思ってます。

内  藤

 僕は前にカウンセラーの仕事をしていましたが、両方に共通しているのは青少年の育成です。そこで吸収してきた事をボーイにも活かしたいです。リーダー同志のコミュニケーションよりも子供とのコミュニケーションが大事だと教えてもらってきたので、そういう方針でやっていきたいですね。

司  会

 では、苦労話があればお聞きしたいと思います。

先程も川端さんから少しでていましたが。

西  尾

 スカウト時代の苦労話は、時代が違うから召っても感覚に合わないですね。

辻  野

 昨年こういうことがありました。

月の輪の最後に一泊舎営して、帰ってから保護者会で報告したんですが、持参品の事であるお母さんから、寝まきが抜けていたのではとおしかりを受けたのです。

行く時に子供に寝まきを持っていきなさいと言うと、子供は隊長から聞いていないから持って行かないと言ったそうです。他の人は持って行かずに困ったのと違いますか、一言寝まきという言葉が少なかったのではと言われて言葉に詰まりました。

カブで3年間舎営しているんですから、わかっているはずでしようとはっきり言いたかったですね。他の人は困らなかった様ですが。

西  尾

 若い人がリーダーになって保護者の人と話し合う機会があるんですが、遠慮なしに思っていることをはっきりと話してもめてもその時には、それをカバーしてくれる人達がいるので、その人達にまかせたらいいと思います。

伊  野

 スカウトの親は、リーダーの名前や顔を知っているのかなあ。保護者会にも出てこない人もいるし、リーダーに言うべきことでもリーダーを知らないから団委員長の方へ直接来るんじゃないですか。

奥  田

 子供が何組、何班かも知らない親もありますよ。

坂  田

 最初カブに入れる時は、一生懸命で、入ってしまえばもう知らんという気持もあるのでは。

司  会

 一面過保護的な面もあり、ほったらかしの所もありませね。

西  尾

 全てにおいて裕福すぎる、班に与えられた物を大事に管理するという事が無いんですね。班長クラスがそういう事に気を使っているんでしようか?

伊  野

 気を使っていませんね。上班、班長にキャンプ終了後、備品を確認しろとくどく言ってもなかなか出来ていませんね。

柴  崎

 物が豊富になって、個人備品もすぐに揃うんですが、先日の金剛山の登山では、靴が濡れて困るんだったら長靴でも良いと言ったんですが、長靴がないと言うんですね、長靴の方がぜいたくな時代なんです。

伊  野

 家でも、長靴はカッコ悪いと言ってはかないですね。

西  尾

 親は自分達の子供の頃は手に入らなかったので、子供にはできるだけの事をしてあげたいという気持があるんだと思うんですね。中には子供がねだっても、がまんしなさいという親もいるかもわかりませんが、そういう親の方がいいと思いますね。

以前、団委員長からお聞きした話ですが、子に一度、物を与えたら、子供がその物をどうしようと子供の勝手や、そして物をバラバラにする事によって、子供がその仕組を理解するんやと。

しかし、今の親は団委員長のおっしゃる気持で物を与えているのかというとそうではないんですね。

福  井

 第7回日本ジャンボリーで他の団のスカウトですが、キャンプの備品を他の団から借りて、終ってから調べると、グランドシートがなかったんですね。それでスカウトに聞くと、汚れたから埋めてきたと言うんですね。

それを聞いて、物に対する意識の違いにびっくりしました。

奥  田

 僕らの時は、自分で小使いを貯めて自分の物を徐々に楽しみにしながら買ったものです。

阪  口

 私は今でもその頃の寝袋を使っています。子供の方が良い寝袋を使っていますね。新しいのを買おうと思えば買うことはできますが、その頃の意識があってまだ使えるもったいないんですね。今の子は親から与えてもらったので必死になって買ったという気持がないんですね。

伊  野

 今はボーイに上ったら全部揃えるというのがあたりまえになってますね。

柴  崎 そうじゃなく、なかってもできると言いたいんですが、それもおかしいですね。

阪  口

 私の仕事の同僚に、ボーイスカウトはお金がかかるんやなあと言われて、実際再えると、自分らの時はそんなにいらなかったのに結構必要なのですね。それで、どう説明したらいいかと悩むんです。

西  尾

 そういう事で、親から隊長へ相談しにくることもないのですね。

柴  崎

 外国での親の子供へのしつけはどうですか?

奥  田

 ニュージーランドでは、家庭のしつけが日本と全く違いますね。食事の時、僕らは先に食べ終り、アイスクリームを食べると子供はまだ食べ終ってないのに欲しいと言うんですね。だけど、親は食べ終らないとアイスクリームは食べさせないとはっきりしているんですね。それから怒る時でも大きな声を出さないで低い声で怒るのですね。

柴  崎

 怒りじゃなくて、叱りですね。

司  会

 結成30周年を迎えるという事は当団の恵まれている所が多々あると思うんですが、その当団の恵まれている所をあげていただきませんか?

伊  野

 恵まれすぎている感じがするね。

夏季キャンプでもマーキーは鉄製だしね。

他の団のキャンプを見たんですが、本部のマーキーは木のポールで、テントはフライなし、買い出しは車で毎日副長が走り回っているし、団委員は勿論いないといった状態で、うちは恵まれ過ぎていると思います。

坂  田

 昔と比べて物質面、金銭面など雲泥の差ですね。

西  尾

 入団希望のスカウトが昔と違って多く、募集しなくても良くなりましたね。

これは団本部が固定していることや、集会場所があるからだと思います。またそうでなかったら、30周年を迎えられなかったんだと思うんです。

辻  野

 人材も豊富だし、経験者が多いからいろんな事がらを教えてもらえますね。

西  尾

 歴史が古いという事は、それだけ経験者、古くからスカウト活動をやってこられた方が多いことやね。またりーダー同志のコミュニケーションがうまくいっていますね。それで若いリーダーが育ってきたらいい意味のトコロテン式で若いリーダーにまかせてもいいと思うんです。

斎  藤

 若いリーダーが育ってくるということですが、それには場所や備品の面などいろんな事にも増して、団委員長の家族の協力が一番にあげられますね。若いリーダーが育ってくるにつれ、話をする場所が本堂、応接間、居間といった具合に進んでくるんですね。

西  尾

 奥田家一家あげての協力がありかたいですね。若奥さんも、もう自然にリーダーの中に入ってこられてますね。

伊  野

 それで、話があると隊長よりも団委員長の方へくるんですね。

西  尾

 しかし、親としては逆にあそこにあずけておいたらもう安心やという気持もあるのと違うかなあ、僕の場合もそれやっだから、それで何か問題が起ると、あずけておいたのにと影で話されるのが恐いですね。

司  会

 そろそろ時間も押し詰まってきましたので、今後こういう事をしたいとかいう希望がありましたら話して下さい。

久  保

 僕ら若い者は、ボーイの楽しさを知って、上ってきたからりーダーを続けようと思ったんです。それで、今の子にボーイの楽しさを教えるようにしてやりたいですね。

石  川

 本当に、ボーイらしい行動をしているのは、シニアーまでだと思うんです。そこで知ったことが、そこから先に役に立つと思うんです。その手助けをしてやりたい。またそうあるべき姿がリーダーの役目だと思います。

辻  野

 僕らの時、ボーイからシニアーヘシニアーからローバーヘ上進するたびにやめていく子が多く、結局残ったのは、僕と津田君の二人だけで、一緒にやってきた者としては淋しいですね。だからできるだけローバーまで進んでいって欲しいですね。

赤  塚

 僕らのスカウト時代は、進級面、技能面で最高の時代やったと思ってます。スカウト活動に一番影響されるのはボーイの時代やし、その時の仲間が一生の友人だと思うので、その関係を大事にしていきたい。昔は各班毎に競争心が強かったので優秀班を目標として競争していくのが大事だし、その値打ちを知るべきです。

柴  崎

 富士キャンピックの時、優秀スカウトなしという事で、金メダルを団へ戻したけど、やっぱり甲乙つけるべきやったね。

赤塚君の言う様に競り合って明日につながるなら、最優秀組、優秀スカウトはあって当然やな。

司  会

 自分の技術を磨くためにも競争心は必要ですね。

伊  野

 カブの時代に、その気時を養ててもらえば、ボーイで楽ですね。

柴  崎

 カプの時に競り合うムードを高めといたら、本当に自分の技術が発揮できるボーイで場所を得て、競いあうことになる。

親が子をお守りする様なつもりでヨシヨシでいたら駄目やね。

辻  野

 見ていて欲が無いですね。ある程度までやったら、それでいいということで飛び抜けて良いのが協定しているみたいでないですね。もっと欲を出したら自分の班も良くなるしおちこぽれもなくなるんじゃないかなあ。

柴  崎

 負けて、くやしい気持を大事にしたいですね。

久  保

 グリンバーだけに競争心を持たせるだけでは駄目で、下の方までなかなか伝わらないし、全員に言うべきだと思います。

司  会

 たいへん活発に話がされていますが、時間も遅くなってきましたので、このあたりで終にさせて頂きたいと思います。これから先、各リーダーがそれぞれの隊で活躍さ

れ、結成50周年の頃にもう一度お集りいただき、その時どんな話が出るか楽しみにしたいと思います。

本日はどうもおつかれさまでした。

 

 (昭和56年2月21目団本部にて)   

 OBより一言

 同じこの手で

元大阪第11団カブ隊隊長 

 宇田 志津子 

 

BS 大阪11団結成 30周年

BS 大阪11団結成 15周年

GS 大阪62団発団 15周年

誠におめでとうございます。

今(現在) 真白い障子にうららかな日が当っている。

また午前中だから屋根の影が真中辺まできています。

それをのうのうと眺めているこの気分

今の今までとは 大違い 何の音もしない 通る ふと看護の手を休めての自分

過去には この同じ手でと思うと、

舎営 ひとつにしても、今では、考えもつかないが、お母さん方らの食事作りの奉仕献立により現地でのじゃがいも、玉ねぎ、他 

買物今見たいに車などなく、歩いていく、下見に行った時には、ちゃんとした道だったのに急ごうと思えば、伐採の最中 いかにして早く往復するか

へや?ドアなどついているものですか、ただ広い室を自分らのアイデア次第でデレ作り 壁があるものと仮定して必ず出入口を利用する。

だから経験のあるD.C組長の順に、スカウトの方から見れば

「うまい事考えるなー」という調子 ここでD.Cさんら鼻が高い

その分以上に「組み全体で他よりもがんばろうな」と気も合うある年など組の1人が 熱を出しスカウト全員でどれだけ助け合った事か

LもCSも楽しみな肝だめしがある。一応CSが終りLをためす時間

足元にたぬきがころがっておっても、わからない真暗い夜道ただ草のかすかに触れ動く

何んにも見えない所で白い布が、スーと舞い下りる

それは、それは、その場を想像して見て下さい 

お気の毒な様でもあります。さーこれから夜回り、手首に回してあるスカウトの小便おこし

 (寝つきの悪いスカウトは、リーダーの足音が耳に付くので、これも気にしながら)

色々と思い出します。

私は人生、いつでも柔軟でありたい、その柔軟さが、人間の生き方にリズムを支えてくれたなら毎日が楽しくなっていく様に思う現在です。

今後共BS11団、BS111団、GS 62団の益々の御発展をお祈りいたします。 

 

 30周年に際して

B・P祭 大阪城ハイキング解散後

DMとクマスカウトのひと言 

 

11団・111団カブスカウト隊 

 

 くまのみんなには、此の間から、発団30周年の事を話して、知っていると思いますが。

君達は入団して3年ですね。カプ隊に入って、どうかなあ。

 

D 君 30年~。 30年前のカプスカウトは、どんなゲームをしていたんやろうなあ?

TN君 僕はカプ隊に入って友達が沢山出来たのが、ものすごくうれしい。

KY君 3年間しか、スカウト生活をしていないけれど、以前はどんなんやったんかなあ~。

MT君 カプ隊に入隊して3年間アッと言う間にすぎたが富士山での舎営が一番楽しかった。

T 君 カプに入って、色々な行事や、ゲームが出来るのが、とっても楽しい。

M 君僕は、毎日が、とっても、おもしろい。

JH君 ボーイ隊に上進しても、休まずに、がんばろうと思っています。

KO君 リスから月の輪まで、すごく早く終った感じ、でも30年はぼくらの10倍やなあ。

MN君 一年目、はずかしかったけど、2~3年目となったら、頑張らなと言う気持になった。

K 君 舎営とか組集会で色々とおもしろいことが多かった。

IY君 家から、あまり行かれなかった、スケートに度々行けたし、とても楽しかった。

KD君 色々なゲームが、おぼえられたし、友達も出来たし、色々な所へ行って、とてもよかった。

隊 長 皆んな、面白い楽しい事ばかり言っているが、つらい苦しい事もあったでしょう。

H 君入隊したすぐは、色々といじめられたけれど、今はだいぶ強くなった。

I 君 僕は恥かしくって、話が出来なかったけど、今は平気で、誰とでも話せるようになった。

T 君 入隊した当時は淋しかったけれど(舎営の時)、今は毎日が、とっても楽しい。

AT君 初めての舎営は僕も、よう寝なかったけど、今迄色々な初体験が出来て、本当に面白かった。

隊 長 O君、お母さんが、DMだったけれど、そんな時、どうでしたか。

○ 君 親子で一緒だったから、すごくよかった。お母さんが、DMをやってくれてよかった。

TK君 舎営の時、とても、楽しく、面白かった。

隊 長 今、しかスカウトが、10才ですね。 30周年を迎えた団は、しかスカウトより20才も早く誕生した訳ですが、長い歴史を誇れるのも君達の多くの先輩スカウトが、 みんな『まじめに。しっかり』やってきたからですよ。

君達も皆んな、BS隊に進むんですが、これからも、11団、111団の古き良き伝統を重んじ、よいスカウトになる様に、元気に頑張って下さい。組のスカウトを連れて帰って下さい。

 

 春期舎営(福崎野外活動センター)から帰って、お疲れさんでした。デンマザーさんひとこと。

M.DM 30周年って本当に長い事ですね。私はこの一年がとても長い様な短い一年でした。

T.DM BGSCの今後ますますの発展を祈ります。

K.DM DMをして、自分の子供の長所、短所がよくみえて、すばらしい経験になりありがとうございました。

T.DM 普通出来ないけいけんをさせていただき、よい勉強になりました。

Y.DM 可愛いいスカウト達がみんな、立派な社会入になってくれる事と思っています。

I.DM 皆んなに迷惑をかけながらも、スカウトと共にたのしい一年を過ごせました。

A.DM スカウトー人一人が多勢のリーダーに指導され素晴らしい社会人になる事と望んでいます。

S.DM スカウトが『みんな仲間』である事が身にしみてわかりました。

I.DM 年間、良い体験をし、みんなのかげの協力が必要である事が身にしみました。

ありがとうございました。

これからもBGSCの発展をお祈りします。 

 

 ローバー隊“ひとりごと PART2  

 

 私達、ローバ一隊員と同じ大阪で生まれ、大阪で育った我団もとうとう30周年を迎えるに至りました。

先ずは、今日までの歴史を創ったスカウトの皆様、「おめでとうございます。」さて、30年という歳月を今だ、経験しえぬ私達にとって、この歴史の重さはとても軽率な言葉では、表現できません。

そこで、ローバー隊員の中でも平均的スカウトと信じる、私の思い出をふりかえり、きょうの日を喜びたいと思います。

 

☆☆☆ローバー隊員のスカウト記録

 

☆☆☆昭和45年=カブ隊入隊。スカウト生活の始まり。

「僕は、まじめにしっかりやります。カプ隊のさだめを守ります。」

 

☆☆☆昭和46年=すべてが手探りの時期。でも、楽しかった。

集会でデンマザーの似顔絵を描く。瞬間、彼女の手が僕のほっぺたをピシャリ!

母以外の女性からぶたれたのは、これが初めて。

愛の鞭を知る。写実主義に。疑惑を感じ、印象派に転向。

 

☆☆☆昭和47年=ボーイ隊入隊。

鬼班長に遭遇。厳しい初級時代。初めての夏季野営は、空腹と睡眠不足の生活が続いた。ファイヤーのスタソツで真剣に殴られ役になる。この日スタンツの神髄を知る。

野営の帰り路、友と別れた時、涙がポロリ。

瞬間、「泣くぐらいならやめてしまえ!」と怒る父の顔。

「伺が悲しいの?」と泣きそうな母の顔が浮かぶ。

しかたなく、もとに戻るまで家の周りをウロウロした。

 

☆☆☆昭和48年=選抜高校野球の奉仕で、大会旗を持ってTV出演。

ボーイスカウトに対する一般社会の信頼と自分の責任を知る。

 

☆☆☆昭和49年=日本ジャンボリー参加。

そのスケールとバラエティーにただただ感激。初めて他団のスカウトと夜を共にする。不思議なくらいうちとけあえる。

左袖の”1 1 1 ”の文字の意味深さを知る。

3月、再び甲子園へ。今度は、プラカード。

二度めなのでとてもリラックスして、リハ-サルの時、近づくTVカメラにウインク。

瞬間、「今度やったら本番に出さんぞ!」と指導者の声。

 

☆☆☆昭和50年=BGSC富士合同野営大会実施。

このころから我団がさらに大きく飛躍し始める。

文明開化の鐘が鳴る。

 

☆☆☆昭和51年=シニアー隊入隊。

ここには、鬼班長はいなかった。隊長も優しかった。

たしか、名前も”優”だった。

先輩、後輩を超えた男どうしの友情を知り始める。

 

☆☆☆昭和52年=夏季野営にナイフを忘れて行く。

「ナイフがない。」とつぶやくと

横にいた隊長が「これをやる。」と自分のナイフをくれた。

瞬間、男の愛を感じる。眠れぬ夜だった。

 

☆☆☆昭和53年=綿密な計画のもとに、瀬戸内の離れ小島へ遠征。

食料の買い出しに毎日、海を渡らねばならなかった。

そのための時間浪費で、食って寝るだけの生活が続く。

それでも「僕らは、ボーイスカウトなんだ!」と頑張ったつもり。

 

☆☆☆昭和54年=ローパー隊入隊。

いよいよ本格的奉仕活動の始まり。

日本アグーナリー参加。各国の身体障害スカウトに接する。

彼らの精神力に脱帽すると共に、ここまで彼らを導くボーイスカウト運動の力を考える。

 

☆☆☆昭和55年=南の楽園、沖縄へ遠征。

”青春”という言葉がやけにきまって聞える年頃。

どこまでも澄んだ海に沿って、どこまでも青い空の下をみんなで走る。

瞬間、「きょうまでボーイスカウトやってて良かった!」

☆☆☆

 

 左手に隊旗、右手にVサイン、口びるに”約束”をとなえて11年。

今、目を閉じれば、映画のワンカットのように、いろいろな事が思い出されます。

ラブシーンがないのが残念ですが。

まあいい、明日がある。

 30年の3分の1しか身をゆだねていない私達ですが、それでもきょうの日を迎えることは、幸せです。そして、心のどこかで年月と共に一人、二人と去っていった友のことを思い出します。

スカウト活動ができないから退団というのはナンセンスで、退団して二度と活動できなくなった時の心の寂しさをローパー隊員はもとより、隊員以外の方々にまで広くわかっていただきたい。

一度消えた火は、またつければいい。その日のためにも・・・。紙面も残り少なくなってきました。

 終りにあたって、私達に。スカウト人生を与えてくださった奥田祐道委員長に。”花束”を。

育成会の皆様ときょうまで私達を育ててくれた指導者の皆様には、”感謝”を。

そして、円通寺に連れて来てくれた親に”孝行”を。

 最後に、カプのみんな、ボーイのみんな、シニアーのみんな、早くローパーに上がって来い!

歴史は、君達の手に。

”プルーパード、お前の時代だ!” 

 

ローカル通信

B.G.S.C合同キャンプ同行ルポ

ローカル通信 

 吉村 明 

 

 これは、去る53年度のキャンプにローカル通信の吉村氏が同行され、同年9月1日号に同行ルポとして発表された文を吉村氏の諒解を得て掲載致しました。

 

 今回の合同野営は、円通寺を団本部とするボーイスカウト大阪第11団、第1 1 1団、ガールスカウト大阪第62団の一行約130名である。目ざすは兵庫県朝来郡朝来町多々良木の緑ケ丘キャンプ場。

関電多々良木発電所の奥へ約2キロほど入った山間にあった。

『こりゃ、旅館みたいやなあ』

とつぜん横を歩いていたボーイが、誰にいうともなくロを開いた。

こちらも、『どういうこと』と思わず聞きただした。

『ぼくらもっとすごいとこでキャンプしてんでェ』。

そういわれても、こちらには見渡すかぎりの雑木林で、所々に大きな松やくりの木があって、入の入り込めるような所には思えなかった。

いったい、どこヘテフトを張るつもりなのか。小休止の間に、奥田氏にこのことを聞いてみた。

『そう、ことしはボーイにとっては物足りないかもしれませんね。山の斜面にテントを張ったこともありますから』

と苦笑していたがキャンプ地選びには指導者は毎年苦労するらしい。

 人が来なくて、木が切れて、きれいな水がある所、となればめったに見当らないという。

なかでも木を切らせてくれる所は、さらに少ない。が、この木を切る事が、スカウトたちにとっては、不可欠の条件であることがあとでわかった。昼食後、いよいよ設営。楽しみになってきた。

失礼だが、彼らがどこまでやれるか。とくと拝見してやれ、とボーイとガールの設営場をあっちへ行ったりこっちへ行ったり。

懸命に木を切るガール。

『助けてよ』

という声がしきり。慣れぬ手つきでノコギリや斧をふるうボーイ。

さすがに男だけあって、またたくうちに藪を刈り、木を切りポプカリとテントを張る空間ができる。

格好の木を見つけては、

『これ門柱にしたろか』

などとつぶやいている。

ガールが汗だくになって汚物を入れる穴を掘っている。見かねたのと、自分もやってみたくなって、というより、誰一人ボンヤリしている人がいないその場では、伺かしないと落ちつかなくなってスコップをとった。

石が多く、わずか8Oセンチ程の穴を掘るのに小一時間もかかってしまった。木も切ってみた。草も刈り込んだ。

一年間の訓練の総決算がキャンプで、これが楽しみでスカウトをやめられないという彼や彼女たちも未開の土地の開拓する楽しみが、わずかではあるがわかるような気がする。

 初日は設営に手間がかかり、空模様があやしくなってきた。木立の間から夕餉の仕度をする煙がたち込め、なんとも風流だ。 

10時消灯。 自分たちの手で作ったテントの中で、ボーイやガールたちは何を話合い、何を考えているのだろう、などと考えながら山の冷気で肌寒くなってきた腕をさすりながら、ボンヤリと椅子に座っていると、目の前が急に騒々しくなった。

スカウトの班長やリーダー、隊長などがあつまり、男女別々に反省会と明日のプログラム作成の会議がはじまるらしい。

みんな寝静まったあとの、こうした指導者たちのかげの働きがあって、安心してキャンプ生活が送れるわけだ。

 山の朝は早いし、気持ちがよい。6時起床で、朝寝坊にとってはつらいが、冷たい水で顔を洗うと、”いのち”の洗濯までできたような気分になる。こんなすがすがしい朝を迎えたのは、何年ぶりだろうか。

各テントをまわってみる。みんな朝食の準備に大わらわだ。よくねむれなかった、という子が半分位いた。

キャンプ生活の鉄則はよく食ベ、よく寝て、よく出すことだと、前日に訓示にあったが、これができるようになるのは、高校生になってからだという。朝の点検がはじまる。各隊長がそれぞれのテントをまわって、各人の健康状態や環境づくりのアドバイスを与えていく。点検が終わって、次のプログラムが始まるまでのあいた時間が、キャンプクラフト。いわば手芸とでもいうか、テント周辺の環境づくりや用度品の工作をする。

レンジャー(女子高生)は、いちはやく梱包のヒモを利用して入口にスダレをつくった。女の子らしく、木に鏡がぶらさげてある。

こうしたクラフ卜作業は毎朝点検され、その都度朝礼で、創意工夫のみられるグループには表彰が行なわれる。

全体的にみると、ボーイは環境づくりに精をだし、ガールは食事に力を注いでいるような印象をうけた。

日を追うにしたがって、ボーイのテフト周辺は見違えるばかりに住みよくなり、ガールのそれは、いつまでたっても大差なし。そのかわり、食事となると、味付けから盛りつけ、食べ方に至るまで、さすがは女の子と思わせるほどの充実したものだ。ボーイの食事時をのぞいたら、味そ汁には木の枝が浮いていたし、玉ネギもナマ。彼らはそんなことには無頓着。でも、男にしては上手な味つけで、各テントを試食させてちらったがけっこういける。あるグループなどは

『夜、来てほしかったなあ』

と残念がっていた。夜のメニューはハンバーグ。彼らにも得意な料理があるらしい。

 二日目の夜、ガールは星座研究の予定だったが、あいにく雲が多く断念。ボーイはポイントゲーム。

″そなえよつねに″という文字をグループ単位であつめてくるゲームだ。 ローバー(大学生)の隊員たちが一文字づつ持って、暗闇の木立の中にかくれている。彼らが30秒間隔でいっせいに笛を吹き、その音を頼りにボーイたちがローバーの所へ行くのだが、なにせ真っ暗な山の中。どの方角から笛が聞えてくるのか見当がつかない。

『あっちだ、こっちだ』

と、そのにぎやかなこと。

これは聴覚の訓練だそうだ。ガールも翌日、ワイドゲームと称する訓練をやった。

救急看護の仕方、火を早くおこす方法、目測、触覚、臭覚、記憶力などをためすゲーム。

流れの乾いた川中に各ポイントが設けられ、アンモニアの臭いをかがされたときには、思わずのけぞる子もいた。

 三日目は、キャンプのメーンエベントともいうべきキャンプファイヤーが夜にひかえている。

昼間、ボーイはラッシング(作繩法)に汗だく。 ラッシングの意味がわからなかったが

『キャンプにおけるトビ職みたいなもので、それは見事なものができますよ』と、かたわらのリーダーが説明してくれた。

 ボーイたちがつくったのは、高さ10mもある竹馬場とピラミッド塔、それに松の木の間に渡したモンキーブリッジ。竹馬塔だけは、どうしたわけか、1.5mはあろうかと思われるような間隔の繩梯子だったので登ることはできなかったが、ピラミッド塔もブリッジもなかなかしっかりしたもので、不安を感じさせなかったのはさすが。

 いよいよキャンプファイヤー。少し風が強かったが、空は澄みきって、星が降るようだ。

ファイヤーを囲んで歌や寸劇、物まねなどがでて、ふんい気は最高の盛上がり。

ローバーは『宇宙船鑑ヤート』の歌にジェスチャーをつけてうたったが、映画の中の人類救済の星イスカンダルも、彼らにかかっては『椅子咬んだる』になる。女王スターシャは宇宙の彼方で、さぞや苦笑していることだろう。バカげたことだが、演出者にここまで″乗られる″と、こちらも引きずり込まれて腹をかかえて笑ってしまう。

妙に恥ずかしがられると、しらけるものだが、見事というしかない。

『なにが好きでこんな事を、ようやりまんなあ』と、毎回、資材を運んでくれるトラックの運転手が感心するそうだが、三日間寝食をともにして、そのわけがわかったような気がした。

 奥田氏はいう。

『当初は缶詰の缶も切れないし、雨が降ったらテントに入って歌をうたっていた。その間、リーダーが雨の中で食事の仕度をして食べさせていた』。

いまのスカウトたちの姿を見ていると、そんなことがあったのかとにわかに信じられない。まさに長足の進歩というべきか。

 学校も団体生活だが、規律面においては、こちらの方がはるかに勝る。協調性も養われる。

それなくしては食事にありつけないのだから。また、リーダーの容赦のない叱責がとぶ。

いまどき、学校の先生はもちろん、他人から叱られるという経験を持だない子供たちにとっては、こうした機会はかけがえのない心の財となろう。きびしいなかにも和やかさがあり、固苦しさは微塵も感じさせない。

スカウトたちは、のびのびとし、成人者が主な、リーダーたちも、スカウトヘの心配りをしながらも、笑いの絶え間がない。なんとすばらしいキャンブ生活ではないか。

区民まつりの取材がなければ、あと二日間いっしょにいて、彼らのすがすがしさを、もっと吸収したかった。

 うしろ髪を引かれる思いで山を降りたが、車窓から山の端に見え隠れする満月が、まるで名残りを惜しんでいるかのように映ったのは、あまりにも感傷的にすぎるだろうか。

                           (紙面の関係上、一部割愛しました。)  

 

 ステウティング誌より

「わが団を語る」

「わが団を語る」大阪第11団

 

 当団は、昭和25年4月、円通寺前住職奥田祐道師のお骨折りで、大阪府下で16番目の隊(当時は隊といっていました)として、鶴見区今津町に誕生しましたが、奥田隊委員長の急逝で休隊の止むなきに至りました。しかし、昭和35年4月には復活登録が行われ、以来団は順調な発展を続け、スカウト数の増加に伴い、41年12月5目に分封して兄弟団・大阪第111団を結成、また少女のためのガールスカウト大阪62団が誕生しました。

 この3個は互いに強い絆で結ばれ、51年4月に結成25周年(復活15周年)記念式典をとり行い、3個団をBGSC(ボーイ・ガール・スカウトクラブ)と呼ぶようになりました。

 そして入団、上進、任命、成人式、スカウティンピック(スカウトのオリンピックをもじったもので、スカウトの技能競技会)、4年に1度の合同野営と、合同行事がもたれ、また、指導者のための研修や情報交換が行われ、互いに協力関係にあります。

 3個団の運営資金の援助は、一つの育成会(会員1 6 5名)によって、育成会本来の任務として完全に実施され、団、隊の活動に支障をきたさないようにとの配慮で年間行事計画に基づいて予算化され、予算額は確実に指導者の手元に届けられ、きめ細かく幅広い活動が常に展開されています。

 当団の特徴は、団本部が寺にありながら、青少年のためにその門を開き、平等の原則のもとに地域全体を対象として、スカウト募集を行っています。

お陰で入団希望者は多く、近接団にも紹介するほどです。

 一度入団したスカウトで、途中退団者はほとんどなく、各隊の上進率は常に90%を上回っています。

51年度にはシニアー隊員が32名となり、52年2月に分封しました。ローバー隊員は19名を数え、54年度春には上進者を迎えて分封する計画です。わが団がこのように盛況なのは、スカウトの動きがだれが見ても一目りょう然にわかるように仕組まれている組織作りにあるといえるでしょう。

 すなわち、

 ①入団時の説明会や面接で、団方針につき十分に話し合い理解を得ている。

 ②プログラムの内容の充実と向上を図り、各隊間の連携を密にし、上進、進級スカウトのための激励面接会を、時間をかけ、団委員が中心となって実施している。

 ③各隊年3回以上の保護者会を開催、行事報告を8mm映画、写真を通じて行っている。

 ④月刊機関誌で家庭の人に団の動きをわからせている。

 一方、指導者は夏季野舎営が終ると、来年度の野舎営地探しにローバー・団委員共々出かけます。

 海外派遣は、47年~53年までの実績は10件、参加者16名に達し、111団、GS62団を合わせると20名以上になります。こうした成長の要因には一時休隊した経験を2度と繰り返すまいとする気持が団運営者のすべてに深く刻みこまれているからです。

(1979年6月号)  

 

「わが団を語る」大阪第111団

 

 わが団は、昭和41年12月5日に日本連盟に団登録(番号1211号)し、カブ隊だけで発足した。実は、わが団が生れる背景には次のような事情があった。

それは、兄弟団として、昭和25年4月に発足した大阪11団が、リーダー不足のため、一時休団を余儀なくされたが、団関係者諸氏の努力で35年4月に復活登録され、その後は順調な発展をとげている。そして、今度はスカウトの入隊希望者が月を追って増え、これを吸収するために分封して誕生したのがわが団ということである。

 新団としての団号をつけるにあたっては、いろいろ意見が出されたが、11団とゴロの合う111団に決まり、日連に登録した。当団のスカウト育成会は、昭和42年5月6日にガールスカウト大阪第62団も発足させた。

 以上のような経過で発足したわが団は、逐次ボーイ隊、シニア一隊を発足させ、兄弟団・11団の口-バー隊登録にともない、わが団でもローバー隊を発足させた。

 現在、中3のボーイや高校生のシニアーは毎週土曜日に集会を実施しているが出席率は80%以上である。もっとも、ローバーは個人プロジェクトが中心なので出席率は落ちる。

 出席串の悪い者は上進させない方針をとっていることとか、保護者会や育成会でよく話し合ったことが影響してか、とにかくスカウトに意欲が出てきたことは大変うれしい。

 兄弟団11団の初期のスカウトが隊指導者から全員団委員となり、また、若い成人指導者がローバーから続々上がってくるようになっているのが現状である。スカウトの増加に対処するため、リーダー獲得に必死に走り回ったことがあるが、それを思うと隔世の感がする。

 このように、スカウト活動が大きく発展したのも、本部(集会場)として、円通寺の寺院と庫裏および保育園の園舎、それに園庭や器材を日夜をとわずスカウト、リーダー、父兄に利用させてくださる奥田第11団団委員長のお陰であると常に感謝している。ちなみに奥田団委員長はスカウト一家で、お母さんはガールスカウト委員長、夫人はガールスカウトリーダー、長男はボーイ隊々長、二男、三男は口-バースカウトである。

 わが団としては、特に自慢するほどのものはないが、皆さんに喜ばれているものにスカウティンピックがある。これは昭和41年に始めたもので、ボーイ両団とガールスカウトおよび育成会や父兄、それに地域の方々を招待してスカウト活動の一端として、モンキーブリッジやテントをたて、火起こし競走や手旗など紹介したり、後は楽しい運動会を1日がかりで毎年開催する行事である。

 また、ボーイだけで、すでに19名のスカウト、指導者を海外に派遣し、親善交流と貴重な体験をしている。

 現在の悩みは両団共にボーイ、シニアー、ローバーに希望者全員が上進できず、カブは希望者の半数以下しか入隊ができないことである。

(1979年9月号)  

 

 スカウトファミリー

 

 私は、戦後の混乱した社会の中で、子ども会の仕事をしていました。しかし小学生は集まっても、彼らが中学生になると去って行ってしまうので、なんとか中学生を引きとめていく良い方法はないものかといろいろ思案していたとき、たまたまボーイスカウト運動を知りました。

 当時、学生であった私は、通学の関係で昭和24年4月に京都山科で開かれた、ボーイスカウト指導者講習会を受講しました。9月に準備隊を発足させ、25年4月18日、父祐道が隊委員長となって、大阪第11隊が誕生し、少年隊隊長としてスカウトヘ仲間入りをしました。

 スカウト活動を始めてからは、良き指導者と先輩に恵まれました。数度にわたる指導者講習会の奉仕を通じて、今は亡き吉川哲雄先生の薫陶を受け、第4期中央実旅所においては、古田誠一郎先生の教えをいただくことができました。

 「スカウトは、指導者が背中で導くものだ-」と教えてくださった吉川哲雄先生。「スカウトが本尊であるとわかったときに、真のスカウティングがあるのだよ-」と諭してくださった古田誠一郎先生のおことばが、今でも私の脳裏から離れません。

 父祐道は、25、26年の両年にわたって大阪連盟理事(城北地区委員長)となり、活発な活動に献身していましたところ、55歳の若さで急逝しました。以来休隊の止むなきに至りましたが、ともされた灯は消えず、36年4月、大阪第11団として復活するのを機に、現在まで団委員長としてその任にあたっています。

 長男祐賢(27歳)は、39年4月ボーイ隊に入隊、43年4月シニア一隊に上進、46年4月ボーイ隊副長補、49年4月ボーイ隊隊長に就任、現在に至っています。その間、52年12月24日から翌年1月15日まで、ニュージーランド・オアマルにおいて開催された、第3回アジア・太平洋ジャンボリーには日本派遣隊長として参加し、その任を果たしました。

 二男祐彦(24歳)は、41年4月新しく生まれたカプ隊に入隊、43年4月ボーイ隊、46年4月シニア一隊に上進、49年4月には誕生したばかりのローバー隊員となりました。53年4月、第11団から分封した、第111団シニアー隊副長となり、現在アメリカ・サンフランシスコに滞在、留学生生活をしております。

 48年には、12月23日から翌年1月8日まで、フィリピン・ロスパ二アス・マッキリンにおいて開催されたフィリピン50年ジャンボリー・第1回アジア・太平洋地域ジャンボリーに、日本派遣隊員として参加しております。

 三男祐仁(20歳)は、43年4月、カブ隊に入隊し、46年4月ボーイ隊に、50年4月シニア一隊へと上進し、54年4月からはローバー隊として活動しています。その間、51年7月21日から8月24日まで、アメリカ建国200年記念、日米スカウト交歓派遣に参加しています。

 母捻子(76歳)は、常にボーイスカウト活動を側面から援助していましたが、「より良き婦人の育成を」との願いのもと、42年4月ガールスカウト大阪第62団を誕生させ、団委員長としてその任を務めています。

 妻民子(51歳)は、ガールスカウト誕生と同時に、副リーダーとなり、46年4月団組織改正によりレンジャー部門、52年からシニアー部門正リーダーを続けています。

 48年8月には、ヨーロッパの幼児教育視察のため、約1か月にわたり9か国に足を運び、訪れた国々のガールスカウト活動を見学し、イギリスにおいては、ボーイスカウト・ガールスカウトの本部を訪問しました。

 このように、私の家庭では家族金員がスカウト活動を行っていますが、今、思い出されるのは、次のような今田忠兵衛先生のお話です。

 それは、昭和24年8月、大阪軍政部長として赴任されたオムロンドロ司令官が「私が今、アメリカ本国をあとに、はるばる大阪に来て、何の心配もなく任務を果たすことができるわけは、日本に出発する前日、末っ子をカブスカウトに入隊させて来たことである。お陰で全部の子供がスカウトになったわけで、これで子供の成長については十分安心して、異国で仕事をすることができる。子供をスカウトにすることは、親としての責務を十分に果たす最良の方法であると思う」と感慨深げに語られたことです。

 わが家では、幸い親子の断絶もなく、老い(母)も若き(3人の子)も、夏にはキャンプ、冬にはスキーと、常に話題はひとつになり、スカウティングの話に花が咲いています。

 ”人を育てるということは自分自身が育てられることである”、”奉仕することは、自分自身が高められることである”と、無召で教えてくれたのがスカウト活動でした。

 子供3人も「より大きな目を」と海外のスカウト活動に関心を持ち、国際的な感覚でスカウティングを進めようとしています。

 夢 それは、少数のスカウトを海外に派遣するだけでなく、スカウト全員(カプ隊を除いて)でアメリカにキャンプし、スカウト自身の感覚でその国を確かめ、大いなる世界に日を開き、自分自身を振り返らせようとすることです。

 幸いにして、他の指導者の理解と協力を得て、54年7月には、長男祐賢はシニアー隊長、同副長、ボーイ隊副長とともにアメリカ・カリフォルニア州に下見と打合せのために渡米しました。

 3人の子供の姿を見るとき、よくここまで成長してくれたものだ。これからも惜しみなく、奉仕活動に努力してくれるものと思うとき、ボーイスカウト教育のお陰と深く感謝しています。

(1980年3月号)  

 

 記録映画になった

  第3回日本アグーナリー

   名古屋100団森君との友情

 

 ボーイスカウト活動は少年達すべてのものであり、心身に何らかのハンディキャップをもつ少年達も当然この運動に参加し楽しむことができる。この運動は、英国でスカウト運動が始まって間もなく、一般のスカウト達が障害児の施設や病院を訪問し、友愛の手を差しのべたことがきっかけとなって、障害児自身の手によって踏み出された。

 日本においては1955年に熊本で盲・ろう児を対象にボーイスカウト運動が始まり、現在では数多くの障害をもったスカウトが障害を乗り越えてスカウティングに参加している。

 1973年に、初めての障害スカウトによるキャンプ大会「第1回日本アグーナリー」が愛知県で開催され、1974年には、日本連盟に障害児スカウティング専門委員会が置かれた。

 1976年に「第2回日本アグーナリー」が開かれ、参加者は障害児のみを対象とした団だけでなく、障害を乗り越えつつ一般の団でスカウティングに参加している者にまでその範囲が広げられた。

 そして1979年に「第3回日本アグーナリー」が大阪市の長居公園で開催された。この年は、国際児童年にあたっており、外国からも障害スカウト、畦常スカウトと指導者が一組となって参加した。

(スカウティング誌より) 

 

 「第3回日本アグーナリー」において、一人の障害スカウトと彼を手助けする奉仕スカウトとの心暖まる交友が記録映画に残されている。

 障害スカウトはボーイスカウト名古屋第100団の中学三年生の森 浩一君。一歳半で発病した脳性小児マヒのため、手足の自由がほとんどきかない。奉仕スカウトはボーイスカウト大阪第11団ローバースカウトの奥田祐仁君。

 プログラムを消化していくにつれ、スカウトの友情の輪は次第に広がっていく。

 森君はプログラムの合間にプラモデルの名古屋城を作り始めた。

 アグーナリー最後の夜、燃える大営火の前で演技を披露するスカウト達、すべての人達の心が、いまひとつに結ばれようとしている。

 閉会式が始まり、松葉杖をついて別れの召葉を述べる沖縄のスカウト。森君は丹精こめて作りあげた名古屋城を奥田君に手渡した。初めから奥田君に贈るつもりで作っていたのだ。自分が面倒をかけるであろう奉仕のローバースカウトに何かお礼をしたかったのだという。感極まって泣ぎ出す森君、もらい泣きする女性リーダー、そして涙をこらえる奥田君の表情・・・・。

(1980年3月号)  

 

 あとがき

 

 今回の記念誌発行にあたり、隊、部門より編集委員を選定して編集作業にかかりましたが、当初は、前記念誌の発行と違い経過年数も5年間ですので活動記録も少ないのではと再えていましたが、実際手をつけますと、活動記録などこのB.G.S.C.の発展ぶりを如実に語る様に数多くあり、ページ数も前回と同じになってしまいました。

 編集委員は限られた時間内に、それぞれの担当分野の資料を拾い出し、写真を選定し、原稿を依頼し、ページの割り付けと、連日連夜記念誌発行に取り組んでようやく皆様の手元にお届けすることができました。

 この発行にあたりましては、育成会役員、会員の方々の御協力、又団委員会及び各隊、部門のリーダーの人達よりの助言に編集委員一同大変感謝致しております。

 この記念誌PART-2に続きPART-3、PART-4、いやもっともっと続いて発行される事、それがB.G.S.C.のいつまでも隆盛が続く、一つの秘訣ではと編集委員一同自負しております。

 この冊子に収容された記録のなかには、反省しなければならない事もあるでしよう。過去を反省し、現在を眺め、未来を夢みて進もうでありませんか。

”よき社会人育成の為に”

いやさか 

記念誌編集委員会  

パート Ⅲ 

1986年(昭和61年)

かがりび 表紙   
記念誌 表紙    
口絵写真 
 創立者・初代隊委員長 故奥田祐道 
隊旗
追悼歌    
はじめに    
目次    
あ い さ つ    

 発団50年を迎えての思い出

育成会会長 赤塚勝巳 
 この5年を振り返えって 
BS第11団団委員長 奥田祐美 
「和」と「輪」
 BS第111団団委員長 北村 稔 
 ごあいさつ  
 GS第62団団委員長 奥田稔子 
あしあと    
記念座談会
おもいでの写真集  
活 動 記 録    
 活動記録    
 全国大会・日本開催ジャンボリー派遣記録
 野舎営記録    
 海外派遣記録    
 スカウティンピック開催記録
 スキー教室開催記録
 テーブルマナー開催記録
 進歩記録    
指導者研修歴    
 指導者研修歴    
 指導者養成講習歴  
 奉仕記録    
 表彰記録    
記念式典にあたって OBより一言 

 有意義だったスカウト活動

  元11団 綿世久利
 35周年を祝う
 元111団カブ隊隊長 西中紀博 
記念式典にあたって
 カブ隊
 ボーイ隊
 シニア隊  
 ローバー隊  
ボーイスカウト歴代指導者年表

地区誌「しろきた」

 こんにちは111団です

おわりに    

記念誌表紙 

 

日本ボーイスカウト大阪第11団

    結成35年 

日本ボーイスカウト大阪第111団   

    結成20年

日本ガールスカウト大阪第62団

    結成20年 

 

記 念 誌

 

 

 追 悼 歌  

 

1.いと深き

  森の奥わけて

   ふみ入りし 

    その巨いなる足跡は

     ここに終りて

      天かけり

       雲に昇りぬ

2.スカウトの

  鑑なる人ぞ

   稀に見る

    優れし勲

     「永遠のスカウト」

       ここに 身をもちて

        道を遺しぬ

 

3.山ゆかば

  思いぞ涙

   露しげき

    昔の森の

     火の 光の中に

      在りし日の

       御姿慕ぶかな

 

 は じ め に

 

 今年も桜の花が咲いて、新しいスカウト仲間がふえました。

 昭和25年、ボーイスカウト大阪第11団が初期登録しました時は、1隊スカウト18名、リーダー6名の小さな集まりが、35年たった今、B.G.S.C.合わせて7隊、3部門スカウト213名、リーダー99名の大きな集まりに成長するとともに、この間スカウトの道を通じて知りあったスカウト仲間の輪は、1000名にもなろうとする大きな輪となりました。この大きな輪も、毎年毎年のスカウト活動の積み重ねがあってのことではないでしょうか。

 昭和56年4月にボーイスカウト大阪第11団結成30周年、大阪第111団結成I5周年、ガールスカウト大阪第62団結成15周年の記念式典を催してから、早5年が過ぎました。

 この5年間の活動この5年の間の動きを振り返ってみますとまず、昭和58年に103名におよぶ大人数の海外派遣を団独自で行なったアメリカキャンプが挙げられます。

アメリカ人の生活を味わったホームステイ、雄大な自然の中にあるヨセミテでのキャンプとプログラム、そしてマジックマウンテン、ロサンゼルス、デイズニーランドの観察旅行というスカウトならではの日捏とプログラム内容でした。

 また、日本では蒜山高原において第3回蒜山キャンピックが行なわれました。

サイクリングとアーチェリー、金魚ちゃんで最高に盛り上がったキャンプフアイヤー、そして苦しかったハイキング、全て楽しい思い出でした。

その他信仰奨励によって宗教への関心を高めたことも大きな事柄でした。

 しかし、大阪第111団結成15周年の記念式典のすぐ後に、津田修大阪第111団団委員長を、また大阪第111団結成20周年を目前にして、松田荘平大阪第111団団委員長が亡くなられるという悲しいこともありました。お二人とも大阪第111団はもちろんのこと、B.G.S.C.の発展に尽された方でした。

お二人の御冥福をお祈りいたします。

 さて、1年後にひかえました第2回アメリカキャンプの計画も進んでいますし、今年の夏は第4回富士キャンピックとアメリカからのガールスカウトの訪日があります。

この様に国内はもとより海外においてもスカウト活動ができますのは、ひとえに育成会、団委員会、リーダーそしてスカウトの一致協力した結果だと考えられます。

 この記念誌は前々号、前号に引き続きPART一Ⅲとして、ここ5年間のスカウト活動の記録を収録したもので、B.G.S.C.の発展の記録でもあります。 

 

 発団50年を迎えての思い出

B.G.S.C.育成会会長 

赤塚勝巳 

 

 BS11団35周年、BS111団20周年、GS62団20周年と記念すべき年に当り、会長として御挨拶できる事は、この上ない喜びであります。

 ついこの間、30周年、15周年とそれぞれの式典が行われた様に思われますが、

5年の月日が疾風の如く過ぎた様に思われます。

これも毎年充実したプログラムが展開されているからと思います。

 この5年間の印象深い事は、58年7月30日より8月16日迄行われました、アメリカキャンプではなかったかと思います。ホームステイ、アメリカのボーイスカウトのスタッフにお世話になりながらのキャンプ、ヨセミテ公園の広大さ、遊園地見学、パーキングのない長時間のバス移動等々、さまざまな思い出は、参加したスカウト達にとって永遠に忘れる事はできないでしょう。

これとて奥田11団団委員長の、全てのスカウトに例え短期間でも海外生活を経験させ、見聞を広めさせようという計らいに、育成会の保護者の方々が賛同されて実施されたのであり、又保護者の方々も自分の子供を入団させた事を良く理解されているので、全ての行事が何ら支障なく行われているのだと思います。

 また、近年信仰奨励に力をつくされた事は目を見張るものがあると思います。スカウトに自分の明確な信仰心をもつ様努力を積み重ねられましたので、スカウトも感謝の念を持ち、全てに礼を言える様、日常生活において感謝の活動が見られます。

 故人となられた二代111団団委員長津田修様、三代目団委員長松田荘平様、お二人は積極的にスカウト運動に取り組み卓越した指導カでスカウティングを楽しませ、奥田団委員長と力を合わせ、現勢に至る迄の基礎を作って下さった御苦労があり、御功績である事も忘れてはならないと思います。

今後も故人は団の発展を温く見守って下さるでしょう。

謹んで御冥福をお祈りいたします。

 先代育成会会長の方々が築かれた確固たる育成会の中に入り、御理解ある会員の皆様に支えられ会長とは名ばかりで団運営にも参画出来、育成会も事なく運営出来今日に至ります事は、私は本当に幸せ者と感謝にたえません。

今後ともB.G.S.C.発展存続の為、御力、御支援をお願い申し上げます。

 スカウトの皆さんは、自分が入団した事を今一度よく考え「やくそく」、「ちかい」をたてたことを思い出し、将来の自分が立派な社会人に、世の中の為に役立つ人間になる為、今後一層スカウティングに精出し、自分達が良きリーダーに恵まれたように、自分達が良きリーダーになるように頑張って、B.G.S.C.の伝統を受け縦いで下さい。

 B.G.S.C.が存続するのも職種こそ違えどスカウティングを良く理解し、スカウトを愛し、余暇をさいて御奉仕下さった、先学団委員、リーダーの御苦労のおかげと感謝すると共に敬服いたします。

 終わりにのぞみ、B.G.S.C.は鶴見区での社会教育では大きな成果を上げている事は周知の通りで、また誇りであると共に区民の一員としての役割と活動してきた事は意義のあることであります。

今後も奥田団委員長を先頭に団委員、リーダー、スカウト、育成会員一丸となり、50年、100年と不断の努力を積み重ねたいものです。

どうか皆様方の一層の御力と御支援をお願い申し上げまして35周年の御祝いの御挨拶といたします。 

 

 この5年を振り返えって

大阪第11団団委員長 

奥田祐美 

 

 昭和56年4月19日(日)大阪市立今津小学校に於て結成30周年(復活20周年)記念式典並びに第14回スカウティンピックを開催してより、早くも5年の歳月が流れ去りました。

 幸に、当団も順調な発展を遂げてまいりましたことは、育成会を初め保護者各位の御協力と地域有志の皆様の暖かい御援助、連盟、地区の御指導の賜と心より感謝申し上げます。

 この5年をふり返って特筆すべきことは、

.昭和58年に30周年記念事業の一環として実施した、B.G.S.C.合同のアメリカキャンプです。

7月30日(土)より8月16日(火)までの118日間、指導者17名スカウト86名計103名が参加し、アメリカ家庭における生活を6日間体験し、 San Mateo County. CouncilのCamp Catter でのキャンプ、日本では体験できないキャンプ生活、国立公園ヨセミテでのキャンプ、西海岸最大のロサンゼルス、サンフランシスコの市内観光、映画の町ユニバーサルスタジオの見学、アメリカ最後を飾るディズニーランドの夜、スカウトにとって生涯忘れることのできない大きな体験を身をもって感じたことでしょう。

.昭和57年度には日米スカウト交歓、60年度にはオーストラリアジャンボリーに、それぞれ日本連盟より派遣されました。その上外国スカウト(インドネシアL.1、S.2名)を受け入れ、ホームステイを実施し国際交流の輪が広がりました。

.国内的には、アメリカキャンプに参加できないカブ隊、ジュニア部門を中心に、指導者49名、スカウト126名によって、岡山県「蒜山高原」において第3回合同キャンピックを盛大に開催し、57年8月宮城県白石市南蔵王山麓で開催された第8回日本ジャンボリーに指導者6名、スカウト16名計22名が参加し、59年7月同所で開催された第1回日本ベンチャー大会(シニアスカウト大会)に8名のスカウトが参加しました。

 これらは、スカウトが平素の訓練に精励していることは勿論ですが、その陰に自分の時間も忘れてスカウト教育を充分に理解して、プログラムの展開に努力して頂いている指導者の方々を忘れることはできません。

 今、団が35周年記念を迎えるに当たり、惜しまれてならないのは、昭和56年7月16日に111団津田修団委員長が急逝され、昭和60年7月14日に111団松田荘平団委員長が逝去されたことです。

両名は、11団復活には団委員として、兄弟団として誕生した111団では団委員長、時には隊長として活動し、津田君亡き後は松田君がその後を継いで団委員長として111団は勿論のことB.G.S.C.の発展に尽力賜ったことです。

この悲しみを乗り越えて”ちかいとおきて”の実践に努力し、社会有用の人になるよう、より良きスカウティングを展開し、優秀なスカウトを育てたく思います。

 皆様におかれましては、より一層の御指導と御援助を賜りますよう、お願い申し上げます。 

 

 「和」と「輪」

大阪第111団団委員長 

北村 稔 

 

 「和」、わと読み、なごむとも読むこの字、人生において大切なものだと思います。

 我がB.G.S.C.(日本ボーイスカウト大阪第11団、大阪第111団、ガールスカウト大阪府第62団)が、今日の様に大きくなり、発展隆盛してきたのは、団、育成会、リーダー、スカウトの間に和というものが自然に培ってきたからだと思います。又、この字は数と数をプラスする時にも和と書きます。

一人のスカウトが一人の少年や少女をスカウトに誘い、仲間を増やしてゆく事が、すなわら和(プラス)ではないでしようか。

 そして、この字「輪」は車の事輪などと同じ如く、始めが無く終わりも無く、スカウト活動に終わりが無い事を教えてくれている様に思えます。

 さて、私がスカウト活動に参加したのは、大阪第11隊(当時は隊と呼んでいた)が大阪府下で16番目の隊として発足した昭和25年で中学の2年生でした。現在の様にカブからローバーまであるのではなくボーイ隊だけで、スカウトも中学生ばかりだったと記憶しています。

 (昭和25年当時、大阪府下の隊登録 16ケ隊、スカウト数 420名)

 その年の7月には、大阪城桐畑で開かれたボーイスカウト国際連盟復帰記念キャンポリーに参加し、8月には東京・新宿御苑の第2回全国大会に参加のため、隊委員長や保護者と共に、現奥田団委員長を隊長として、長時間汽車に揺られて東京へ行った事を、ほんの少し前の出来事だと思っていたのに、はや結成35周年を迎える年輪を経た喜びまるで夢の様に感じます。

 昭和26年12月に、奥田祐道隊委員長が逝去され休隊のやむなきになりましたが、その後、復活登録され昭和41年には、大阪第111団が誕生し、続いて42年にガールスカウト大阪府第62団が発団、スカウト数も大幅に増え現在の大きな団に成長しました。35年前の昭和25年に、隊長、副長、スカウトの合計19名で動き出したスカウト活動が、城北地区いや大阪連盟、日本連盟にも知られる様な立派な団になると誰が予測できたでしようか。海外に派遣された指導者、スカウトは数え切れない程ですし、58年には100名を越すリーダー、スカウトが念願のアメリカキャンプを実行し、又、リーダーはスカウト教育を受けてきた者が大半を占めるという理想的な組織になってきました。

 しかし、ここにくるまでには、草原を歩く様な平穏な時ばかりでなく、山も谷もあっただろうと思います。

それらを乗り越えてこられたのは、第11団の歴史そのものとも云える奥田団委員長と御家族のお陰ではないでしようか。

健全な青少年の育成に情熱を燃やしておられる奥田団委員長に負ける事なく、我々や保護者の皆様も育成会に協力し良き社会人に育つ様にスカウト教育に力を合わせてゆきたいと思います。

 「和」と「輪」を忘れずに、今後も我がB.G.S.C.が50年、60年と歴史を作って行く事を、心から希望しております。 

 

 ごあいさつ

ガールスカウト大阪第62団

団委員長 奥田稔子

 

 本日は、お忙しい中をガールスカウト大阪第62団結成20周年記念式典に、お集り下さいましてありがとうございます。

 平素は何かと御指導と御援助を賜り厚くお礼申し上げます。お陰をもちまして62団も順調な発展を遂げ、着々その成果を挙げてまいりました。

 スカウトの皆さんの努力は勿論ですが、保護者の方々の御協力と指導者の皆様方のたゆまざる尽力のお陰と深く感謝しております。

幸にしてスカウト活動を経験したヤングリーダーが次々と育ち、良き先学の跡を縦いで各部門で奉仕をして下さっている事が、何よりも心強く頼もしいかぎりです。

 スカウト活動を始められた、イギリスのベーデンパウエル卿は最期のメッセージで

「私は最も幸福な生涯を送りました。ですからあなた達一人々々もまた幸福であるように私は念じています。

・・・(中略)・・・けれども、幸福を得る本当の道は他の人々に幸福を与えることによって得られるのです。」と

申されています。

 誰でも幸福を求めています。幸福を求めない人は一人もいません。只その求めかたを間違っているのです。お金を持ら、大きな家に住み、美味しい良べ物を良べ、綺麗な服(着物)を着て、自動車に乗って・・・等のみで、個人の欲望に走り、利己主義となっているのではないでしょうか。

 また反面現在社会に失望し、希望もなく、落ちこぼれ、いじめっ子となり、非行化していきます。

 故中村知先生(スカウト運動の先達)は、「奉仕は力だめしですよ。自分がどれくらいお役に立つだろうかという力をためすのですよ。」と申されています。

 私はどれくらいお役に立つのだろうかと考えた時、未熟なことに気がつくでしょう。

「もっと勉強(自分を鍛えなければ)しなければ」と思うでしょう、その時に成長への道が生まれるのです。

 ガールスカウト活動の基本は“やくそくとおきて”の実践を通じて、日々の善行、そなえよつねにを何度となく繰り返し、訓練を続けるうらに、自然と身につき何のわだかまりもなく奉仕することができるようになります。

 スカウトの皆さん、途中で止めることなく続け、良き先輩の後を継いで、後学のため良き指専者になり真の幸福を得て下さい。そしてこの62団が30年50年と発展すると共に成長して下さい。

 保護者の皆様におかれましては、より深く理解していただきこの運動の発展のため御協力下さいますよう、お願い申し上げます。

 終りになりましたが、この良き婦人づくりを目的とするスカウティング(スカウト教育)が、一人でも多くの少女のため益々発展することを念願して、地域有志の皆様をはじめ、ブロック、連盟の方々の尚一層の御指導と御援助を賜わりますことを、切にお願い申し上げます。 

 

記念座談会

リーダーの言いたい放題

 

司  会

 本日は、お忙しい中お集まりいただきましてありがとうございます。

さて、11団結成30周年から、早や5年がたちまして、この4月に結成35周年を迎えるわけですが、今日お集まりいただきました。

リーダーの方に、この5年を振返っていただきたいと思います。

橋  詰

 一番印象に残っているのはアメリカキャンプですね。始めて外国に行けたことでもあり、いろんな勉強にはなりました。ただ、惜しいにとに全体的に時間の余裕が無くヨセミテでの川下りなどもっとやりたいことがありました。

水 谷(-)

アメリカに行くこと自体には、期待するものはあまり無いのですが、3週間も行けるということは、長い人生でそんなにないことで、ボーイに入っていてよかったと思いますし、ホームステイで世話になったおうちの女の子が、去年日本に来てくれたことも、アメリカに友達ができたということでよかったことですね。

伊  野

 キャンプ場の環境は良かったけれど、むこうのスカウトと一緒にキャンプをしたかった。スタッフはい

だけれど、スカウトがいなかったのが残念で、こちらのスカウトとしても、ちぃっとさみしかったんじゃなかったかな。先程の橋詰君の時間がなかったことについては、ヨセミテで二泊したけれどもう一泊したら、あのきれいな川で川下りや、サイクリング、乗馬も経験できたのでは。

 

川  端

 アメリカでひとつ感心したのは、ほとんどの場合、集合時間の15分位前には全員集まっていたことが挙げられますね。

集合時間ギリギリにきたときは、皆なに白い目で見られていた。これは、ほっとかれたらどないしょうもないから、早く集まったんやと思うけど、日本へ帰ってからもこれはやってほしかった。日本に帰ったらな

んで集まるのが遅いのか、今後の課題にしてほしい。

奥  田

 アメリカキャンプで一番感心したのは、キャンプスタッフが若いスカウトということですね。ヒゲはやしているので、始めは僕らと同じ位と思っていたんですが、聞いでごみたら15歳、16歳だったんですよ。その若い彼らが全部のプログラムをテキパキと指導しているのです。大人顔負けでした。それ見てさすが、ボーイスカウトの先進国やなぁと思いました。彼らはイーグルスカウトになるために、キャンプスタッフとして、奉仕していたのです。イーグルスカウトになろうとするスカウトは違いますね。

司  会

 ありがとうございました。第1回は58年でしたが、第2回はもう来年なんなんてすね。そこで、第1回に行けなかった方も第2回に期待されていることは、どんなことでしょうか。

長谷川

 若い人はこれからアメリカとか、海外派遣とかがあり、いろんな経険を積むためには行ったほうが良いと思いますね。そのためには、スカウト活動を続けていってほしいですね。私自身仕事の休暇の関係上、参加できないのは残念です。

 私もカブスカウトのリーダーです

し、やはり仕事の関係上、行きたくても行けないのが残念ですね。

司  会

 アメリカキャンプと同じ時に蒜山で第3回B. G. S. C. キャンピッグが開かれましたが、蒜山も印象深かったのではありませんか。

西  尾

 海外派遣は行けなかったんで、行かれた方の話を聞いて羨しくてしかたがなかったんですが、私は、蒜山のキャンピックで、カブや、ボーイの人と楽しく過せたことが、印象に残っています。

また、貝塚で、地区キャンポリーをした時、資材と食料関係を榊原団委員と一緒に手伝ったことが、印象に残っています。

阪  口

 蒜山で一番思い出に残っているのは、スカウト時代に世話になった中谷さんや上農さんに来ていただき、スカウトにもどったような反面、けむたさといった言葉にならないような、そんな雰囲気を味わえたことですね。よく残留租、残留租と言いますが、残留租といって落ち込むんじゃなく、あれはあれで最高にいい経験をさせてもらったと思っています。隊長らが、アメリカキャンプに行っていなくて、自分らでやらなあかんという気がしたんでしょうが、とにかく印象に残っているのは確かですね。滅多に経験できないようなことを経験できたのが蒜山キャンピッグでした。

辻  野

 蒜山キャンピックはとにかく一から自分達で計画し、実行に移して、後の始末だけ団委員さんにしてもらったという形でした。ボーイ隊は、阪口さんをトップに、若いものがきりまわしたわけで、しんどかったんですが、終ってみると充実したという気がしました。

ハイキングも丸1日かけて行ったんですが、行く時はテニスルックできめたのに帰ってきたら乞食同然の

格好になっていて非常につらい目をしました。何でこんなつらいことせなあかんのかと思いました。下見、準備といろいろ苦労しましたので、実際に実行した時は、案外楽に自分達が思っていたように進められた

気がします。キャンプ自体もスカウトの乗りがよかって盛り上がっていたと思います。

司  会

 カブの方はどうでしたか。

長谷川

 私は合同キャンプに初めて参加したのですが、特にキャンプファイヤーの時のボーイスカウトの方のスタンツに楽しませていただきました。

 

 前から蒜山で一度キャンプをしてみたかったんですが、まさか制服を着てキャンプ出来るとは思っていなかったので、嬉しかったですね。ただ、一般の人と一緒のキャンプで、大きな音楽が鳴っていたのがうるさかったですね。

司  会

 うちの団のキャンプは人里離れた所で、自分達だけの世界を作っていましたので、違和感はあったでしょうね。

若いリーダーはどうでしたか。

津  田

 ローバー隊からカブ隊のリーダーになって、初めてのキャンプでしたので、すごく印象に残っています。合同でやっていて、カブ、ボ-イとスカウトが成長しているのがわかりました。というのはキャンプファイヤーでカブとボーイのスタンツを比べてみると、カブの声が小さく、何をしているのかわからないのですが、ボーイやリーダーがスタンツをしている時はよくわかり楽しませてもらいました。カブでも大きな声でよくわかるようなスタンツにしたいと思っています。

岡  村

 僕もリーダーになって初めてのキャンプでして、他のと違って緊張したキャンプでした。まして合同キャンブということで、ボーイと一緒だし、他の団委員さんがたくさん来ていただいたことで、盛大だったというのが印象的でした。

 樫  根

 蒜山へは、遅れて行き、早く帰ったのですが、ハイキングに参加しました。

蒜山キャンピックのボーイ隊は、若いリーダー4人だけで計画や運営をしました。計画や運営を自分らで考えるようになったのは、11団隊長が怪我をして居なかった、前の年の牧野大池のキャンプからでした。

司  会

 まさに怪我の巧名ですね。(笑)

辻  野

一番印象に残っているキャンプはその牧野大池のキャンプですね。

11団隊長が怪我をして参加できないので、自分らでせな仕方がない、できるのかなぁ、一度やってみようかということでしたのですが、副長の結束というのが終わってからものすごく強くなりました。

自分らで動いたこともそうですが、ものすごく熱が入ったんですね。一週間に3日位打ち合せをして、キャンプが終わるまで、その話ばかりでした。

やってみて、問題があっておしかりも受けたのですが、そういうことはともかく、印象に残っています。設営から微官まで全て今でも覚えています。合同キャンプやキャンピックは自分達でしていないというので、もう一つ印象に残っていないですね。

司  会

 今年の富士キャンピックは計画から全てやってもらえますね。

辻  野 

 私らではまだボーイ隊だけて精一杯です。(笑)

阪  口

 牧野大池の時は57年で、日本ジャンボリーが先にあって、会社に出だのが数日で、回りから「何しにきてるねん」とか無茶苦茶言われたのを覚えています。

怪我の功名やないけど、ジャンボリーも牧野大池もうまくできたし、熱中していたんですね。その時と比べると、今子供が大きくなったし、年とったし熱が少しさめてきたみたいです。

川  端

 子供が小さかったらいろんなことも可能なんですが、ある程度子供が大きくなると家庭というのが前に出てきますね。好きでボーイのための時間というのは作り易いんですが、家族のための時間というのは案外作りにくいものなので、つとめて作る必要があると思います。

司  会

 そのことで家族から責められたことはありませんか。

長 谷 川

 それはないですね。子供2人供ボーイですので、入ってから家族揃ってどこかに行くということは年一回位で、海水浴にも行けませんが、不満の声はありません。

川  端

 いかに時間を有効に使うか、つまりタイムスケジュールというのですが、それが今後リーダーとしてもっと考えていくべきと思います。

滝  野

 私の場合、仕事があり、活動がしにくいというのが多かったんですが、時間が全くないかというと、そうでもなく、ただ空いている時間とスカウトの活動が一致しなかったので参加できなかったわけです。だから空いている時間とスカウトの活動か一致するようにタイムスケジュールをうまく立てたいですね。

司  会

 長期にわたるタイムスケジュールといいますと、信仰奨励があげられると思いますが。月一度の信仰奨励を一年間続けられてどうでしたか。

川  端

 信仰奨励の始まった理由は、私が実修所に行った時に念珠を手につけているのを見て、信仰に非常に関心を持っているのでしょうねと感心されたんですね。またジャンボリーでもそう思われたんですね。

ただ格好よかったからと思っていただけなのに、回りから何か心得があると思わていることを知り、じゃあつけるなら、そのことを勉強しようということで始まったのです。その年に8人のスカウトが、一年間続け帰敬式を受けることが出来、その後も何人ものスカウトが受けています。

堂  野

 最初信仰奨励を受けても何も分からなかったんだけど、おかみそりは自分の法名をもらいに行くだけだと思っていたので、あとが続くかどうか不安でした。自分の宗教を持とうと思ったのがキッカケで、おかみそりを受けてからは、仏さんに手をあわすのが多くなりました。

白  井

 僕の家は大谷派と違うけれど、自分だけ宗教を変えてみようと信仰奨励を受けたのですが、周りが少なくなっていったのですが、宗教を持っているとどうなるか、あとでどう役に立つかがわかってきたので続けました。おかみそりを受けたのは、最初、宗教章がほしかったのですが、その後自分の習慣になり、宗教を持てたのがうれしいですね。

川  端

 今後も一年に一度はおかみそりが受けられるようにしていくつもりです。

奥  田

 話は変わりますが、この機会に昔を振り返えってみますと、今は昔のような名物スカウトが居なくなりましたね。

個性の強いスカウトですが。

川  端

 リーダーがこわいんやと思う。

昔やったような冗談が通じないという気持ちがあると思う。今はシニアになって、やっとりーダーて「こんなんやったんか」というのがわかってくるという感じ。

阪  口

 BS時代でリーダーの性格がわかるというたら、上班か隊付になって、本部につめてからやと思う。

司  会

 新リーダー白井君はその点どうでしたか?

白  井

 カブの時はデンマザーが中心になっていたので、隊長のことは意識していなかった。ボーイに上がっても、下っ端のうちは班長がこわかった。班長になってどういうものかわかっていたようです。

シニアーは自分らでプログラムを作ったので意識せず自由でした。

阪  口

 僕らスカウトの頃は、スカウトしか楽しみがなかったのですね。今

はスカウト以外にすることが多すぎるのではないですか。ですから

スカウト自身、塾・パソコン、ファミコンなどすることが多くさんあるし、できるし、ボーイにこなくても自分の時間を使えるようです。

川  端

 することが多すぎて、今の子供は世の中の流れで選ぶものをきめている。

そういう中で、ボーイはここがおもしろいとなれば続くと思います。

親の方の考え方もあると思いますが。

司  会

 年度末に上進しないと、やめたいとかいうスカウトもいるようですが、どうでしょうか。

奥  田

 子供の意見より親の意見の方が強い感じですね。子供はどちらでもよいのに親が「やめとくか」でやめるような感じ。

中  嶋

 それはありますね。月の輪担当していまして、上進しない子はお母さんから電話がありまして、「子供が行かない」というんです。

小学校5年生位だったら、親が行きなさいと言えば行くと思うんですが。親の威厳も落ちたんでしょうか。

川  端

 カブ、ボーイに入ったら、プログラムに参加させるのが、親のっとめだと思う。それが、しんどかったらやめるかではリーダーも精がないもの。

辻  野 

 親のスカウト活動の価値感が変わってきたのと違いますか。私ら自分から入ったんですが、入ったら尻だたかれました。昔の人は、道徳というのか人間教育に熱心でした。今の親はまず教養でしょう。社会もそういう風潮やけど、人間として生きていく上で、ボーイスカウト活動はどういうものかを考えてほしい。

西  尾

 今の子供はめぐまれすぎているというか、それでスカウト活動も変わってきて、リーダーとしてもやりにくい面があるでしょう。

自分達の経験をもとにして、スカウトを指導しようと思うけど、親がブレーキをかけることもありますね。

私はスカウトの親として、あまり教えることはしません。かえって、親がリーダーやのにこんなん知らんのかとか言われるそうです。

教えてもいいけれど、かえってリーダーをなめてかかると思うので、そうしてます。ただ、集会の時に家にいたら何で行けへんのやと催促します。

今の学校のいじめも、家庭のしつけが影響しているのではないですか。

水谷(一)

 僕はボーイに知らんうちに親に入れられました。ボーイの時に1、2回やめようと思ったことがあったのですが、親に「やめさせへん」と言われて、そのままきました。

 シニアー・ローバーではあまり活動しなくて、肩たたきも受けたんですが、ボーイの隊長から副長としてお呼びがかかって、今ここにいます。それで実際リーダ一になってスカウト見ててやる気がねこりました。もしやめていたら、今の楽しみもなかったですね。

堂  野

 自分でやめたいと思ったことはなかったし、親も別に何も言わなかった。楽しいことの方が多く、他の学校の友達もできたのがよかった。

橋  詰

 しんどいこともあったし、よくおこられたけど、今リーダーになってみて続けていてよかったです。

川  端

 スカウトあがりのリーダーがここにずらりと並んでいますが、よく昆ますと何か目立ったというか印象に残っている人ですね。先日調べたら、10年以上リーダーしている人が多いんですね。10人以上いるんです。他にこのような団はないですし、よその団に行けば中心の役割できますよ。

また、何かおもしろくて今まで続けてきたかを理屈つけて、今のスカウトによく理解させて頂きたいですね。

辻  野

 印象に残るというのは、おもしろいことより、つらい、苦しいことや、リーダーにしかられたことが多いですね。

 スカウトの時、夜間ハイクで柳生とおって木津まで歩いた時、寝ながら歩く班員を、メンタムぬっておこすのに苦労したことがすごく印象に残っています。その時は本当に苦しいんですが、2・3年立って、あの時こうやった、あのようなことはボーイでしかできないなぁと思いました。

阪  口

 私のボーイの時は、小さいのにすぐ次長にさせられて、やめたいこともあったんですが、やっぱりやる気が出てきたのは、シニアーの時ですね。クラブとボーイで悩みましたけど、好きなことをやらせてもらって何とか続けられました。

司  会

シニアーになると、自分で計画が立てられるので、おもしろさというものを理解でき、その後は続く思うのですが。

福  井

 BSからSSに移ってきて、BSの時のスカウトがSSに上ってきたのを見ると、ここにいる若いリーダーがそうなんてすが、やっぱり成長しているな、いつのまにか大人になっているな、と思いました。僕自身、BSの時程、口喧しくは言わなくて、彼らにまかせたんですが、よくやったなぁ、と喜ぶ楽しみもありますね。

阪  ロ

 スカウトあがりのリーダーが多いことですし、一度リーダー達で隊編成してキャンプをしたらどうでしょうか。(笑)

今リーダーとして古い考えでやっているかもわからないし、新しい考えがみつかるかもわからないですね。

川  端

 近頃はカブからボーイに上がるのが減ったのですが、それについてどうでしょうか

中  嶋

 月の輪からボーイヘ行かない人が言っていたんですが、紙一枚書くと、やめさせてくれるということが広まっているというそうです。だから、しんどいからすぐやめるそうです。絶対やめられないと思っていたら紙一枚でやめられるということがわかったというわけです。

全  員

 罰金とろか。(笑)

奥  田

 今の親は自分の子を、過大評価しているところがありますね。もう少し冷静に評価して、個性を伸ばしてほしいですね。

 

 今年はカブに16人入ったのです

ボーイに上進したのは、10人で4人やめたのですが、これもお父さん方の活動に対する熱意が薄いからではないかと思うんです。

保護者会でもお母さんばかりなので、お父さんも参加してほしいですね。

川  端

 父親の会というのを、前にSSで一度したんですよ。いろいろきついことも言われましたが、よく説明して理解していただきました。また今までも、行事の時にちょっと手伝っていただいたことが、その後の熱心なお手伝いになられた方もおられることですし、やはりお父さん方を機会ある度に呼んで、ひきこんでいき、理解してもらうことも必要ですね。

 

 私も一年ということで入ったんですが、まだ続けています。

奥  田

 前にBSでも父親だけのキャンプを企画したことがありました。班長に入ってもらってキャンプというものを理解してもらおうとしたのです。しかし、この前の父親ハイキングでも参加されたお父さんは2人だけでしたのでね。

司  会

 他にこれから期待したいことや、やりたいことなどがありましたらお話していただけますか。

堂  野

 遊びの心というようなものを待ってほしいですね。たとえば、キャンプにお菓子を隠して待ってくるとか。もし見つからなかったらキャンプも楽しくなるし。

また、これからは、リーダーとしても捜す楽しみもあることだし。

辻  野

 最近スカウトとの年齢差がありすぎて、スカウトの中にとけこがで行くのが難しいような気がして悩みだしています。

川  端

 僕がSS受け待ったのは、31歳の時でね、そうは思わなかったよ。気持ちが年寄りになっているのと違うかな。

水谷(勝)

 スカウトの気持ちというのは、僕の場合まだ他のリーダーより若いので、よくわかると思うけれど、それもSSと、BSの班長位までですね。話す機会も少ないし、おかしいと思われるかもわからないけど、あまりわからないです。それに、目立ったスカウトがいないのが、少しさみしい気がします。

中  嶋 

 少し挨拶がかけているので、私は今年から挨拶を徹底的に指導していきたいですね。

岡  村

 ちょっとこのところ子供と話をする時間が少なくなったと思うので、もう少し話をする時間を作っていきたいと思っています。また、5年後の座談会で自分がどういうふうに成長しているか楽しみです。

津  田 

 やはり子供と接する機会をふやすことと、注意ばかりして子供を萎縮させないように、離れて見るようにしたいと思っています。

福  井

 リーダーとして今後どうやっていくかこの前SSで相談したんですが、自分からこうやっていくといった意欲がないように思われますので、こちらから何とか動くようにもっていこうと思っています。

伊  野

 塾の問題が班の存続まで影響を与えているのが現状です。以前はクラブの問題が大きかったんですがね。塾はクラブと違って、親の期待も大きいのでより難しい問題です。今後の課題です。

司  会

 前回に引続き「リーダーの言いたい放題」ということでいろいろお話を伺ってきましたがヽ時間も遅くなってきましたので、このあたりで終りにさせて頂きたいと思います。

 本日はどうもお疲れさまでした。

   (昭和61年3月21日団本部にて) 

 

OBより一言

 

 有意義だったスカウト活動

元大阪第111団スカウト 

 綿世 久利 

 

 BS111団結成20周年おめでとうございます。私が京都の大学での下宿生活のため、退団して早や8年が過ぎ、 今回の記念誌でOBより一言ということで今、縁あってペンを取っていますが、前回の記念誌などを改めて見させていただき、懐かしい人達の元気なようすが伺え、みなさんも頑張っているんだなぁと、とてもうれしく思いました。

大分スカウト活動も、私の在籍していた時と比べて活発になってきたんですね。

このかがりびを見ていますと、手にとるようにわかります。

 さて、入団当時を思い出しますと、入団のきっかけは小学3年生の時に眼を怪我し、母が非行に走るのを恐れてお世話になることになったのですが、それが功を奏してか現在も何とか真面目にやっております。

そう言えば、10年間ぐらい在籍していたんですね。楽しかったことばかりが思い出されますが、カブスカウトの時は、学校とは違ったゲームや、週一回の集団活動、集会時の仲間とのいたずらなど‥‥。

 そして、ボーイスカウトの活動の中で一番心に残っているのは、やはり何といってもキャンプなどの野外活動です。

砂のまざったご飯や、暗闇の中で食べたカレーライスなど格別な味でした。また、重いリュックを背負って登山したり、ウルシの木にまけて全身ジンマシンになったりして辛かったこともありましたが、今では全てが楽しかった思い出になっています。

 現在、社会に出てみまして様々な体験をしたことが役に立っていますし、これからも何らかの形でプラスになることと思います。

 益々、これからもスカウト活動が発展して行くでしょうが、御指導してくださったり、見守っていてくださった方々の理解、

協力の上に活動が成り立っていたことに感謝しています。

 皆さんもこの事を忘れず、必ず、続けていてよかったという日が来ることを信じていますので、楽しく、そしておもしろくスカウト活動を続けていって下さい。私に子供が出釆た時には、是非、参加させたいとも思っています。

 これからも、ボーイスカウト11団、111団、ガールスカウト62団の御活躍、御発展をお祈り申し上げます。 

 

 

 記念式典にあたって

元大阪第111団カブ隊隊長 

西中 紀博 

 

 35年間という誠に永い年月に亘って、スカウト活動の基となり、ご尽力いただいております団委員長はじめ、団に関係されている皆様方に、深甚なる敬意と、この記念すべき35周年を盛大裏に迎えられましたことを心からお祝い申し上げます。文字どおり四六時中、スカウトの育成、指導を専らに営々として今日の立派な団を築き上げられたご労苦は、さぞかし筆舌に尽くし難いものがあると思います。

それだけにこの期間中当団に於て、スカウト活動の本旨を存分に摂取、吸収したスカウトが、

勇躍実社会に出て、良き社会人としていろんな方面で活躍されていることは何ものにも扱え難いものでありましよう。

 天真爛漫で奔放なまでの多様な個性を持つスカウトを、それぞれ満足に活動できるように、その要請に適応した素材を間断なく提供され、先ずはその計画、準備段階から実施に至るまでの援助を一貫して周到且つ綿密に、しかも煩損な労を厭うことなく支援いただいている有様は、過般カブ隊でお世話になりました私も、只々感服の極みであります。

 さて、スカウト運動は人間教育であると言われますが、考えてみますと人間はどんな人でも例外なく生まれ育った環境に大きく影響を受けるものです。持って生まれた能力が良い方へ伸長するかあるいは逆に変に歪曲したり屈折したりして思いもよらない方向へ転じてしまうかは、本人の努力も加味されましようが、実にその大半は幼少時からの成育過程における周囲の環境との関りによって決まるものと思われます。

とすれば人の「生の中で外界の影響を過敏すぎるほど感受する少年期青年期こおける環境の良し悪しが如何にあるべきかは論をまちません。誤解があればいけませんが決して無菌状態の環境を与えるのではなく、それ相応の適当な場、機会が用意されねばなりません。今日の位相、社会環境を少しく悲観的に眺めますとき、どうも悪化の一途を辿って行くようにみえて暗澹たる気持にならざるをえません。

 時節も本年は、世界を挙げて「国際平和年」と標榜しておりますこの年に、丁度35周年という節目を迎えられる当団の前途には、新たなる使命と期待が寄せられる如くに感ぜられます。

 今、この稿を認めつつ、富て共に苦しいプログラムに挑戦したり、また楽しんだりした懐かしいスカウト諸君のあの顔、この顔が次々と想い出されてまいります。本当に感慨無量です。

 ともあれ、人間教育、取り分け青少年の未来に大いなる待望を与え続けていただいております当団の益々の弥栄を祈念申し上げます。   

 

 記念式典にあたって

 

11団・111団 カブスカウト

35周年をむかえるにあたって

     於 松の浦キャンプ場

 月の輪スカウトとリーダーの座談会

 

 月の輪のスカウトの君たらは、今日までよくがんばってさたなあ。

スカウト活動をつづけてきて、どのようなことを思うか、これから話してもらいたいのだが・・・・・

一人ずつ聞いていっていいかな?

 

スカウトいいとも!!

榎本 君

月の輪訓練を終えようとしているが、ほんとうにボーイ隊にあがれるのか不安に思う。

川原 君

僕もそうです。カブスカウトのときがあっという間にすぎてしまった。

リーダー

今までにどんなことが印象に残っているかな?

木村 君

舎営がおもしろかった。</td>

坊農 君

自衛隊のときの舎営がおもしろかった。プロレスごっこして、遊んだのが楽しかった。

佐藤 君

ひるぜん高原での舎営がよかったです。

ボーイの兄さん・ガールの姉さんたちと、合同で舎営をして、カブだけの舎営では味わえない体験をしました。

キャンプファイアーもぼくたちだけのときよりも、とてもおもしろかったです。

下農 君

キャンプファイヤーがたのしかった。

南  君

ひるぜん高原の朝がよかった。目の前いっぱいに広がる美しい高原がとても印象的だった。

木村 君

デンマザーに、ローラースケートにつれていってもらったのが楽しかったこととして覚えています。

佐藤 君

登竜荘で熱を出して、しんどかったときにデンマザーがよくめんどうをみてくれた。

小林 君

デンマザーには、三年間よくめんどうをみてもらいました。

リーダー

みんな、楽しいおもいでがいっぱいあるみたいだね。

このおもいでが我が団の歴史の一ページに残っていくのだから、大切にしておきたいね。

ところで、君たらが後輩のスカウトに対して、何かアドバイスすることがあるかな?

榎本 君

もっと素直にいうことをきいてはしい。

川原 君

おちこぼれがないように、みんなで協力していってほしい。

坊農 君

目上の人に対して、ことば使いをきらんとしてほしい。

北  君

組長やリーダーのいうことをきいてほしい。

長谷川君

ものごとにけじめをつけてほしい。そしてこれからも、いっしょうけんめいにスカウト活動を続けてはしい。

リーダー

最後に、35周年をむかえるこのときまでには、いろいろ苦労があったと思います。

それは、先輩たちスカウトの努力と熱意のたまものでしょう。

一人一人が、がんばってきたおかげでこんなにりっぱな団になったのだから、

君たらが、この伝統をひきついで、より一層スカウト活動にはげんで下さい。  

 

 

ボ ー イ 隊

思い出話(キャンプ編)

 

 記念式典にあたって何かの特集を組んでとリーダーたちが集まって話をしていましたが、今までスカウト達や保護者、その他関係者に秘密にしておいたキャンプの裏話(失敗談)などを集めて書いてみようと言うことになりました。

 

☆56年城北地区キャンポリー(貝塚)編

 ①ハイキングに行った時のことである。2班が出発して続いてTリーダーとEリーダーが出発した。

 10分程歩いたところでKリーダーはなにやらソワソワしている様子、顔は真青、鳥肌はでているはもう大変、そこでTリーダーに話そうとして横を見るとTリーダーの様子はKリーダーとまったく同じであった。

そう彼らは下痢をしていたのである。もう現地で民家のトイレを借りようとしたところに工事の仮設便所、渡りに船である。

そこで又、問題、そう順番である。じゃんけんでKリーダーが先に続いてTリーダーが入り、終った後はすがすがしい顔で出発した。

 

 ②撤営の時である。この年のスカウティンピックの賞品で渡した食器セットをしまっていたT君(現在シニアスカウト高2)

なかなかセットに出来なくて班長にはおこられるはリーダーから早くしまえと言われて、しまいにはエーンエーンと泣き出してしまったのである。

それが今ではシニアスカウトで年下のスカウトに対して偉らそうにしているみたいである。

 

☆57年牧野大池キャンプ編

 ①プログラム中に個人競技があった。みんな必死に賞を競った。リーダーはこのプログラムの中にスカウトの手を借りて本部の役に立ってもらうことにしていた。

そう体力の関所で本部のゴミ穴を掘ってもらったのである。スカウト諸君、どうもすみませんでした。

 ②撤営終了後のことである。リーダーが班サイトを見て回ったら、ハヤブサ班のサイト奥になんと野グソが放ったらかしになっていた。リーダーは班長のT君にその野グソを手でつかんで便所まで持っていかせた。

スカウト諸君、リーダーの言うことは聞くように!

 

☆58年ひるぜんキャンプ編

 蒜山に下見に行った時である。4人の副長はハイキングコースをまずパンフレットで見て、コースを調べてから2人ずつに別れて出発した。パンフレットの絵では軽装で歩いていたため、Tリーダーはゴムゾウリで歩き出した。朝食で天ぷらを食べたせいかS副長(現在隊長)は頂上近くでゲロしてしまい、ゴムぞうりで歩いたT副長はバテバテでいやになった。

反対側から歩いたKとT副長は朝露でドロドロになってしまった。頂上で出会った4人は大笑いであった。

ふもとに降りた4人は女学生から乞食みたいやと言われたそうである。

4人の副長の弁;山をなめてゴムぞうりで歩かない、夜はきちっと寝る、朝から食べすぎない、勉強になったそうである。

 

 この後58年アメリカ編・59年高星キャンプ編・60年オスロツクin神鍋編と残ってしまいましたが、記念式典が続く限り載せて行きたいと思いますのでよろしくお願いします。

(この文を読んでいるとやたらTと言う人が出てきますが同一人物ではないのでよろしく)

 スカウト諸君、夏季キャンプで失敗やおもしろいことをすると、記念に残って行くので、どんどんやってください。

この次に会う時は、もっと内容の濃い失敗談を載せてみたいものです。

 11団35周年・111団20周年・62団20周年 万歳!  

 

シ ニ ア 隊

思い出話(キャンプ編)

 

◎雨に関しては歴史のある当団ですが、シニアー隊にもこの3年間H君という雨男がいて、大島に行っては雨を降らし、蟻島に行っては雨を降らし、おまけこBS隊の奉仕に行っても雨を降らしていましたが、

ある事があってから雨が降らなくなりました。めでたし.めでたし。

・・・・・隊長の談 「ある事てなんてや?」・・・・

 

◎昭和59年夏期キャンプ

 ・蟻島でのキャンプ中に台風が来るというので、私たちは着の身着のままで飛び出したが、私は不運にも昨夜のトランプのおかげで腕が疲れていて、なんとか船までは泳ぎ着いたが、自力で船に上がれず、マグロのように引き上げられた。帰ってみれば台風は通らずじまい。まんまと渡船のおじさんにだまされてしまいました。

 ・蛾島からの脱出劇は僕の心に鮮烈に残っている。不幸申の幸いで、僕は終わりの方の脱出だった。おかげで危うく難を逃れた事がある。それは、先に脱出した人は高波のために、船上で口からある液状のものを突出させてしまったのである。

それはそれは人事とは思えないほど悲惨なものであった。

 

◎昭和60年夏期キャンプ 海パン石ころ事件

 BSのS隊長とT副長に海パンの中に石を満タンに、いや満パンに入れられ、潮から出るに出られず、まわりにギャルがいるのに、もぞもぞパンツの中に手を入れて石を取った、メルヘンチックなあの出来事。

 

◎昭和58年カヌースクール

 BS時代からあこがれていたカヌーに乗れるというので、瀬田川でのカヌースクールに参加したが、思っていたほど自由に操ることができず、ましてカヌーに乗ったまま水中をくるりと一回転するなどは至難のわざでした。

そのうえ川の水は臭くて、毎日この水を飲んでいると思うとぞっとしました。

それにしても、講師の人がカヌーで遊覧船を追いかけて、ぐんぐん追いついて行ったスピードには本当に驚かされました。

 

◎昭和58年アメリカキャンプの帰途

 楽しく思い出深いアメリカキャンプでしたが、楽しみの後に落し穴が待っていました。

 キャンプの間中コーラぱかり飲んでいた私は、羽田から大阪空港までの間、個室に駆け込んだきり、とうとう個室を指定席にしてしまいました。出て来た時には大阪上空に達していたので、自分の間抜けさと共に文化の発達を身にしみて感じてしまいました。

 

◎グリーンシニアー・アドベンチャー・キャンプ

 シニアー時代は活動にあまり参加できなかったので覚えてることは少ししかありませんが、中で一番印象に残っている事は、僕がグリーンシニアーの時のアドベンチャー・キャンプの事です。

自転車での移動キャンプでしたが、おり悪く雨が降って来て、2日日ということもあって少し疲れていたのでイライラしていました。

その時川端隊長が見に来て下さって、まだ正式に上進していなかったので1回か2回しか会っていないのに、ちらっと見た顔がやけに懐しくて、なんだかすごくうれしかったのを思い出します。

その時に初めて「あー隊長ってええなあー」ってほのぼのと感じました。  

 

ローバー隊のひとりこと

-我、9年間の時間(トキ)の流れ-

 

 我団が大阪の地に生まれて、35年が過ぎましたが、今日まで団を守っていてくださったのは、多くのスカウト・指導者・保護者の皆様の御努力だと思います。

 ぼくが、スカウトになって9年、ボーイスカウトとして、ちかいをたてて入団し、カブスカウトの経験もなく、歌も知らず、スカウトとしての知識もなく、何度やめようと思ったか、しかしやめることができず、シニアスカウトとなり、シニア時代は、まったくぼく自身学校の教科外活動の明け暮れ、アドベンチャー・キャンプ、スカウトフォラム、隼挑戦キャンプ、アメリカキャンプと言った大きな行事にしか参加せず、ローバー時代を向え、1年間、夜間大学とアルバイトに追われ(これは、ぼくの逃げ口上かもしれない)、ローバー活動もせず、退団を決心しなければならなかったが、ボーイ隊の副長補として、今はもうリーダーとして、1年が過ぎました。

 思えばこの一年、多くのことがありました。11団の副長補となり、リーダーの仲間入りをして、ボーイ隊のスカウトの中では、中学3年生のスカウトが、ぼくがカブ隊のデンチーフをやっていた時のりすで入団して来たスカウトだけで、あとのスカウトは、ほとんどが知らなかった。

それに弟がボーイ隊に上進して来た年でもあり、兄としてリーダーとして、弟をどう見ればいいかわからず、困ってしまいましたが、1,2ケ月で、それも考えなくなり、隊でのキャンプ、大阪連盟のオスロック85では、G.H.Q.行事部で参加し、地区の行事にも参加した。それらの参加で、多くのスカウト、リーダーと合い、ボーイ時代では、思わなかったことが、シニア時代の地区そして、大阪連盟でのフォ-ラム会議で少し変り、リ一ダーとなって、大きく変り、指導者講習会、ウッドバッチ研修会で、リーダーとしてそしてスカウトとしての考えがうっすらと見えて来たように思えます。

 カブ・ボーイ・シニアのスカウトのみんなが上進し、1つ1つなにかを知り、ローバーそしてリーダーとなって、多くのことを知るでしょう。

 昨年8月に、北海道遠征に行ったスカウト3人も、なにかを見、なにかを知ったでしょう。

これをステップに、これからのローバー活動が栄えますように、そして11団、111団、62団がますます栄えスカウトの皆様が御健康でありますように、今年の合同キャンプ、来年のアメリカキャンプが成功いたしますように「イヤサカ、弥栄、イヤサカ」。

 

 -追伸-

「りーダーのひとり言」

 人には、それぞれ道があり、その道を捜し、その道を見分け、その道を知り、自分の道は、自分自身でしか歩めない。

スカウトのみんな、特に最高学年のみんなは、その道を捜し、見分け、知り、歩んでいかなくてはならない。

カブ・ボーイ・シニア・ローバーの15年間は人生の一部でしかない、しかしスカウト人生は、ローバーまでではない、

これからもまだ続く長い長い人生だ。  

 

地区誌「しろきた」No.31掲載

 

こんにちは111団です

 

 当大阪第111団は、昭和41年に大阪第11団より分封し、まずカブ隊が発隊しました。そして、昭和45年にはボーイ隊が、昭和52年にはシニアー隊が順次発隊しました。

 発団以降、兄弟団の大阪第11団と共に順調な発展をとげ、現在に至っています。現在のスカウト数は70名、リーダーは24名の大所帯で、もうすぐローバー隊も発隊しなければという程、ローバー年代のスカウトが増加しています。

 スカウトの構成としては、大阪第11団が団本部(11団、111団共に円通寺にあります)がある今津町内、大阪第111団は、今津町外に住む人となっており、東大阪市稲田、鴻池、大東市、あるいは交野市、大阪市内の鴫野、放出、茨田方面と広範囲です。

 昭和41年に発団しましたので、今年は15周年の記念すべき新たな年に当たり、大阪第11団も30周年であり、4月に盛大に合同の記念式典を催しました。しかし、この記念すべき新たな出発を誓った年に、津田団委員長が亡くなるという、重大な局面にぶつかりました。

 故津田団委員長は、大阪第111団を作られたと言っても過言でなく、発団準備から、活動が順調に進むまで、先頭に立って指導されていました。約10年程前に体を悪くされてからは、直接スカウトに接し行動されるということは無くなりましたが、入団式、上進式、任命式などの機会を通じて、とかく我々が忘れがちなことを教えて頂いたものです。

 今年の野舎営は喪に服すということで、中止にしようかという話もありましたが、かえってスカウトの精神にあふれた活動をすることが、故津田団委員長への花向けであると考え、夏季野舎営を取り行ないました。特にボーイ隊、シニア一隊は、地区キャンポリーであり、故津田団委員長はかって地区コミッショナーに就任されていたこともあり、地区全体で追悼の野営を催した感がいたしました。

 現在、我が団は大きな困難に遭遇しています。しかし、故津田団委員長が「かがりびPART-2」で「挫折することなく、初心を忘れず、ゴール目指して奮闘することを期待している」と述べられましたように、今後、30周年、50周年に向けて新たに出発しようとしています。

 

城北地区誌「しろきた」No.31 

(56.10.12)より  

 

 お わ り に

 

 昨年から今年の春にかけて、ハレーすい星が地球へ近づいてきました。 76年周期ということで、人生で2度見ることのできる人は数少なく幸運な人ではないでしょうか。

 記念誌「かがりび」は、5年周期で発行してまいりました。11団発団以来の記録を昭和51年春に、51年度から55年度の記録を昭和56年春に発行、そして、56年度以降の記録を今日ここに発行することができました。

 記録を整理するにつれ思いますことは、この5年間という期間は、スカウト活動を振り返えるということではちょうど良い期間だということです。

記録が全く過去のものとなるほど古くなることもなく、スカウトの成長を身近に振り返えることができ、活動内容をさらにレベルアップするための反省材料と新たな挑戦への資料とすることができるのではないでしょうか。

 次の5年間にも、第4回富士キャンピック、第2回アメリカキャンプ、そして新たな挑戦など、いろいろなスカウト活動がひかえています。

昭和66年春に再び記念誌「かがりび」が発行できますことを期待しております。

 最後に、この記念誌「かがりび」を発行するにあたって、資料整理、写真整理、記事整理をしていただいた各リーダーの方々に深く感謝いたします。