第1回BGSCアメリカキャンプ
期 間: 昭和58年(1973年)7月30日~8月16日
会 場: アメリカ合衆国サンフランシスコ州サンマテオエリア・カター・スカウトリザベーション
参 加:105名
第2回BGSCアメリカキャンプ
期 間: 昭和62年(1987年)7月25日~8月11日
会 場: アメリカ合衆国サンフランシスコ州ベイエリア・キャンプローヤネン
参 加:65名
第3回BGSCアメリカキャンプ
期 間: 平成4年(1992年)7月25日~8月11日
会 場: アメリカ合衆国サンフランシスコ州ベイエリア・キャンプローヤネン
参 加:50名
第4回BGSCアメリカキャンプ
期 間: 平成9年(1997年)7月27日~8月12日
会 場: アメリカ合衆国サンフランシスコ州ベイエリア・キャンプローヤネン
参 加:38名
第1回BGSCアメリカキャンプ
第1隊 1~4班
第2隊 1~4班
第3隊 1~4班
BGSCアメリカ・キャンプに参加して
派遣団長
30周年記念事業として行れたアメリカ・キャンプに派遣団長として参加できました事は、私の生涯忘れる事の出来ない光栄と思います。団として過去何名かのスカウトが日本連盟の派遣として海外に出ていますが、人員に制限があり全部参加出来ない為、他のスカウトもなんとか海外での生活を経験させて見せようと云う事から丁度30同年にもなる為、育成会の協力と団の深い御理解により実行されました。
我々13名の指導者と58名のボーィスカウトと32名のガールスカウトの計103名で、昭和58年7月30日大阪国際空港をNW16便にて出発し途中ハワイにて国内線に乗替えサンフランシスコに30日午後6時(現地日時)に到着し、バスにてマウンテンビューのお寺へ。(ハイウエィを走る事、1時間)全員で初めてアメリカでお世話になるお寺です。仏教会の方々の心からの料理で夕食を頂き一夜を明しました。
心がはずむホームスティ
明けて7月31日ホストファミリーの出迎えを受け2名~4名に分かれてお世話になりました。米国人の家、日系二世の家にて、こうした出合によって得られるものは計り知れない程大きなものがあると思います。少年少女時代の良き思い出として残ったでしょう。此の間リーダーは大阪市長のメッセージを持ってサンフランシスコ市長を訪問、笑顔で出迎えて頂きはげまして下さった市長さんは印象的でした。
ホームスティ最後の夜我々の料理で、お別れ感謝パーティーを行いました時は、米国人のマナーを勉強させて頂き、又本当に人間としての親切さ、やさしさも感じ、スカウトも有意義な5日間のホームスティであったろうと思います。
楽しいキャンプ
日本では経験できないプログラムを消化した事はスカウトが日頃のスカウティングの体験があったからだと思います。それと現地スタッフの細い配慮によるものと感謝申し上げます。
16才の少年とは思えない規律を身につけ、我々を客としてでなく同じ仲間として迎え一緒に楽しく生活し事故もなく指導してくれたお陰と思います。
後半の観察旅行
見るものすべて珍らしく前半のプログラムに比ベスカウトが最も楽しみにしていた旅行でした。地上で最も美しい自然景観の一つヨセミテの見学はもらろんマジックマウンテン、ロス市内、夢の楽園ディズニーランドで心ゆくまでゆっくり出来た事はリーダーの配慮のおかげと感謝せねばなりません。スカウトも充分に楽しめた事と思います。
印象深かったアメリカお別れディナー
最後の夜ホテルにてお別れディナーでは、今日迄アメリカでの生活を見て来て勉強になったのか規律正しいスカウトを見て無駄でなかった事を感じました。期間中誕生日を迎えた者へのお祝い、クロージングセレモニーにふさわしい演出でした。
最後に今回の計画を実行して下さった、団委員長、及び参加リーダーに心から感謝申上げます。スカウトの皆さんも今後立派な社会人となる様努力して下さい。
BGSCアメリカ・キャンプに参加して
副団長BS
3年前に計画したアメリカキャンプが、いよいよ7月30日に実行されることになり、4名の本部スタッフと、隊長以下96名のスカウト達とともに、日本を離れアメリカヘの旅立ちです。団本部で団委員長の激励の言葉、父兄達の心配そうな見送りをうけて大阪空港へ、出国手続、税関の検査もすみ、父兄の見守る中を搭乗口へ、無事アメリカに到着しますよう、念珠に、神に祈りつつ、NW-16便に乗込みました。機は一路ハワイに向けて、高度11,300mではてしない大空を飛び続けています。機内ではスカウト達も元気で読書やゲームに熱中し、ここが機内であることも忘れているような快適な飛行でした。
長い飛行も終り、あこがれのハワイは、エアポートの内で2~3時間を過し、NW-10便でいよいよUSA本土に到着です。めざすシスコは、カリフォルニヤ海流(寒流)の影響で肌寒い出迎えでした。
迎えのバスに乗車して一安心でした。空港からMVBTまでは、約30分で到着し本願寺派の本堂で礼拝、佐々木氏ほかの方々の歓迎の言葉を戴き、夜食の後、USAでの第一夜は付属の体育館で、途中のフリーウェイの広さに驚き、車のスピードに、車の多い事に目を見張ったことを思い、遠い日本の事を思い、夢路をたどりました。
ホームスティでの6日間、ホストファミリーとのサヨナラパーティー、キャンプカッターの5日間ヨセミテ公園観察旅行どれ一つを取っても、もう一度いや二度三度と行きたいところでありました。
ロスからひとっ飛びで日本へ帰り着き、団本部で団長より団委員長に帰国報告されたとき、僕達はキャンプを無事終えられた、そして、一名の事故者もなく全員元気で、スカウト達を父兄に手渡すことが出来て本当によかったと思っています。
副団長GS
8月5日 ホームスティ最後のお別れパーティをマウンテンビューのお寺で開催した。 300人を越すパーティを主催するのは、はじめてで、こんな大勢の方々の接待を手落ちなく行なえるだろうか。私共の手造りのおすし、てんぶら、おにぎり等、食べていただけるだろうか。準備が時間迄に間に合うだろうか、とか不安はつのるばかりで足はがたがた震え、その間に会場では第一部の式典が始まっていた。
各連盟へ感謝のしるしに記念品を贈呈した。団長やスカウトによるホストファミリーヘのお礼の言葉も終って、第二部のディナーパーティになった。はっぴ姿あるいは浴衣姿で装った私共は、真心をこめて精一杯もてなした。バスケットコート一面分もある大きな会場内もなごやかな雰囲気に包まれ、楽しい団らんは尽きる事がなかった。
やがて、おひらきになっても、五泊六日間お世話になったホストファミリーの方々に謝辞を述べているのだろうか、抱き合って泣いている者、パチパチとシャッターをきる者、羽織っていたはっぴを贈っている者など、いつ迄もいつ迄も別れを惜しむ姿が印象的だった。招待客がパーティに招かれたお礼を、言葉で表わすだけでなく、終始満面に笑みを浮かべ握手を求められたり、カメラに納めたりその喜びを身体中で表現して下さった事は、主催した側にとってどんなに、うれしく又救われた事だったか。
いい加減な打合せのため、招待者の案内や式典の通訳を、その場になってお寺の住職さん(BSスタンフォード地区役員)にお願いし、心よく引受けて下さったものの、お客様に助けていただいた事を恥じると共に、事前に周到な計画を立てていなかった事を深く反省している。
又、この日のためにと早くから準備下さったアイドマン家の方々には(アメリカキャンプ全体を通して)本当にお世話になり厚くお礼を申し上げます。
ありがとうございました。
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旅立ちから帰国まで
7月30日に日本を出発して、8月16日に帰国するまでをBS,GSの隊付にリレー形式で書いてもらいました。
これで大まかな行程を理解し細部は各項目のスカウトの原稿をご覧下さい。
1隊 隊付 BS T.T.
僕は、Camp in Usaに、BS1隊の隊付として参加しました。そして出発とホームスティの部分を担当して原稿を書いています。原稿を書くことで、アメリカのこと、ホームスティの思い出を忘れないものにするということは大変いいことだと思います。
出発は7月30日(土)で、大阪空港から離陸18時30分、ホノルルヘと向いました。機内では、みんないつもとかわらぬ感じでしたが、僕もそうだったように、スカウトー人一人の心の中には、不安と期待、うれしはずかしがあったのではないかと思います。そしてホノルルといえばハワイです皆さん知っていましたか。僕らはハワイにもいってきたのです。でも、なぜかハワイについての感想は、別にありません。そしてサンフランシスコ空港へと向いました。到着して、すれちがう人々は、アメリカ人、といっても、色々な人種がいる。話している言葉はみんなENGLISH。あ一これからはもう日本語は、スカウト以外には通じないんだなあと実感しました。
それから大男2人が運転するバス2台に分乗しアメリカの添乗員さんと一緒にMountain View Buddhist Temple に向い、夜のサンフランシスコを南下しました。その夜お寺の住職さんの、あいさつと歓迎を受けて、夜食をいただきました。その時のホットドック、味がよかったのですが、そのお寺のボーイスカウトの家族の人々が作ってくれたのですが、もっと食え、もっと食え、もっと飲めを連発するのでアメリカ人は、どんだけ食べるんだろうと恐くなりました。それからシャワーをかりて、なんと、お寺にある体育館で寝袋を使って寝ました。言いおくれましたが、サンフランシスコの夜は寒い。ああ夏なのに。
次の日、朝食をいただいていよいよ各ホームスティにもらわれて行く時が来ました。スカウトが2~4人づつ、Father or Mother と握手して、ほんの少し、しゃべって、連れさられて行くのです。あらためて書きますが、これまでは団体、これからは個人で別行動、僕はすべて英語の家へ綿世君と共に行くことになりました。迎えに来ていただいたのは、お父さんでした。その人は、お得意の英語でしゃべりかけてきます。いかん、わからん、と思った瞬間、僕は首をかしげて目線をさけ、その人が綿世の方を向くのを待ちました。しかし綿世はやはり顔をひきつらせて笑っています。だから日本人は気が小さいんだなと思い、ようしこれからはもっと勇気を出して、ガンバロー、そして僕のジェスチャー英会話が始まりました。その人の家族は、父母と18才と20才の息子です。そして犬一匹、初めは会話をさけ、家族をさけていた僕も、父さんに大学とかに連れて行ってもらううちにジョークも言えるようになり、気がつくと、僕らはあまり客として気をつかわれてないのではと思った。部屋もなく、食事は簡単、日本人なら客に気をつかい、内心迷惑がるのではないかと思う。アメリカ人の性格や環境すべてがすばらしかったUSAキャンプでした。
3隊 隊付 GS A.S.
8月6日から10日まで、4泊5日、メインのCampに入りました。現地に着いてまず、土埃りがすごいことに驚きました。そして設営に入ったわけですが、日本とちがってテントも簡単に建てられたし、かまどを掘って、食事の用意をしなくていいので、とてもゆっくりできました。初めての夕食は、スタッフの方が、パンを出すのを忘れはったので、もう夜中には、お腹がペコペコでした。
次の日から、各班に別れて、それぞれ、ライフル・水泳・アーチェリー・カヌーと4つのプログラムに入りました。1番楽しかったのは、やっぱりライフルで、的を狙って引き金を引く時の緊張感と、バヒューンと当たった時の快感は、もうなんとも言えない楽しさでした。一日中やっても、あきへんやろなあーと思います。
アーチュリーは、思ったより難かしくて、矢がなかなか、まっすぐ飛ばなくて、がっかりでした。カヌーはカヌーで乗せてもらってたら底から水がどんどん入ってきて、すくうのに必死でした。私がおりたとたん、ひっくり返えったんです……。
夜は夜で、現地のスタッフの人達と、バッジの交換をしたり、Fire、Partyと、あっという間の4日間でした。
もう、星座がとてもきれいで、星が降ってくるように多くて、毎夜、感激してしまいました。でも夜中から朝方にかけて、めちゃ冷込むので、最後の霧の出た夜は、カイロを抱いて寝ました。あんまり寒くて、何回も目をさましました。朝起きたら、カイロをいじくりまわしてたせいで袋がやぶけて、もう足がまっ黒でした。
食事は、いつも、水のようなオレンジジュースと、パン、わけのわからないおかずでした。1番おいしかったのは、Hot Chocolate 。なぜか、私共のテーブルは、みんなよく食べて、お皿がからっぽなときが多かったようです。食べるのも早くて、みんなそろって大きな声で「ごちそうさまでした」と言うので、いつもスタッフの人たらが笑って、ふり向いて見るのでした。
アメリカに着いて以来、ずっとずっと食べたいと思い続けていた、おにぎりとこんこんさんを、アイドマンさんから、差入してもらって、もう涙が出るくらいうれしくて、最高においしかったです。スタッフの人たちは、何やこれ、まずい、とEnglish で言ってたようですが、何よりも最高のPresentでした。
というわけで、あっという間に過ぎたCampでした。出発の日の朝、Busに乗って出て行く私達を、一列に並らんで敬礼をして、見送ってくださった、スタッフの人達の姿が、とっても印象的でした。
もう一回、アメリカに行けたらいいのに……。
3隊 隊付 GS Y.M.
17日間のアメリカキャンプも、大詰を迎えようとしています。リーダーから、「これから本当に人の多い所に出ていくので、よく注意する様に」とのこと。何か起るか、ドキドキハラハラ、ホームスティ中もキャンプ中も、そんなに多くの人々がいなく、少数の人達との出逢いしかなかったので、アメリカと言う実感も少なかった私にとっては、何か待っているのかな? と心待ちでした。
とっても、素敵な、アメリカンボーイスカウトと別れて、バスに乗りこみ、ユラユラ揺られて、ちなみにその日の昼食は、YAKATAと言う、日木食屋さんの幕の内弁当でした。
やって来ましたヨセミテ公園、ガイドさんの話しによると、とても自然を大切にしている公園で、動物がたくさん居るとか……。何にめぐり逢えるのかな?、部屋割りを聞き「ここには、色々な人々がいるので、ガールスカウトは節度をもって行動する様に。むやみやたらに、話しかけない様にしなさい」とのこと。でも話しかけたくてもねえ、“l cant speak English ”ですものね。いるわいるわ、色々な人種が、日本人も居ました。その日の夕食代をもらって解散、自由時間です。その日の夕食は、私と東幸代女史は、BSの隊付、津田氏と綿世氏の夕食を分けてもらって済せたので夕食代は使わずにすみました。
(両氏のFANの方々、ごめんなさい)
その日の出来事と言えば、リスを見た方は、おられると思いますが、夜中にトイレに起きた時、私と東幸代女史は、アライグマを見たのです。(アライグマかたぬきは、今もわかりませんが、でもアライグマの方が、アメリカチックでしょ。)何とも言えない愛ぐるしさで、思わずカバンにしまいこみたくなりました。翌朝は、自由時間ですので、その日の朝食代を早朝7:00にもらいに行き、再びBed in しました。午後から、ジァィアントセコイアを見学したりして、自然の偉大さを思いしらされました。誰ですか?高杉建設の人が喜びそうなんて言ってたのは?夕食の時です。その日は、きちんとレストランで食べたのですが、ガイドさんと御同席させていただき、氏の冒険人生談を聞きました。北海道生れの東京育ち、デンマークに留学経験あり、奥様とは2年の文通と半年の日本での同棲の上結婚されたそうです。御両親の反対や習慣の違いを乗り切られての結婚、愛は何よりも強しですな。氏が言うには、今、奥様に離婚訴訟されても、勝ち目はない。週に5日も帰ってこない夫は、アメリカでは、夫でないそうです。
“彼女にもう僕への愛がなければ、終りですね”なんて東京弁で言われておりました。
ヨセミテでは、スケジュールがなく、団の人達と顔を合わせる事もなかったので、アメリカを感ずる事が出来ました。素敵なアメリカンボーイズに出逢う事はなかったけど、目が合うどハーイ”って挨拶してくれる・・・。心地良いものですよね。とっても。
又行きたい。自分の手で足でアメリカを感じるために。リーダーの方々大変御世話になりました。
有難うございました。
2隊 隊付 BS W.T.
僕たちは、12日朝 Breakfastを取っただけで、ヨセミテ国立公園でのスケジュールを終えてLA郊外のマジックマウンテンにバスで向いました。しかし、ヨセミテではあまり自由時間がなかったので、アメリカの大自然を目の前にしながら、滝にサイクリングに行っただけで、他のことにチャレンジできる時聞かもう少しあったらいいのになあと思いました。
僕たちスカウトは、バスの中ではほとんど全員が疲れで眠っていて、いつの間にか、マジック・マウンテンに着いていました。サンフランシスコと違って、午後4時だというのに日射しが強く、とても暑い所でした。ぽくは、Colossusと呼ばれている(ギネスブックにのった)世界一の木造マンモスコースターや、コークスクリュー急流すべりなどに乗ったりして、楽しく過しました。夜は近くのモーテルで泊りました。僕はアメリカに来てからこの日の晩までは、いつもだれかと一つのベッドに寝ていましたが、やっと一つの大きなベッドを自分一人だけで使いぐっすり眠れました。
13日朝、この日もまたハードスケジュールで朝食を食べるとすぐにホテルを出発してロサンゼルス市内観光に向いました。まず最初にユニバーサル・スタジオに行きました。ここでは映画やテレビの実際の作り方やセットを見学しました。次に行った所は、サンタモニカの海岸で、アメリカに来て初めての西海岸だったので泳ぎたかったが時間がなかったので、しかたなしに海に足をつけ水の感触を残しながら、次のチャイニーズ・シアターに行きました。ここは、映画ファンならよく知っている所で、スターの足形・手形・サインをセメントの敷石にしてあったのだが、どれがだれのものであるのか、ほとんどわからない間に時間の都合で次のファーマーズ・マーケットに行きました。ここではオレンジをそのまま目の前でジュースにしてくれたものを買ったりして過しました。
市内観光の最後にダウンタウンを見学して、最終スケジュール地のアナハイムに向いました。
最後の宿泊地である、HILTON ATTHE PARK には夕方に着き、すぐにディズニーランドに入りました。ここでは夢の世界での出来事のようなものを見て楽しむというものであったが、大人の男で十分に楽しめるもので、とても1日や2日では見られるものではなく、最低4~5日は欲しいものでした。
14日も朝からディズニーランドヘ行き、夕方にはサヨナラパーティーをしました。
15日朝食後、ホテルを出発して空港に行きました。飛行機が遅れ、午後3時頃にアメリカに別れをつけ、16日午後8時頃大阪空港に無事帰って来ました。
最後に、事故もなく無事にアメリカキャンプを終えた今、参加させてくれた両親や、あちらでお世話になった人々、団の皆様に感謝し、また行きたいと思っています。
1隊 3班 BS Y.K.
アメリカ滞在16日間も、あっという聞に過ぎ、今は、もう感想を書く、と云うところ迄きました。
思いおこせば三年前、この計画を両親から聞いた時、「なんと!」とびっくりし、これは絶対に行きたいと、その意を両親に言いました。でも、その時、父は「お金はおまえさんが貯めとけよ」と微笑しながらのきつ~いお言葉、一度、目の前が真暗になり漠然となりました。でも2年ほどは、こつこつと小使いになるであろう、お金を蓄めたのです。そして、アメリカキャンプは、リッチに望もうと思いました。がさあ~大変、大学生というのは、大変City-boy そのためておいた、お金に目がくらみ、半年ほどで使ってしまいました。「ああ、無情!」アメリカは大変Poorでありましたが、ありかたくいただいた、賤別のおかげて、どうにか楽しい旅が出来ました。
さて、アメキャンの僕の班員は、とても可愛いらしい子ばかりでした。始めは、人見しりをしていましたが、なれてくると、誰が、いずこで、何をしているのか、わからなくなるくらい、のびのびしていました。ホームスティにしても、キャンプにしても、ヨセミテにしても、皆の元気なのは、最後まで続きました。それまで知らなかったスカウトも「ヤマモッサン」とラブコール、大変良い思い出ができました。もっと、もっと、こまかい事を書きたいのですが、頭が、こんがらかってくるのです。まあ、なんと云ってもジプシーでした。
最後に、僕が一番に得たものは、年下のスカウトとの「友だちの輪」だと思いました。又、この思い出にかかせない働きをして下さった。
リーダーの皆さん、ありがとうございました。そして、ソ連のジェット機にも負けず、飛んでくれた、ノースウエストありがとう。ホームスティの皆さんありがとう。本当にラッキーでした。
大阪空港からサンフランシスコ空港へ
7月30日夕刻大阪を飛び立ち、ハワイ・ホノルル空港に立ち寄り朝の空気を胸一杯ハワイの空気を吸い、同日午後7時過ぎSFO空港に到着するまでの機内での期待と不安感が目に浮ぶ様です。
3隊 1班 GS K.A.
予定どおり7月30日は、アメリカヘ向けて出発の日となりました。集合するのは、お昼の2時だったので、朝起きてから、いろいろと考える時間がありました。なにしろクラブの合宿から帰ってきたばかりの私は、荷物の準備がまだ完全ではなかったのです。大きなダッフルバックに入れ忘れたものは、手荷物であるハバザックの中に入れたり、やっぱり3週間も日本を離れるのだから…
……と思って、友達の家に電話をかけたりしているうちに、2時、時間もギリギリに追ってくると心ならずも緊張してくるものですね。なんとなくおちつかないんです。もしかしたら私は小心者なんでしょうか。背中に汗を流しながら出発式を済ませ、バスに乗り込んで一路大阪空港へ。重たい荷物を持っていえ!半分ひきずりながら空港内へ、入るとすぐに重たい荷物とはお別れできました。
なんと言っても飛行機なんぞと言う物に、初めて乗るのですから、めずらしいやら不安やら・・・けれど、ここはじっと我慢!さわいだりしたら、一瞬にして田舎もん扱いされていたでしょう。
出国手続きが終わって搭乗するのを待っていると、突然、大きなおばさんが声をかけてきたり、おじさんがポラロイドカメラで写真を写してくれたり、ニコニコ顔でTHANK YOU! 話しをしたわけじゃあないのに、もう外人の中のー人っていう気がしていました。とうとう搭乗、飛行機の中は、これで本当に空を飛ぶのかなあと思うほど、重たい雰囲気がありました。もう外が暗くなっていたせいかもしれません。初めて乗った飛行機の物めずらしさと、座った場所のせいで結局一睡もせず、ホノルルヘ着いてしまったのです。
ホノルルの空港は太陽の光は外国っていう気がしたけれど、やっぱり日本人が多かったですね。けれどサンフランシスコでは、さすがに本物のアメリカだっていう気にさせられました。そう考えると、ちょっと感動的でした。時差ボケ?さあこれからっていう勢いの方が、皆勝ってたのかもしれませんね。
3隊 3班 GS H.Y.
まちにまったアメリカキャンプ。行くまでは早く行きたい!のウキウキ気分でした。しかし、アメリカの出発が近づく度に、あーどうしよう英語しゃべられへん!など、不安がたくさんできました。それよりも先に荷物の用意をしていなかったのです。荷物をつめても、これ入れとかなあかんかな?と考えてつめてもまだ何か忘れ物をしているような気がしました。
いざ出発の日、もうドキドキ。一番不安なのが、ホームスティ、どんな家かな?しゃべっても通じるかな?など不安が出来て胃が痛かった。PM6時45分飛行機が動いた。その時!アメリカ行くんや一!と思いました。私は東京一大阪の1時間は飛行機に乗ったことはあるが、10時間以上乗ったのは、初めてだった。はじめのうちは友達の所へ行ったり窓から景色を見ようと思ったが、真夜中だったのでさっぱり見えなかった。いろいろしているうちにホノルルに到着した。飛行機の中から、ふと外を見ると小雨だったのにゲートを歩いて外を見ると雨がやみ、からっと晴れていて、きれいな虹が出ていた。こんな虹は日本ではめったに見れないものだと写真をとっていた人もいました。とてもすがすがしく、ここで一泊でもいいから泊りたかったと私の実感でした。入国手続が済み、少しの間待って、また飛行機の中へ・・・。この飛行機の中では、おもしろいおじさんがいたり、私の後ろの座席にいた家族でハワイに来たという外人さんと、お友だち?ていうか、少ししゃべったり?仲良くなりました。最後に、香水をもらったり、握手をしたりして、とても楽しかった。飛行機の中で、宿題の本を読もうと思ったが全然読めませんでした。
約5時間で、待望のサンフランシスコに到着した。だけど、実はまだサンフランシスコに着いた実感がなかった。だけど外人がいて日本人は私らだけってことは、外国にいることを思うと、なんだかウキウキして、出発の日の不安はどっかに飛んでいってしまった。これから、アメリカキャンプ17日間ガンバローって、心に決めました。
2隊 1班 BS A.H.
7月30日、出発の日が来て僕はちょっと不安だった。外国なんか行ったこともないし飛行機さえ乗ったことがないからだ。そして2時に団本部へ集まり出発式をして3時半頃バスで大阪空港に向った。空港に着くと少しフリータイムがあり、5時頃に出国手続きをするため、ゲートに行き、荷物を点検されパスポートを係りの人に見せて出国手続きが終った。僕はもっと他のことをするかと思っていたが、案外すぐ終った。その後、時間があったので免税店を見たりテレビを見たりしていた。そして6時頃ゲートに行って搭乗券を見せて飛行機に乗った。席についたが出発時間の6時半になっても動かなくて、7時前にやっと動きだして飛び立った。ちょうどエレベーターが上るみたいな感じがした。それから30分ぐらいシートベルトがはずせなかった。そして日本時間で9時頃にやっと夕食が出てそれを食べ終ってから、寝ようと思っていたけれど周囲がしゃべっていて、結局、寝られないまま6時間半乗っていた。ホノルルに着くとバスに乗って入国手続きをする所まで行った。僕は、そこでしゃべらなければいけないのでどうしようかと思っていたが、何故かスタンプを押してもらって黄色いカードをもらっただけで終った。そして荷物を取りに行って又ちがう場所に荷物を置いて、大阪空港と同じような安全検査をして、バスに乗ってロビーでフリータイムになったので、おみやげなんかを買った。だけどやっぱりホノルル観光したかったと思う。それから11時10分発のサンフランシスコ行きの飛行機に乗ったが眠むたくて離陸する前に寝てしまっ
た。そして昼食が出た時にやっと起きた。そして6時55分にサンフランシスコに着き、荷物を持って外に出ると、すごく寒かった。そしてバスに乗ってマウンテンビューに向った。
2隊 3班 BS K.M.
2時に団本部集合で何時であったかは忘れてしまったが空港に着いた時はまだ明るかった。NWのフロントに荷物を預けた後すこし時間があったので自由になった。この間に家に電話している人や、ジュースを買っている人がいた。それからしばらくして出国手続きをした。手続きは案外簡単だった。手続きが終りしばらく時間があった。3週間程の旅行だけれども、流石に出発直前になると心細くなるのか、電話をする人が多かったようだ。そして飛行機に乗った時はもう暗くなりかけていた。
離陸して大阪の夜景が見れるかと思ったが翼の上だったので何も見えなかった。しばらくしてスチューワーデスが飲み物を聞きにきた。一番言いやすかったのでCOKEと言ってしまった。そして機内食が運ばれて来た。何と何かあったのかは忘れてしまったが、自分はビーフと言ったのをおぼえている。昧は普通であった。それからしばらく眠むっていた。目が覚めるともう外は明るくなっていた。又機内食が出た。また何を食べたかはまったく覚えていない。そしてハワイに着いた。飛行機を降りてバスに乗り入国手続きの場所へ行った。荷物を開けられひっかきまわされるかと思ったが、ピーと鳴るやつを通って、果物はありませんねと日本語で聞かれただけだった。それから又バスに乗ってゲートに行った。そこで又すこし時間があまったので、皆んな買物などをしていた。ここで初めてドルで買物をした。自分はフローズン何とかを買った。思わずダブルと言ってしまったので、無茶苦茶多かった。それからハワイでは雨上りだったのか、虹が見えたのを覚えている。
そしてハワイを後に、サンフランシスコに向った。自分は機内ではすぐに眠ってしまった。又目が覚めると食事が運ばれて来た。何を食べたかは覚えていない。食事がすむと又眠ってしまった。目が覚めると外は暗くなっていた。それからすぐサンフランシスコに着いた。飛行機を降りて空港を出ると霧雨が降っていて肌寒かったのを覚えている。
1隊 1班 BS S.S.
僕は、アメリカに行くことが決ってから、まだかまだかと待ちつづけていましたが、いざ日本を出る前の日になると宿題も残っているのにぜんぜん勉強が手につかなくなり、そわそわして、おちつきがなくなっていました。僕の家族の中ではアメリカ本土に行くのは、僕が初めてです。それに僕は、飛行機に乗るのが初めてでとても不安でした。7月30日土曜日18時30分ノースウエスト航空16便に乗って、日本を出発しました。出国手続きをする時は簡単でした。パスポートを出して手続きをしてもらい、金属探知機をくぐっただけでした。飛行機の中は広くて横に10人座われるようになっていました。離陸の所はすごく気持が良かったです。離陸してしばらくするとジュースとピーナツが出て来て僕はコークを飲みました。夕食はサーモンステーキか幕の内弁当で、幕の内弁当を食べました。腹がいっぱいになっておいしかったです。飲み物はコーヒーかティーで僕はティーを飲みました。機内のヘッドホンを聞くのは7ドルもとられるので、僕は聞かなかった。映画も始まったが声はヘッドホーンで聞くので、声は聞けなかったし英語なので聞いてもわからなかったでしょう。夜はぜんぜん眠れなくて友達とトランプをしたり、話したり、たのしかったです。
窓を見ていると、だんだん明るくなって来ました。雲の上を飛んでいるので下は見えなかったけど、その雲がものすごく綺麗で僕は雲の上を歩いてみたくなりました。朝食はあっけないもので、僕はものたりませんでした。ハワイのホノルルに着いたのは30日の朝で、入国手続をする時、何も言われないかなと思い不安でしたが、何も話しかけられなかったので良かったです。荷物を取りに行って、国内線に乗って、サンフランシスコに向かいました。機内では、昼食が出ました。外人のスチュワーデスがチキンかローストかどっちにすると英語で言われ、あまりに早いので聞きとれなかった。
8時間してやっとサンフランシスコに着きました。サンフランシスコは夏なのに日本の秋のような気候でした。
そこはサンフランシスコだった。時差があった。7月30日だった。飛行機からおりたらとっても。はだ寒かった。サンフランシスコの空港のトイレに行ったら便器がかわっていておもしろかった。それとAIDS防止の紙が便器の前にあった。あ~これ。そして空港をはなれ専用バスでM.V.B.T.についた。
ホ ー ム ス テ ィ
7月31日からのホームスティ。
慣れぬ英語を使い、貴重な経験を体と心で得た6日間の喜び。
2隊 2班 BS Y.T.
アメリカキャンプ出発前から、僕が最も心配していたのはホームスティであった。言うまでもなく英語で話さなければいけないし、生活様式も日本とは違うからだ。その戸惑も的中し、ホストファミリーと対面した時、すぐさま、I don't speak Japanese. とおっしゃった CAN'T ではなく DON'T である。
しかし不安はこの時が最高で、幸いに全員4人と云う人数だったので、不安は期待に変って行った。僕のホストファミリー「スタンリー」さんの家に着いた時、犬のボギーが、僕達の方を向いて吠えていた。が尾を振っていたので、どうやら僕達を歓迎してくれているようだった。家へと案内され、中へと入った時、そのスケールの大きさにビックリ。プール、マイコン、ピアノ、暖炉と、僕の家にはない物ばかり、ここで初めてアメリカのスケールの大きさを思わされた。そして僕達の部屋は、ベットが2つしかないが、そのままでも寝れそうなフカフカの絨毯が敷いてあり、僕もこのような部屋が欲しいなあと思ってしまった。昼食後、ミュージカルに連れて行ってもらった。そのミュージカルは2本立で、スタンリーさんの友達の招待でした。しかし、何を話しているのか、皆、何故笑っているのか、僕達のする事は、拍手するだけだった。
その夜は早く寝てしまい、次の日から、本格的なホームスティが初まった。買物に連れて行ってもらったり(一番下のダグラス君とバスで行きました)このダグラス君は、なんとコンピュータ学校へ行っているんです。僕より一つ年下なのに、曽根君の所の人とエンコーテングに行ったり、そして、家の中、プール、洗濯機はすべて自由に使わせてもらった。本当に、親切だなあと思った。
最後の日、部屋をそうじすると云っても、しなくて良いと云われ、自分達が大変悪い事をしている様に思った。
原稿用紙が何枚あっても足らないほど、思い出と感謝で心はいっぱいである。
1隊 3班 BS M.Y.
7月31日、僕達は、ホームスティの人達に、「ドコカ、イキタイ?」と聞かれたので、僕は、「何か、買いたい。」と答えました。「ソレデワハヤク、クルマニノリナサイ」と云われましたので、僕達は、サイフを持って車に乗込みました。
車を走らせ、少しすると(丁度、おなかがへった頃でした)おばさんが、「ナニカ、タベヨウカ」と云って、マクドナルドに行かれました。でも何が、なんだかわからないので、何でも良いですと、答えたのが、まちがいの元、なんと、でっかいダブルバーガー、食べきれなかったけど、必死のパッチで、食べたんですけど、やっぱ少し残りました。さてお腹も一杯になったから、行こうかと云う事になって出発しました。やっと店に着いて、中に入って色々見ているんだけど、何も良いものないので、他の店に入って見た。でも良いものがなかった。僕は、その時、GパンとTシャツ又は、ベーカリーシャツを探していた。その事をおばさん達に話すと、あそこにGパンが、売っているから見に行こうと、云ってみてはみたものの僕のほしいGパンは見あたらなかった。店の人に聞いてみても、ここには、置いてないと云われ、他の店に行って見た。でも、どこにも売っていなかった。そして、何軒かまわっているうちに、あった!やっと見つけた。といって、はいてみると、ダボダボ。店の人に聞きました。「もうひとまわり、小さいサイズのありませんか?」「もうこれ以上、小さいのはありません」 え! ないのか。しかたが無い、あきらめようと思い他の物を見に行きました。でも、やっぱり、何も無い。しかたなく、僕は、あきらめ、結局、1日かけて何んーにも、買えませんでした。
2隊 4班 BS S.Y.
アメリカに来て7日目、ホームスティも終ってMVのお寺に集合、サヨナラパーティの時、各ホストファミリーの人達を目の前にして、僕は色々な事を考えました。超大国「USA」の中にも、色々な人々の生活がある。豊かな人々は確かに日本人の何倍も豪華な生活をしている。しかし、そうでない人々もいる。我々のホストは、そう云う人達だった。はっきり云って、我々は「はずれ」だった様な気がする。たった3日間のホームスティで、色々な体験をした。食事は、ほとんどトウモロコシ、シャワー、風呂類は誰も使わない。便所はつまっている。ホストファミリーの家に行って、初めに「ハロー」と云ってイスに座り、続いてトイレに入った瞬間「ゲー」と叫んでしまった。僕が、ホームスティに行って、初めて見だのがアメリカ人のウ○コ。それからペットはシミだらけシーツに犬の毛だらけの毛布。僕等は、思わず「何やこの家」と顔を見合わした。「日本の方がええわ」と思った。この事に関し「はずれ」は貴重な体験になった。僕等は、相手が日本語が理解出来ない事をいい事にして、日本語でボヤキ倒した。F君いわく「俺アメリカに来て、自分の家よりせまい家に来ると思えへんかった。せめて車でも乗って、どこか連れて行ってもらお。」僕等は、その事をお願いした。話しが決まりさあ出発、出て来た車を見て。が~ン「これ動くんか!」後のガラス無し、ドアー片方しか開かない。後の座席は無し、イスはべ口べ口、窓は2つしか開かない。 「これが、アメリカの実態か!」リーダーに話すか、話さないか、悩んだ結果「後からブツブツ言っても始まらん」と云う事になり、言って変えてもらった。良かった~。
今考えると「よくそんな事、言ったな」と思うが、あの時はそれくらいせっぱつまっていたのだ。メインプロ、キャンプに向った。テントで寝る事が、あんなに快適に感じたのも「はずれ」のおかげだと思っている。
1隊 1班 BS D.H.
待ちに、待ったアメリカキャンプ、MVのお寺に泊って、ホストファミリーと出逢った。向こうのボーイスカウトの紹介で、日系の家族になった。めっちゃんこうれしかった。なぜなら、英語は苦手だったからだ。家族は皆、日本語がわかった。その日は、ワインエ場に見学に行った。工場はワインの臭いでプンプン、それだけで、くらくらとなるような臭いだった。一階では、ワインを売っていたが、飲めないので、残念でした。帰って昼寝をした。家の人が云うには、二人共、死んだみたいに寝てたそうです。夜は、バーベキューパーティで祝ってくれた。次の日、昼からビーチヘ出かけた。ファミリーのひろきに、色々な事をおしえてもらった。ビーチから帰って、中農君がシャワー浴びに行って、部屋に戻るなり、「う○こが、バスルームいっぱいに泳いでる」と云って驚きました。そして家の人に話しに行った。たぶん、おばさんは、二人の内、どちらかがやったと思っているにちがいない。僕は、絶対やってません。次の日、バッグを持って家を出ました。
二軒目の家族は、下の部屋がゲームセンターのようになっていて、卓球台もあった。卓球は得意で向うの子も降参したようだった。夜は皆で、パーティをしてくれた。次の夜は、日本食を食べに行った。メニューを聞かれたが、わからない。そして店の人に通訳をしてもらった。結局、伊勢エビの天ぷらにした。アメリカだけに天ぷらは甘かった。朝、家の人に、Good一byと云われ、家を出された。三軒目の家には、プールがあった。
夜は、家の子の友達と「ジョーズ」を見に行った。立体映画だった。次の昼は、皆んなでプールに入った。入って30分もしない内に、隊長が呼びに来た。せっかく入ったのに、もっともっと、入っていたかった。気のきかない。
2隊 3班 BS S.T.
7月31日、日曜日、この日は、ホームスティに入る家の人が、来られる日だった。朝、7時頃に起き、朝食をとって、荷物の整理をしていた。僕は、その時、頭の中で色んな事を考えていた。例えば、「やさしくていい家に住んでる人になればいいな」とか、色々話しができるかなとか、うまくやっていけるかなとか、とても心配だった。そして、そんな事を考えながら荷物を整理していると、順番が近づいて来た!どうか良い人になりますように」 そして、僕の名前が呼ばれた。ホストファミリーの人にあいさつをして、荷物を持ち家へと車で向った。そして、家に着いた。そこは、ロスアルトスと云う町で、MVから5分位の所だった。家は、わりと大きく、庭にプールがある。わりと良い家庭の様だった。家の中に入ると家族全員で迎えてくれた。家族は全員で4人で、おじさんとおばさんと子供2人という家だった。
子供は、僕達よりも年上で、17才と19才だった。そして、少し日本の事等を四苦八苦しながら話した後、疲れているから、昼寝させてもらった。今度、目を覚した時は、夕食の時間になっていた。
夕食は、とても豪華で、本当にただで泊めてもらって良いのかなと思うほどだった。食事が終った後、町を車で案内してくれた。夜のスタンフォード大学は、とてもきれいだった。帰りに、アイスクリームを食べに行った時、偶然に近くでホームスティをしている日本人に逢った。
2日日には、バークレイに連れて行ってもらった。バークレイではUCLA大学を見たり、買物に連れてもらったり、オークランドベイブリッチやその他の名所へ、バークレイの帰りに連れて行ってもらった。又、その他にも、ピザや中華料理を食べに連れてもらった。又、家にいて、ひまな時は、プールで泳いだり、犬と遊んだり、家の兄ちゃんの愛車のコルベットに乗ったりしていた。又、洗たく機が故障したので、おばさんと一緒にコインランドリー迄ついていったりした。
家の人に「何か手伝いましょうか。」と云っても「別にいいよ。」と云ってくれるけれど、何か悪いような気がした。けれども、初め思った事とは反対に、とても良い人ばかりなのでとても良い思い出になった。
3隊 4班 GS K.M.
MVBTから、20分ほどの所に、私達(堂野さん細川さん)が、ホームスティする家がありました。家族は、おじさんとおばさんと16才と14才の女の子でした。それに、犬(ジミー)とねこ(パーティス)がいました。そのねこで病気で殺さなければいけないので、かわいそうだった。
31日は、買い物に出かけた。でも、私は何も買わなかった。昼食は公園でハンバーガーを食べた。次の日はミステリーハウスと云う所に行った。
最初、こわいのかなぁと思ったけれど全然こわくもおもしろくもなかった。帰りにコイを見に行った。2日日は夕食が終ってから、ボーリングに行った。ストライクが1回しか出なかった。でも初めてだったから行って良かった。おじさんと14才の子が、何回もストライクを決めていた。
4日の夕食はピザを食べに行った。とてもおいしかった。それに噴水のショーがきれいだった。私達が寝る部屋は、居間でした。家の人が寝るのが12時頃なので、いつもねむたかった。ペットは、二人用と一人用のソファベットでした。私は1人用で寝た。朝はいつも、7時起きでした。朝食はいつも、パンケーキでした。1日だけ何かわからないのがでて来た。私達にとっては、あまりおいしくなかったのに16才の子(Doreen)はおいしそうに、パクパク食べていた。
おじさんも、おばさんも日系人だった。おじさんは3世で、おばさんは2世でした。だから、わりと日本語も通じてたみたいだった。それにお姉さんの方が日本語を勉強していたみたいだった。
お姉さんと妹さんの友達も日系人の人が多かった。その中で、水原リングと云う人が、池上きみ子に似ていてとてもひょうきんだった。浜崎ちえと云う人は明るくてとても可愛いかった。いろんな人達と友達になれて、良かった。その人達と文通したい。
2隊 1班 BS S.K.
7月31日朝、ホストファミリーの方々が、次々と我々スカウトを迎えに来られた時、僕はうらやましかった。何故なら、僕と岩崎は待っても待っても全然迎えに来てくれなかったからである。
そして、やっと名前を呼ばれ、ホッとして行ってみると「君達が泊めてもらう予定の方が病気になられたので、もう少し待つように。今、代りの方を捜している。」と言われたので、又待つ事になった。そして昼前にやっと見つかったのである。
その家庭は、「中山」と云って日系の方であった。各自、自己紹介をして、12時頃、MVのお寺を出発したのであった。家に着くとまず、僕達の部屋に案内してもらった。日本語がわりと話せる人で、「君達のベットは、このソファベットで、そして、Sleepingbagを出して寝なさい。」と云われた。僕は「えっ」と思った。まさか、ホームスティで寝袋を使うとは夢にも思っていなかったからである。それは、岩崎も同様であったようで、その人が部屋から出て行った後、僕と岩崎は顔をしかめながら笑った。着替えをした後、布尾、田辺とそこのホームスティの方々と一緒に、お祭りに行った。祭りと言っても、日本のように夜店が並んでいたりというのでなく、遊園地のようなものであった。そこを出た後に、今、日本で人気のある「Flash Dance」を観に行った。しかし、映画で何をしゃべっているのかわからなかった。皆が、ドッと笑っているのに、僕は何かおもしろいのかなと思いながらも、皆と一緒に笑っていた。その帰り、うどんを食べに行った。又、そのうどんのおいしかったこと……。家に着いた頃は、12時を過ぎており、シャワーを浴びてすぐ寝てしまった。
ホームスティの6日間は、つねにどこかへ連れて行ってくれ、毎日深夜の帰宅になるためあまり家族の人々と話せなかった事が残念だが、ホームスティが最も良かったなと思う今日この頃です。
1隊 2班 BS S.J.
日頃・・・とても英語の苦手な私は幸運な事に他2名(水谷建二、田辺裕史)の両君とのホームスティでありました。
初日は前日までの睡眠不足が崇り、うつうつふわふわしていました・・・。するとそのとき、パパさんが、「野球見ないか」と、言ったので、3人は、うんうんと首を振り、口々に“YES”などと言っていました・・・目にはサンフランシスコジャイアンツの球場が・・・しかし次の瞬間、パパさんは、テレビのスイッチをオンにされました・・・あぜん・・・とする我ら3人でありました。しかし、そんな事ぱかりではありませんでしたその日の夕食は「日本料理は当分食べられないから」と言うような事などで、日本料理の店に連れてい。て下さいました。という事などもありました。
ホームスティの間に乗馬をしました・・・生まれて始めての経験という事もあり、不安もありましたが、すぐ楽しくなってきて一寸でも長く乗っていたいような気分でした。
ホームスティの一週間という期間は、本当に、「あっ」という間の一週間でした。不安な面も多々ありましたが、今回のアメリカキャンプで一番印象に強くのこっているもの、それはホームスティだと思います。
いやあ本当に楽しかった。欲を言えぱ・・・全行程が全てホームスティなら・・・と、言う事など考えた程でした。最後のホームスティさよならパーティ-らしきものがあったあと別れるのがつらかった・・・でも、しかたない・・・。 言葉が通じない、と、いう事はとても不便な事です。日頃、何の気なしに話している言葉もいざ英語にするというと、なかなか□に出せないものなんだ・・・英語をやっとけぱ・・・本当に後悔先に立たずなんです・・・言葉って本当に大切でかつ難しいものなんです・・・などと痛感した。
今回のプログラム最大のホームスティ生活の一週間でした。
そしたら失礼します。さいなら。
3隊 2班 GS N.M.
7月31日、朝食を終えるなり呼び出されてホストファミリーの前に連れていかれた私はその周りが少しにぎわっているのに不安と殺気が私に襲いかかってきたのです。なんとそこには子供が4人と赤ちゃんが1人そしてその両親、私達のところが一番のお迎えでした。そしてホストファミリーに私達が紹介され、次の一言「Let’s go」です。荷物を取りに行き写真撮影、車に乗ってびっくり、「汚ない」の一言でした。その時から私の America だったのです。
英語もろくにわからないし話せないしどうしたらいいか不安でしたが、別の団体の人も一人私達と一緒にホームスティをすることになっていたのです。初っ端から早い英語で話されてとまどっていましたがその人が通訳をしてくれて1日目はなんとか終りました。
2日目、朝食を食べ終えるなり何か英語で話しかけてきたのです。でも何を言っているのかわからず話がぜんぜん通じないのです。単語はわかるのですが訳し方が違うみたいで返事をしてみると変な顔をするのです。そんな会話が続き、私達はひらきなおりなんでも返事しとけばいいわと思いながら、OK・YESの連発で毎日をすごしました。子供にもその調子で言っていたら4人の子供が一気に私の方に向かってくるのです。 10才を頭に9才7才5才の4人が腕や体にまとわりついてくるのです。1人におんぶをしてやればあとの3人にも同じことをしなければ離れないのです。
それでもかわいいもので最後の日、Farewel. partyが始まるとこれでこの子供達と会うこともないのかななんて考えてしまい少し寂しくもなり、いくらでも子供達と遊んでいたい気分になり明日も会えたらなぁと思いました。おとうさんの炭抗節もとてもじょうずでした。
1隊 4班 BS N.Y.
ぼくが、やったホームスティは、3回かわりました。まず1日日は「マウンティンビュー」というお寺にそれぞれのホストファミリーの人がむかえに来たのだが、ぽくらのお世話になるホストファミリーの人は用事があってその時来れなかったので中農君たちの家で1時半ごろまでひきとってもらった。そこの人は日系人だった。そして1時半になってまたお寺にもどって来た。そしたらぼくらのホームスティの人が来ていた。なんとその人は白人だったし英語しかしゃべらないのでこまってしまった。
1軒目の家はおじさんとおばさんしかいなかった。子どもたちは結婚して家にはいなかった。寝た部屋は別々だった。
2日目、この日は1日中フリーだったのでおばさんが、教会とショッピングにつれていってくれた。
3日目、この日は市内見学だった。朝家を出て市内見学から帰ってきてから、2軒目の家に移った。そこの家もおじさんとおばさんしかいなかった。
4日目集合してマリンワールドヘ行った。家へかえり夕食を食べてから、「堀さん」と言う人の家に遊びにいった。そこには、なんと赤塚さんと浅野さんがホームスティをしていた。
5日日は、グレートアメリカヘ行った。そして帰ってきたら、急にまた別の家にかわることになった。ぼくらはぜんぜん知らなかった。そして3軒日の家に移った。そこは、男の子が2人いた。そこでは卓球とTVゲームをしてあそんだ。とても最高だった。
6日目、ホームスティ最後の日だ。この日はフリーだったのでショッピングにつれていってくれた。そしてその日は6時からお寺で「さよならパーティ」があった。その時は最高だった。これがぼくらのアメリカキャンプでやったホームスティでした。よく考えてみれば、失ぱいばかりやっていた。最後にひと言「アイム・エイティーン」
2隊 4班 BS T.Y.
7月30日、猛暑の日本を脱出して僕達は、空路アメリカヘ向けて出発した。
長く、うつろな時を過ごし、早朝ハワイ到着。閑散とした税関を過ぎ、入国手続を済ませ、又、飛行機に乗りこむ。そして、7月30日夕刻、僕達はアメリカの地に降り立ったのだった。
さて、翌日にホストファミリーとの合流があったのだが、どうした事か僕を受け入れてくれるホストファミリーがいつまで立っても来てくれないのである。不安な時を過ごし、昼過ぎ、リーダーが東奔西走して下さったおかげで、ホストファミリーのハセルタイン氏宅へ着くことができた。
ホームスティ中3日間の昼間は各地へ出向き、夜はディスカッションが中心となった。ディスカヅション時に英語で高校受験や大学紛争及び就職の事について質問された時など、かなり躊躇したが何事も挑戦と思い、単語を列記したり、わからなかったり、した時は身ぶり手ぶりで示唆したりした。しかし普段使わない英語を中心に、アメリカでの生活の基礎を少しでも会得できたという事は、僕にとって、将来へ向けての貴重な体験が、できたと思う。
最後の日、ホストファミリーと別れる時は、一期一会の悲しい思いをした。だがこれも我が成長の良き伴侶となるものだ。
さて、その日の夜に開かれたパーティーでは、ホストファミリーの方々に日本の食事(?)と大阪の街のパンフレットを見ていただき、説明をするととても喜んでおられた様子であった。
その後、風光明眉な景勝、名勝を訪れて、日本とアメリカの相違に感銘し、ほんの一部であるが、この目でアメリカを確かめることが、できたようだ。
近い将来、再び、かの地を訪問してみたい
2隊 3班 BS N.S.
ホストファミリーの人と初めてあったとき、うちの親父達と同じぐらいの年やろなァと感じた。銀髪のMr.ロウと金髪のMrs.ロウ。車で家に帰る途中ストアーに立ち寄った。まず、ストアーの天井の高さに驚き、そして、なんでも売ってるドラッグストアーがあるとは聞いていたが、こんだけいろいろあるとは、思わなかった。店の中をうろちょろしていると、Dadに「Wonderland!」と、からかわれた。牛乳のパックがハーフガロン、これだけでも驚威だった。
2日目。自転車を貸して下さい。と云ったら、貸自転車で、と云うことになり、2時間ほどゴタゴタして結局昼すぎスタンフォード大学のキャンパスの中にあるレンタルサイクルショップで貸りることになった。このとき、ホームスティに入ってから初めて隊の于らと会った。大学には、たいていの連中が来ているみたいだった。自転車でキャンパスの中を走りまわったが、どこからどこまでなのかさっぱりで、林みたいな所もあってこれが大学やろかと首をかしげるようなところもあった。しかし、今から考えると、校舎らしき物は一つも見えなかったように思える。
3日目。市内観光。サンフランシスコ。映画「ダーティ・ハリー」が好きな映画の一つで、その舞台がこの街なので最初から楽しみだった。坂の街、霧の街、花の街サンフランシスコ。坂があれほど急だとは思いもしなかった。花の街とは知らなかったが、ホームスティ最後の日、汽車でもう一度この街に来たとき納得した。街角に、花屋がそこここに出ていた。市内を走っているバスにも乗ったが、バスガイドの云っていたとおり、ベルがなくワイヤーが張ってあった。なんとなく、ほんの4時間足らずしか市内を歩いていないが、チグハグな感じのする汚なく、おもしろいところだった。
最後に、犬の話。中型の黒い犬がいまして名前をプリンセスと云います。最初犬がいると間いて、実は嫌いなので困ったなアと思いましたがぜんぜん、She is very nice!なのです。人なつこくて。
1隊 2班 BS T.Y.
7月30日、日本を出国して、その行きしなの飛行機の中でホームスティはどんな所にとまるかどんな人が、すごく不安で、飛行機の中では、そんな事ばっかり考えていた。サンフランシスコについたその日は、MVBTで宿泊をしてつぎの日にホストファミリーと合流をした。ぽくは、布尾君といっしょで、日系人の所へとまった。そこは4人家族で、息子さんが、いたけど、年上だったのであまりしゃべったりしなかった。
それからホームスティ中は、ほとんどその家にいず、毎日どっか出かけていた。ピザを食べに連れて行ってくれたり、映画を見に連れて行ってもらったりしてとても楽しかった。見に連れて行ってもらった映画はフラッシュダンスで英語でしゃべっていたので、何を言うてるかさっぱりわからなかった。それで外人の人が笑っていたら、わけがわからんけど、連られてぼくらも笑っていた。
まあ~そんな楽しいことばっかりで、とても良いホームスティでした。それから話しは、かわって「市内観光」まずは、金門橋、そこを見学して、かんじたことは、日本とぜんぜんスケールがちがうことです。それからフィッシャーマンズワーフそこには、すごく、いっぱい、服とか売っていてそこで買物をしたかったけど、バスから見学しただけだったのであまり、おもしろくなかった。
買物したかったなあ~。バスの中から、外を見ていると、きれいな家が、つぎつぎと見えてきた。アメリカって金持ちがいっぼいおんねんなぁ~と思った。おれも、あんな家にすんでみたいなぁ~
おわり
1隊 1班 BS Y.I.
アメリカ時間の1983年8月2日火曜日、9時にMVBTに集合して、サンフランシスコ市内観光に出発した。まず最初はツイン。ピークスに行った。そこは、双子丘というところでバスから降りると外は霧であまり見えなく、なにしろ寒かった。次に水族館みたいな博物館みたいな名前のわからないところに行った。そこではいろんな物が展示してあった。昔の日本の生活のようすの模型もあった。生きているペンギンやワニとかもいた。動物のはく製もあり、くまのはく製はむっちゃ大きかった。その他リスやきつねとか、かわいいのもいろいろあった。外に出て上農君とすわっていたら、白と黒のはとが飛んできた。そして珍らしいから写真をとっていると黒人の女の人に英語で何かしゃべりかけられてきたけど簡単な英文なので上農君と2人ですぐにわかった。
次はチャイナタウンに行き昼食に、中華料理を食べた。店にはいる前、何を食べよかな~とみんなで言っていて中にはいったらもうちゃんと料理が決まっていた。僕はラーメンが食べたかったのに!次はへんな橋の上から小さな宝島が見えた。そして橋をUターンして、金門橋にむかった。途中、フィシャーマンズ・ワーフをバスの中から見た。港には漁船がいっぱいで他の船を1つも港へ入れさせないぐらいぎっしり漁船があった。次は、金門橋に行った。金門橋を渡る前に少し時間をくれて、みんなで記念撮影をした。金門橋はむこうへ渡る時はお金はいらないがもう1度、橋を渡って帰って来る時だけ、お金がいるので珍しい。この橋の下には人が死んでうまっているという。橋を渡って、むこうの岸についてバスから降りると大きな木がありその木の穴の中に人間が1人ぐらいはいれる大きい穴が、あいている。そして又、みんなで写真を撮った。そして橋をUターンして渡ってツイン。ピークスを通ってマウンテンビュウに帰った。帰りしなツイン・ピークスを通ったらもうキリはひいて、きれいだった。
バスの中ではむっちゃ、眠たかった。
リーダーから一言
ホームスティとは、各家庭によって色々あった様に思われる。日系の家庭に泊ったスカウトは、まるで、客の様に大事にされたらしい。ある者は毎夕食に25$位、小使いをもらい食事代に10$位使って残りは持っていたため、日本から持って行った小使いが余ってしまった者もいる。しかし、ある者は、毎食のお金は、日本でも使うのだから、自分で払いたまえと云われ、小使いが大分へった者もいるらしい。しかし、人としては大変に親切で、たのみごとをすれば、大ていの事は聞いてくれた。だめな事はハッキリとだめだと云ってくれる。話しさえできればスカウト諸君も最高だったと思われるが!
とにかく、話ができなければ、楽しく過すのも自分しだいだと云う事です。
サンフランシスコ市の姉妹都市大阪から、キャンプ実習で当地を訪れていた大阪市のボーイスカウト、ガールスカウトの代表が一日、ダイアン・プァインスタイン・サンフランシスコ市長を市庁舎に訪ね、大島・大阪市長からのメッセージを手渡した。
同代表団は赤塚勝己氏を派遣団長とする、大阪市鶴見区のボーイスカウト第11団、第111団、ガールスカウト第62団のリーダーら11人で、ガールスカウトリーダーが胸の記章をプレゼントすると、ファインスタイン市長は
「これで私もリーダーになれるかしら」と
ジョークを発するなどなごやかな友情交換が行われた。
上の記事は8月9日付の北米毎日に掲載されたもので、8月1日に大島・大阪市長のメッセージを持ち、サンフランシスコのダイアン・ファインスタイン市長を訪問し、しはしの間、同市長を囲み「何日位滞在するのですか?」、
「何処でキャンプをするのですか?」、
「スカウト達は何人ですか?」と次々に質問されていた。
又、その時に木下大阪市会議長も、同市長の訪問に来ておられ、同行の方が我々と市長の会話を通訳して下さり、木下議長も「長田議員からBGSCのスカウトがアメリカヘ行く事も聞いていましたよ」と、話しておられた。
3隊 2班 GS Y.S.
私が入ったホームスティは、日系人家庭で、私は畑井リーダーと中島リーダーといっしょでした。
ある朝、朝食の時「今日はサンフランシスコの市長さんに“メッセージ”をもっていく。」とかなんとかりーダーたちが話していたので「今日はひとりやなぁ。」とかなんとか頭にうかんでいた。そして、リーダーたちは着がえて見送ろうとすると、「矢野さんもやて」ということばに対して、私は「えっ!」の一言。その日は一日わりとあつい日で車の中は「サウナ」が入ったようなかんじだった。そして車に乗って出かけた。そこはお城みたいな、マンションみたいな所だった。
ドアを開けて入ると会社員みたいな人達が机(デスク)に向っていっしょうけんめいに何かをしていた。その奥に部屋があって「ずんずん」入っていった。
市長さんは女の人だった。とてもきれいな背の高い人だった。入ったら握手をしてもらった。その横に通訳の人がいてた。最初は緊張していた。それから話があっていたけど私は英語がさっぱりなので全然わからなかった。リーダーが、リーダーピンと連盟ピンをわたしたら、「これでりーダーになれますか?」と市長さんが聞いたら部屋の中は、ばくしょうだった。そのあと「プレゼント」をもらった。市長さんは市長になる前に“美人コンテスト”みたいなのに出た人だったそうだ。(あとから聞いた話です)
そして、「市長さんと一緒に写した写真が新聞にのる」といううわさ・・・私はドキドキした。そして最後のおわかれパーティの日にその新聞を見せてくれた。なんか、自分で見てはずかしくなってくるようなかんじだった。
最後に、リーダーや団委員さん、どうもお世話になりました。私はリーダーといっしょだったのでみんながいけないところでもいけて、とってもうれしかったです。いい思い出ができました。
1隊 1班 BS S.K.
8月1日僕はサンフランシスコ市長を訪ねた。
この日はフリースケジュールでしたが、何せまだホームスティも2日日やし英語もあまり話されへんし、かといって僕一人ホストファミリーの人と残るのも自信がなかったので我隊の首領(ドン)である川端隊長に無理を言って一緒に連れていってもらったのであります。まあ市庁の中は広いですなあ。いろんな部屋があって、あんなところで迷子になったら大変やでほんま。でも広いといってもその一部屋が市長室で、そんなにも広くなかったのでびっくりした。一番えらい人の部屋やから次の部屋に行くのに2日はかかると思ったけど(ジョークですよ)そして市長の秘書のような人が仕事中にガムをかみながら仕事をしてるのにもびっくりしました。日本では考えられへんで、ましてや市庁やで、アメリカやなぁと思った。 Butサンフランシスコの市長は女性と聞いて、どんな人かなぁと思っていると、背が高くこれまた美人ときてますわ!女性やのにえらいですなぁ大変な仕事やで。でも正直いうて緊張しました。市庁なんか行ったこともないし、ましてやアメリカやからあほな行動はでけへんと思いましたもんね。それでもってボーイの制服やし、いやはや疲れました本当のところ。でもどこでもそうやけど、アメリカっていうところは、普通のダウンタウンでもきれいな所が多いし、気のせいかもしれないけど駐車場というのも少ししかなかった様だった。日本と違ってゴミゴミしてないし、ほんまええとこでした。今度また機会があれば行きたいですね。それまで英語をもう少し勉強して今度行くときはもうちょっう余裕で行きたいですね。ホームスティもちょっと経験でけんと思うし、本当に有意義なCampでした。
オルカのショウがあったマリン・ワールド
ホームスティ中の8月3日(水)に現地の関係者やホストファミリーが計画された、マリンワールド行きに大半のスカウトが参加し(ガールスカウトはアメリカのガールスカウトのキャンプにDay’Camp として参加、マリンワールドヘは6名のみ)水上スキーを見物したり、猛獣ショウを見たり、ゲームを楽しんだりして、童心にかえり一日を大いにエンジョイした。
3隊 3班 GS M.K.
ホームスティの住み心地は快適でした。後にキャンブがまっているのかと思うと、気のすむまでシャワーを浴びてしまいました。ホームスティでの苦労話しは全然ありません。と云うのは、おばさんが日系三世の人で、日本語が通じてしまうのです。楽でした。どこに行きたい、何か見たい、と私達の希望を聞いてくれ、本当に優しい人でした。良く買物に連れてもらい、ほとんど何も買わずに帰えって来てしまいました。3日はマリンワールドに行きましたが、最高に楽しかった。特に水上スキーのショウはカッコ良かったなぁ。お面白かったし、何か久しぶりに笑ったって感じ。皆でギャーギャーと云ってました。象やイルカのショウも楽しかった。楽しい集いもこれで終りと云う事でもう帰る時間、ソフトクリームをおばさんに御馳走になり帰りました。車の中ではほとんど寝てます。どこに連れてもらう時も、車の中では寝てしまうので、おばさんに「クルマノナカデミンナスグネル」と云われてしまいました。夕飯はピザだけです。しかも買ってきたもの。日本では考えられない夕飯の献立。物足りなさをお腹に感じながら、眠りにつきました。毎晩、色んな話をするのですが、日本語が全くわからないおじさんは、自ら仲間はずれになっておりました。おばさんが日本に来て観光に行った所の事やサンフランシスコのこと等11時近く迄話していました。
ホームスティでの一番の思い出は、うどんとすき焼を作ったこと。うどんの麺がおいしくなく、大阪のうどんを食べさせてあげたい。すき焼は甘い「SWEET」と云われてしまった。アア入れ過ぎた。
気がついたらお別れの日です。MVでのパーティ、住所の書いた名刺を渡され、卒業のお祝に又来なさい。留学したいなら家に来なさい。ときつく云われ、困ってしまいました。
でも本当に又行けたらなぁって、夢見ています。
1隊 3班 BS N.E.
HELLO!皆さん、Meは、AMERICAに行って来たのでありました。うっ、涙、涙・・・感激のUSAかぶれは、この辺で・・・
私は、マリンワールド担当と云う事ですので、その事を書き書きします。 マリンワールド、それは書き様のない単純活動の一言につきる所だった。(それと云うのも一日中、水のすべり台とGAMEですごしたからであった。WAD!) BAT、私は書く、朝、少し遅れてMVBTに到着、それから仏教会から「マリンワールド」へ直向。またまたマリンワールドの水のすべり台へと直向。ただですべり始めて30分。 ENJOYしました。でもサギのようでした。MVBTに集り、どこへ行くのかと思えば、何の事はない。マリンワールド、すべり台であけくれた1日、この事が後でもっとくっさい1日になるのです。すべり台、すべって、すべって5TIME、おもしろかったがその後に、最悪の出来事がおこるのであった。最悪の出来事………あまりにも、マリンワールドがひまであったので、ゲームに心をうばわれ、$20も使用してしまった。ウーワ、ウーワ、それからと云うもの、ジュースは、ひとのジュースをめぐんでもらうはめに、ウワーッ、書き書きする事が無ない。くっさいマリンワールド。くうーさい。ワープ!(時々、せばい時、フープします)
そうそう昼食の例のように例のごとく、ひもじいランチ、サンドイッチ(わかる人にはわかる)エンドコーク。それに感動の物は、ぶどう、皮ごと食べたのあります。ウッやばい、ワープNo2、そして波動砲-ピボーン(失礼、くっさいマリンワールドのせいです)さて、すべり台はEnjoyできたが、おもくそくっさい1日に王手をかけた出来事は、そ、それは後で料金5ドル50セントまき上げられた事だったのです。 ババーンEND.
1隊 2班 BS T.M.
マリンワールドで、僕は、日系の人の所で泊っていたから、日系のグループでかたまって行動した。1番最初に行ったのが、スベリ台だった。スベリ台は長くて楽しかったので、1時間はすべっていた。ふつうに座ってすべったらあまり速くすべらなかった。2回目に寝ころんですべったけどこれもあまり速くなかったので、今度は頭を前にしあお向けですべっていたら、頭を打ちそうだったので、ふつうにすべっていた。次からは、ずっと頭を前にして上向きですべった。頭を何回も打ちそうだったが、ずっとそのままの姿勢ですべっていた。少し考えて、僕は足を両手で持って頭を前にねてすべったら速いので、カーブの時は上の方のへりに乗り上がって頭を打つけれど、速くすべれるので、それからはずっとこのすべり方ですべった。だけどこのすべり方は、手がいたくなるのが欠点だったが、すべるスピードが速いので、手のいたさなんか関係なしにすべりました。すべり台から上り、昼食を食べた。昼食はおにぎりだったが、おいしかった。昼食を食べてから、ゲームセンターに行った。ゲームセンターの他に、4つの人形をもらえるゲームがあった。その内の一つのゲームをして、ワニのぬいぐるみを当てた。も一つのボールを穴の中に入れて、得点が高かったら、ぬいぐるみをもらえるゲームをしたが、これは得点が低くもらえなかった。それから、水上スキーを見ようと思ったけど、人が多くて、中に入れなかったので、ちがう所に行った。歩いていたら、動物がショーをする所があったので、入ったら、トラやライオンがショーをするので見ていた。トラが飛んで、向うの階段迄、飛んだり、火の輪の中をくぐって、階段まで飛んだり、ライオンの上を飛び階段へ行くショーを見た。ほかにライオンが2本足で歩いたりするのを見た。
マリンワールドで一番良かったことは、スベリ台ですぺったこと、動物のショーだった。
USA GSのDay Camp見学
8月3日、ペギーさんの招待により、USAのGSのキャンプのハイドン・フォール・キャンブ場に見学に行きました。まずホール兼食堂といった所に通されました。丁度その時、そこでは数名のスカウトが音楽にあわせてジャズダンスを習っていました。ここでは招待とはいえ我々一行は数人ずつ5つのグループに分かれ、食事当番(これは食事時になると机やいすを出す役割)、プール清掃当番等につけられました。
まずはハイキングに行きましょうということで、キャンプ場から約200分下った所にある。キャンプ場の名前にもなっている、ハイドン・フォールという滝がある所まで行きました。そこでしばらく遊んでから、戻り、キャンプ場内にあるプールでスイミングを楽しませてもらいました。その後夕食で、6才~10才のスカウト達の各班に2名ずつ入りました。各班から1人ずつが順番に、厨房まで食事を受けとりに行かなければなりません。当然我々も例外ではなくその順番に加わりました。食事後、軽いレクレーションをした後、ホームスティのメンバーに分かれ、年長スカウトのサイトに入りました。矢つぎばやにくる英語の質問攻勢にうろたえながらも時がすぎて行きました。ここでは、我々にとっては、キャンプとしては、プログラムは楽しいのがあるが、もう一つ物足りなさがあるような感じがありました。
3隊 1班 GS N.H.
8月3日、お昼も過ぎた頃、アメリカのガールスカウトがCAMPしている所に出かけました。車中、出発前に用意したサンドウィッチ等の昼食をとりながら約一時間半のドライブを楽しみました。 CAMP場にはプールも設備されていて、早速水着に着換えました。一緒にゲームをしたりもしましたけど、自由のときは私は、もっぱらつかるだけだったけど・・・
近くに滝があるというので、そこにも出かけたりした。帰ってくる頃はすでに夕食の時間で、遅れてテーブルにつき、食卓を手伝って一緒に食事もして。だけど、言葉の問題もあって、会話ができなかったのが残念でした。“One more please?” “Yes” “No thank you”と簡単なものでした。あと「ニコッ」っとする位でした。
せめて後片づけを……と言うと、いいから向こうでやっている歌、教えてもらっておいで!と言われてしまいました。そこで習ったのは振付きの歌をいくつか。
「日本のも何かやって!』のリクエストに、「チューリップ」と「ひよこ」を披皆一緒に、一生懸命やってくれました。
シニアのサイトにも連れていってもらいました。といってもミーティングをしていて、何を話題に話してるかわかりませんでした。また広場へもどると映画を上映するところでした。午後9時頃、Tシャツ等を売っている給品部に行って、そこで折り紙(ちなみにPaper Foldingといいます)で、鶴、風船、だまし舟等を作ってみせると、「Cute! very nice!」と喜んでもらえました。
それにしても、アメリカのCAMP場って、日本のそれとは比べられない程、いい設備をもっているんですね。思わずうらやましいって思ったけれど、あの砂ぼこりだけは、たまりません!
3隊 4班 GS I.T.
アメリカのDayキャンプは、とても楽しい思い出となっています。
当日キャンプ場に着いた時は、私と北村さんの2人だけで、少々の不安もありましたが、昼食を食べたり、歌を歌いながら(私たちはもちろん歌えませんが・・・)キャンプ場を行進しているうちに、不安もかきけされていました。
そしていつの間にか、むこうのジュニアスカウトといっしょにはしゃいでいる自分に気がつきました。そうしている間に、日本のスカウトも増えてきて、水泳や、ハイキングを皆で楽しみました。そうしたプログラムの間に、英語とも言えない英語で、リーダーの方や、ポケットに入れて持ってかえりたいような、かわいいジュニアスカウトとも話しができたし、とても有意義な1日でした。
ただ、もう少し英語が理解できて、話せたらなぁと思う事がたびたびあって、自分の用語数の少なさを歯がゆく思うばかりでした。
夕食は各テーブルに日本のスカウトが1名づつ入って食べたのですが、準備の時の手ぎわ良さと、日本で言えば組長さんらしい子の適切な指導には感心させられました。
私のジュニア時代を思い浮べると、はずかしくなってしまいます。
夕食後、リングの交換をして、少人数に分かれ各サイトに入り、サイト別のプログラムを行いました。私の入った所では、クラフトでブレスレットを作っており、私も1つ作りましたが、その時に改めて日本人の手先の器用さを痛感しました。
楽しい時間というのは本当に“あっ”と言う間に過ぎるもので、とうとうキャンプ場を去る時が来てしまいました。こうやって一緒に時を過ごした子供と会う事もないだろうと思うと、本当に去りがたい気持ちでした。
そしてこのキャンプでいろいろ気を使って下さったりーダーやスカウトに感謝するとともに、最後になってしまいましたが、このアメリカキャンプを計画実行して下さったすべての方に感謝いたします。
グレートアメリカで遊ぶ
8月4日、ホストファミリーにMVBTまでスカウトを送ってもらい、バスでサンフランシスコの南にあるグレートアメリカに出かけた。「キャー、キャー」と言いながらジェットコースターを 楽しむスカウト・・・。
3隊 1班 GS N.K.
感想文のテーマは何んだろうと思っていたら、ぬわぁんと、Great Americaの事、ここは私にとって、一番思い出の多い所なのじゃ。
(知ってる人は知っている。ラッ!ラッ!)
前の日は、本当にうれしゅうて、うれしゅうて・・・だって、めちゃんこ、すごぉいジェットコースターに乗れるんじゃもんねぇ~
夜は、1人しおりを見ながら「ふっふふ・・・最初にあれに乗ってほんでこれに乗って。・・・ぶひひっっ!と不気味な笑いを浮べる私なのでありやした。家に残っている宿題を少々思いだしながら青くなる私なのです。
でも次の日、宿題の事は忘れ、ぱぁーっと、ぱぁーっと浮かれていた…。その浮れが悪かった。うっく。ほにゃらららをしてしまった。ぐっすん皆様、迷惑かけどうもすいませんでしたぁ。自分の不注意であとのプログラムの楽しさ半減しましたわ。あ一もう一度行きたいですわ。まぁ悲しい話はこれ位にして、あのジェットコースターさんのすばらしさを、思い出そう。特にあの真上から真下に落ちるのは、もう、めっちゃすぁいこぉーっ”でしたわ。みんなもそうやろうとおもてさ。あ一ぁ学校の友達みーんな達れてきたかったわぁー。あほーほどジェットコースターばっかり乗ってたやろなぁーと云うほどなんていったって、乗り物何回のっても“ただ”やもん。(入場券の分あるけど)日本のコースターとは、全然ちゃうもんなぁーっ。ほんま、こういう事に関して、アメリカは偉大やのおう。これに乗れば、日本の遊園地なぁんて、クリープを入れないコーヒーやもんな。(しょうむねえっ)高1でこんな、すんばらしい体験できて、とてもうれしいで一す。おっちくなったらもう一度行くぞーと思う、私なのであります。
なんか変な文になったけど、もう素晴しさは、言葉で表現出来ないっ。でも、まだ見てない所が多くありますわ。団委員長はじめ各リーダーの皆様方、本当にお世話さまでした。
2隊 4班 BS T.A.
日本時間、7月30日(土曜日)午後2時、団本部に集合、そして18時30分、NW-16に乗り、ハワイで乗り継ぎ、SF空港18時55分とうとう来ました。アメリカ本土。その日はMVBTで宿泊、翌朝、ホストファミリーとの出逢い外車に乗って家に行きました。そしてまず、考えた事は、6日間、大丈夫やろか!と云う事、そして、その日夕方、パーティに行こうと云われた。何んのパーティかと、なやんでいると、車が十数台、リボンや風船で飾り、大パレード、実は何の事はない。近所のおばさんの誕生日、何から何まで、でっかい国やとは聞いていたが……パ-ティの後の家で会話をした。本物の外人との会話が、こんなにも疲れるとは思わなかった。それから色々あったが、少し話しを進めて4日目の話しをしよう。この日はグレートアメリカに行く日、ホストファミリーの人にグレートアメリカ迄つれていってもらい、そこからはスカウト同士の行動、皆どこえ行くかと思ったら、ゲー、ジェ、ジェットコースター。「あかん、やめや、パス」しかし皆が乗々と云うものの、僕は生まれてこれまで、日本の旧式のコースターでさえ乗った事がないのです。その僕に乗れなどと、しかし、僕はめげません。思わず乗ってしまいました。後は云うまでもありません。足はガクガク、頭はフラフラ、もーあかん。その後のマジックマウンテンでは、たいした乗り物にも乗らず、ゲーム等をして楽しみました。ホームスティ中、夜、寝る時、耳が聞きなれない英語のせいで目をつむると、その英語が飛び込んでくるという事ぐらいで、楽しく過せた。
別れの時は、本当につらかった。もう一度逢いたいなぁと今も思っています。それから、リーダ一方には、鍵がつぶれて、こわしてもらうなど、色々迷惑をかけすみませんでした。又4年後アメリカヘ行きたいなぁと思います。本当に楽しい「Camp in USA」でした。
3隊 2班 GS N.R.
あっという間にアメリカキャンプが終ってしまった。夏休みももうすぐ終りです。
アメリカキャンプで、心に残った事は、ホームスティでした。私は、一つ年上の人と一緒に、ホームスティをしました。ホストファミリーの人がむかえに来て下さって単に乗った時、お父さんが日本語で「さあ行きましょうか」と云われました。私達はびっくりしました。ラッキー、日本語が通じると思ったのですけれど・・・家に着いた時、なんて大きな家と思いました。すぐにジュースを出して下さいました。私達は、日本からのおみやげを渡したら、すごく喜んでくれたのでとてもうれしかったです。食事をすましてプールを指して、泳ぐかっこうをされたので、プールで1時30分位遊んでいました。そして、それから12時頃迄、ゲームをおしえてくれました。教えてくれるのはいいけれど英語でペラペラ話されたら、全然わからなかったけど、1回やってみたら、なんとなくわかりました。
それから新地さん、橋本さんのホームスティのお母さんと一緒に海につれていってくれました。海では、バーベキュウのように串にウインナーをさして焼いて食べました。
トマト、じゃがいも、その他、そしてデザートにマシュマロを焼いて食べました。帰り、私と畑井さん、新地さん、橋本さんの4人が、車の中で寝ているところをバッチリ写真にとられてしまった。はずかしい~。4人が一緒だったので、楽しい一日が過せました。
グレートアメリカで、私はジェットコースターは、日本で、こわいものと思って、日本では乗った事がなかった。でも皆が乗るから根性をきめて、わざと明るくしてた。私は、初めて乗ったのに何回も乗ってるみたいで、おもしろくなかった。次に乗ったのは、2回転するコースターだった。これは乗りがいがあった。そして、何か箱の様なのに乗って、下に落ちていく乗り物が一番良かった。足がういて、自殺しているみたいだった。
でも、グレートアメリカに来て、勇気がついたみたい。もう日本のコースターも乗れると思う。私は、Americaに来て、楽しいことばかりあった。もう一度、アメリカに行きたい。
2隊 1班 BS U.T.
7月31日、今日僕が一番期待していたホームスティの日が来た。どんな人がくるのか、わくわくしていた。どうやら、僕達のお世話になる人はラッソ&ワンダーさん、僕達の荷物をさっさと持って行ってしまった。家に着いた。家の中へ入ろうとした時、靴をぬぎかけた。僕達に部屋をあたえてくれて、服をきがえる間もなく、英語で何か話しかけてきた。もちろん、僕にわかる訳がない。僕は適当にうなずいていただけ、どうやら年上の車君もわからないんで、タイプをポンポンと打ってくれた。車君がわかった。まず僕は安心、後で聞いてみると「教会に行かへんかと云っている」まあ、とにかく、行ってみる事にした。教会につくと、歌を歌っていて、貴方途も一緒に歌いなさい。と云ったんだけど、僕は心の中で(歌える訳ないやろ、英語わからんのに)と云ってやった。帰宅してからは、自分の部屋だけ靴をぬいでいた。プールに行った後、自分の部屋に置いてあった、つぶれかけたテレビを見ていた。次の日、10時頃ベッドから落ち、目が覚めた。But 痛くないのか?少しの間ベッドの下でうとうとしていた。又、昨日と同じくプールに行ったけど、後は部屋に入りぱなし、ベッドに入ってから(ホームスティてこんなんか?)と思いこんでいた。
次の日、市内観光で皆のホームスティの話しが始まった。しだいに不満が生じ、ムカムカして来た。その理由は皆、色々な所に行っていて家にほとんどいないて云う。自分の所に比べたものだから、But.笑いは残っていた。明日、あさってとマリンワールド、グレートアメリカで、おもいきり、Enjoyしようと云う訳で、まだ笑いは残っていました。マリンワールド、OK! グレートアメリカでは、多くの乗り物に乗ってハリキッタ。それに今まで乗った事の無いジェットコースターに乗った。前まで、恐いと思っていたのが、「こんなん屁でもないわ」エッ?
2隊 2班 BS N.H.
8月5日 7時に起床した。5日はホームステイ最後の日と思いながら、いつものように朝食を食べていた。朝食後、今日は最後の日だから、プ-ルに入ったり、何かして気軽に過ごそうと云っていたところへ、曽根さんから電話があった。
内容は「パーティの準備に人手が足りないから、来てくれ。」だった。僕等は仕方なく、手伝いに行く事になった。30分位して、荷物の整理も終ってないところに迎えが来た。
10分位で、MVのお寺に着いた。車から荷物をおろし、運んで行くと、中には藤井君達がいた。少しして、パーティ会場のテーブルを運び、並べ始めた。大体3時間位で並べ終った。
次はハム切りをやらされた。僕は並べるだけだったけれど、これが中々むつかしかった。その後は、何もせずにのんびりとしていた。午後6時、5日間、ホームスティでお世話になった、スタンレーさんの家族が来られた。僕はあまり英語もわからないくせに、わかっている様な顔をしながら、家族の相手をしていた。やがて、30分ほど遅れてサヨナラパーティが始まった。家族を席の方に案内し、自分達も席に座った。席に着いて、少しして、団長の話、記念品の贈呈、ホストファミリーヘの感謝の言葉、等々があった。
話しが終り、家族は料理を取りに行った。僕は家族の方々にサービスするため、冷蔵庫のジュースを取りに行った。仕事も終え、自分の分を取りに行き席に着いて食べ始めた。
時間が過ぎ、家族の方々が帰えられるので、見送るため外に出て車のところまで行って、お別れのあいさつを言って見送った。
最後に、ホームスティは本当に良かったと思う。
不思議なMYSTERY SPOT
この場所は名の通り本当にミステリーだ、傾斜のわるい坂を登るのに息が切れるし、スポットの中心にある建物(小屋)の中では部屋全体が傾いていて平衡感覚が麻痺し頭が痛くなるし、ボールをころがしても上の方へころがる・・・本当にミステリーだ。
3隊 1班 GS T.E.
やったね! とうとうアメリカの土を自分の足で踏んでしまいました。でも「ほんまにこれがアメリカかいな?こんなはずじゃなかったのに…」とちょっと期待外れのところがあったりして?!まぁ、とにかくMVBTとやら言うお寺に行きました。MVBTに着いても、まだ、自分がアメリカに来ているという事が信じられなかった。そこにはバスケのコートがあり、日本のお寺というイメージとはちょっと違っていた。そんな、MVでの思い出と云えば、やっぱ、ホストファミリーとのサヨナラパーティー!これでホームスティでお世話になった人達と一緒に食事するのは最後だと思うと、急に寂しくなりました。それでもこの残り少い時間を楽しく過ごそうと、訳のわからない単語を並べて、なんとか会話!しようと努力しました。お父さんが別れる時、顔がぐちゃぐちゃになるぐらい抱いてくれました。思わず、快感。(ナハハッ)その時以来、私の顔はぐちゃぐちゃになってしまいました。 それから、私達はキャンプ場に向かう途中、ミステリースポットと云う所を見学しました。この場所は名前の通り不思議な所でした。初めは、全然訳がわからなかったけど、あの傾いた家の中に入ると、気分が悪くなるほど不気味でした。真直立っているつもりでも体が引っぱられるようでした。それから、もっとびっくりする事があったのです。水平な所に、背の高さの違う2人が離れて立ち、相手と場所を、Changeすると、今迄背が高かった方の人が、低く見えると云う、なんとも不気味な事でした。私もKさんと比べました。おどろきましたわ!
Kさんの顔が私より30cmも下に見えるなんて、これ以上、背は高くなってほしくなかったので、ショックでした。でも、色々と驚くことがあって、不気味な反面、面白かった。さすが、ミステリースポットと云う、名前だけのことはあると感心しました。そんな複雑な気持だったけどバスに乗り込んだとたんに、うとうと眠っている次第の私でした。
1隊 2班 BS O.M.
僕が、アメリカキャンプに行って、一番良かったところは、ホームスティだった。
僕が、とても運が良いのか、とても大きい家だった。庭にはテニスコートがありとても良い所だった。そして、とうとう別れの時が来た。最後の日にホストファミリーの人達に、あいさつをしてバスに乗り込んだ。まどから(一緒だった)H君と、手をふっていた。バスが発車してから、ホームスティの事を思い出していた。そんな事を考えているまに眠ってしまった。起きた時にはもう、ミステリースポットに着いていた。ミステリースポットに入った時は、頭がいたくなった。ミステリースポットにはとても不思議なことばかりあった。例えば、ゴルフボールが反対に動いたり(下から上へ)。傾向いた家の中で、ななめの板の上に立っと、ちゃんと立てた。ミステリースポットも終り、又、バスに乗り、公園で昼食を取った。そこはとても土ぼこりがたつ所だった。その上とても暑かった。日本では、あせがすぐに出るけど、アメリカは、あせがあまり出なかった。そして又、バスに乗って、キャンプ場に向った。キャンプ場に着いた時、とても暑かった。それから、テントを建てたり、ダッフルバッグを取りに行ったりしていた。夕食に行き、帰えって、その夜は何もなかった。
次の日から、プログラム開始だった。朝はプール、ちょっと寒かった。僕達はシャワーを浴びて帰えった。昼食をとって午後はライフルだった。あまりうまく当らなかった。
それから、食事のしたくをしなくて良かった。とても良かったと思う。
2隊 3班 BS K.M.
日本をたって早1週間、アメリカの生活にも慣れたなぁと思っている頃、ホームスティの家族に別れなければならないと云う悲しい出来事にも耐え、前日とは、うって変わって板の間のベッドで一夜を過した。そのせいか、皆、疲れた顔をしているようであった。ふと思い出すと昨日のスプリンクラー爆発事件を思い出した。たぶん、そのせいだろうと思いました。昨夜の事件は消防車迄、くると云う大事件でした。9時に出発し、一路ミステリースボットヘと向いました。皆は、めっちゃ疲れているのだろう。バスの中はいつもと追って静かであった。いつの間にか自分もねむってしまいました。目が覚めると、ミステリースボットに着いた。ここはとても不思議な事ばかりなので頭の中が、ミステリーになりそうだった。そして近くの公園で昼食をとり、しばらく休けいした。
そして、出発、やはり皆は疲れているのだろう。又、バスの中では、皆ねていました。私もやはりねてしまいました。そして、目が覚めると、バスは山の中を走っていました。すると、キャンプ場のカン板があり、しばらく走るとキャンプ場に着きました。アメリカのキャンプ場は日本のキャンプ場とは大違いもいいところで、ほこり、ほこりほこりだらけで、その上、とても暑くってこんな所では、5日間も生活が出来る訳がないと顔で笑い、心で泣いていました。その夜はシャワーも浴びず疲れたので早く寝ました。
そして、2日日、午前はアーチェリー、アーチェリーは初めてだったけど、一番遠い的に当ったのでうれしかった。昼からのカヌーでは、自分のため一諸の仲間と共にひっくり返ってしまった。3日目は楽しみにしていた、ライフル、しかし予想にはんしてつまらなかった。しかし、たまは、全部的に当った。4日日のハイキングは意表をついて、面白くなかった。最後に、おいしい物を良べたかった。
リーダーの一人ごと
ホームスティ。ここではいくら考えも、話しができなければ、楽しくありません。行く迄は思いきって話しをしてみようとは思ってはいたのですが、いざ話しをすると何を話して良いのか、わからなくなってしまった。ハワイでは少しは通じたのに、「そうだ、あの時は日本語と英語のチャンポンで話しをしてた。」、この計画が出来た時は行く迄に英会話教室を何回か開こうと話しをしていたのに、何かととりまぎれそれも出来なかったので、ここに来て、ひびいてしまった。せっかくの機会にお友達にもなれなかった。子供の時から英語になれておくべきであると思う。
皆さん、大事な事ですよ。お話が出来ると云うことは。
Cutter Scout RSVTNでの生活
このキャンプ場は、サンマテオ地区が所有している所で、場内には、ライフル、アーチェリーの両射場にプール、カヌー訓練の為の人工池の設備があり、敷地面積も広大で、その中でハイキングなどが出来るぐらいです。キャンプ中の思わぬアクシデントは、近くで山火事(消防隊員に聞くと小さいボヤ)があり、夜間に消防のポンプ車が2回人工池の水を汲みにきました。
1隊 4班 BS T.M.
皆様、こんにちは。今だに今日は、何曜日か良くわからない。4班の影の班長、辻本です。行って来ましたよ!自由の国、アメリカ、治外法権、アメリカ!、私の第一印象は「でっかい国やなぁ~」と思いました。国も大きければ住んでる住人も又、でっかい。何んと腕が丸太棒杭あるのです!いや~まいりました。あれには、それから、長田君が・・・「え!キャンプ場の話し」失礼しました。キャンプの事完全に忘れていました。私達が、行ったキャンプ場は、すごい所でした。日本のキャンプ場など話しになりませんね。完璧な山の中、ヘビは出るわ、鹿は出るわ、自然そのものでした。キャンプ場では、ライフル、カヌー、アーチェリー、水泳等、色々のプログラムをこなしました。中でも、アーチェリーは大変おもしろく、班長には、本当に楽しませていただきました。
キャンプ中は、USAのカブ、ティミー君と生活を共にしました。又、こいつが、やんちゃで、私達の班の諸君は大変、手を焼いている様でした。このティミーには、我々、班長クラスのスカウトも、たいがい頭に来ていたので怒る時は、完全なる河内弁「わかってんのか!」「ええかげんさらせ!」等、云われたティミーは、我々が怒っているのが少しは分った様でした。
それと最後の日には、豪快な霧が発生したのです。私達のサイトは他の近くでしたから、霧によって池の囲りはボワ~ッと白く、いかにも不気味、又、この池で人が、1人死んだと聞かされ、班員一同、ゾー!夕食後、サイトに帰る時など、皆で大声で花火の歌や、星の歌、大阪市民の歌(詳しくはUSAキャンプ参加スカウトに)等、歌いあいながら、サイトに帰りました。次の日の出発日は、全員5時前に起床、なんせ9時迄に出発しないと、途中でバスからおろされるのですから。
もう、バスの中では全員熟睡。そろそろ行数もおしせまってきたので、この辺で。
又、行ける日を楽しみに!
2隊 1班 BS H.M.
何んと言ってもこの、“USAキャンプ”は、アメリカキャンプと言うくらいであって、キャンプが、目的であるのだが、山に入ってしまえば、ただ広いと云うだけで、日本と大差はなかった。しかし、広かった。まず、キャンプ地に着いて設営、その夜はねるだけだった。
さて、次の日から、キャンプの、プログラムに入って行くわけだが、他の班の事は、知らないので、自分の班の事を書こう。まず、我々の班は、午前中はライフルだった。これは、とにかくおもしろかった。(僕はこういうのが特に好きなのだ)中には、おもしろくないと云う人もいたみたい(それは、1発も当らなかった奴。誰とは言わないけれど)だった。午後は水泳、水泳と云っても水につかってた。と云う感じだ。僕は、体をやくつもりだったが、余りやけなかった。しかし、キャンプでのプロ以外は、食って寝るぐらいで、まったくひまだった。楽なキャンプや、食事の仕度も無かったし。・・・
2日目のプログラム、そう、キャンプに入って3日目は、何をしたか?・・・ 思い出したカヌー、アーチェリーをやった。午前がどちらで午後がどっちか忘れたが、たぶん、昼から洋弓?いやカヌーやったと思う。だから洋弓は午前中だ。このアーチェリーは、おもしろかった。とにかくおもしろかった。(こればっかし)。まず1回目でスパーンとまん中に当ったから。初めてだった。とても気持良かった。その後は、聞かないで下さい。カヌーは、余りおもしろくなかった。僕は、あの時、誰かがひっくり返った様な気もするが、余りおぼえていない。僕のせいではない。でも、ゴメンナサイ、許して下さい。
3日目のプログラム、つまりキャンプ、4日目はハイキング、つまらん、まったくつまらなかった。
そして次の日、キャンプ地を出発した。僕として、やはりライフルが一番、楽しかった。やっぱこのキャンプはしんどくなかったので・・・。
2隊 2班 BS K.T.
いやぁ、とうとうアッメリカキャンプの、感想を書く時がやって来ました。
いつもは多いと云っても二枚も無いのに、今回ばかりは、うれしいですねえ~(な、なんと四枚ですよ、四枚!)まあそれにも、めげずに河合君は、頑張りました。と前置は、これ位にして本題に入りたく思います。まあ、あこがれのアメリカに着き、ホームスティも終り、そろそろ慣れてきた頃の、キャンプ場でのお話しです。2日日、朝からハイクと思い、帽子も用意してしまって皆の話を、聞くと、なんと水泳でした。考えてしまった。でもしかたがないから、海水パンツをはき、バスタオルを持って集合場所へ行き、それからプールヘ行きました。
なんと、シャワーの水の冷たさ、思わず鳥肌が立ちました。そして、ガールの着替えを待ち、準備体操をしました。(誰とは申しません、体操をしているのか、ガールの方を見ているのかわからない人がいた。)まあ、そう云う事は、ほっといてプールの水は、温く、ありがたい事でした。本当プールでは、隊対抗でリレーを、したりしました。(ちなみに、うちの2隊の2班は、2着でした)でも、とても楽しく過せましたねぇ~。
3日日、これ又、予定とちがう、アーチェリーでした。ここでは一番に、チャレンヂをしましたが、前日のライフルとは、勝手がちがい、苦労しました。 なんといっても、ライフルは、撃った物を、拾いに行かなくってもいいのに、アーチェリーは、矢を、拾いに行かなければいけません。その上、僕は、下手で矢を、草むらに飛ばし、大変しんどい思いをした。しかし、良い運動になったでしょう(ハハハハハ、)でも、同じ年の人達は、余り上手な人がいなくて良かったです。
これくらいで、キャンプのお話は、終りたいと思います。この後の話しは、のちの機会にと思います。
サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ。
2隊 2班 BS I.H.
ホームスティによって、多少アメリカの生活にもなれてきた頃、キャンプがあった。長時間バスに揺られて着いた、キャンプ地は、かなり山の中に入った所だろうと思っていると、海から余り離れていない、との事だった。キャンプ場は、食堂から坂を下ると広場があり、そこから正面に人工の湖、左側に本部、そしてその奥に、僕らのサイトがあるのだが、サイトヘは、又坂を登らなければならない。又、キャンプ場の設備も、池でカヌーが出来、プール、ライフル場、アーチェリー場等もあって良かった。 キャンプでの一日は、時間的に、大変余裕があった。だから夕方の余った時間なんか、ボケーとしていたり、体を焼いていた。朝は朝礼のあと朝食、そして午前中のプロ。昼からは昼食のあとに、午後のプロがあって、しばらくして、夕礼、夕食と続く。午前、午後のプログラムは、それぞれの隊の班毎が合同で、ライフル、水泳、カヌー、アーチェリー、を2時間位づつするものである。中でもライフルが一番よかったと思う。
2日目の夕食のあとに、交流会というのがあった。これは、アメリカのボーイとの物々交換なのだが、そこに姿を表したのは、わずかに数名、思わず、な、何故だ!と思ったけれど、それも数分で終った。
3日目はキャンプファイヤーがあった。これは、けっこう盛り上って、楽しかった。 一八十どー
最終日の夕食は、Dinner Party があった。ステーキが食える、と云ううわさが流れていたので、楽しみにしていたのだが、見事に裏切られた。全体の食事にも云えると思うのだが、もっと良い物が、食えると思っていた。だが実際はたいした事はなかった。
しかし、キャンプ場の景色、特に、丘の上から見た、池はとてもきれいだった。
2隊 3班 BS T.K.
僕等は、MVBTから、キャンプ場に着いて、設営し、次の日の、プログラムに入りました。「午前はアーチェリーをする」と班長が言った。そして、集合場所に集つまって、アーチェリーレンヂに行き、初め、やり方の注意を聞いて、やってみました。一本も的にささらず、土の所へささってばっかりで、「なんや、おもろな」と思った。初めは「アーチェリーなんか簡単で、すぐ当るやろな」と思ったけど、その通りには行かなかった。
午後はカヌーだ。僕は、カヌーは一度も乗った事がないので、一度乗ってみたいなあと思っていた。ロウをもらいに行って、こぎ初めました。こぎ初めた時は、いっこも進まなかった。しかし、慣れてくると、少しずつ進んで行った。そして、他のカヌーの人と水のかけあいをした。僕のカヌーは水びたしになってしまった。そして、少し遊んでいると、他の人とカヌーとボートを替えた。ボートは、カヌーよりずっと力がいるし、なかなか進まない。そして、又、水をかけられるので逃げまくっていた。けれど、カヌーの方が速いので、すぐ追いかけられた。そしてロウを取られ逃げられた。追いかけ、追いかけやっと取り返した。水が、たまっているのでボートから下りた。カヌーに乗って思った事は、他のパドルと合わせてこがなければ進まない。僕は、ボートよりカヌーの方が好きだ。カヌーの方がこぎやすいので良い。
そして、3日目は水泳とライフルだった。ライフルは、まぁまぁ当っていた。4日日はハイキング、砂金が有ると言ってたのに、いっこもみつからなかった。このハイクはとっても楽しくて良かった。昼からは、フリーだったので、プールに行った。このキャンプは今迄で一番良かった。食事も作ってくれるし、暑くなかったと、自由時間が沢山あったので、いつも休んでられた。
又今度USAキャンプがあったら、もう一度、いって見たいなぁと思う。とても、良かった。
砂金を求めて?ハイキング
誰が言ったのか砂金のある所ヘハイクと勇んで出かけたスカウト。期待はずれでガッカリ
3隊 3班 GS S.R.
ホームスティで、アメリカの生活に慣れた頃、キャンプに入りました。
1日日は、何とか無事(?)に終り、早2日目、予定どうりなら午前からライフルだったのに、水泳に変更になってしまいました。入る前は「朝からプールなんて寒いなぁって皆で云ってたけど、水着になったら寒さなんか関係なく、わーわ一云いながらプールに入りました。(少し水が冷たかった。)水温にもなれて、ボールで遊んでたけど、又、寒くなってきたから上る事にしました。
次の日は、キャンプ最後のプロ「ハイキング」でした。行く前、誰かが、こんな事云っていた。“砂金が有る所に行く”だから私は(他の人も)「やったー」って云ってました。そして、ずっと歩いてて、皆、下の道へおりて行きました。下には川があったので、「砂金の場所かなぁ」なんて思っていたけど、結局、その場所は全然関係のない所だった。ガッカリ、又、ずっと歩いて行くと、今度は、ゴーストタウンがあって、そこを見学(かなぁ?)しました。
なにか不気味な所でした。そこでは少し休けいがあり皆、座っていました。そして、何分かして帰る事になりました。考えてみると砂金とりなんかはしませんでした。(くそぉ~)
帰りの道は、行きが楽だっただけに、めっちゃしんどかったのです。あせも出るし。(ただ歩いただけでした。これが、アメリカのハイキングですか!)それだけに、キャンプ場に戻って来た時はすごくうれしかったです。そこで、飲んだジュースの味、忘れられません。すごくおいしかった。
この、ハイクはしんどかったけど、最後迄、行けたし、足もきたえられて、良かったと思います。
1隊 1班 BS K.Y.
アメリカについて、8日日に、サンフランシスコでキャンプが、行なわれた。
はじめは、アメリカのキャンプは、たいへん不安だったが、キャンプ地の人々が、親切にしてくれたので、すぐに、慣れてきた。
アメリカのスカウトの人達は、たいへん、大人っぽく見えた。
キャンプを始めてから、1日目、楽しかったライフルが終ってから、水泳が行われた。アメリカのプールは、やっぱりアメリカらしく、深くて、飛び込み台もついていた。飛び込み台から飛び込むのは、はじめてだったけど、なんとか飛び込めた。2日目も、3日日も、プールがあったので、楽しかった。
3日日のゲームは、ハイキングだった。ぽくはあまり、ハイキングは、好きでは、なかったけど参加した。歩いているうちに、ゴーストタウンについた。はじめ、ゴーストタウンってどんな所だろうと考えていたが、見学していると家がつぶれているだけだったので、あまりおもしろくなかった。だが、帰り道に、リスや野鳥などの小動物を見たことが、ハイキングで、一番おもしろかったです。
はじめてのアメリカキャンプで、学んだことは日本のキャンプとひと味ちがったキャンプを楽しめたことです。このアメリカキャンプで、また1つ、大人になりました。
カヌー・アーチエリー・スイミング
カヌー訓練は人工池で行われ、キャンプ場のスタッフの少年(と言っても体は私達より大きい)から注意を聞き、ライフジャケットを着けカヌーは5艘ほどしかないのでポートにも分乗して、BSやGSも日本のキャンプではSSしかプログラムに組み込んでいないので、初めはおっかなびっくりで、おそるおそるパドルを操って他のカヌーの進路防害を起したりしていたが、慣れてくるとスピードを出して、水すましの様に水面をスイスイと漕ぎ廻っていた。
アーチェリーはベンと言うスタッフが二日間つきっきりで弓の持ち方、矢を離す時のタイミングを指導してくれ、スカウト達も的をねらって矢を射るが、的に当らず思わぬ方に飛んで行き、その矢を探すのに大騒ぎ……(射った矢は自分で見つけるまで探さなければならない)。
水泳は25ヤードのプールで各班が交代で利用し、飛び込をする者、プールサイドで寝ころび肌を焼く者、ボールの取っこをする等、一緒にキャンプした現地のガールスカウトや、カブスカウトのティミーと嬉々と戯れていた。
3隊 4班 GS D.M.
8月7日、午前中、カヌーがありました。私は団本部にあるカヌーとぽっかり思っていたので、やる前はすっごくいやでした。あんな細長い物で私が支えられるのだろうか。人一倍安定感のない私なのに・・・。でも、救いはありました。「ボートに乗りたい子」と言われ、心の中で手を上げたのは私が一番やったと思います。げんに私の顔は安心感で、微笑んでいました。(他にもおったけど・・・)そして、私と、出石さん、北村さん、エリカでボートに乗りました。私達が一番最初に出たんですが、これがまた、こぎにくい。それに、みんなのカヌーを見ていると、3人で乗っているし、ひちゃ進むのが速かった。日本のじゃありませんでした。カヌーに乗りたくなりました。それでカヌーに乗りかえたんですが、たいして変わりませんでした。私が足をひっぱっていて後ろ向きに座っていたり、11才のエリカにコーチしてもらったり・・・(なんせ初心者なもんで・・・)初心者にしてはめちゃくちゃ下手くそでした。
8月8日の午後は水泳でした。うれしかった。なんせアメリカヘ来て初めてだったもんで……。初めの方は浅い所でなんかわけのわからない事をしてました。北村さんは飛び込み台で、Girl一人ハッスルしてましたし、辻本さんと畑井さんは深い所へ落とし合いしてましたし、出石さんはエリカやジョイの子守をしてましたし、組長さんは黒人になろうとはりきってましたし、姿がなかった山原さんは気分が悪いのにもかかわらず、しっかり睡眠をとったそうです。私は負けじと、北村さんと共に、いっちゃん深い所で、天つき体操
をしてました。その後、みんな、バスケしてましたけど私は組長さんの元で黒人ヘチャレンジしましたが、だれかさんのおかげで、効果なしでした。
それから、他の班の人も来たので私はシャワーをすませ、見学隊になりました。特に○○さんの飛び込みにはまいりました。M先生の水泳教室、あれはためになりました。先生が見本を見せない所が、いかにも先生らしかった。今度の特別講座も、また、開いて下さい。今度は見本つきです。
3隊 3班 GS H.A.
午前のプログラムのアーチェリーが無事終わり、半袖半パンといういでたちで、他の辺に集まればさすがに真近で見ると人工他だけに汚い。こんな中に落ちるのだけは御免だなと、恐怖。そして、生まれて初めてカヌーなどという物に乗り込みました。
乗ってみると案外簡単なもので、転倒するような作りでもなかったので、ずいぷんと、あちらこちらに舟を進めました。私は先頭でオールを漕いでたんですが、舟の操作とは、思うよりむずかしくて、漕ぎ手がバラバラであったりしたことも災いしてか、目指す方向には進まず、ぶつかりそうになるのが解っていながら、避けられなかったり他の舟の進路妨害を、知らない内にしていたり、誰かが他に落としたビーチサンダルを取り合いしたり、小さな人工池で、いろいろと、遊んで楽しかった。唯一、水のかけ合いには参加しませんでした。それでなくても汚ない池の水ですから、かけられては一大事と、かけ合いをしている戦場とは対極の岸にカヌーを停めて、ゆったりと、日光浴に興じながら、その対戦を観ていました。
その後、交替して、ボートにも乗りましたが、やはりカヌーとは勝手が違い、漕ぎにくいでした。―つにはオールが、カヌーのものに較べて重く、水の抵抗が思ったより大きく、一漕するのにも骨がおれました。仲々進まないのもカヌー以上で、あまり広い範囲は回れなくて残念でした。それでボートは少ししか乗らず、岸で、脚を水に浸けながら、他のスカウトが漕いでいる風景を観ていました。汚い水なので迷ったけれど、いざ浸けてみると、やはり冷たくて気持ちの良いものでした。
みんなボートやカヌーから降りてくると、シャツなど、びしょびしょで、しきりに冷たい冷たいと云ってましたけれど、どの顔も笑顔―杯で、そのプログラムが楽しかったことを表わしていました。
普段のキャンプでは味わうことの出来ないプログラムに参加することができて、とてもうれしく思いました。とても楽しいプログラムでした。
2隊 4班 BS F.N.
ホームスティを終え、ホッとした気分で、MOUNTAIN VIEWをあとにし、一路キャンプ場へ向った。途中、行くまでは遊園地だと思っていたミステリースポットを見学したりして、そうこうしてるうちにキャンプ場に着いた。
キャンプ場に着き各班ごとにサイトに分けられた。我班のサイトは、朝礼、夕礼の集合場所にもまぁまぁ近い方だし、景色もなかなか良い所だしもう最高のサイトだった。(あの恐怖の池のうらにあったことを除けばの話であるが・・・。)そして我班はティミー(たぶん通称)という、10歳の少年とキャンプを共に過ごすことになった。人気物なのでスカウトの中では知らない人はいなかったと思う。
我班の最初のプログラムはカヌーだ。カヌーは我々がいつも乗っているものとちがって、カヌーというよりボートという感じのものだった。天気もよかったので快適に過ごせた。
その日の午後、2つめのプログラムのアーチェリーに出かけた。アーチェリー場では16歳の黒人の少年が指導してくれた。我ながら矢はよく飛んだと思うのだが的にはあたっていないようだった。
次の日のプログラムは待ちに待っていたライフルだった。22口径だったので射ったあとの衝撃はほとんどなかった。最初の3発を射った後、ターゲットを点検した時にターゲットがまだ、まっさらだったという人もいた。行く前からライフルにはかなり期待が大きかったのだがなんかカスみたいな気がした。
その日の午後のプログラムは水泳だった。人命救助の訓練をしたり、班対抗でリレーをしたりして楽しい時を過ごした。他にも、ハイキングやキャンプ・ファイヤーそして向こうのスカウトとの交換会なども忘れられない思い出として残るだろう。
また機会があればもう一変アメリカヘ行ってみたいと思う。
PS.ヨセミテではみんなに迷惑をかけて、どうもすみませんでした。
1隊 3班 BS S.T.
キャンプ地に来て、その次の日。ぼくたちの班はアーチェリーとカヌーだった。午前中は、アーチェリーで、朝食をとってから集合した。アーチェリーをする所までは、そない遠くなかった。アーチェリーレンジについてから、いろいろな説明があった。ぼくは、3・4組目ぐらいだった。それまでは、写真をとったり、人のうっているのを見たりしていた。ちょっとして、ぼくの番になった。ぼくは、生まれて初めてアーチェリーとやらをするので、心臓がドキドキすると思ったが、ぜんぜんしなかった。そして、アッというまに、4本が打ち終わった。1つもまとにあたってなかった。2度目、さっきは遠い方をやったから、次は、近い方をしようと思って、近い方をした。これも、すぐに、4本打ち終わってしまった。 1本くらいは、まとにあたったような気がする。もっともっとアーチェリーをしたかったけど、時間がきたから、しゃーないからやめた。
午後からは、カヌーをした。最初、ぼくは、森と伊野と山本さんの4人で組んで、ボートに乗った。池は、あんまり大きくないので、ちょっとおもしろくなかったけど、なんしかボートに乗れたからよかった。ぼくらは、いつも、どっかのボートとか、カヌーに、ちょっかいを出していた。ぽくたちが、1番多くちょっかいを出した所は、たぶん中野さんのカヌーだったと思う。ちょっかいといっても、ただボートで、体当たりをしたり、水をかけたりするだけだった。
1時間半ほどしてから、山本さんと伊野は、中野さんのカヌーに乗って、ぽくのボートは、森、加藤、田口の4人になった。山本さんたちのカヌーは、まるで、海賊みたいで、つかまえたボートから、オールを1本とっていた。ぼくたちは、池の中をいろいろと、にげまわった。それから、もうすぐ終わりという所で、ぼくと伊野の2人で、カヌーに乗って、ちょっとだけまん中の方にいって、すぐ帰ってきた。それから、カヌーを、最初おいていた所に、おきにいった。そして、カヌーはおわった。
2隊 1班 BS I.N.
キャンプ場に着いて、僕は、キャンプ地がこんなに広いと云う事に驚きました。そこは、日中は暑く、夜になると、かなり冷え込んで、少し寒く感じました。次の日、ライフル、水泳がありました。日中は暑いので、早く水泳が出来て、気持よく泳げて、良い1日を過しました。次の日、カヌー、アーチェリーをやりました。僕は、アーチェリー場は、どんな所で、どんな設備があるだろうかと思いながら、アーチェリー場へ向いました。
しかし、着いてみると、期待を裏ぎり、的が4つ有るだけでした。そして、担当のベン君の説明を聞き、これなら簡単に出来ると思いました。そして、僕の番が来て、1番遠い的に当ててやると、意気込んで、弓を持ちました。しかし、弓に矢をセットして放とうとした瞬間、弓を押さえていた手が外れ、下にポトンと矢が落ちてしまった。今度は落ちない様に、注意しながらセットし、3番目の遠い的をねらって矢を放ちました。しかし、矢はねらった所と全々、違う場所に飛んで行きました。「くそ!」と思い、もう一度、矢を放ちました。今度は、弓を引く力が弱く、的の下に飛んで行きました。今度は思いきって弓を引き、矢を放ちました。すると的を越えてしまいました。もう一度矢を放ち、前と同じ結果になりました。それから自分の打った矢を拾いに行き、2本はすぐ見つかったが、あと2本は、林の中の木にささっていました。やっとの事で4本、集め終りました。僕はもう一度、やりたくてうずうずしていました。が、チャンスが廻ってきて、気合入れ、矢を放ちました。結果は同じく、的に当りませんでした。その後、時間が余り、2回程やったが1つも的に当りませんでした。次の日は、ハイクをして、キャンプを終りました。
僕は、このUSAキャンプで、色々日本では出来ない事を体験できて、嬉しく思っています。
今後も、色々計画を立てて楽しませて下さい。
3隊 1班 GS U.A.
8月8日の午前中、私達は、アーチェリー。初めてやった。ベンと云うここのスタッフの人が、教えてくれた。広場から少し歩いた所にあって、距離が、みんな違う的が4つあった。1人4本ずつの矢をもらって射った。一番近い、左端の的の一番外に1本ささって、1本はわらの所にささって、2本おちた。皆が4本射った後に取り行った。
1本足りなかったので、うろうろしていたら、私の横で、射っていたベンに何か言われたけど、さっぱり意味がわからず、手ぶりだけを見てたら「どこらへんに飛んでいったか!」を聞いているようだったので、手振りで伝えたら、わかったらしく、一緒に探してくれた。結局、土にうもれていた。低かったから地面にななめにうち込んだのだろう。人のを見ていたら、ずいぶん遠くへ飛んでいたから、簡単そうに見えたのに、ねらいをつけるのが、むつかしかったし、力がないからか、やり方が下手なのか、わからないけれど、余り飛ばなかった。しかし、あまり良い所にささらなかったけれど、おもしろかった。又いつの日かやれたら、ガンバロウ!
8月7日、午後より、水泳だった。でも5日に、ケガをしてしまったので、タンパンをはいて、足だけ水の中に入れていた。「ビニールをまいて入ったら良かったのに」と云ってくれた友達がいた。けれど、それは夕食の時だったの、もっと早く云ってくれれば・・・。
8月9日、の午後、自由の時間にシャワーを浴びに行ったけど、私は、出来ないので、足だけを洗ってもらって、プールに入っている子としゃべってた。どの位深いか知らないけれど、友達を上から押したら、しばらく上がってこなかったから深かったと思う。そんなに泳げないけどプール好きやし入りたかった。でも、私の不注意でケガをしたんだから、しかた無いとあきらめた。
団委員さんや、リーダーや、みんなに、御迷惑を、おかけしましてどうもすみませんでした。
ライフル
キャンプのプログラム中のメーンであるライフル射撃。
日本では絶対に出来ないプログラム、こう言う気持がスカウトにあって非常に楽しみにしていた様だが、実際に銃を持ち弾を込め、照準を合わせターゲットをねらうのだが、銃の重さに手はフラフラと動き的に当らず、的はずれと言うそれでもスカウトは一生懸命だった。
1隊 4班 BS H.H.
私は、このアメリカキャンプでたいへん多くのことを学びました。
一番いんしょうにのこったのが、そう日本ではできないライフルです。はじめは当たるかどうかしんぱいでしたが、やってみると、あんがいかんたんなもので、当たるは当たる。しかしそこで、私は、1つの大きなわなにぶち当たったのです。
それは、かけをしたのです。それは、ばんめしのジュースぬき。はじめ私は、よゆうでした。そしてライフルを、かまえてまとを見ると、まとが風にふかれて折れていたのです。
けっかは、むざん。とうぜん私が1番べったこ勝負はきびしいもの。その夜のディナーは、ジュースぬき。たいへんくるしいの一言。でも私は、ボーイスカウト。死してのちもスカウトだ。と心の中でさけびながら、ディナーを、すませたのです。
次に心にのこったのが、アーチェリーです。はっきり言ってあれは、ぜんぜん当たりませんでした。横を見れば、わが班のT君が、一生懸命に、弓と矢で何やらしているし、横にいてたいへんこわかったのは、たいへんいんしょうにのこっています。
次にのこっているのが、日本では、できない野宿を、私はやりとげたのであります。日本では、ごぞんじのとおり、しっけが多くて外でねると、ぼたぼたになるのは、目に見えています。Butアメリカでは、かんそうしきっているために、外でねてもだいじょうぶなわけです。私は、夜な夜な、あーこれが、ボーイスカウトだなぁと思う、しだいであります。
でもなんやかんやと言ってもとてもたのしく、又、勉強になったキャンプです。ホームスティにはじまり、キャンプ、ヨセミテでのバンガローの生活、そして、ロスアンゼルス郊外のホテルでの一泊。そして、キャンプのメインヒルトンホテルでの二泊。それとべつに、グレートアメリカ見学マリンワールド見学、マジックマウンテン見学、そしてディズニーランド見学。そして、親に、弥栄。
2隊 1班 T.M.
ホームスティが、すみいよいよ、キャンプだ。キャンプ地につき、サイトわりで、ぽくたちのサイトがきまり、サイトに行った。
行ってみたら、びっくり。すごく大きな、サイトで、あった。テントをたてたら、すぐにねてしまった。次の日からキャンプ中のプログラムに、入った。運よいと言うのか悪いと言うか、初めからライフルだった。初めて、ライフルをうった。
ライフルをうっている所は、見たことがあるけど、自分でうつとは、ゆめにも思わなかった。まっていたら、あっと言う間に、ぼくの番がきた。1度もってみた。かなり重く片手だけでは、もてなかった。たまのこめかたや、安全そうちなどのことをきいた。うつ時、すごくきんちょうしてしまった。バーンといったしゅん間、「うってしまった。でもすごく簡単だなあ」と思った。でも、このことは、アメリカぐらいしか出来ないと思った。すごく感動だった。昼からは、プールに入ろうと思ってたら、なんとそのプールは3mもあると聞きました。まぁプールは、すぐにおわったようです。
次の日午前中は、カヌーで、ぼくはボートに乗ったけど、いがいにも、すすまなかった。こんなにボートがむずかしいとはしらなかった。午後はアーチェリーで、まとに、なかなかあたらなかって、はらがたった。その後、またプールに入った。前に入った時よりも楽しかった。
次の日はハイク。あんまり遠い所に、行けへんと思ってたら大まちがい。初めはらくやなぁと、思ってたら、みんなしんどそうにしていた。でも、そのハイクの中で、いんしょうが強いやつがあって、思い出しただけでも、気持ちが悪い。それは、黄色くて、10センチぐらいのもので、とてもきしょくわるかった。
後からきいてみたら、それはナメクジだった。しかし、キャンプ中とても楽しかった。
3隊 2班 GS U.K.
18日いうナガイようで、とってもミジカカッタアメリカキャンプ”も無事、終わって……。只今、おみやげ話で、もちきりです。やはり、HOME STAYのことは、その中でも一番に登場しますが、これに続いてでてくるのは、キャンプ場での色々なプログラム中の話です。初めてのったカヌー、No2の水もれカヌーでした。そして、すっかりその気になってやったアーチェリー、かっこだけは”さま”になってたと思うんですが。あと、プールやハイキングなど・・・。でもきわめつけは、やはりライフルでしょう。はじめすごくこわかったんです。ライフルも、こわかったんですが、あの場所のふん囲気が、もうたまらなくこわかったことを覚えています。私たちのサイトからすこし入りこんだ所にあるライフル場。とても静かな所でした。アメリカのボーイスカウトの方などに、いろいろおしえていただいて、こわかったライフル場もしだいになれ、しだいに反対におもしろくて、そんな緊張した、ふん囲気がとても気に入ってしまったのです。いよいよ、私のうつ番がきて、はじめの3発は、自分でも“はじめてにしてはうまいうまい”と、思うような感じだったんですが・・・。問題は次の10発でした。10発中、10発紙に当ったことは、アタッタのですが、すこしずれているんですよ。“でも、こんなもんでしょう”と、あきらめがつくぐらい。それから、一巡して、私もすこしおちついて、それでやめとけばいいものを、私はもう一度やってみたんです。今度は、もう少し、なんとかなるだろうと思いつつ、5発うたせてもらった。結果はぜんぜん。紙には、アタッテルけどと、いう感じでした。やはり、少しあまかったようでした。でも、すごく楽しかったです。日本では、味わえないようなことなのです。
18日間、まるで、ドリームランドにいたようです。日本に帰ってきて、はじめて思ったこと、“現実に戻ってきたんだなぁー!”このことばに表わされている深い意味をわかるのは、ドリームランドにいたことのある人だけなんです。
1隊 2班 BS M.K.
僕の班は、午後からが、ライフルだったんです。まぁ、当然のごとく、昼食の後は、少し時間があるので、テントの中で、ぼけっとしてたんですけど、それが、いつの間にか深い眠りについてしまったんです。そして、班員の徳野君が起こしに来てくれたのです。まぁぼちぼちと思いつき、テントを出たら、サイトには人影はなく、どうなったのか訳がわからなかったので(寝ぼけて何が、何だかわかれへんかったからやでぇ)徳野君、にどうなっているのか聞いてみた「もう、皆は行ったので早く来て下さい。」と彼は、答えました。それを聞き、走ってライフルレンジに行きました。着くと同時にしっかり、おこられてしまった。適当に皆にもあやまって、自分の順番を待っていました。
やっと、回ってきて、説明を聞き、いざ射つ時、初め5発、弾をもらったのです。又その弾が小さい、ほんまに、シャーペンのキャップみたいなやつ、まあ、銃の方は、けっこうじゃなく、ちょっと重くて、こんなもんかなぁと思いました。そして、何だかんだと思いつつ、期待の一発日。「バンッ」終り。かすかに、リフトに反動が肩に伝ってきた。「わおっ」そして、2発目発射、「バンッ」とそんなふうに射って行き、5発射ったのちに、10発又、弾をもらって、これからが本番、それも射ちつくして、的を見に行ったら、成績はあまり良くなかった。新しい的を、つけて帰って来て、自分の射った弾の薬莢ひろいをして終り、退場宣言されました。それから、全員が射ち終った時、もう1回、射ちたい人はいますかと聞かれた時、思わず射ちたいと思った。又射ちたいと思っていた奴が多くて、ジャンケンできめる事になった。ラッキー俺は勝ってしまった。又5発もらって「パシッ」と云う感じで射ちつくした。(結局、皆も5発づつ射ったけど)そして、砂ぼこりに、まみれながら、我サイトヘと帰りました。
3隊 4班 GS H.A.
キャンプ中、カヌー、アーチェリー、ライフルと水泳、この中で一番おもしろかったのが、アチェリーとライフルだったでしょう。私は、わりと殺人兵器が好きなのです。
まァここでは、アーチェリーのことはさておきライフルについて、語っていきます。が、私は、最初、ピストルが撃てると聞いて、“わっ!マグナム44”と思ったのですが、まァ、私には撃てないとは知っていても、“触るぐらいわ”と思いわくわくしていたのでしたが、ライフルだったようで、多少がっくりはしていましたが、ライフルも結構おもしろかったでした。
最初は、むずかしいのかな?と思いつつ、説明を聞いていました。説明が終るともちろん撃だしてくれるのですが、なんせ、スカウトが多いもんでなかなか自分の番にならない。これにはまいってしまいましたが、なんとか自分の番になりました。最初、緑色のカーペットの上に、寝ころばされました。そして実弾を込め、安全装置を外すまで、そこまでは私も、ちゃんと出来たのですが、狙いを定めて、撃つー。というのがちゃんと出来なかった。これは言い訳がましいですが、私はちゃんと説明を聞いていました。でもただ単に、右眼と左眼を開けるのを間違ってただけなのです。
これだけというのは、おかしいと思われる方もおられるかもしれませんが、間違いなんて誰でもあることです。私の場合、それがこうゆう形で出ただけで、やっぱり私にとっては、“だけなのです”まァこんなことは、どうでもよいのですが、右眼の視線は、照準器を通り抜け、ターゲットヘ注ぎ込まれました。あとは引き金を引くだけ、そして撃つ。そして弾はターゲットのド真中へ。行けばいいのですが、これがなかなか当たらない。少し上に外れたり、真中を避けて左右に行ったり、最悪のスコア。
今度、この夏休みが終ればこの悪弾痕のことは視力と、ライフルの重さのせいにして、友に土産として、ライフルの話と、ライフルの場所で沢山もらった薬莢を配り歩くつもりです。
YOSEMITE National Park
カリフォルニア東部の州境を南北に走るシェラ・ネバダ山脈の大自然を永久に保護し続けるために指定された国立公園です。この公園では、標高4、000メートル近い高山帯の自然、巨大なセコイアの大森林、世に比類なき峡谷と言われるヨセミテ峡谷の3つの、アメリカが世界に跨る自然が有名です。設立以来、数千万人もの人々が、心身を休め、人生の意義を感じ、明日の活力を養った。
ョセミテ峡谷
公園の中心地、ヨセミテ谷は氷河の浸食作用でできた、おそらく世界で最も良く知られた誠に美しい峡谷です。数百メートルを落下する豪快な数々の滝、高くそびえる岩壁、円頂の丘、巨大な石塊、マーセード川の豊かな流れ、見事な森林、毎年何百万人もの人々を引きつける峡谷は他に例を見ないでしょう。
氷河時代の昔、マーセード川が流れている山の間を山岳氷河が移動していました。氷河は軟質の花崗岩を削り、谷を広げ、U字峡谷を作りあげましたが、硬質の花崗岩でできているエル・カピタンやカテドラル・ロックスの岩峰は、表面をつるつるに研がかれたものの、侵食されずに残ったものです。
グレイシア・ポイント Glacier Point(氷河地点展望台)
グレイシア・ポイントは、一大展望台です。切り立った崖の上の展望台に立つと、足元から真下1000mを直接見おろすという恐怖の体験をすることができるし、落差739mのヨセミテ滝の全容を、シェラの山々を心ゆくまで堪能できた。
巨大木セコイアの森林
マリポサ森林の中にあるグリズリー・ジャイアントと名付けられた巨木は、樹令2700年と推定されています。この木が地上に芽を出した時、日本はまだ縄文時代であったことを思うと、その根元に立つ時、あたり一面に自然の神秘さが漂っているのを感じました。(根元の円周は、スカウト48名が手をつないだ大きさでした。)
8月10日夕刻、約8時間のバスの旅を終えて、(途中、昼食・トイレ各1回の休憩のみ)ヨセミテ谷のカリー・ビレッジに到着、スカウトは疲れもみせずに元気に、ヨセミテの自然を楽しんだ。
3隊 4班 GS Y.R.
CAMP! やっぱ、毎年のごとく、ちょっぴ り、ゆううつでした。テントをたてた迄は、良かったのですが、地面に敷く物は無いし、懐中電灯もないと云うありさまだったのです。プログラムは、毎年に比べれば、ずっとずっと楽でしたね。
夜、テントに戻れば、本当、真っ暗闇、もう大変でした。所で、5日間のプロは、とっても楽しかったです。でも、風邪をひいていた私にとって、暑い、暑い空の下で、カヌーやプールと水のふれ事の出来るものに、1つも参加できなかったのはとても、残念でした。1番楽しかったものは、やはり、日本では絶体にできないライフルをした事です。やる寸前迄は、すごく抵抗がありましたがなかなかのものでした。最後の夜はアメリカのガールについてのお話しも、聞きました。こうして楽しかった、CAMPも無事に終えて、ヨセミテヘ向けて出発しました。
ヨセミテ公園と聞いていた私は、遊園地ぐらいの大きさだろうと思っていたのに。予想していたより、ずっとずっと大きかったのには、驚きました。自分の寝る所に着いた時、ベッドと引出しだけがあったのには、あっけにとられましたのです。でも、CAMPに比べれば………朝、日を覚まし、窓から外を見ると、ロッヂの下から、リスが数匹顔をのぞかせていました。そして、人が通らないのを知ると、道に出て来て、体を起し、片手を少し上げ、何かをよんでいる様なしぐさをしたのを見た時、すっごく感激しました。ヨセミテの第1日日の午前中は、FREEでしたが、結局、洗濯だけでつぶれてしまいました。午後は、ひたすら“てく、てく”山道を歩き、たどりついたのは、めちゃめちゃに太くって背の高い木が1本、でんとかまえているだけでした。私には、全然、わけがわかりませんでした。
CAMPからヨセミテ迄の、ほんのちょっとの間で、私は、アメリカのSCALEの大きいことを知りました。とても楽しく過せたけれど、あらいぐまを見れなかったのは、残念です。
2隊 4班 BS I.A.
暖かく受け入れて頂いた、Joseさんの、家族と別れて5日聞か過ぎた。夕刻も間近になってバスは、YOSEMITEに到着した。
ヨセミテに来る前のキャンプ場で、テント外でのキャンプを楽しんだ。乾いた土の上に1枚のシートを広げて、そのまま眠ってしまうのが好きになった。湿気の少ないよく晴れ上がった星の夜には、外で眠るのが、最高の気分! 「ぜせ、ヨセミテでも、夜空を見ながら・・・。」と思っていたが、ここでは、ベッドやランプも付属した、立派な、ロッジが、用意されていた。
2日目の朝、少し早くベッドから出ると、K君と2人で、朝食を済ませた後、レンタル自転車を半日貸り出しサイクリングに出かける。乗馬や、バスツアー……etc意見があったが、やはり、自由に走り廻れるサイクリングに決定。冷たい空気の中を30分も走ると、本当に美しく、静かな、ミラー・レイクに着くことが出来た。どこまでも、森の中を走る道、その両側にそびえ立つ樹々、大きな空…。他のキャンプ場にも、足を延ばした。そこには、家族づれが、ワゴンやモーターホームなど、色々な単に乗って、やって来る。みんな、心から旅を楽しんでいる様で、気軽に「Hi!!」と声が掛けられる。このヨセミテは、アウトドアライフのための、テーブルや水道はもちろん、シャワーまで用意されていて、何とも羨ましい。休日さえあれば、幾日でも生活できる。ところがホストファミリーの人の話によると、アメリカのキャンプ場では、滞在日数の規定が、必ず有る。
と、いうことだった。・・・…納得。世界でも、有数の岩壁「ハーフ・ドーム」を背後に備えて、ゴミひとつ無い、ヨセミテ国立公園。この風景、マナーの良さ。しかし、日本のキャンプ場は、あふれる人間とゴミの山……。実際にアメリカを旅して、学ぷ所が多くあり又、楽しい想い出も多い。本当に良い体験となった。団本部の人々や両親に感謝しています。いつか、再ぴアメリカヘ……。
Discovery America!
1隊 1班 BS Y.K.
8月11日の朝6時30分頃に目が覚めた時、一番に感じたことは、寒い!の一言しかなかった。それからまもなく、あつしがやって来て、私を起こしに来てくれたらしかった。すぐあとに、おさむも来たから、「朝食でも食べにいこか。」と言って食堂へ行ってみたものの店が7時にはじまったばかりなのに10分~15分ほどならんだ。
朝ごはんを食べた後、フリスビーをしてしばらく遊んでいたけれど、あきてきたので、「ギフトショップヘ行こう」と、2人を誘った。そこで、おみやげを買ったけれど、あまりいいのがなくて少ししか買わなかった。その後で、トランプをしていたら突然、K君とH君が現れて一緒に乗馬しにいけへんか、と、言うのです。理由は、一度、乗馬場へいったけれど、うけつけで英語でしゃべられて、わからないから、あつしとおさむに通訳してほしいとゆうわけでした。結局、いこうか。と、いうことになって、乗馬場へ向かって歩き始めました。その時、もうひとりH君が来て、計6人で行くことになった。
歩いているとバス停があったので、バスに乗るか。と、いっていたけれど、バスがなかなかきそうにないので、歩いて行くことにしました。
やっと着いた乗馬場で聞いたのは、馬に乗って自分で馬を動かして、ヨセミテをまわるということでした。さっそくパスポートやトレーナーなどをコインロッカーにほりこんで50セントを入れて、鍵をぬきました。そして、うけつけの順番をまっていて、ついに順番がまわってきた。みんなが、わくわくして、あつしの通訳してくれたのを聞くと、「ここは、予約制で、次は午後の2時まで、あいていないって」と言うんだ。その時は午前10時で午前中が自由行動なのに、2時だったらそくおわり。しかし、みんな馬に乗りたかったので、ひっしで、うけつけの人に頓んだ。が、きっぱりことわられてしまいました。その時はもう11時でした。ちなみに、あつしとおさむは、こちらから招待し、キャンプからロスの空港まで一緒でした。
2隊 1班 BS W.T.
8月10日、ヨセミテ公園にむかってバスは走っていると、途中、強大な岩がゴロゴロ転がっていた。つくと自分たちのテントに行った。そして、13ドルもらって、後は自分たちで夕食を食べに行かなくてはならなかった。しかしハンバーガー屋では、もうなにも売ってくれなかった。しかたなくおみやげ屋みたいなところでパンとジュースを買って食べていた。次の朝、今度は「20ドルで今日一日食べろ」と班長が言われた。朝食は近くのレストランで食べることにした。もう、フォークとナイフはばっちりつかいこなせるようになったので食べるのには不自由しなかった。その後、僕たちは、サイクリングに出ることにした。初め間いた話では、1.5ドルだったのが2ドルに上がっていた。途中昼食を食べていると、もう1時間がたっていたので、僕たちは急いで帰ったのだが、時間Overだった。「くそ~」しかたなく、80セントずつはらった。1時になったので、カメラかた手に集合場所にむかった。
バスに乗り2時間たらずでジャンボセコイアがあるという場所についた。おりだところにも、どでかい木が見えるがまだ大きい木があるという。ハイキングコースみたいな道を登っていった。途中、カミナリでやけたセコイヤの木が、まわりに立っていた。しばらく登ると「つっつっつっついに見たジャンボセコイア」カメラをのぞきこんでびっくり、レンズに入らない。後ろにさがっていってもまだ入らない。しかたなく「カシャ」とわした。バスに帰って出発、途中グレーシアポイントによった。バスをおりると目の前に大きな滝が現われた。そこで記念撮影、そして帰ってすぐ夕食、そのあとおみやげを見ていた。絵ハガキをかうためレジヘ行った。値段はたしかに3.8ドル、僕は4ドル出すと、おつりに5.2ドル返えってきた。思わず「日本人よりアホ!」と思った。テントに帰って、ダッフルバッグを整とんした。
1隊 3班 BS K.H.
ヨセミテ公園の入口を通ってぼくたちの泊まる所までだいぶ時間がかかった。バスを降りてやっと着いたと恩ったら荷物を持ってテントまでもっていった。テントの中にはペットが並んであった。そしてテントに入ってまっさきに前のキャンプで干してあった洗濯物をテントの中に干したらロープがたりなかったけどなんとかいけた。夜ごはんは食堂みたいな所で食べた。7ドルぐらいかかった。それからおみやげを買いにいってテントの中や外で遊んだ。次の日サイクリングに行った。とちゅうで昼食を食べた。それは、とてもおいしかった。それから観光があるので用意して行った。
山の頂上からは、ヨセミテの山々、滝などとてもすごかった。山のがけからは25mのプールが約1cmに見えてぞお~とした。そのほか、どこかわすれたけど、世界で一番高い木のある場所へいって写真をうつしだけど50mぐらいはなれてうつしてもその木の3分の2ぐらいしか、うつせなかった。そのほか、何かでたおれた木が直径約2mぐらいで根子が3.5mぐらいでよこにたおれていた。とてもよかった。かえってから夜食を食べて、おみやげを買って、夜をすごしました。
ぼくにとってアメリカキャンプはとてもよい思い出となった。
1隊 2班 BS H.F.
ぼく達はこのアメリカキャンプヘ行って一番心にのこったことは、ヨセミテ国立公園です。
自由行動はついた日と次の日でした。でもあそべるのは、たった半日でした。ぼくたちのねた所はロッヂでロッヂの周りには、リスやスカンクやねずみたちが、いっぱいいました。本当は馬に乗ったり、サイクリングをして、楽しくすごすのですが、シャワーをあびたり、さんぼをしてくらしました。
午後からバスにのって岩の上へ行きました。岩の上には、とても大きなジャイアントセコイアが、ゴロゴロしていました。ジャイアントセコイアのある所は、ふつうで行ってもなかなか行ける所じゃあないとあとで聞いておどろきました。バスで下っていくと野生のしかがいました。まだ雪がすこしのこっていました。
と中きゅうけいがありました。バスをおりて、あたりを見わたすと、とてもいいけしきでした。右手を見ると、とても大きな滝、左手を見ればきりたった岩、まわりは緑、山あり、谷あり、それはもうすごいけしきでした。それからずっと下って行きキャンプ場についたぼく達は、もうとてもつかれていました。キャンプ場にかえると、すぐに夕食にしました。夕食は、少しとおいレストランヘバスでいきました。そこのレストランで、よやくをしたことは、したんですが、時間の方が気になってこのままかえろうかなと思ったが、ヨセミテ最後の夜だから、ごうかにしようと思って10ドルステーキを食べてしまいました。りょう理が出てくると大急ぎでほうばりながら、がつがつと食べました。かえりに少しおくれて班長におこられました。
ぽくにとって、たのしいヨセミテでした。
3隊 3班 GS T.T.
昭和58年7月30日に大阪国際空港から、ノースウエスト航空16便に乗って、日本を出発。はじめて飛行機に乗ったので、心臓はドキドキ、「こんなにたくさんの人が、大きな鉄のかたまりに乗っておちへんかなぁー」と考えていたのですが、思ってたよりすー。と飛んだので「なぁーんだ、飛行機なんて楽なもん。すわってたら、勝手に飛ぷんだもーん。!」とつよがりを言ってた私でした。
8月1日から始まったホームスティも終わり、いよいよ、8月10日から、ヨセミテでのキャンプが始まりました。ヨセミテに着いたその日の晩ごはんは、1人13ドル(たぷん・・・はっきり覚えてません)もらって、班ごとに食べることになっていたので、私達の班は、長い長い間、順番まちをして、やっとレストランのテーブルについて、食べ始めたわけですが・・・私はスパゲティをたのみました。すごくおいしそうだったのでつるりといきおいよく食べますと・・・なんともいえないまずさ。!
まずかったので、オレンジジュ-スをいっきに飲みほすと・・・これもまずい。!(しかし、私の前にすわっていた男の子はおいしそうに食べていました。)その夜、チョコレートでおなかをふくらませました。
8月11日(木)この日は、朝から自由行動になっていたので、私達は、青い大きなビニール袋を下げてちょっとヨセミテ観光に・・・は行かないで、洗たく屋のおばさんになりました。
ここで少しだけアメリカのコインランドリーの説明をしたいと思います。洗たく機は、とても大きく、Bigです。お金は、25セントを4枚、あながあいている所にたてて、手前のレバーをむこうにたおせぱ、水が入って、ガーをいってまわるわけです。
私達は、ヨセミテでの自由行動の時間に、「アメリカでの主婦の仕事その①洗たく」と、いう事と「アメリカのコインランドリーの使い方」という事、2つを体験しました。
1隊 4班 BS N.A.
皆さんごきげんよう。ぽくは、7月30~8月16日までアメリカに行ってたうち、8月10日~8月12日までの間ヨセミテであったことを皆さんに話そう。まずは、ついた日の事であった。
かくじ皆、配分されたロッジに入り、僕らはベッドに寝た。そのロッジにはなんと電気もあった。
それから自由行動が始まった。まずは、その日の晩のエサを食いに行くことにした。・・・が停電のためにハンバーガ一屋はしまっており、レストランは、こんでいたので、そうかんたんにはエサにありつけなかった。が、なんとかすました。そして、その日の夜は、深夜2時まで起きるつもりだったが、気がついたら朝だった。いつの間にか寝てたんですよ。そしてこの日(2日日)の午前中は、自由行動で何をしたかと申しますと、まず、チャリンコをかりたが、どこへも行かずかえしてしまった。ああ、金がもったいなかった。そして、その後はその辺で写真をとっている者の中に入って、ひまをつぶしていた。が、皆リスをとって、ぽくなんか無視していた。なかには女の人の?(教えないもんねえ~)をとってる者もいた。午後からは、バスにゆられて、がけの上まで行った。そこにはジャイアントセコイアがあった。めちゃんこでかかった。そして、がけの上から下が見える所まで行った。そこから飛び下りると5秒で下まで行けるが永遠の眠についてしまう。
そしてバスにゆられながら下まで下りて行った。それから、その夜売店で友達の土産を買った。1人1ドル30セントは高かった。そしてその夜はすぐに寝た。そして次の日の朝3日目の出来事だった。夜中に何かあったのか、ぽくのまゆ毛がマジックによられてつながれていた。同じくH君も何か書かれていた。その日の朝は二人同時に目がさめた。二人頭を見合わせて、「おまえ何じゃその頭、あほちゃうか」と言い合った。どっちがあほだかしれなかった。その日の朝9時に、ヨセミテを出発し、ロスヘと向かった。アメリカの旅は、まだつづくのであった。これが、ぽくのヨセミテであった事だ。ムフフフ!
では皆さん、さようなら。
2隊 3班 BS I.K.
アメリカキャンプはまだまだこないと思っていたのに、とうとう出発の日がきた。
ホームスティ、キャンプ、とプログラムを消化し、ヨセミテヘ午後、到着した。すぐにサイト割りがあり、4人1部屋になった。荷物を持ってサイトに行くと、中にベッドが4つ、それにタンス1つ、あった。夕食を食べるのに、レストランかハンバーガー屋かいろいろ店があり、結局ヨセミテを出発するまでそのレストランで、朝と昼と夕とづっとそのレストランで食べた。レストランヘ入るとすごい混雑だった。その中にいる人達は、よく見ると日本人が半分ぐらいいた。 その日の夜は、ヨセミテにいる間、まわりが普通の人達なのであまりうるさくできないのが、残念だった。
ヨセミテに着いて二日目、今日は午前中がフリータイム、午後からはヨセミテ公園内の見学がある日なので楽しみだ。
午前中は、ぽくと友達4人でバスに乗り、ヨセミテのキャンプ場内を周った。初めにバスがきていたのでそのバスに乗ると、10分もたたない内にまた同じ場所にもどってきた。あれーと思ってそのバスに乗ったままでいると、今度はちがう方向を一周してくれた。初めにおりだ停留所は、マーケットの前だった。その中へ入ると、ごく普通のスーパーでそのとなりにはおみやげ屋があった。まだ昼には時間があったけど、早めに昼食をすませた。その昼食を食べた店はハンバーガ一屋で食べていると、リスがたくさんエサをもらいにくる。それからまたバスに乗り今度は、滝に近づいた。すごく大きい滝なので、そばに近寄ると、雨のように水しぶきがふってきた。
午後になりヨセミテの山にバスで登った。山頂について下を見下ろすと、ぽく達がとまっているサイトが真下に見えた。夕食をいつもの店へ食べに行った。
8月12日(金)、午前9時にロサンゼルスに向けて出発した。
2隊 2班 BS U.T.
日本を出発して早くも10日がたって、だいぶんアメリカになれてきたころにヨセミテに来ました。ヨセミテ国立公園に入ったら道路の両側は大きな石でいっぱいで、いまにも崩れてきそうな感
じでした。奥に行くとキャビンが並んでおり、思っていたよりも多くの人々が休みを楽しんでいました。バスを降りて辺りを見ると断崖絶壁で囲まれていました。日本と違うなと思いました。崖の間から水がすごい勢いで流れ落ちていました。「すごい」の一言です。キャビンは、僕、岩崎、田村、弟の4人でした。弟といっしょっていうのはちょっといやでした。
一日目は夕食を食べて夜遊んでいました。11時頃になると、外人が「シャラップ」を連発していました。そんなにうるさいと思わなかったのに、神経質だなと思った。それに朝7時ごろに起きてしゃべってたらまたシャラップ。夜早く寝ているのに朝もっと早く起ればいいのになと思った。
二日目は午前中自由だった。まずシャワーを浴びました。朝のシャワーはとても気持ちよかったです。それから、みんなはサイクリングに行ったりしてたけど、僕らは、キャビンでトランプをしていました。午後から、ジャイアントセコイアを見にいきました。この木が大昔からこの地に立っていたんだなと思うと、人間の意は本当に、短いものだなと思いました。夜は、早く寝ました。疲れていたみたいです。
ヨセミテ国立公園をあとにして、もういちど、来てみたいと思いました。今度は、グランドキャニオンにでも行ってみたいです。
ヨセミテでは、アメリカの自然を感じました。
3隊 1班 GS I.T.
8月10日、ヨセミテに着き、すぐにおこずかいをもらって夕食を食べに行きました。BUT!ハンバーガー屋さんが休みなので、近くのGIFTSHOPでパンを買って食べました。そこにポテトチップスも売っていたのですごいと思った。
その夜は、好きなことをして楽しんでいると突如アメリカ娘(年令未定)が登場し、かってにサマタショウコがどーのこーのとわめき出したのです。当然英語のわからない私達は、気がつくと河内弁でしゃべりたおしました。河内弁におそれをなした少女達は、なかなか出て行かなかったが、やがて風と共に去って行きました。世にも不思議な出来事でした。めでたしめでたし!
翌8月11日、班長さんらがシャワーに行って、30~40分ぐらいで帰るということを信じたばかな私達はるすばんをしていました。 ところが待つこと1時間10分21秒(せこい)帰ってきましたよ!順番があったそうで!お姉さんらは怒ってるんだぞ!などといいつつ朝食をすませ、いざ貸自転車屋へ!自転車を借りて出発とばかりそこの坂を下るとー誰とはいいません。「ブレーキない!」といって、人の中に自転車ごとつっこんで行かないで下さいよちょいとお姉さん。あとから知ったことですが、自転車のペダルを逆に動かすと止まるということでした。初めに言ってほしかった。最初、ゆるやかなカーブを進んで行くと風の冷たいこと、最高でしたね。たくさんのテントを見たし、そこには家族連れが、楽しそうにバスケットをやったりしていました。(あたしもしたかった)もうちょい行くとわりと中ぐらいの川がありましたんで(コリャいい)と思い、自転車をならべてみんなで楽しんでいると、なんと、ロバと馬に乗った集団を見た。1列で、小さい子もすごくかっこよくロバに乗っていました。先頭に乗っていた青い目のお姉ちゃんに、自転車をのけて下さいと注意されました。素直な私は、OKといいながらすぐにのけました。それから川の水で手を洗うと冷たーくてごっつい気持ちよかった。時間の関係であれ以上いけなかったけどすごくいい場所に行けた。自転車ありがとう。
1隊 2班 BS T.Y.
“かがりび”愛読者のみなさん、こんにちは!
今回、行われましたBGSCアメリカキャンプも無事終えることができましたのも皆、リーダーや参加者保護者の皆様のおかげです。
あ~さて、私はヨセミテでの楽しい生活の感想文を書くことになってしまいました。バスガイドのにいちゃんが言うには、ヨセミテは人間によってではなく、大氷河によって創造された大渓谷だそうです。私がヨセミテに現れるまで“山あり、谷あり、滝あり、川ありの野性感あふれるひでい所だ………。”と思っていました。ところがどっこい現地に到着して感じたことは、口から出る言葉では言い表しようのないなんとも言えない感じがしました。このヨセミテには数えきれない楽しさがあります。その中で私の心に直接強く印象に残ったものを書きます。
まず、1つは川です。川は川でも、ただの川ではありません。魚つり・水泳・水洗便所というふうに透き通っているからこそ、できることなのです。(水洗便所は冗談ですけど・・・?)とにかく今津村の近くをまるで大名行列みたいに堂々と流れている寝屋川とは反比例している!
2つ目は滝です。雪解け氷が何百メートルという高さから一気に滝壷までなだれ落ちるのには、さすがにビヅクリ!した。
3つ目はジャイアント・セコイアです。この大きな木は山の上方にあるからバスでそこまで行くことになったというか最初から、そう決まっていました。それからバスの中でいつものバスガイドのにいちゃんが言うには、ジャイアント・セコイアはバスを降りてからちょっと歩いたらありますということです。
私たちは、バスを降りてから歩きました。ひたすら歩きました。歩いて歩いて歩き回ってやっと見えた。私たちは、その木を囲んで何人で友だちの輪が作れるか?というようなくだらない挑戦をしてみました。やっとつながったので人数を敢えてみたら50人近くいました。
私は、この感想文を書いていてあらためて思ったことですが“ヨセミテはいい所ですねえ!”
3隊 2班 GS K.M.
夢にまでみたあのアメリカに来て、はや12日日。ホストファミリーとお別れをして、初めて営んだ、ライフル、アーチェリー、カヌーと、楽しいことが盛り沢山あったキャンプも終り、いよいよ待望のヨセミテにやって来ました。目の前には高く高くそびえる木があり、岩があり、びっくりすることがいっぱいありました。夜になると、またまたびっくり。寒くて寒くて、パジャマ一枚では、ねていることができない位、寒かったのです。トレーナーを取りに起きようと思っても、さむくて起きることができず、とうとうかぜをひいてしまいました。本当にさむかったんです。
2日日。午前中はフリータイムで、シャワーやコインランドリーにかけつけ、時間は、あっという間にすぎてしまいました。洗濯を終えて、集合場所に行き、午後からのプログラム、観光に出発しました。最初は、あの大きな大きなジャイアントセコイアでした。「はあはあ」と息を切らしながら山道を登って行くと、真ン中が雷で焼けてしまった木がいっぱいありました。まだか、まだかと登って行くと、ついにあのジャイアントセコイアをみることができたではありませんか。うれしかったです。そして、また山道を下りて行き、次の目的地までバスで向かいました。ボーッと外を見ていると、リスやシカを見ることができました。グレイシアポイントに着いてバスを降りると一目散によく見下ろせる場所に行きました。つかれもねむ気もとんで行ってしまうほど、それはそれは美しくすばらしい所でした。残雪があって、それが、白く輝いているのを見たり、果てしなく永遠と続いている岩の波を見ていると、うわーすごい!なんてさけんでしまいそうな気持ちになりました。データーによりますと、私が立っていた所は、標高2,199mと、おどろくべき高い所だったのですねー。それにしてもすごかったです。
このキャンプに参加できたことは、本当にうれしく思います。スタッフの方々、両親に感謝してこのキャンプを一生忘れないようにしたいと思います。最初から最後まで本当に楽しかったです。
3隊 3班 GS H.K.
「アメリカ・キャンプ」は、一言すごかった。
18日間、カリフォルニア州の「サンフランシスコ」から「ロスアンゼルス」までホームスティや、観光、キャンプなど、いろいろと楽しめた。その中の一つヨセミテがある。ヨセミテ国立公園は、Big! コインランドリーヘ行くのに、バスで行くなんて、びっくりしました。コインランドリーは公園内に一つしかないと聞いていたので(ものすごく大きいのだろう)と思ったのに、わりと小さかった。ロッヂは、数えきれないほど、たくさんあって、同じ形で並んでいるので、道に迷ってしまうほどでした。でもTOILEに近かった事と、めずらしい小鳥や、見た事もない、ねずみ、リスなどがいて、良かったです。このヨセミテで2泊3日、過すことになりました。
1日目はScheduleがなく、自分達で夕食を食べに行った。これがまた、たくさんあってボリュームたっぶりだった。(まんぶく)
2日日は午前中が自由なので、コインランドリーヘごみぶくろ担いで行って来ました。午後からは、ヨセミテ観光、バスで行き帰りした。行きはみんな疲かれていたのか眠ってしまい、夢の中で景色を見たと思います。 やっと着いた、外はやや涼しかった。円頂山(ドーム)、山峰などが美しかったし、滝がすばらしかった。もう少し行ったところで、自分達がいたロッヂが上から見えると言うので、行ったら、緑の木ばっかりであまり分からなかった。でも思わず写真にバチッ。次はバスで一番大きい木を見に行った。はっきり名前を覚えていないがたぶんジャイアント・セコイア(アメリカ杉)だと思う。行く途中には、“鹿”がいて、カメラを出したがおそかった。次に何か来るだろうと、待ちかまえていたのに、何もこなかった(クソー)むこうに着いて少し歩き穴の空いている木やカミナリなどで焼けた木など見たがやっぱりあの大きな木には感激した。このアメリカキャンプ、いろいろな経験をしてとても良かったと思います。
ヨセミテを後にしてマジックマウンテンへ
雄大な大自然で2泊を過ごし、パッチとエリックの運転する二台のバスに分乗し、午前8時45分ヨセミテ公園を出発し、マジックマウンテンヘと向う。途中フレスノで昼食の為ショッピングセンターで休憩、各自が自由に好きな物を食べた。午後4時M.Mに到着、全員ラフなスタイルで入場する。ここには世界一最長、最高でギネスブックにも掲載された木造ジェットコースターがあり、スカウト達は乗り物に乗ったり、ゲームを楽しんだりし、又、夕食は園内で各自が自由に取る事になっているので、各班行動でハンバーガーを買う者、小さなレストランに入る者と様々だった。
午後10時にゲートに集合し、今夜の宿舎である、ランチ・ハウス・インに向う。アメリカキャンプで初めてのモーテルに泊る。
3隊 4班 GS T.T.
え~本日はおひがらも良く、いやいやこんな事を書いている場合ではないのです。つっついに行ってまいりました!あ・め・り・か、アメリカですよ!あーだ、おわかり?書きたいことも山ほど
あるのですが、この原稿は左はしに“ヨセミテーマジックマウンテン”と、御丁寧にボールペンで書いてあるのでその事について書いていきます。
ヨセミテはたったの2泊でしたが私なりに楽しんでまいりましたハイ!しかし夜、なかなか寝つかれなかった。まったく、まいるどセブン…いやいや、まいりました。夜中の12時ごろ次から次へと、トイレにどんどんくるなよ!おかげでこっちはAM1:00まで起きていたのじゃ!紙で手をふきゃいいのに、ドライヤーみたいな熱風で手を乾かす機械を使いおって!イナカモンみたいにめずらしいモノさわりたさでやったんじゃろ?(私もやったが、あれは気持ち良かった。)その音のおかげで寝むれなかったデリケートでかわいそうな私・・・それに淮だ?夜中の12時ごろトイレで歯をみがいていたやつは!?ブォーン、ブォーンの音と一緒にしゃこしゃこ、しゃこしゃこ。耳ざわりな音をたておって!はっきり言ってあの夜わたいは怒ってた!トイレの横のキャビンを喜んだ私がバカでした・・・。くすん。それともう1つ!怒ったことがある。キャビン(たばこではない。)のカギがみごとにつぶれていた。初めは髪をくくるゴムでなんとか直したのですが、清兼さんがドアを開けたとたん“ぶちっ!”2度目はアイドマンさんがリネン小屋からひらってきてくれたいらない(?)ヒモを下さったので、それで数々の疑問をいだきつつ直したのでした。結局、それもダメだったんですけど・・・。
さて、マジックマウンテン。何があったかともうしますと、すんごい大きなジェットコースターがありました。(キューピーマョネーズのCMで グットバイ、グットバイ、グットバーイバイ、コレステロールよグットバーイバイ のうしろにあったコースターですよ。)とかなんとかいってるまに終りに近づいてまいりました。
さようなら。
2隊 2班 BS N.A.
ヨセミテ出発日の前、僕は起きて急いで朝食を食べに行った。レストランは自分で好きな料理を持ってきてそれを最後にレジでお金を払うというシステムだったので、へたをすれば千円ぐらい、いや二千円は軽くとびそうな感じだった。でもアメリカは物価が高いのであまり気にしなかったのだが、なんと僕の朝食は軽く千円を越していたのである。まあ、みんなもそのぐらいかかったのだろうが、日本ではろくに朝食もとらないのに、なんでアメリカまで来て朝食に千円もかけなあかんねんというセコイ考えが頭の中をかけめぐった。
それから朝食を食べて、自分の荷物を集合場所まで運び出した時、班長がヘルメットを忘れたからとってきて、と言われたので、僕はいやいやながらもとりに帰った。キャビンに入ってヘルメットを持って出る時、ふと天井を見ると、ロープがかかっていた。僕のロープである。僕も忘れていたのである。集合場所へ帰る間に僕のいやな気持ちは班長への感謝の気持ちに変わっていた。しかし班長に何か言われるのではないかと思ったので、そしてバスに乗りヨセミテを出発してしばらくすると、やたらとトレーラが目についた。僕の隣に座っていた次長もトレーラに興味があったようで、トレーラが走ってくるたびに「おっー」と田舎者のように叫んでいた。しまいにはカッコイイトレーラが走ってくると次々と写真を撮っていたが現像してみると、つまらなかった。
それからマジックマウンテンに着いたが4時過ぎだというのにばかみたいに暑かった。それに長い間バスに乗って疲れていたので遊ぶ気にもならなかった。しかし、しっかりと遊んだ。
3隊 3班 GS W.N.
楽しかったホームスティやキャンプも終わり、あと一週間ほどになりました。 18日間っていうと長いなあーって最初は思ったけど、残り一週間となると、「あーあもう少しで終りやわぁ」と思って、日本に帰りたくなくなるような気がしました。ヨセミテでは、たくさんの人がいました。自由時間の時に、洗たくをしに行きました。でも時間がなくなってきたのでかわかせませんでした。
みんな部屋の中でロープを使ってほしたり、ロッヂとロッヂの間にロープをつるしてほしたりしていました。ベッドの上にねころがってみると、洗たく物が、顔の前まできていたりして、みんなでさわいでとても楽しかった。
マジックマウンテンではこわそうなものばかりだった。私はジェットコースターだとか、スピードの早いものはこわい。だからいつも私が荷物もち。みんなが乗っている間、たくさんの荷物を持ったまま、ぶらぶらとしていた。そしたらみんながこっちの方を向いて、笑っている。「私だって乗れるんですよオー。」とみんなにいってやりたい気がした。でもほんとに私は乗れない。みんなが平気で乗っているのに私だけ乗れないなんて淋しかった。「やっぱり乗ればよかった。」なんて後から思ったりして………。でもいろんな物に乗った。あっという間に集合時間になり、とても残念でした。でもすごく楽しかった。
いろんな行事があったけど、どれもこれもみんな楽しかった事ばかりでした。でももう少し英語を勉強しておけばよかった。そしたらもっと楽しかったと思う。だけど行ってよかったと思います。
良い経験になりました。また行きたいなぁ!
1隊 2班 BS K.O.
8月12日(いわゆる14日目)に大自然ヨセミテを出発して、マジックマウンテンヘ向った。
バスの中ではほとんど寝ていた。周りを見ると他の人も寝ていた。(そういえばバスに乗ると、ほとんどの人が寝ていたような記憶が頭をよぎる)そういうのも、風景は草原や山ばかりで、おもしろいことが全然なかったからだ。 But(初めてかがりびにかいたEnglishである。さすがAMERICAに行っただけのことはあると、一人で感動するのであった。)時々ゲームをして楽しい一時をすごしたのである。フレスノ近郊で昼食をとり、しばらく走るとマジックマウンテンのジェットコースターが見えてきた。それを見て私は恐怖におののいてしまった。結局乗らなかったのである。だが、急流すべりだとか、ケーブルカーやロープウェイなどなかにもいろいろなものを乗りまくった。後ゲームをしているうちに夢中になってジェットコースターなどには乗れなかったが、ゲームで十分楽しんだのち夕食をとった。だがもう時間がなく、集合場所へ向う途中売店など見ていたが、あまりいいのがなく買うのをやめ、また歩きだすと人の横顔の似顔絵を書くやつがあったのでしばらくみていたら、な・な・なんと鼻血が出てくるではないか。すばやく鼻をつまみ血をおとしながらその場から走りさったのである。集合場所へつくとみんなからあほあつかいされた。ふと周りを見ると、みんな頭や腕に、蛍光塗料の輪をはめていたので、すばやく買いに行った。しかしそれは一晩かぎりの命で光を出さなくなったので光をあてたりしてもだめだったので、一人サギだとわめいていた。
今回のアメリカキャンプはホームスティが最高だった。帰るまでずっとホームスティでいたかった。又もう一度アメリカヘ行きたい。それもカリフォルニアのサンフランシスコヘ、いや言葉さえ話せたらサンフランシスコヘ住みたいと思い続ける毎日である。たいへん良い事を学んできたように思う。
リーダー
この日は、風が強くエレベーターで登る、スカイタワーも危険なため入場停止、園内には日本庭園も造られてあり、ちょっとけばけばしい感じの日本の古い建物もあった。スカウト達はキャーキャー叫ぴながらフリーフォールに挑戦していた。
楽しかったディズニーランド
スカウト達が夢に見、待ちに待ったディズニーランド、夜はミッキー、ミニー、白雪姫、アリスが練り歩くパレードに目をこらし、打上げ花火を空に見上げ。昼はスモールワールドや、お化け屋敷に入場し、ジャングルクルーズや山岳鉄道、潜水艦に乗ったり、買い物をしたりして楽しんだ。
3隊 4班 GS K.R.
この日は、朝早くからいつものようにバスにゆられて市内観光、少々疲れぎみでしたが、なんと云ってもディズニーランド、アメリカに来ているのだという気分を、満喫できました。ディズニーランドに入ったのが、確か19時頃、“ああディズニーランドを歩いているんだ!”と云う感激でつい足に力が入ったのか、はいていたサンダルのかかとがブチと切れ、ちょっと暗い気分でスタートしました。
メインストリートを、きょろきょろしながら進んで行くと、大きなお城があって、それをぬけて行くと、メリーゴーランドが出て来ました。と云う事で、初めにメリーゴーランドに乗りました。次にもっと奥へ行くと、スモールワールドの建物が出て来た。あまり並ばなくてよさそうだったので、そこに入る事にしました。舟に乗って、中を回って行くのですけれども、人形が あちらこちらで歌を唄っていて、人間に似た動きにびっくりしました。 10時になると、私達も良く知っている、ミッキーやミニーマウスとその他色々なぬいぐるみのパレードが始まりました。道端には、もう多くの人々が集っていて、やっと私達も顔をのぞかせる事ができましたが、そのスケールの大きさにも、ただ驚くばかりでした。
次の日も、朝からディズニーランド、すべての乗り物に乗りたかったのですが、1つの物にもずらりと人の列で、それに今日で、アメリカの日々も終り、おみやげも買わないといけないし、お昼からは、おみやげを買うのに歩き回った。両手にねみやげをさげているのは、大体日本人で、自分もその中の1人かと思うと、はずかしく思えました。
でも、西海岸と云えばやはりディズニー、ここでミッキーとも写真を取れたし、日本では味わえないスケールの大きさにびっくりして、とても楽しい日々を送りました。又、できたらもう一度行きたいと思います。
18日間、リーダーやその他の方々に御迷惑をかけた事を、この場を借りて、おわびとお礼を申し上げます。
ありがとうございました。
3隊 3班 GS N.T.
私自身の全体の感想は、少々だらだらした時間が多かったのでは、と思います。ですが、本当に楽しかった! 何物にも言えないのが、あのディズニーランドだろうと思います。他には絶対負けはしないだろう、すっごく大きな花火とか、ディズニー名物であるパレードとか、(昼間は余り感激せんけどねえ)夜は四方ハ方からライトに照らされ、ミッキーやドナルド、アリスから白雪姫迄、たまに、何でこれが?と思うものもあるけれど、見てるこちらは全々疲れないのが本当。乗り物だって、絶対たいくつしません。ま、待ち時間が長い位、日本によくあるコースターだって、速くって想像以上だったんですから! 全ての乗物に乗るには、少し時間が少なかった様ですけど何と私、最終日のサヨナラパーティの後、三度目に又、中に入ったのです。2時間弱ほどでしたから、買い物と、その他もろもろしか乗ってませんけど、三度も入ったら、大体入る所が決ってくるんです。しかも夜でしたから、スリルのある所に足が向いて、結局たいした所へは行けませんでした。ディズニーでの買物は、私、非常に困りました。“MADE IN JAPAN”ではあかんし、かと云って、ほとんどのものが日本に輸出されているだろうし、と云う具合で、時間ばかり食って、んでもって何も買ってこれなくて、今考えると、もっと無駄使いをしてくるんだった。折角、あれだけお金持って行って、$100も使っていない(?)なんて! ぬいぐるみの一匹でも買ってくるんだった! あ~あ。
後悔先に立たずと申します。又、こんな機会があるのなら、今度こそ全部使ってきてやろう!
最後に一言、アメリカキャンプに、残念ながら行けなかった方々、5年先、10年先を夢みて、明日に希望を持ちましょう。行って損する事は絶対ないのだから。
1隊 1班 BS O.K.
アナハイムのヒルトンホテルに入って、荷物をおろし、バスでディズニーランドに行った。中へは、水谷君、米田君と日系人の2人、加藤君と一緒に行動した。初めに、汽車のジェットコースターに乗った。そのコースターは走って行く途中、途中に色々な仕掛けがしてあった。例えば、岩が落ちてきて、岩の下が開いて、その中をコースターが入って行くといったようなものです。
9時頃、食事をしていた時、突然、花火が上がった。 10時からだと思っていたのでびっくりした。花火が大変にきれいだったので見とれていたら、すぐに終りだった。 10時からは、ミッキーのパレードだった。パレードは、前の人が背が高かったので少ししかみれなかった。白雪姫を見たかったのに、残念。次の日は、朝からディズニーで、夕方迄おもいきり遊んだ。スペースマウンテン(乗った人がつけた名は「暗やみコースター」)に乗った。それは暗い所をぐんぐん上って行って、光線が出てくる所を過ぎて、一番上迄行った時に、プラネタリウムの様に星が見えた。その時は、コースターもゆるやかだった。星を見てきれいだなぁ~と思っていたら、突然スピードが速くなり急カーブ! びっくりした。そのびっくりがさめない内に、又、急カーブ! 右と思えば左、左と思えば右へと曲る。その曲るのに必死に耐えていたら、スピードが急にゆるやかになり終った。その他、色々な乗り物に乗った。夕方、ホテルに帰った。パーティが終り、シャワーを浴びて、又、ディズニーランドヘ行った。その時、入口で手に押してもらったスタンプに紫の蛍光灯が当てられた(僕はシャワーを浴びたから、絶対スタンプ液は手に残っていないと思ったのだが)幸いにして、不思議と残っていた。そして、何事もなく、お金も払わずに中に入れたのでうれしかった。僕は、ディズニーランドの中を全部回りたかった。
だから、もう一度、ぜひ、絶対行きたい。
3隊 1班 GS T.M.
CAMP場を出発してから、8時間ほどバスにのりました。そして、やっと、ヨセミテ国立公園に着きました。テントの中で、荷物の整理をしてたら、12才ぐらいのアメリカの女の子が、2人来て、私達のテントの中に入れて!って頼むけど「今、いそがしいから・・・」って断わると(もちろん、英語で)その女の子達は、怒って、ツバをブーゥとそこら中にかけた。後で聞いたんだけど、ツバを吹くのは、アメリカじゃ、日本のアッカンベーといっしょの意味で使っているんだって。夜9時ごろ、又、その女の子達が来て、ぶわーっと英語を言って、ムシをしていると、ツバをかけて帰ったけど、すんごい恐かった。それに、テントのかぎは、外からでも開けれるようになっていたから………そしたら、ボーイの人が、かぎを直してくれたので、その夜は、安心して眠れました。
次の日の朝、シャワーをあびてから、サイクリングに行きました。アメリカの自転車は、変ってます。だって、ブレーキがペダルを後回しにするとかかるんだもん。最初それができなくて、ドジな私は、人にぶつかってしまったのです。(宇田さん、ごめんなさい。 )
お昼からは、観光でした。ジャイアント・セコイアは、48人が手をつないでやっとかこめます。滝もすごくて・・・それになんといっても、あの岩壁には、びっくりしちゃいました。
次の日の朝早く、ヨセミテを出発して、マジックマウンティンヘ行きました。そこは、世界一のジェットコースターがありました。“クロッカス”といって、スピードは時速90Km。 伊野さんとキャーキャーいって乗っていたんだけど、途中で故障! とってもしらけちゃった。それから、ぬいぐるみの当るゲームをしました。25¢をポイッとほって、お皿の上にのればもらえるんです。思わずムキになってしまい、とうとう当ったもんね。当った時は、うれしいんだけど、帰りに大きな荷物になってしまいました。
1隊 4班 BS I.K.
キャンプ場から8時間ほどバスに乗ってやっとヨセミテ国立公園についた。公園の入ったところは落石などで大きい石がごろごろあった。キャビンの囲りには木がたくさんしげっていた。ねる所はテント張りで中にベッド四つと物置きがあるだけのかなり期待はずれの所だった。夕食は隊からもらったお金で食べた。レストランは自分の好きなものを取っていくやつでそこの店で僕が好きなものを取るのに1時間ほど待つというがまんのいることだった。でもアメリカ人は近くの人としゃべりながらのんきにまっていた。アメリカ人はのんびり屋が多いなぁと思った。その日の夜はすぐに寝た。
ヨセミテ2日目の午前中は自由行動でおみやげを買ったりした。昼からはみんなで、ヨセミテで一番高い所までいった。そこには大きな木がたくさんあって、中には雷で木に穴があいてあるやつもあった。一番上から見た景色はとてもきれいだった。帰ってから近藤君と肉を食べに行こうと言うことで夕食はバスに乗っていった。店でまた1時間ほど待ってやっと肉に有りつけたと思って食べたらあんまりおいしくなかった。これは日本人の□にあわんなぁと思った。
3日目ヨセミテを後にしていよいよ、マジックマウンテンに向けて出発。夕方4時ごろやっとついた。そしてここは乗り物が多いと聞いたのでいろんなのに乗った。その中で一番最悪やったのは水流下りで、それで僕はびしょびしょになって寒かった。夜だったのでかわきが遅く、なかなかかわかなかった。それから夜の遊園地もなかなかいいなぁと思ったけど、ジェットコースターに乗れなかったのが残念だった。その夜は近くの「Lunch House in」に泊まった。
3隊 2班 GS K.Y.
私は、サンフランシスコでホームスティをしている時も、“今秋はアメリカに居る!”と云う実感等ありませんでした。でも、ロス市内観光で“チャイニーズ・シアター”に行った時ぱ私はあの有名なチャニーズ・シアターを見ている!やっぱり、ここはアメリカだ!って思いました。マリリン・モンローのサインが見つからず、ちょっと残念。
ユニバーサル・スタジオは大じかけのセットばっかりで、驚いてばっかりいました。海が二つに分れて、私達の乗っていたバス!がそこを通ったり、右と左の建物のドアの大きさが追っていて、男の人は大きく見せるために、小さいドアを、女の人は小さく見せるために、大きいドアを使っていると聞いて、“細い所まで考えてるわぁ~”のひと言。湖で、つりをしているおじさん(人形)が突然、ジョーズにおそわれ湖に沈んで、私達のバスが過ぎて行くと、又湖から姿を表して、つりをしていたあの人形、何故か秋はあの人形が忘れられない! オルベラ街!かな、メキシコぽかった。
ガイドの佐藤さんがDiscount pleaseって云って下さい。といわれ、一生懸命練習したが、結局何も買わなかった。あっ、それとサンタモニカの海岸、時聞か無いとわかっていても、やっぱ、あそこで泳ぎたかったなぁ~。そして、Magic Mountain アメリカヘ来て、こんなにいっぱいジェットコースターに乗れるなんて思いませんでした。
好奇心旺盛な!私は、「コロッサス」に乗るため並んでいる時もわくわくしてました。私と水野さんは一番後ろ、橋本さんと堂野さんは後ろから二番目に乗りました。私と橋本さんぱおもしろいなぁ”としゃべっていましたわ。でも橋本さんと私の横に居る二人は………
夜遅く迄遊園地で、遊んだ事のない私達は、時間も忘れて遊んでしまいました。だから?いつも集合に遅れ、すみません。 I'm Sorry.
3隊 1班 GS S.S.
まちに待った、夢のディズニーランド。この日が来る日を、私は、日本を旅立つ時から、待っていました。ディズニーランドに着いた。初めの日の夜は、パレードがありました。
パレードでは、ピノキオ、その他、色々な人気者が出て来た。それから花火が、ドドドーンとなり、みんな上を向いて、きれいな花火が上るとみんな、はくしゅをしたり、口ぶえを吹いたりしていました。 ディズニーランドを出て、ホテルに着いた時は12時半だった。
次の日は、夕方5時まで自由行動であった。スペースマウンテン、その他乗物に乗って、おみやげを買い回っていると、もう5時近く、急いで集合場所へ行った。
そして、ホテルに一度、帰り、サヨナラパーティ。パーティが終って、「ディズニーランドに行きたい者」って川端隊長が云ったけど、シャワーを浴びて、石鹸でこすった人は、もう、だめだと言ったので、行くのをやめにして、フロント近くのお店で、おみやげを買ったりした。少しして、自分の部屋に帰り、帰国準備にとりかかった。おみやげとかが沢山あるので、行きしなより、荷物がたくさんになった。
そして、一夜が過ぎ去った。いよいよ、ホテルを出発、ディズニーランドで過した一日と数時間、とても楽しかったです。
大きくなったら、又もう一度、来たいなぁ~と思いました。
アメリカよサョウナラ
『あっ』と言う間に過ぎ去ったアメリカキャンプ、7月30日にサンフランシスコ空港に降り、MVBTで一泊、翌31日にはホームスティに、8月5日夜にはホストファミリーを招いての感謝パーティ。6日からは4泊5日のキャンプ。10日から14日までの観察旅行。MVBTでは仏教会の方達から受けた親切。パーティの夜、不注意でこわしたスプリンクラー、キャンプ中での各種のプログラム、自然の偉大さに声も出なかったヨセミテ公園。マリンワールド、グレートアメリカ、マジックマウンテン、ユニバーサルスタジオ、ディズニーランドと巡った観察旅行。理解出来ぬ英語で話しかけられぬドギマギ、ホストファミリーとの別れを惜しんだホームスティなど色々の感慨を胸に18日間のキャンプを終えた。
1隊 3班 BS I.K.
13日は、買い物をしてホテルへ帰りました。 14日…。いきなりスペースマウンテンに乗りました。なにしろ暗やみでしかもジェットコースターなので「こら迫力あるなー」と思った。おもろかったので二回も乗りました。次は、ゴーカート、全然おもろなかったので二回しか乗らなかった。次はボート、これはー回しか乗らなかった。次は、ボブスレー、くっさいくらやみコースター、出だしはおもしろかったけど、だんだんしょうもなくなった。長くならんだわりには、おもろなかった。あとは、買い物に専念したが、日本人の観光客が多いし現地の人々もいたので買い物がスムーズに出来なかった。どんなんかというと、一つの品物を買うとだいぶんまたなければならないので、一度にたくさんの品物を買うという方法やないと、たくさん買えなかった。それまでは、グループを組んで行動していたが、買い物の時は必死で、単独行動をとっていた。パレードもやっていたが、買い物の方に気を取られて、全然知らなかった。
ヒルトンホテルに帰り、あとはディナーパーティーをまつだけだった。しかしパーティーの品物は予想外にうまかった。ステーキはもっとぶあついと思っていた。
次の日いつものバスで空港に向いました。空港では飛行機が数時間おくれました。機内では、映画を二本見ましてん。二本目のトッツイはなかなかよかった。(全然意味がわからなかった)後は音楽を聞いたり最後には、たながさんのくっさい歌まできかされた。機内での注文は「Coke Please」だけでした。なんちゃっておじさん。
このキャンプでいんしょうに残ったのは、ファルコンのゲイの運転手さんでした。
2隊 4班 BS M.M.
U.S.A.に来てから15日がすぎ、後は、AIRPLAINで帰るだけとなった日の朝、僕達は荷物をエレベーターでおろそうとしたが、ガールの人達が先に乗っていたので階段を使うことにした。下りなのでそんなにしんどくなかったがあつかった。しかし汗が出ないのがふしぎだづた。
荷物をBUSにつみヒルトンホテルを後にした。もうUSA・CAMPが終わりだ。もう少しUSAにいたかったが、ロス空港についた。どこの空港でもBOY・SCOUTはフリーパスだったのにはおどろいた。最後の買い物をして集合したが、飛行機が2時間おくれていたのでまたまた最後の買い物をした。飛行機の中は横に10人がけで、その間に2本通路があり僕が思っていたよりせまかった。席につき、飛びだつまで僕はいろんなことを思い出していた。S.F.についてから今日までのことを、全部が全部いい思い出として残っているが、そのとき一番はっきりと思い出しだのが、なんとあのワルガキ・ティミーのことだった。僕達男に対しては、ワルガキだったが、女性に対しては、かわいく思われていた。ティミーと別れるときなんか、むっちゃかなん『こんなん、一回でええからなりたいな』とか思うことがあったなとか思っているうらちに、AIRPLAIN・NW001はTAKE OFF、機内では、トランプをしたり、話をしたり、寝てみたり、10時間程で成田着。とうとう日本へ帰って来たという実感はなかった。そして大阪に着いたとき、知っている景色を見てやっと帰って来たと思った。
もっとアメリカにいたかったと考えている今日このごろです。
3隊 2班 GS H.A.
私達が初めてロスに着いたのは、15日目の8月13日でした。その日の見学、UCLAは時間がなく素通り、あとはファマーズ・マーケットに行ったりメキシコ風のオリベラ街に行ったり、有名人の手形足形のあるところにも行きました。それからHILTONホテルに着きましたが、本当は、ディズニーランドホテルと思っていたのに・・・。
ホテルに着いて、しばらくしたら、ディズニーランドにいきました。その日カーニバルがあって花火がすごくきれいでした。パレードもそれはすばらしいものでした。アリスもかわいかったです。
その日は、おみやげを少し買ってホテルに帰りました。ホテルでは、テレビを見ていました。それで寝るのが遅くなって、次の日、寝返して、みんなに迷惑をかけてしまいました。
そして朝から、ディズニーランドに行きました。朝の開は乗り物に乗ったり、見たりして、昼からは買い物をしました。それが終って、ホテルに帰りサヨナラパーティーがありそのとき、バースディの祝いもしてもらいました。サヨナラパーティーが終って、ディズニーランドで于にスタンプを押してもらった人は、行ってもよいと言われたんですが、私はもう、手を洗ってしまってだめだと思って、行きませんでした。だけど、後で聞いた話によると、あれは、手を洗っても2・3日は消えないそうです。「いけばよかった」その日は、みんなで、楽しくすごしました。翌日、バスで空港に行って飛行機が2時間ほどおくれて、帰りはよくゆれました。成田に着いて、いそいで次の飛行機に乗りました。日本には、台風が2つも来ていると聞いて、心配でした。空港でむかえてくれた人もいました。円通寺に帰って到着式をおえて家に帰りました。家に帰ってホーッとしました。
初めての、アメリカヘの旅。
中学へ入学し、初めての夏休みに、待らに待ったアメリカヘ旅出ちました。飛行場へおりた時はアメリカという実感はわかなかったけれど、楽しいホームスティを経験し、サンフランシスコのキャンプ場へむかった時は、すごい広土にさすがアメリカだなあと思った。キャンプ場では、サィトわりをし、夕食を食べ、テントを立ててその日は終った。
8月7日キャンプ場に来てはじめての朝だ。朝のプログラムは、カヌーだ。ぽくはカヌーが初めての経験だった。ぽくはどうしたらよいかわからなかったけれど、富田くんと柴崎くんに教えてもらった。けれどぼくがこぐと、らがう方に行ってしまうのでいっしょうけんめいこいだ。カヌーは楽しい思い出です。昼はアーチェリーにらょうせんした。以前経験していたけれど、ぜんぜんうまくとばなかった。2回目うまくとんだが、的に当たらなかった。次の日の午後のプログラム水泳のとき僕たちの班は、リレーをした。ぼくは、最後から2番目だった。とても残念だったが楽しかった。
8月10日にキャンプ場を出てヨセミテにむかって行った。ヨセミテは景色がきれいでとてもよい所であった。
8月11日昼にセコィヤの木を見に行った。とても大きかった。記念写真をとっておいた。
8月12日ヨセミテを出た。 5時頃マジックマウンテンについた。 アメリカキャンプで、初めてホテルに入った。マジックマウンテンにはジェットコースターなど乗り物がたくさんあった。
8月13日、マジヅクマウンテンを後にしロスの市内見学の後、ディズニーに入った。花火、動物のぬいぐるみのパレードは今でもはっきり想い出す。アメリカ最後の日は、時間のゆるす限り買い物、乗り物をディズニーを思い切り、楽しんだ。帰りロス空港の免税店で残りのお金を全部使った。
18日間のアメリカキャンプは、あっと言う間に、過ぎて行ったが一生忘れることのできない、いい思い出となると思う。もう一度必ず行ってみたいアメリカである。
リーダー
長がかったようで短かかった18日聞、海外へ出たのは初めてのスカウトがほとんどであり、不安いっぱいのアメリカキャンプであったが、全員無事に帰国出来たのは、スカウトー人一人の心がけと、仕事を休んでまで、われわれのために奉仕して下さった、アイドマン家の人々や、マウンテンピュー仏教会の人々に対して感謝の念でいっぱいである。
スカウトは、このキャンプで得た貴重な体験をこれからの人生に生かしていくことを念じる。(Y)
座談会 アメキャンを振り返って
アメリカキャンプから帰国して、ホッとしたある日、本部スタッフとリーダー今後の参考と反省すべき点はと思い、座談会を開いた。以下の事々がもし、次回に海外キャンプがあるとすれば、少しでもー助になれば幸いだと思います。今回、成功したのは団委員長はじめ皆様のおかげです。
アメリカの印象
日本を出発して、アメリカ領のハワィ国際空港へ第一歩をしるした時、何を感じたか!
アメリカヘの第一歩、ハワィでは一緒に行った仲間が多く、通関を通る時でも、日本語が通じた。そして荷物のチェックもほとんど、フリーパスで通ってしまった。やはりボーィスカウト、ガールスカウトの制服は、偉大(グレート)であった。
朝早く、着いたため人は少なかった。まだまだ外国に居るという気持にはほど遠く、英語はほとんど使用せずに済んだ。スカウト達もおそらく同じ気持だった事だろう。アメリカヘ来たと云う気持になり初めたのは、サンフランシスコ空港に着いてからだと思う。廻りを見渡せば、やはり外国人ばかりだった。ここはアメリカだ。案内の文字は英語ばかりで、日本の文字は全然見当らず、先頭の歩くとおりにその後に続く。少し間隔をあければ、前の人を見失なってしまう。人、人、人だりた。まあ、とにかくアメリカに来た。
『ゲートを出て、自分の荷物を取りに行く途中、人、人に囲こまれた。色々の人達が居る事にびっくりし、ワァー、ここがアメリカや』
『バス待ちの間、廻りを見渡した時、大阪では海外旅行に行く人達はそれらしい格好をしていたがこちら(アメリカ)では、何処へ行くのかわからない人が多くいて、やはりここは、アメリカの国際空港なんだと思った』
『私は、着いた時間が夕方だったけど、空港で大きさを感じた。けれど、大阪空港の様に整然としておらず、何かゴチャゴチャしており、人が多い。廻りを見ても、外国人だらけ(ここはアメリカです)だった。大阪空港と違うのだと思った』
そうです。我々は日本人なのです。アメリカでは外国人になのですから。
ホームスティ
スカウト達のホームスティはどうだったのでしょうか。!!
ホームスティの受入家庭によって言葉は悪い表現になるかも知れないが、当りはずれがあった様に思われる。
リーダーでホームスティをした感想を聞いてみよう。
『我々、ホームスティをした所から、サンフランシスコ市内迄の距離は日本で云ったら、今津から栗東位の距離があるんじゃないかな!大体80Km。そして、日本の国がカリフォルニア州に入ってし
まって、まだ余りがある所ですよ』
人々は、のんびりしていました。気持にゆとりがあって当然な気がします。その様な所に、一番交通量の多い大阪の人間が行ったのです。自分達がセコく感じました。住宅地でも、人はあまり見かけません。我々のお世話になった、ロスアルトスマウンテビューの町だけで、大阪市よりも大きい所なのです。コーヒーでもちょっとと云って飲みに行ける所ではなかったのです。今津から大阪の中心地迄位の道のりです。誰も歩いて北迄は出かけないでしょう。車が無ければ、とてもとても、『アメリカは本当に広いと感じた。車は絶対必要な所です。そのためかやはり道路は大変に良かった。フリーウエィ(日本の高速道路の様にお金はいりません)が発達するのは当然の気がした』 『家では、やはり言葉が話せなければ、楽しくなかった。我々、日本人は気を使いすぎるのではと思った』
『その点、子供達は格好をつけないから、楽しく過せた気もする』。
その他色々と話しはあったけれど、リーダーとしても、ホームスティをすべきだったと云うのが答として残りました。スカウト達と同じ苦労をすべきである。しかし、ホームスティは楽しいものだと云う事も事実です。 もう2日あれば・・・。
THANKSパーティー
スカウト諸君がお世話になった、御家庭の皆さんに、ありがとうとサヨナラをかねてパーティを行いました。準備はリーダーが一部のスカウトにも手伝ってもらいましたが。料理を作って、会場のセッテングを行い、ホストファミリーを待つばかり、ではなく始まる寸前迄、我々は走り廻っていましたけれど、結果はOK、大変に盛況でした。
スカウト達も立派でした。『パーティの料理はアチラでは大変に御馳走でしたそうです。パーティと云ってもハンバーグとコーヒ位でするそうですよ』。ちなみに献立は、バラ寿し、巻寿し、鳥の照焼き、フルーツポンチ、ジュース、おにぎり、ハム及びサラダ、チーズ、日本では、ごく普通の料理だと思います。お客様をもてなすには、少なすぎる位でした。参加された、ファミリーは、300人位です。
キャンプ場「カッターキャンプ場」
サンフランシスコの霧の話、カリフォルニアでは雨が少いが、木が枯れないのは、海から発生する霧のため、この霧を木がだいて必要なだけ水を持っている。キャンプ場の最後の夜に発生した、霧は、雨が降る様なものだった。あの霧は日本では秋雨か春雨かという様なものだった気がする。
『今回のキャンプは、大変に楽だった。と云う意見が大半だった。このキャンプでは休養したため後の観察旅行(すごくハードスケジュール)が、なんとか、病気もせずに行けたのだと思う』
『日本では、出来ないプログラムがあって楽しかった。食事も自分で作らずに時開かありすぎた』
『もし、次回があるなれば、ボーイはやはりアメリカのキャンプ日程に合せ入ったならば、もっと持てたのでは!』
ヨセミテ公園では
ジャイアントセコイヤ。グレイシアポイントを見学に行った。やはりヨセシテは最大である。ここでは、やはり2日間は必要であった。我々は丸1日だけの滞在である。自由時間が多くあれば、もっと楽しい時間が過せたのでは。
『キャンプ場では国際交流が出来なかったけれどヨセシテで外国の人と交流出来だのでは』
『自転車とか川下り、乗馬その他のプログラムをやろうと思えば、やはり2日間は必要だった』
『ヨセシテだけで、5日間位は楽しめる所だそうです。だから、色々な所を見て廻るだけで、2日~3日は必要です。もし、次回があれば、最低2日は取るべきです。』
後の移動の事を考えれば、キャンプ、ヨセミテで、のんびり休養し、後の観察旅行のために体を休める事も大事な事だと思う。バス移動の時は、本当に景色も見ず、寝てばかりだったのは残念だった様な気がする。アメリカの広さを知ってほしかった。
『今回のキャンプで移動の時にバスツアーはバスの中では睡眠を取る所だと思っていたんでは、せっかく、アメリカの大きさを知ってもらおうと思ったのに、誰も景色を見てなかったんとらがうかな』
『あのバスツアーで起きていたのはリーダー位とちがうかな』
『やっぱり、皆一緒だったし安心してのはないかな』
『それは云えてる。安心するもんな』
『食事代について、彼等はコーラとハンバーグ位しか食べてなかったけれど、テーブルに着いて充分に食べられる位は渡していた。一度位はテーブルに着いて、ゆっくりと食べてほしかった気がする。彼等は小使いを大分残したみたい。 』
観察旅行について
聞こえは観察旅行となっているが実は遊園地、ディズニーランド、グレートアメリカ、マジックマウンテンの各遊園地を廻った。その他、サンフランシスコ市内、ロスアンゼルス市内、ユニバーサルスタジオ、だったけれど、この観察旅行がすごく、ハードスケジュールだった。しかし、この遊園地、廻りが一番良かったのではなかったか。
第1番目は、グレートアメリカ、一日中園内を歩き廻ったけれど、たいくつと云う文字は無った気がする。乗り物は、すべて無料である。どれに乗ってもです。そして、マジックマウンテン、ここは乗り物の遊園地、一番すごいのは「コロッサス」ザ・ワールド・No.1のジェットコースターです。ここの時間は、たったの4時間位だった。
そして、夢の国、ディズニーランド。ここは、1日と半仇今回のツアーの最大の目的地である様な気がした。その他、色々な所へ行ったが、忘れそう。
『我々、リーダーはスカウト達の事を忘れて、自分自身が楽しみ過ぎたのでは?』
『スカウト達は、各班毎に大体まとまって行動をしていたし、又園内は安全だし、安心してられたと思う』
『我々が横に着いているより、気が楽で楽しめたのでは』
『やはり、スカウト達もディズニーランドが最大の目的地だったかも。』
『やはり、アメリカは楽しい国だと云う事が、わかった様な気がする。危険がーぱいの所もあるけれど、それになんと云っても、話しが出来なければと、つくづく思った。』
U.S.A. サヨナラパーティ
スカウト達、本当に楽しいし、USAツアーをしてくれました。このアメリカキャンプの最後の夜の食事と会話を楽しみ、食事を楽しむ余裕を持ってくれたことは、平素の訓練と、テーブルマナー教室、キャンプ中のパーティを通じ、体で覚えてくれたおかげとリーダー、一同は思う。アリガトウ。この気持を忘れずに持ってもらえたら・・・。
アメリカとは
『アメリカとは、もっと堅苦しい所だと思っていたんだけれど、行って見たら、服装なんか自分勝手と云うか、各自、自由な格好をしていたみたいだけど、人にはめいわくをかけない。住んでみたら、あんがい住みやすい所ではないかなぁ~。それと、たいがい広い、只広いと所だと思った』
『途中から参加するのはやはり、面白くない。もし次回も参加出来れば、絶対初めから行く。』
『この様な企画は100点満点では良くないと思う。腹8分目と云われる様に、何か不満、反省点を残したら、次の時はその点を良くしようと思い又良くなるのでは』
『とにかく、広い国です。アメリカと云う国は、又行きたいですね。』
ローカル通信 昭和58年9月1日号
ボーイ(大阪11・111団)&ガール(大阪62団)スカウト
第1回アメリカキャンプ顛末記
派遣団長
日本連盟で初の試みに挑戦
58年7月30日午後6時50分、今津円通寺に団本部を置く日本ボーイスカウト大阪第11団、第111団、ガールスカウト大阪第62団のスカウト、指導者105名が、NW(ノースウエスト)116便にてホノルル経由サンフランシスコへ向けて出発した。
今回のアメリカキャンプは、平素訓練してきた一大集成で、純真な心でホームステイキャンプ、観察旅行を通じてアメリカの生活文化を知り、その国の人々に接することにより、新しい世界が開け、国際感覚とマナーを身につけ、人生における大いなるステップとなることを念じ、計画したものである。
単独団で105名という多人数で海外にキャンプすることは、日本連盟まして大阪連盟でも初じめてのことで、ただ成功裡に終わることを祈るのみであった。幸いにしてボーイ(ガール)スカウトアメリカ連盟の親身なる協力にて、初期の目的を達成することができた。
家族の一員として受け入れ
ホームステイは、2~4名に分かれてアメリカ人の家庭に世話になった。(アメリカ人の家庭は英語のみで、日系人の家庭では2世が日本語が話せるが、3世は全然通じない。)何日聞かの生活を通じて感じたことは、食事のマナーの艮さそしてしつけの厳しさ、さらにリッチな生活をしている人ほど質素であるということ。日本では子供には寛大で、悪いことをしても眼をつむり、見過すことも多くあるがやはりしかるべきときはしかるという光景がよく見られた。
出された食事は何も残さず食べる。これは「心を込めて作ってくれたもの」という思いやりの心であり、「自分たちが作ったものは残さないでほしい」との願いからだということがわかった。そして勉強はよくする。それも親にガミガミ言われてするのではなく、自分で計画を立ててしていた。
スカウトの世話になった家庭は、両親共働きの所が多く、子供たちはお互いに仕事を分担し「両親の留守の間、家庭を守っているのだ」と自負し、空いた時間をショッピングに、プール(半分ほどの家庭にプールがあった)に、海にと連れて行ってくれた。日本の家庭のように、お客さまとしてでなく、家族の一員として受け入れてくれた。
また、スーパーでの買い物のとき、事いすに乗った人が入って来ると、店の人はもらろん、買い物に来ている人でも「何かお手伝いすることはありませんか」と10人の内7人くらいは声をかけていた。日本ではこのような人を避けて通っているのではないだろうか。
区民まつりでの訓練生きる
デイズニーランドでも、事いすに乗った人を多く見かけたが、乗り物も同じように乗っていた。日本では優先して乗れるかも知れないが、アメリカでは他の人々と同じく列にならぴ、順番のくるのを待っていた(入口だけは別にあるが)。スカウトが「お先にどうぞ」と声をかけたが、「けっこうです」と、当然のように順番を待っていた。乗り物に乗るときは、係員がいやな顛一つせず手伝い、周りにいたスカウトも手早く手助けをした。これも区民まつりにおける「キャップハンディコーナー」「身障者受け入れコーナー」での訓練を重ねてきた結果だ、とうれしく思った。
ホームステイも終わり、マウンテン・ビユー・テンプルに集合し、受け入れ家庭への感謝パーティーを開いた夜、後片付けのため、机やいすを収納していたとき、1人のスカウトが舞台下のスプリンクラーを誤って壊してしまった。すかさず近くにいたスカウトたちは、だれに命令されるまでもなく、一斉に力を合わせて処理している姿を見て、駆けつけた消防薯の担当官やテンプルの住職が「アメリカのスカウトだったら、手をたたいて書び見ているだけなのに、さすが日本のスカウトだ。平素の訓練を積み重ねている証拠だ」と、しかられるかと思っていたのに、逆にほめられて一同恐縮した。
キャンプ
わがスカウトは毎年のごとく行なう。しかし、アメリカのスカウトがするキャンプは、日本でするキャンプと一味も二味も違ったキャンプであった。キャンプ場でのスタッフは大人の管理人が1人で、あとは16歳ぐらいの少年たちである。われわれがキャンプ場に入ったときは、彼らは6週間目を迎えたころだった。疲れも見せずわれわれを迎え、食事の世話、プログラムの世話、その他キャンプ場でのいろいろな世話をしてくれた。自分の受け持っているパートを、自信を持ってこなしている。姿は立派としかいいようがなかった。
堂々たるパーティーの態度
日本のスカウトも、そのプログラムにだれ1人不満を持たず、かえって楽しみながら完修した。このことを誇りに思うとともに、わがスカウトの将来は輝かしいものだと思ったのだが、いかんせん、体力の差はやはりあるものだ。というのも20センチぐらいの厚さのハンパーガーを食べ、1.8リットルぐらいのコーラを飲む姿を見て恐れ入った。こららの175センチぐらいのスカウトよりも、頭一つ大きい少年が16歳。加えてくつのサイズが32センチとは、ああ。
キャンプも終わり、観察旅行(一般では観光と言う)で、ヨセミテ国立公園に行ったとき、久しぶりで日本語が聞かれた。その声は、大声で生徒をしかっている先生の声だった。その集団は、東京都内のA女子高の研修旅行で、先生が声をからして生徒を集合させていた。たまたまわれわれスカウトも、同じ場所に集合しているときで、スカウトは定刻前に各班長の指示にしたがって静かに集まり行動を開始した。引率の先生は、感心したようにわれわれを見送り再び生徒をしかっていた。らなみにその女子高の集合が終わるまでに約20分かかっていた。
その日の夜のことだった。リーダーは手分けして各ロッヂの点検を終わり、シャワーを浴びに行く途中、大きな声で騒ぎ回り、中にはネグリジェ姿で外をうろついている女生徒がいたので、わがスカウトリーダーがたまりかねて注意した。A女子高の先生は「すみません、お互いに大変ですね」と言われたが、われわれは別に大変なことではない。「明日のために寝る」、スカウトでは当然のことだから。
また、朝のことだった。「おはようございます」と、スカウトが挨拶しても、日本人は知らん顔。にこやかに返事が返ってくるのはアメリカ人だけ。これも日本人の悪いところかな、と反省もちよっぴり。
アメリカ滞在は日数にしてわずか16日間。ホストファミリー、キャンプ、ホテル、観察とアメリカを見て過ごした生活も最後に近づいた。これまでのアメリカ生活をまとめる意味でのホテルでのディナーパーティーが行なわれた。このパーティーでのマナーは、目を見張るものがあった。よくぞここまで、と言うはどの姿が見られた。わが団のスカウト諸君、わずか16日間でよくぞここまで育ってくれた。それは堂々たる態度であった。肩を張らず、自然に身についたマナーであった。
食事は、食べ物を自分で取るビュッフェスタイルである。日本ではバイキングとも言われる。参加者105名と、人数が多いため、初めに取って食事をした者が食べ終わるころ、あとの者が食べ始めるといった状態だったが、会場には大きな話し声もなく、整然と食事をしていた。
体で覚えた成果に期待抱く
人間空腹になれば声も大きくなり、いらだら、待ち切れないものだが、そのようなこともなく、このアメリカキャンプの最後を解る食事を、会話を楽しみ、食事を楽しむ余裕を持ってくれたことは、平素の訓練と、年に一度のテーブルマナー教室、キャンプ中のパーティーを通して、頭で覚えるのではなく、体で覚えてくれたおかげと、リーダー一同心から喜んだ。この余裕が、今後のスカウトの人生にいかに有効に生かされることかと、期待を抱かせるアメリカ18日間のツアーだった。
USAキャンプ場見て歩る記①
USAキャンプ場見て歩る記と全米のキャンプ場を見学してきた様な”オオゲザ”なタイトルになっておりますが、カルフォルニア州だけでも日本と同じ位の広さです。その中でもサンフランシスコ周辺のキャンプ場を5ケ所程度、見学してきました。(5ケ所だけでもUSAのキャンプ場)
昭和62年夏に、第2回アメリカキャンプが実施されるので前回のCutter Scout RSVTNと異なるキャンプ場と云う話しがあり、団会議でも下見の必要性から下見派遣の議案が出ていたが、『私が・・・』と云う人が出てこないので、夏季キャンピックが済んだ8月22日頃に奥田BS団委員長から、「日程は9月6日から13日まで、もし休暇が取れそうなら下見に行ってもらえないか? 航空券も手配済みなので・・・」と電話がありました。
「しかし、私はパスポートも米国入国のための査証も期限切れだし、休暇も申請しなければなりませんので」と云ったら、パスポートは10日程で取得できるから大丈夫と云われ、朝会社へ出勤する前に区役所へ寄り、戸籍抄本と住民票を取り、夜にはパスポートに張る写真を撮影し、会社では上司に休暇の申請をし、書類一式を揃えて、25日に府庁へ旅券の申請にと慌ただしい日を過ごして、9月2日にパスポートを取る事が出来た。下見のための打ち合わせも、出発前日の5日夜に奥田BS隊長、奥田アダルト、畑井恭子Srリーダー、私と四人が集まって下見の項目を出して検討し、翌日の集合時間を確認した。
9月6日(土)、団本部に昼すぎに集合し、スーツケースを車に積み込み大阪国際空港に向う。奥田団委員長や団関係者が手を振る中を出国ゲートヘ、今回の航空機はユナイテッドで日本乗り入れが比較的に新しい航空会社、前回の下見はパンナムで、第1回アメキャンの時はノースウエストと3回とも異なる航空会社だった。ユナイテッドの場合は大阪からサンフランシスコヘの直行便で第1回アメキャンと同時刻ごろに大阪を出ても、成田にもホノルルにも寄らないので、同じ6日の朝8時ごろにSFOに着くと云う利点がある。
搭乗の時間がせまってきたのでフィンガーの方へ行く、通路の窓ガラス越しに空港ビルの屋上を見ると見送りの人たちが手を振っている・・・。我々の乗る機は14:35離陸のUA-810便で座席は機体後部だ。時間になっても機はランウェイの方に移動もしない。機体整備と云う事で50分遅れて離陸した。(出発の時から、トラブルが出て何か見通しが暗いなアーと思う)離陸直後に下を見ると西宮球場、甲子園球場が見え、そして淀川、大阪駅周辺が箱庭の様に見え出した。
機長のスピーチがあり目的地SFOまでの飛行時間は9時間13分の予定と放送がある。16:26東京上空で高度9900mよくゆれる。と思う間もなく夜の闇が機体を包んでゆく。上空には星がキラキラまたたいている。
06:45 (日本時間22:45 )夜が明け出した、左側には日の出が見られる。
07:15朝食が出る。
08:38(00:38)SFO着。
気温14 °C、曇、肌寒い。
[記 北村 稔]
USAキャンプ場見て歩る記②
第1回に引き続き、USAキャンプの下見報告をします。広大なアメリカでキャンプ場の下見をするのには、一週間ではとても短かいような気がします。
というのは、日本なら、1日で数力所見れるのが、アメリカでは1ヵ所という具合なのです!
残暑厳しい大阪より、9時間余りのフライトで、秋のサンフランシスコに到着し、気候の違いに驚いた。空港でアイドマンさんの出迎えを受け、ひとまずアイドマンさん宅へ。少し休憩を取り今回の下見の打合せを行い、一週間の予定を立てた。
午後より、ローリングキャンプを見学した。ここは昔、レッドウッドを材木として切り出す作業場の名残りで、蒸気機関車で、森の中を一周するコースになっている。
夕食時には、ペギーさん、リンダさん夫妻が訪ねて来て下さり、GSキャンプ場や方法、又こちら側の希望等を色々夜遅く迄話合った。やっと就寝時間になり時計を見ると、0時30分。大阪を出発してより、約36時間も寝ていなかったのである。
第2日目は、日曜日なので、BS・GS連盟は休みのため、この下見で唯一のフリータイムになりました。
第3日目は、BSキャンブ場の見学の予定です。Los Altosのアイドマンさん宅より、サンフランシスコ湾を横断するサン・マテオ橋(全長11マイル=17。6Km)を渡り、オークランドのBS連盟を訪問し、キャンプについての打合せをした。連盟からフリーウェイ101号線を北上し、午後1時に Camp Royaneh に到着。
管理人の方に、馬場、プール、食堂、管理棟を案内してもらう。前回の Camp Cutter より数段と広い。少し見学するだけで一苦労。テントサイトでの昼食後、カヌーサイトを見学。
このキャンプ場のカヌーサイトは、自然の川をせき止め、カヌー訓練に利用していた。私達が訪れた時は、シーズンオフのため、水量は減らしているとのこと。またカヌー訓練、水泳に参加するには入所時にテストがあるとのことです。
キャンプ場を後にした私達は、太平洋側に出て Fort Ross という昔のロシア軍のトリデを見学し、1号線を南下し、サンフランシスコに向った。
”ゴールデンゲート橋”を見おろす事のできる丘に立った時には、夕方になっており、大平洋から吹きつける強風で、身体も舞いあがって行くようだった。
市内で夕食後、おもわずデザートに”ハーゲンダッヅのアイスクリームを食べてしまった。
次回はGSのキャンプ場についてからです。
アイドマンさん宅到着23時過ぎ。
[記 畑井恭子]
USAキャンプ場見て歩る記③
9月9日第4日目、時差ぼけも少しは良くなってきたが眠い目をこすりつつサンタクララのGS支部を訪問。ペギーさんもこられ、会議室に案内され早速今回のキャンプについての話合いを行った。
その後スカウト達が協力して建てたログハウス(丸太小屋)建築のビデオを見せて頂いた。打ち合せの後、ガールスカウトのキャンプ場 Hidden Falls ヘ、ペギーさんの案内で向かった。
ペギーさんの運転はすごい、アメリカの最高速度制限は55M/hですよ。 75M/hもだして、San Jose から45分で到着、しかし管理人がいなくゲートが閉まっている。
しかたなくゲート前に車を置いて徒歩で中に入っていった。なんとゲートからサイトまでの長いこと途中でシカが出てきて我々を歓迎してくれた。
キャンプ場パンフレットの説明文を翻訳すると。
「Santa Cruz に近く11万坪のサイト、高い木、快晴の日々、そして涼しい夜が貴方を待っています。木々の間、星の下の寝床、野外食堂での楽しい食事、生涯の友を作るキャンプの間中満ち足りた日々、興奮する活動、プールでの水泳、美術と工作、ゲーム、ダンス、キャンプファイアー、そして滝へのハイキング。」と
書かれている素晴らしい環境である。
ペギーさんと一緒にキャンプ場内を見てゲートに戻ると管理人一家が買物から戻ってきた。もう一度場内に戻り遅い昼食を食べるこのときの気温19℃快適な気候だ。
食後、ペギーさんと別れてリンダさんおすすめのモントレー水族館へ行く、その後カーメルの街を見学して歩く。しかし時聞か遅いのでどの店も閉まっていた。
夜はペギーさんの招待でサンノゼ空港滑走路横のレストランでご馳走になる。この日もアイドマンさん宅到着23時頃。
第5日日、午前6時起床リンダさん夫婦と共に2台の車にCB無線機を積み込みBSのキャンプ場 Camp Hi-Sierra に向かって出発。途中無線で案内をして頂いたりしながら約4時間で到着の予定が5時間。リンダさんの主人は安全運転45M/h以上は出さないのだから。
このキャンプ場はシェラネバタ山脈のなかにありつい最近までアメリカライオンが出没していたそうだ。
素晴らしい? 昼食後キャンプ場を見学する。設備は Camp Royaneh と同じ様であるがプールがない、水泳は川で行う。なんとこの川で砂金が採れると言う、リンダさんの主人は持参した砂金堀の道具を車から運んで挑戦している。北村団委員長も仲間入り。さて採れるかな。
第2回BGSCアメリカキャンプ
派遣団長
わがBGSCの初めての試みとして第1回アメリカキャンプが行なわれて、はや4年が過ぎ今回第2回のアメリカキャンプを実施。7月25日午後、リーダー、スカウト、総員65名が団本部を出発したが飛行機のトラブルにより大阪のホテルに一泊して、26日大阪空港よりアメリカヘ飛び立った。
今回はアメリカのスカウトと一緒にー週間のキャンプということで、機内では我がスカウトも興奮気味でほとんどのスカウトは睡眠を取っていない様でありました。
現地到着(26日午前5時)すぐホテルこて朝食、着替えてからボーイスカウトは市内見学よりキャンプ場へ向かう途中、全員ダウンで車内にて眠りにつく。ガールスカウトはホームスティからキャンプ場に向かう日程で、サンフランシスコ空港にて8月1日の合流を約束しての一週間の別行動でした。
勉強になったアメリカキャンプと合同キャンプ
7月26日16時過ぎにキャンプ場到着。
すぐサイトイン、日本のキャンプ場と違い設営もなくスカウトもこの時間には大分元気になり、初めて経験する夕礼(17時30分)日米合同の儀式に出席し、いよいよローヤネーキャンプ場の一員として生活が始まりました。朝夕(7℃~8℃)、日中(30℃~32℃)と寒暖の差があり夜は寒くて眠れませんでした。
27日からアメリカのプログラムにより我々も一緒に参加することになりスタッフの注意を守りながら楽しく日本ではできないプログラムに挑戦しました。
キャンプ中感じたことはアメリカのスタッフもスカウトもキャンプを楽しんでいることには感心しました。スタッフもスカウトを楽しませる術を知っているからだと思いました。日本のリーダーももっと勉強すべきではないでしようか‥‥
キャンプ中一番印象に残ったのは7月30日夜川岸でインデアンの様式にのっとった厳粛なセレモニーでした。この式典を見ただけでも我々は非常に勉強になりました。
心暖まるホームステイ
今回のキャンプ、ホームステイはサンフランシスコ29隊の沢田隊長(日系二世)に大変お世話になりました。サンフランシスコの西本願寺でのパーティーのもてなし等はアメリカ人らしく料理も持ち寄り(手作り)で心からのもてなしで全員が久し振りの家庭の暖かさを感じたようでした。又観光にと、夕方遅くまでホストファミリーの気遣い、途中で会ったスカウトの顔を見ると満足感に浸っていたように見えました。おそらくスカウトも人の親切さ、心の暖かさ、又家庭のなかでも勉強になったろうと思います。
少年少女時代の思い出として一生忘れることもないと思います。スカウトが集まれば「僕の家はこうだ、私の家はこうで‥‥」という風にスカウト同志でお世話になった家の話を楽しそうにしているのを見て、私もお世話になった皆様に感謝の念で一杯でした。
今後我々がお世話するときが来たら必らず満足して帰って頂けるようにしたいものです。
観察旅行
前半のキャンプ、ホームステイと気を使ったプログラムも終り;いよいよ我々だけの旅行スタッフは2回目であったが、スカウトはほとんど初めての旅、見るもの全て珍しく楽しそうでした。でもリーダーはより以上に事故のないように注意していました。
今回はヨセミテ公園も前回の反省で1日多くして、大自然での散策、プール、頂上の山中の観光と疲れも見せず満喫していました。
3日間の大自然の中での生活に別れを告げ、いよいよロスアンゼルスヘと出発。途中一大遊園地マジックマウンテン(バレンシア)にて夜遅く迄楽しみ一泊。そして最後の目的地デイズニーランドヘと向かい、8月8日夜は日程の都合上、早目のアメリカキャンプのお別れパーティーをホテルにて行い、8月9日、10日とディズニーランドでの自由行動としました。
前夜祭より見たディズニーランドの駐車場は一杯の車でしたが、朝見ると1台も車がなくびっくりしました。2日間ともぬけるような青空の下、また表現もできないような人ごみの車で、スカウトは貪欲に乗り物の行列の中に入り、待って乗り、また見るものもすべて見て、土産物も思い思いに買って楽しい思い出を沢山作り、最後の日まで有意義に生活したようでした。
反省と御礼の一言
今回も団長として参加しましたが、今回は前回に比ベ、キャンプといい、ホームステイまた旅行にしても、前回の反省の上に立って計画されたので、今回のスカウトは得ることが非常に多かったろうと思います。
一方、スカウトの気質を比べれば、前回全員が注意深く慎重だった事に比べ、今回は全て物おじしない場慣れしているような態度を見かけました。その反面リーダーは絶えず注意をし事故のないように気遣っているのを見て気の毒さも感じました。
何はともあれ全員無事に帰国できて万々才でありました。
これもーつにはリーダーの注意・指導のおかげと感謝し御礼申し上げます。ご苦労様でした。
最後になりましたが実現していただいた奥田団委員長、またアメリカでお世話になりましたアイドマン家の先生、奥様、そしてカールさんにも厚く御礼申し上げます。本当に有難う御座居ました。
スカウトの皆さんも参加させて頂いたご両親に感謝し、今後立派な社会人となるようにスカウティングに精出し、努力し、一人でも多くの仲間を誘ってください。
BGSC第2回アメリカ・キャンプ
副団長
ガールスカウト・サンタクララ支部には、前回のキャンプと同じく、快く我々を受け入れて下さり、サンノゼ滞在の10日間、キャンプ参加や、ホームステイにと、スカウト達に、豊富な体験をさせていただく機会を与えて下さった事に感謝の気持で一杯です。
ガールスカウト・サンタクララのリーダー方のご尽力で、ホストファミリーが、まだうす暗い早朝にも拘らず、遠路はるばる出迎えて下さり、一年ぶりの再会に抱き合って喜ぶスカウト、初めてのホストファミリーとの出逢いの光景、そして、その夜招待された支部主催のウエルカム・パーティでは、ホストファミリーの心づくしの料理でのもてなし、リーダー、スカウトが一年がかりで記念品贈呈のための資金づくりの奉仕をされた事、また、アイドマン家には書類作成、電話連絡、ミーティング参加と、62団との橋渡しのお役目に多忙をきわめていただいた事など、多くの方々の身に余る親切は、生涯忘れる事の出来ない大切な思い出として心に残る事でしょう。
昨年夏、来阪された、サンタクララのスカウトとは数日間を共に渦したとは言え、考えていたアメリカ人気質とはうらはらに、河内人間の義理人情に似た気配りに、思いがげず驚いた事もしばしば、国が異なり、生活習慣、言語、性格など全く違っていても、お互いスカウト同士、意志の疎通があれば相互理解の上に結ばれた友情は、心配されている日米両国の貿易摩擦などには関係なく、これからずっとサンタクララ支部と大阪62団との交流は続くでしょう。
スカウト達が、滞米中に得た尊い体験を、これからの人生に活かして成長され、若し3年先の花の万博に来日されるスカウトがあれば、率先して受入れ国際人として、あふれる友情をそそぎ返して欲しいと念じる次第です。
副団長
今回のアメリカキャンプのメインである、CAMP ROYANEH(BSのキャンプ場)の事とエピソードなどを記したいと思います。
ここROYANEHは、サンフランシスコからサンタローザを経由して約2 5 0Km程、離れた北にある。
キャンブシーズン以外は、管理人一家が広大なキャンプ場を管理している。しかし、シーズンになるとキャンプスタッフがやってきて、スカウトの受け入れをする。その人数の多い事にびっくりした。
キャンブディレクターのグロスさんをはじめとして、40名以上いたのではないかと思う。
スタッフはプログラム、作業内容によってそれぞれベテランが配置されていて、朝礼や夕礼の時に各ブログラムのディレクターが前へ出て、参加を呼びかける。通り一ぺんの言い方でなく、自分達の個性を出したしゃべり方で話しかけるのだ。
ここには、14ケ所のサイト(各サイトには名称がついている)があり、各プログラムの実施場所か広い場内に散らばっている。
その広さはこのキャンプ場の中で、数時間のクリークハイク(沢歩き)が行なえる。
ダイニングホール
ここで朝昼夕と食事をするが、各食事の15~30分前にラッパでウェイターコールかかかる。
(起床、朝礼、夕礼、就寝などもラッパ)
ウェイターは交代で勤め、自分達の使用するテーブルに食器、主食、副食、飲物を配膳する。パンや飲物が無くなればウェイターが取りに行く。しかし、サラダ類は欲しい者がワゴンヘ自分で行く。また、隅にはコーヒー、紅茶が置いてあるが成人リーダー以外は飲む事を禁じられている。このキャンブ場には我が団の他にも、日本のスカウトがキャンブインしていたが、この規則を知らないのか無視しているのか、スカウトがトレイに6~7人分のコーヒーを乗せて運んでいる姿が目についた。また、サラダワゴンの所では、トレイ紙皿を広げて、現地のスカウト達が整然と並んでいるのにおかまいなく5人分のサラダを盛りつける。要領か良いのかあつかましいのか?
スイミング・カヌー訓練
スイミングにしてもカヌーにしても訓練を受けるには、プールでどんな形でも艮いが泳ぐ事を条件づけられているこのテストに合格しなければ水泳もカヌーも駄目。
カヌーベースは、15分程山を下った所にあり、練習中は誤って水中に落ちても、ボート上に立っても怒られる。しかしキャンプ中にサンフランシスコ29隊から援助要請のあった昼食抜きのゲーム、パールハーバーの戦いは、現地のスタッフと日系のスカウトが毎年恒例の如くやっているゲームで、この時はカヌー同士激突しても、泳いで相手のカヌーをひっくり返しても、カヌー上で立っても良かった。その荒っぽいゲームのお陰で我団のシニアスカウトは、カヌーをあやつる技術がすこぶる上達したという事を聞いた。
アーチェリー
ここには我団の辻野副長と背丈、顔つき、動作がそっくりの「マーチン」というスタヅフがいて、我々と非常に気が合いアーチェリーレンジヘ行くと何時でもさせてもらえるし、終れば記念に矢を持って帰れとプレゼントまでしてくれた。
乗馬
ダイヤモンドRコーラルと呼ばれ、馬が20頭以上飼育されていて競技用の馬場もあり、簡単な注意事項を聞いた後、訓練は1時間コースに挑戦、キャンプ場内の丘を上り、斜面の細い道を下り、川を渡りと7~8人のパーティで、前後にスタプフが付き乗馬を楽しんだ。
まだCOPE、トイレの事など書きたい事がありますが紙面の都合で割愛します。
旅立から帰国まで
H.T.
アメリカヘ行く前日、僕の心のおく深くに、不安の心が70%、楽しみの心が30%合計100%の心が、僕の心中でダンスしていた。出発の朝、鶏のこけこっこーという高々としキュートなそれでいて、オチャメな声で、僕の、7月25日が始まった。いざ大阪空港にと言う前に、朝食をのどを通した。それも、不安のせいか、朝のこしひかりまでが、お腹の中で、ダンスをしていた様だった。その時の会話も済み、団本部に「俺は、アメリカにいくんだぞーもんくあっか。」という、面で、乗り込んだ。
団本部に着くと、みんなが緊張の顔で、こちんこちんになっているのもいうまでもない。僕は、団本部での心は、ジャパンをはなれて、サンフランシスコの日本人町のタコ焼き屋の前で、タコ焼きを、食べているかのように、うかれていた。
とうとう、大阪空港で僕たちは、ひたすら、僕たちの夢を運んでくれる飛行機を待っていた。しかしそこで、僕たちにとっては、重大なしかしかもショッキングなニュ-スが、僕の耳に失礼しますと言って入ってきた。ガビーン(注意上の音は盛り上げるための音です。)それは飛行機が一日遅れるという悲惨なことだ。た。それからパスに乗って、どこやら連れて行かれたのです。それを待ち受けたのは有名なグランドホテルだったのです。
(しかも一人の部屋)僕は、そのままとくしたと思った。その時部屋に入ってわあーいいい部屋だとろうかに出たその瞬間、なにやらカチンという音がした。その瞬間1092の部屋は、僕をろうかにおいだした。部屋に入ろうとしても僕を嫌っていれてくれなか、た。その証拠に自動にかぎが勝手にしまりましたと、恐怖の声で泣き叫ぶと、フロントのお兄さんが「部には自動ロックかかっいていて勝手にしまるんだよ」と教えてくれた。
(途中からうそです。)
次の日の朝とうとうアメリカに着いた。その時の僕の心はロンリー気持ち・・・それから市内観光も終わりキャンプ場に行った。初めはキャンプで2週間ちょっとのアメリカキャンプ生活の1週間を便うのはちょっともったいないような気がしてたまらなかった。しかしキャンプの中間で、このキャンプ・ローヤネのすばらしい仲間そして環境のことに気付いた。そしてプログラムもまた楽しい。プールにも行った。僕はライフルに行った。僕の友達の田中君は、前々から彼はライフルにチャレンジしたかったと語っていた。しかし、彼は馬を乗りに、僕の目の前に姿を消した。その瞬間僕の脳裏に彼の馬にけとばされて、ずたぼろになって帰ってくる姿がかけめぐった。そういうこと、僕は、ライフルしにプールから遠く離れたところにでかけた。ライフルもおもしろくて9点のところに当たった。これで馬に乗っていった彼にも大いばりをしようと思って帰ってみると、彼は僕に馬は、面白いでーとにこにこしていった。僕は、彼のいつもの負け惜しみと思っていた。そして明日はお馬さんに乗っけてもらって、ツーリングをしよっと心の底にちかった。そして次の日、馬を乗りに行った。僕の馬さんは意味もなくダプシュをしてしまった。たまらなく恐かった。僕はその馬に殺気と恐ろしさだけを感じた。乗っていると馬にも愛情があるのに、しみじみと足から頭の先までかんじとったのである。僕の愛情が感じたのか馬も言う事をきいてくれた。
楽しいツーリングも終った。一つ楽しい思い出ができた。馬もジャプキーたちTHANK YOU VERY MUCHと心の中でつぶやいた。通じただろう。もし通じていなければもう二度言おう日本語で「有難うございました。」となんとか言っているうちは夕めし時だった。相変わらず隣の子はメロンばかりをむさぼっていた。汚いものを見るような目で見たった。という僕も、負けずにむさぼった。それも青春の1ページだっただろう。その他にプールもした。5時ごろになるとプールは寒くて、寝ていた。ある一人の少年がいる。一緒に泳ごうと言っても彼はくちびるを紫にして、こんなんで泳いだら寒くて死んでまうやろ、せめて死ぬ時ぐらいは背広ぐらい着てかっこいい顔して日本の自分のお家で死にたいわ、アホ、バカ、死ねと言いたそうなFACEでいっこうにSWIMMINGしてくれなかった。そこで意地の悪い僕がHEに向けて、水を思いっきりかけてあげた。友はあわてて逃げようとした。そこで奴は腰が抜けたのであった。まわりにいた人は一斉に声を合わせて、一言「なむあみだぶつ」彼は、いつものSTUPDな、爆笑しながら顔がひきつり、痛がっていた。それも、一つの笑い話だろう。
キャンプお別れパーティーの時、スタッフの人から、カモンと言われその人のテントヘと行った。暗くて全く見えないところを走らされたので、何回もこけかけた。テントに看くと何やら音楽をかけてLIKE?と言った。その場はYES以外の言葉はない。そしてUNIFORMとハッピをかえようと言ったとても、ハッピーだった。・・・は (ため息)。そしてキャンプ場AND GOOD FRI-ENDとの別れだった。出会いがあるから別れがある。と僕の心ヽに刻んだ。しかし僕の黒ダイヤのような瞳から、一粒の真珠がこぼれた。
GOOD BYE CAMP ROYANEH そして仲間達。
そして、ホームスティのWELCOMEパーティーでまゆ毛がりりしいTHEモト君と、話をそていた。モトは。うそをついてばかりいた。お父さんは日本人、お母さんは中国人と言っていた。そして別れの時、MRのぼるのCARまで行った。するとモト君が立っていた。そして本当の事を聞くとバリバリの日本人で、MRのぼるのところにホームステイをしているだけだったのです。そしてその夜は、丑みつ時にとこに入ったのは皆さん百も承知だったでしよう。別れのとき、MRのぼると握手をしました。その手は強くしかも暖かかったのでした。MRのぽる、奥さん、ジェイソン、ジェイミ-、さくら、有難うございました。
次にヨセミテ、これも最高でした。一日中自由のとき、10ドル75セントの出費で人力二輪車を偕りて川までドライブに行きました。その川で朝から泳ぎました。その川のひやっこさは、まるで裸で、いちご味のかき氷をたべながら、白熊と北極の海で泳いでいるようにつめたかったです。それでも、JAPANESEのRADIO体操をして、川の水に挑んだ。でも、一瞬にして岸にあがった。
でもこれでは川さんに負けると思って、泳ぎ始めた。そして、数時間、高さ7mぐらいの橋から飛び降りはじめた。初めはこわかった。でもガキの時分ナショナルキッドのまねをして右手にかいでんをもって、少し高い所から飛び降りた勇気を片手に持っていたので、多少のことではくじけなかった。でも、恐怖という名の石につまずいた。そこで僕は、立ち上ってつまづいた石をけとばしてやった。そして6回飛び込んだ。そして時が流れYOSEMITEとの別れ路を進む悲しいときになっていた。さようなら、忘れないでいてくれ。YOSEMITE公園・・・僕のことを。
次は、あのミッキーマウス市長のいるディズニーランドだった。僕は何を見ても驚かないように心にちかった、日本人として。BUT、駐車場を見て、これがまた驚いた。乗り物に乗って、これはおもしろいと、驚いた。夜は夜でパレードの美しさにも驚いた。パレードのスキにのりものに乗ろうとしたけれど、まるで、ゴキブリホイホイに、つかまった、お食事に昨日のおかずのすき焼きの肉のかすを食べているゴキブリのように、動けなかった。それは、パレ-ドがあまりにもおもしろかったからである。ディズニーランドでは大きな大きなぬいぐるみを買った。
ディズニーランドでは、驚き・驚き・驚きばかりであった。このディズニーランドの作文は、驚くの漢字練習をしているようだった。この楽しかったディズニーランドにも悲しい別れの後ろ姿を見せてしまった。その偉大なAMERICAとの別れが、後数日いや、後数時間とせまっていた。僕は、いま、バカボンで見たようにアメリカと日本がくっつくのを夢見ていると息えば、もうロスアンゼルス空港にいた。そして飛び立った。ふと気がつくと、もうサンフランシスコ空港にいた。そのあいだ僕は何をしていたのだろう。そこで思いだした。熟睡していた。
アメリカを飛び立つとき、心の中で、CAMP ROYANEH、ホストファミリー、ヨセミチ、マジックマウンテン、ディズニーランド、そLて、アメリカ全国土に、イヤサカ、イヤーサカ、イヤーサカの言葉をつぶやいた。これほど、心のこもったイヤサカはなかっただろう。
さようなら・・・・・・MY AMERICA
Remember Camp in U.S.A.
N.M.
出発当日の朝、僕の胸の鼓動は高まる一方だ。段々脈拍が早くなってきた。だ、だ、誰か助けてくれー・・・。とこんな事はないか、私はついに資本主義最大の国、自由の国、でかい国、日本と仲良しの国、アメリカlこ行ってきましたよ。
とにかく向こうのキャンプ場の設備はすんごくちがう。なんせ広い、これだけ!キゃンプ場ではライフル、日本では当然できない。なかなかいいですぞ。続いては乗馬。日本では鶴見緑地のポニーで2周しか乗っていないのをいきなり1時間、馬に付いてくる人もなく山道を歩いた。こうしてキャンプ場の生活が終りホームスティ、ヨセミテと続き、ディズニーランドと続く。
しかし、ディズーランドは最後を飾る最高の場所。入場料20ドル。もう癖になりそう。特に夜のパレードがこれまたグ-。
初めての海外旅行、アメリカ。行くところ全てがよい経験となった17日間のアメリカ生活であった。では‥‥いやさか
アメリカよまた逢う日まで。
K.T.
飛行機は墜落せず、無事サンフランシスコに着いた。空港を出た時少し寒かった。けれどもすぐになれた。バスに乗りホテル迄行き、休息をした。そして又バスに乗りキャンブ場に着いた。
僕はこのキャンプ場で色々な事をした。ライフル、アーチェリー、乗馬、カヌー、夜はキャンプファィヤー等があった。この土地は、夜は寒いが昼間は暑いので、ひまを見つけては、プールヘ泳ぎに行った。毎日の食事はとても楽しかった。それになんと言っても、アメリカでは自分が外人なので、アメリカ人が日本へ来た時の心境がわかるような気がする。それにしても英語が話せないと言うの不便だった。なんとか身振り、手振りでごまかしたけれどとてもしんどかった。そうこうしているうちに1週間のキャンプ生活も終り、次はホームスティ。僕は白井さんと二人で、田代さんという家にお世話になった。この田代さんという人は日本人だったので日本語が通じて、とてもたすかった。次の日、グレイトアメリカという所へ連れて行ってもらった。乗り物がいっぱいあってとても楽しかった。夜まであそんだ。
次の日の夜、ファミコンをやらせてもらったけれど、日本のものとさほど変りはないけれど、楽しかった。ホームスティも無事終り、今度はヨセミテのロッジに泊った。このロッジの周りにはリスがいっぱいいた。ここでも楽しい事に変りなくとても充実した生活を送った。あっという間にアメリカキャンプの半分が終った。後はディズニーランドを残すだけ。とてもわくわくしていた。
期待どおり楽しかったが、ディズニーランドは広いので足が痛かった。ここで、皆のおみやげをどっさりと買った。
楽しかった日々もあっという間に終った。後は宿題を残すのみとなった。このアメリカキャンプは長かったようでとても短かかった。僕は、本当にアメリカに行って良かったと思う。
T.T.
7月26日、朝6時10分頃、低い男の声で、「しぽりたての牛の乳が欲しい。」謎の怪電話だった。俺は「しぽりたての牛の乳」を探しに渡米した。そして数時間後。俺はサンフランシスコに足を踏みいれた。そして、突然キャンプ場。俺は、早速牛の乳を探した。だが、ここには牛はいなかった。そこで、俺は日本最強の戦士7人を集め大阪IJIHANKEYSIを結成した。リーダーはご存知ミスターX。
そこで思わず、ホームステイ。そこで俺は、3日間お世話になった。しかし、牛の乳はサンフランシスコにはないという結論にブチ当った。
そして、今度はヨセミテだぞって。ここで、ヨセミテを紹介しておこう。ヨセミテよいとこ一度はお出で。そして、お次はマジッマウンテン。なに?面白ろかったって?アタリメスルメだ!。
だが難点もあった。それはあえて伏せておこう。そして今度は、ディズニーランド。ここは、Hene。(くっさいギャグ)くっさいくっさいっ。さーこれまたくっさい。
ここは、ディズニーランドだ。ここで俺は、丸1日遊びまくったわけだ。そして夜のパレ-ド。コイツは、えらいステキなショ-で、俺を夢の世界へと導いてくれた。その後、俺はHOTELに帰ると、ダランドホテルの電話の事など、キレイさっぱり忘れていた。
そして次の日、僕は帰国することになった。結牛の乳は手に入れることができなかった。
しかし、俺の胸はいっぱいだった。俺はこの合衆国での17日間に、俺様のhistoryをきざみ込んでやった。そして、俺はすばやく伊丹についてしまった。俺はそこで、大阪の空を眺め、一言「ただ今。」と言った。大阪の空は、やっぱりいつもの空だった。
いつしか、JIHANKEYSとやらは、夏の終りと共に消えて行った。かくして、第2回アメリカキャンプは幕を閉じた。
I.W.
去る7月25日、我々はアメリカに行く為に、まず一路大阪空港に向かった。しかし、困ったことに飛行機が4時間も遅れていた。仕方なしにゲームなどをして時間をつぶしていた。ちょっと痛い出費だった。次の日、26日の朝、こちらを出発し26日の朝、サンフランシスコに着いた。
簡単な市内観光のあと、キャンプ場に着いた。このキャンプ場で気付いたことは朝晩か寒く、陽がなかなか落ちないことだ。そして昼間、晴れると雲が一つもなく快靖が一日中続いた。暑かったが、湿度が日本より低いので汗はあまり出ないので、心地良かった。
プログラムでは、乗馬が一番良かった。(自分では)近くで成鳥を見たことがなかったので、大変でかく見えた。馬の操り方は、昔テレビで「ムツゴロウとゆかいな仲間達」でやっていたのを、思い出し、まあ何とか様になった。僕は運良く2回乗ることができ、2回目では自分の思うように馬を何とか操れて満足だ。たまには急に暴れたりしたが、落馬せずに2回ともすんだ。
キャンプ最後の夜、キャンプファイヤーがあったがなんせ英語で話すのでさっぱりわからなかったが、まわりの外人を見ると何か感動した様子なので、とっても良いことを話していたなと感じとった。
ホームスティでは、冒い吻に連れていってもらったが車がないと生活しにくいなと思いながら、アメリカの大きさを少し感じとった。
ヨセミテでは、橋の上から川に飛びこんだりといろいろやった。
マジックマウンチンやディズニーランドは、日本では考えられないことに入場料だけで乗り物などは。お金がいらなかった。このへんもアメリカやと思った。
最後に、このアメリカキャンプに出席させてくれた両親に感謝したい。
D.K.
7月25日朝一本部に集合Lた。それからバスで空港に行くと、飛行機が連れていたのでぶらぶらとしていた。そしていよいよ中に入りました。するとパイロットが疲れて寝ているので明日にな
った。その夜はグランドホテルで泊った。
26日、サンフランシスコで観光をしてキャンプ場に着いた。27日、プールでテストをしてキャンプファイヤーをした。28日、水泳をして、29日にもインディアンキャンプファイヤーをし
に、30日プール。31日サヨナラパーティをした。
8月1日、ホームスティのバーティをして、ハニ一斉藤さんの家に泊まった。2日、グレートアメリカヘ遊ぴに行った。3日、サンフランシスコの市内観光をして、中華料理店でパーティをした。
4日、ヨセミテ公園ヘバスでむかった。5日、ヨセミテ公園の観光をしてプールで泳いだ。プールはやたらと深かった。6日、バスでプールヘ行って帰りにショッピングをした。
7日、ロサンゼルスヘ行く途中でマジックマウンテンヘ寄って遊んだ。8日、ロサンゼルスに着いて観光をした。エディマフィやマリリンモンローの手形、足形があった。9日、ディズニーランドに着いた。10日、一日中ディズニーランドで遊んだ。夜のパレードはばりばりによかった。そして翌朝飛行機に乗り、サンフランシスコヘ着いた。空港でほとんど土産を買った。
大阪に11時間で着くとむし暑かった。次の日から時差ぼけになった。
M.M.
7月25日に、パイロットの関係で1日ずれて1日損した。でも、観光してすぐキャンプに行けて良かった。
キャンプで、色んな友達ができた。ライフルやアーチェリー、カヌーなど、いろいろなことをした。キャンプでも、いい思い出ができた。
ホームスティで、グレートアメリカに達れていってもらって、いろいろな日本にない乗り物に乗った。
が、すごく大きかったヨセミテという所に野生のリスや鹿がいっぱいいた。自然の環境がいっぱいだった。
ディズニーランドのホテルで、プールに10時まで入っていた。ひやっこかった。そして次の日、ついにとうとう、ディズニーランド、乗り物に乗るのが辛かった。パレードはなんともすごくきれいだった。
最後に、僕たちが悪いことをして、隊長や副長にご迷惑をおかけしました。
これで終らせていただきます。
O.K.
この第2回、アメリカキャンブでは色々の事があった。楽しい事を報告します。一番楽しかった所は、それは何と言っても「CAMP ROYA-NEH」でのキャンプでした。
まずに、日本の6人用のテントとちがい広かったし、食事が自分達で作る日本のキャンプでなく作らなくても良いし、雨は降らないし、その他に色々、楽なことがありました。
プログラムでは、馬に乗ったり、アーチェリーをしたり、ライフルをぶっばなしたり、カヌーをしては池にはまったりして、楽しい楽しいプログラムばっかりでした。
しかし、何よりも一番良かったなあと思った事は暑くなかった事です。暑くなかったというよりも寒かった。つらかった事と言えば家に帰ってからの宿題でした。
私の時差ボケは2日間でした。その間何も出来ませんでした。
K.Y.
アメリカ着! 僕はこの感激の一瞬をどのように表現したらよいのか?
広大な土地、ブルースカイ、そして、アメリカのオゾンを胸一杯吸いこんだ。(心の中で「やったぞー」と叫んでいた。)そこでA君が「オイヤッチンメチャサムイナ!」と一言。
キャンプ場に向かうパスの中、大半の人はおねむりしていた。しかし自分は・・‥やっぱり寝ていた。
キャンプ場で1台の車がやってくるのを見ていた。すると、その中から黒人のグループが舞い降りて来た。<はじめてあったスカウト> アメリカにもこまったチャンはいるもので、その①「キットカットプりーズ」と私は言った。すると「クォ-ターダラー?」と言って25セントをにぎりしめていた。私は一瞬金縛りを食らった。気をとりなおして「キットカット」といった。するとやっと「OH!キットカット」と言ってキットカットをくれた。50セントした。おいしかった。
キャンプフャイヤーそれは、最高の楽しみ僕達のロマンであった。一週間で5回もあった。そこでアメリカ式のスタンツの真髄を見た。目から熱いものがほとばしった。
おどろいた話、その1。僕はトイレを見て思わずチョンマゲかー!!とピビってしまった。そこにはなんと一つの部屋に5つの便器が並んでいるだけだった。スケールのでかさに顔から汗が旅流れ落ちた。
その他乗馬2時間コースの話。それは、私がテントの中にいた時のことだった。My Fatherが僕の方を向きながら「誰か乗馬行くやつおらんか」と言った。それはどうみても、お前行って来いと、そういう目をしていた。 僕の馬は、あばれん坊だった。コースの途中、私は、アメリカの夕日を見た。広大な山々、一人の男が馬に乗って夕日を眺めている。<オレは、西部劇のヒーローだ>と思わせるような景色。そして馬は走る、走る、走った。僕はしっかりコー
スをはずれていた。無事乗馬が終った。馬から降りた瞬間僕は学んだ。おしりが痛い。
この他に水泳、アーチェリー、ライフル、ロッククライムなど書ききれない位のおもしろいプログラムがもりだくさんあり、感動あり笑いありのキャンプでした。
何はともあれ、アメリカキャンプも終り、無事日本に帰って来ました。 僕は覚えている。親達が出迎えに来てくれた時を、17日間会っていなかった人達。うれしかった。そしてこの第2回アメリカキャンプが実施できたのも、父や母やリーダーのみなさまのおかけです。ありがとう。ありがとう。ホームステイのクアンさん「Thank you for everything」
N.T.
「ブルブルブル、むっちゃ寒いやんけ!」とこの一言から一日が始まった。そうなのです。このカリフォルニア州のCampRoyanehは気温の変化がこれまたすごい、朝はvery cold、昼はvery hot、そんでもってこれまた夜はvery coldてな具合でして‥‥‥
おっと、本文にもどらねば、この寒さにめげず朝食をすませた後にプールにいって水泳のテストをした。 100mでわけのわからんままテストが始まった。見ていると75mまで泳ぐのは自由みたいで、残りの25mは背泳ぎのようだ。そしてとうとう私の番がきた。私は水の中に入った、水はとてもつめたく、プールは深かった。泳いでいるうちに、ばててきた。最後の25mは非常に苦しくだんだんしずんできた。背泳ぎだから鼻に水がはいってきてプールからあがった後鼻が痛かった。この水泳のテストでチャーリーという人と友達になった。そして昼食で1人の男の子とぶつかってしまった。私があやまっていたら、その子は、ニコッと笑って自分のテーブルについた。昼食がすみ、私はその男の子を探していたが見つからず、自分達のサイトにもどった。そして昼のプログラムの乗馬を楽しんだ。馬でいろんな道を歩いた。その乗馬も1時間で終わり、夕礼に出て、夕食を食べ終わった後のフリータイムの時|にワッペンやらその他の物を替えたりする時に、私とぶつかった男の子がいたので、声をかけ名前を聞いた。エリック・エドワードという名前だった。私の名前をおしえるとタケユキをタケユクと言い、ニックネームタケ!と言うと「タケ・タケ・タケ!」といろんな発音のしかたでよんでいた。私の顔を見るたびに「タケ!」と言ってくれた。そしてその次の夜のチェンジ・タイムにエリックは私達のサイトに来た。エリックとい。いっしょに歩いているとまたもや1人の男の子が、ボクシングのような感じのフットワークをとっていて、パンチをだしていたので、私は空手のつきを「エイ!」と気合いをいれてしたら、びっくりして、「No, No !」と叫んでにげたので、「Come on」と言うとよってきたので「Japanese Karate!」と言って次は、けりを見せた。すると感心して「カラテ、カラテ、」と言って「エイ・デリリャ-」と叫んでいた。彼の名前はスティ-ブと言い、フリータイムは、ほとんどエリックとスティ-ブといっしょにプールに行ったり、ライフル、アーチェリ-、そして、私のサイトで、エリックとスティ-ブに空手を教えていた。そしてスティ-ブには、日本に帰ってから手紙をもらいました。
彼はCAMPをおえてから、ロサンゼルスにきてディズニーランドにいったということです。
てなわけで他にもたくさんの友達が出来た。アメリカにいけてほんとうによかった。
お父さん、お母さんありがとう!
T.M.
CAMPではプール、ぜんぜん泳げなかった。
カヌーは、水泳が出来なかったので乗れなかった。
アーチェリーは弓を引く時、力がいりそうなのでやめにした。しかし、ライフルや乗馬はおもしろく感じ、もっとやりたかったと思う。
ホームステイでは気をつかってしんどかった。次にヨセミテは山の上へ、大きな木を見に行った。次の日、自転車でサイクリングを少しやって、後は川で泳いでいたのだが、他のやつらは、橋の上から川へ飛び込んでいたが、あんなのはしたくなかったのでしなかった。
マジックマウンテンでは、フリーホール、クロッカスはわりとおもしろかった。 そして最後の夜は、ディズニーランド、ジェットコースターの様な乗り物には一度も乗らなかった。お化けやしきやカヌー(17分位のもの)キャプテンEOとかである。
ディズニーランドも別におもLろい程でもなかった。
K.Y.
僕はアメリカキャンプに行って楽しい思い出をたくさん作りました。その中でも一番印象に残っているのはキャンプ中です。
キャンブでは日本と違ってアメリカは、ライフルや乗馬やアーチェリー等その他たくさんのブログラムがありました。
僕は今までしたことのないものばかりなので最初はすごく不安だった。だけどやってみれば、ライフルやアーチェリーなどで、良い結果が出ました。
アーチェリーではともだちと大会をして2位になりました。
ライフルでも30点以上得点が出たのですごくよかった。
乗馬は日本でも乗ったことかあるけれど、アメリカの乗馬は一時間ぐらい乗っていたので、降りるときはすごく、けつか痛かっだ。
ほんとうにアメリカヘ行ってよかった。
N.T.
いま、僕がなぜこうしてペンを持って原稿用紙に文を書いているのかと言うと、実は僕アメリカに行ってきたんです。皆さんアメリカですよ!あのペリーさんが黒船で何カ月もかけて日本まできた、あのアメリカにですよ、僕たちはたったの10時間で行けるのですから、これもライト兄弟のおかげと感謝しなければなりません。・・‥と話は最初から本題を離れましたが、ようするにアメリカに行ってきたということです。その中で強く心に残った話を少し書いてみたいと思います。
まずアメリカは広い!トイレも広い、どうして僕たちの行ったキャンプ場のトイレはあんなんやったのでしようか。あんなんと旨っても皆様には理解できないでしようから、簡単に説明してみましよう。
そのトイレには、小用が一つあり、その裏には洋式トイレが5つ、ポン!ボン!と並べてあるだけではありませんか。それも80cm感覚で、壁もドアーも何もなく、となりの人と顔を突き合わせて、うんこをしなければなりません。最初はそのトイレに恥らいを感じて、人のいないときに見張りを付けないとできませんでした。ある時友人と行ってみると、外で一人二人中の人が出るのを待っています。僕らが行くと「おい、おまえら入って来んか」と、聞き覚えのある声、中を覗くと赤塚団長が座っておられました。僕らは赤塚さんのお誘いを受ける勇気もなく、赤塚さんは用を済ませて出て行かれました。
僕らは物は試しと一度8人ならんで用をたすことになりました。それは僕たちが初めて体験することで、とてもフレッシュな感覚が僕の脳裏をよぎりました。その内用を足しながら僕たちは雑談に花を咲かせていました。するとその時外から、「君ら、記念写真取ったるわー」と、赤塚さん。僕らは拒否したが「この写真は君達だけしかくばらんから」と、あっけなくフォーカスされてしまいました。
日本に帰ってきてもあの写真がいつ公表されるか心配で、眠れぬ夜が続いています。
T.Y.
朝7時ちょっぴりいつもとちがうムードでベッドから舞いおりた。食卓のコミュニケーションも幕を閉じ僕のパパが円通寺こと団本部に向け自家用二輪車で送ってくれた。団本部は緊張という名の”気”(オーラ)が張りめぐらされていた。お父さんは、「ほんだら元気で行って来い」といってくれた。まるで僕が今からアメリカにはばたこうとしているかのように。万事ととのいバスに乗りこみいざ大阪空港に来客した。だが、まんまと大阪空港にもてあそばれたのは、他でもない。そのためあの幻の大阪グランドホテルに一夜を明かした。
次の日やっとのことで日本全土を下にサンフランシスコヘと長い道のりをひたすら飛び続けた。サンフランシスコに着いて第一印象は”寒い“という文字以外見当らなかった。広大なシティをバスに乗り日本と比べものにならないことを、まざまざと見せつけられ、僕のハートは砕けちった。
それからまたバスにゆられキャンプ場に行った。ちょうど夕食時で、僕等が食事当番に抜擢された。キャンブ生活2日目の朝、究極の冷えこみにジャンパーなしでは生活は営んでいけないと今日確信を得た。この状況で水泳に挑戦するということはマイク・タイソンの手にナックルをつけて僕が小指だけで戦うのとほぼ等しいと僕は悟った。
キャンプ生活3日日、乗馬に行くという。僕の乗った馬は、よく草を食らう奴で迷惑をかけるのが生きがいみたいな馬だった。次の日、僕が心底プレーしてみたかったライフルをうった。床にねて標的をねらう。
その他、カヌーやアーチェリーなど日本でなかなか出きないことを経験した。キャンプ最後の日これほどまだキャンプをしたいと思ったのはこれが初めてだと思い心がキュンと高鳴った。この僕たちに夢や希望をあたえてくれたキャンプ場を後にするのは、猫を板の上に乗せて太平洋のド真中に置き去りにするように悲しくてそれでいて、しんみりとLた楽しさが、しゃっくり上げてきた。
そんなキャンプ場をしぶしぶ後ずさりせさるをえなかった。次はホームスティだ・・・と胸中の奥方で我が自身の心地をも揺がした。ホストファミリーの熱き激励をうけ僕の体内は張り裂けんばかりの期待と不安にほんろうされなから、一歩、一歩と、夢を追って歩いた。向こうの人は日系人で親切にしてくれた。その楽しさも、時ゆえ短い。
最後の朝、悲しさという名の”矢”が僕の中をつらぬいた。悲しさが体の奥深くから、わきあげてくるかのように「別れ」という言葉の恐しさをしみじみ実感したのは、言うまでもない。キャンプ場と別れる悲しさ、そしてホームステイの悲しさ、この2つの悲しさは僕の心の中で、決して消えることのない破局だ。次の進行地はヨセミテという所だった。広大なパークとだけ小耳にはさんだだけであった。公園に着いて驚愕したのは野生的駿足をほこるりスが、ごろごろ歩いていた。僕の愚弟ともいえるべきフレンドがリスをつかまえようと必死に走っている。その姿を見て僕は、言葉も発せなかった。
次の日、ヨセミテ愛用軽二輪車でサイクリングに行くという。そのプログラムか、どんなに恐ろしいことになるかは、この時知るよしもないまま、二輪車のペダルをこいでいた。髪を風になびかせ、どこか遠い所に行く、そんな気持だった。だが、いつしかその楽しみが暗黒の世界、いわゆる世紀末に変った。なぜそうなったのか、今からお話してしんぜよう。自転車を川の辺に置いて、川で泳ぐということだった。僕と愚弟は、よろこんだ。だか水は、服の中に氷を入れて、富士山の頂上で座禅をするように冷たかった。
最初、冷たくて足もつけられなかったが死を賭けてクロールで泳ぎきった。少したって高さ7mぐらいの橋から、白人が飛び込むという、スーパー・エキサイティング・パワフル・デラックス・ハイグレード・超ミラクルゲームをしていた。それを見て、だまっている日本人ではなかった。みんな橋の上に行った。僕達も当然行った。僕は3回とんだ。そんな恐怖も消滅させ、広大と夢をほこるヨセミテ国立公園を後にした。よーし明日からは、遊園地放浪!。
1日目の放浪はマジックマウンテンという所だ。ここでの話題はあまりないので、ひかえさせてもらいます。
次は、あのメインイベント。その名も高き「ディズニーランド」だ。さすがに本場、アメリカ IS ディズニーランドだと思ったのは、広い、でかい笑しいの3拍子がそろっていたことにあった。
楽しい、おもしろいの他に言葉がいい表せなかった。夜、美しく華かなパレードを我が鐘の奥深くすなわち眼球の盲点へと実写された。とうとうアメリカ大陸脱出の時か、アメリカ IS 太陽と共に、刻一刻と来射していた。ロサンゼルス空港に、僕らは乱入し、サンフランシスコヘと飛行機がエンジンを、「完全力全開」で飛びたった。ふと、鐘を開けるとそこには空港らしきものだった。
「なんや、まだ飛んでないんか」と思っていたらそこはサンフランシスコだった。そしてまた飛行機でJAPANに向けて高く飛びたった。
こんどアメリカに来た時には大きな木が、はえているだろう。思い出という木が・・・。
この大空そして大地。いつも僕たちを抱えていてくれた。アメリカ。それは未知の世界だった。あふれる人口、大きな自然、美しくそして優雅な風儀。どれをとっても日本に勝るアメリカ独特のすばらしさではなかっただろうか。ありがとうアメリカ、そLて雄大な自然よ、また会う日まで。
M.T.
僕はアメリカに着いておののいた。良く映画に出てくる、鉄砲を持っている奴とか、何かあったらすぐ鉄砲を出してうってきそうな感じの人がいっばいだ。すげーベベりまくった。でもぼくしゃんは、アメリカに着いても、あんまし、アメリカやなあっておもえなかった。
キャンプ場へ行ったのはいいけど、僕はほとんど英語がしゃべれなかったのです。でも僕はなんとかしなければと思って考えた。そしてそれは英語をしゃべれる人といればいいとわかった。キャンプ場では、ライトとかアイスクリームを貿った、しかし、こんな事ぱかりじゃいけないと思い、一人でいくことにした。そLて自分で買ったと僕はもううれしくてうれしくて、胸が張り裂けそうだった。
僕は生まれて初めてライフルをうつことになった。でもそれは何日も先だったのです。キャンプ場にきて一番初めにすることは水泳だったのです。それは、一番苦手なものだったのです。でもその時は「なんとか、いけるやろなぁ。」と思っていたけど、実際は目茶目茶深かった。はっきりいって初めは溺れそうになった。いろいろなんとかしているうちにおわった。そのほかいろいろやった。
ホームステイにいくときはものすごくきんちょうした。それに、「誰と一緒になるかなぁ。」と思いながら待っていた。そしたら立石君と僕の2人になった。ホストファミリーの人が日本語を喋れるのは良かったけど、子供のジェフが、なんかあったらすぐ、ビンタをしてくるし、毎日、毎日、夜遅くまでトランプでブラックジャックをして過ごした。僕が一番うれしかったと言うのは、アメリカヘ来たこと。二番目はライフルをうったことか、ディズニーランドに行ったこと。そして三番目は、生まれて初めてジェットコースターに乗ったことです。多分このまま日本にいたら、なかなか乗れなかったと思う。初めはいやだったけれどもみんなが乗るのに、1人だけ乗らなかったら恥やと思ったからいやいや乗った。でもなれてみると目茶目茶おもしろい乗り物だと思い、やみつきになってしまった。
後は買物とかしてとうとう帰国の日になった。んー、これでもう終りかぁー。もっといてたいなぁー。とか思いながら家に看いた。そしてすぐにカブの舎営に行った。
GS T.R.
私は今回初めて、アメリカに行って感じたことは、広いなあということは、もちろんですが、みんな、すっごく一気だなあと思いました。2箇所のキャンプ場では、それぞれ全く知らない人たちと一緒になりましたが、みんなすごく優しくしてくれて、とてもうれしかったです。
ホ一ムステイは、家族の人かとてもよくしてくれて、感動しました。相手の子は、12歳でしたけど、すごく大人っぽくて、12歳には見えませんでした。その子には、弟1入と妹が2人いました。弟は11歳で、妹がたぶん5歳くらいだとおもわれる子とまだはいはいするくらいしかできない赤ちゃんがいました。とてもかわいいかったです。ホームステイ中は相手の家族が、いろいろ連れて行ってくれたり、最後の日には、電話もしてくれました。英語などで、わからないところがあると必死に、動作や辞書(英和辞典)で伝えてくれたりしました。私自身、英語をすこしでも多くしゃべるようにして帰ってこようと思いましたがそれは、とてもじゃないけど無理でした。
でも、今回アメリカに行って、とてもたくさんいろんなことを体験して、よかったです。
GS N.Y.
はじめ、ホームステイをしたときは、少しホームシックにかかったのだ。“うるうる“それにENGLISHもぜんぜんわからなかったので頭がうにでした。でも、やさしくしてもらってHAPPY YAPPYでした。さんきゅうーべりまっち。感謝、感謝雨あられ。ヨセミテではバスにのってー周して、バスの運転手におこられてしまった。でヘヘーん。そんなこともあってプールに着きました。
そこでいっばい泳いで遊んだ。AMERICAのプールはとても深くて、そこにいくのにはとびこまないといけなかったりするのだ。それでも楽しく楽しく遊んだのだ。その他の日は、ぼーとしてる日が多かった。
マジプクマウンテンでは、世界一高いジェットコースターに乗ったりいろんなのりものに乗ったりしてとっても楽しかったです。ジェットコースターのほかにも、水あびさせてくれるありがたいのり物がありました。全身びちゃびちゃになれました。ぶんぶん。こわい乗物ばっかりでちゅうぶになりました。ぶるぶる。ディズニーランドは、買物ばっかりしてた。ミッキーマウスをさがして写真をとろうと思ったけど行方不明だったのでちくしょうーでした。
最後にパレードを見ました。すっごくたくさんの電球を”チカチカ、チカチカ”つけてきれいでした。それからホテルに帰って荷物の整理をしました。次の日は5時起きだったけど3時までかかってしまって、次の日は頭がくらくーらのくらげでした。”うにょ、うにょ“それでも添乗員の名前を天井院間宮と間違える人もおったし、いろんなとこにも行けたし、とても楽しくて”スープもさぼてん、ぐもさぼてん”でした。
また行ってみたりしたいです。
I.K.
最初にことわっておきましよう。このアメリカというものは、本当に行った者しかわからないということです。
サンフランシスコ市内見学。これは、はっきりいいまして寝てました。
キ々ンプ・ローヤネの中で馬にひっかかれて首に跡が残ったことまいった。射撃をして、ほとんど、かたまらなかった僕自身の腕の悪さ。でもアーチェリーはなかなかうまかった。ネイチァ-でヘビをポケットに入れて持って帰ろうとした奴。キャンブファイヤーのエイトマンのおどり。なにを思い出してもいいことばかりありました。
最後にディズニーランド。これは大人が行くもんでもないけど、大人が行っても昔の事を思い出させてくれるような、夢の世界がたくさんつまってます。こんなに良い経験をできて一生に一度しかないような。行かれた方がいいですよ、皆さん。
S.T.
僕がアメリカに行き楽しかったことと言えば、やっぱり、ホームステイの人につれて行ってもらったグレートアメリカです。どこが楽しかったのかと言うと、ホームステイの家の子供達と共に、いろいろな乗り物に乗りあまり話さなかったホームステイの子と話せたからです。午前11時~午後9時までの闇、食事を食べ忘れているのを気にせず、グレートアメリカの乗り物に夢中になっていた。時間もすぐに過ぎていきもっいたいと思いました。9時に迎えて来てくれたので残念だと思ったけれど家に帰りました。ホームステイの家の人とは、余り話す機会はなかったけれど、とても楽しいホームステイでした。もっと期間が長ければいいのにと残念に思いました。
楽しかったホームステイ、またお世話になったホームステイの人に会えたらいいと思う。
K.K.
このアメリカキャンプで、感勤したことというと、やはりヨセミテでのキャンプだ。僕らが行った時は、山火事で木がもえていたらしいが、広いのかどうだか知らないが、火事なのにのんびりしていたのには、おどろいた。まあ水が不足していたのだから水は使えないが、他に何か考えて使えば。話は変るが、ヨセミテは広い。なんと言ってもシャトルバスはただで乗れるとは、いかにもアメリカらしい。しかも、サイクリングまで楽しめる。サイクリングで思い出したが、橋からの強引なダイビング、あの飛びこんでいる時の滞空時間の長さと全身から力が抜ける時は何とも言えない。
夕暮れ時に、岩に反射する夕日がとても印象づけられる。ヨセミテを後にする時の気持は、今も心の奥深くに残っている。
GS K.M.
行って来ましたよアメリカ!だけど今回は初日からHappeningか・・・。飛行機がすぐそこにあるっていうのに乗れないなんて!結局その日は出発せず、いざ”グランドホテル”へ!(アメリカでの「1日」損したやんか)次の日は何事もなく無事出発!アメリカに着いたのは朝5時半ごろでもう眠いのなんのってたまりませんでした。それからすぐにホームスティに入り、いそがしいやら眠いやら・・・。家族は日本語の全く通じないアメリカ人で一つの話をするにも苦労しました。
私は2つの家族にうけ入れてもらえたのですが2軒とも優しくいい人だ。たので、いい思い出がたくさんできまLた。
キャンプは”スカイラークランチ”と前の時にDAY CANPをした”ヒドウンホール”で行きました。スカイラークランチの方では昼間と夜間の気温差が激しく、昼はTシッツで十分過ごせるのに、太陽が沈み始めると寒くて寒くて、何枚も服を着こまないとこごえそうでした。一方、ヒドウンホールでは、テントなしの野宿でした。1日目は少し坂になっているところで、ふんばりながら寝たので、朝超きた時、体中がいたくなっていました。
ヨセミテでは前回の物騒なキャビンと違いちゃんと鍵のかかるウッドキャビンでした。自由行動の日、ガールは水泳に適する場所を探すため、ヨセミテ内を一周するバスに乗りまLた。そして終点まで乗っていて、もう1回目的地まで乗っていようと、座席にすわっていると、前の方に乗っていた子が運転手さんに降ろされてしまいました。また、その話を詳しく知りたい方は、○さんまで。
あとは遊園地で思いきり遊びました。ディズニーランドは、朝早くから夜遅くまで遊びとても楽しかったです。
前回は中1で、ただアメリカに行くのがうれしかったのですが、今回は組長という大役を任され(みんな連いて来てくれへんかったらどうしよう)など、出発まえから不安でした。だけどみんな言
う事を聞いてくれてうれしかったでず。今回もたくさんの思い出ができました。
K.A.
ホームステイの時に、グレートアメリカに行くことになった。その日は、うれしさのあまりに寝れなかった。次の日おばさんが「14ドル持って行きなされ」と言われた。うれしさのあまり顔がひきつった。そこの人がもう一家族行くからと言いどんな人がいるのか心の中で思っていた。僕と大東君が車に乗りこみ、その人の家まで行った。なんとそこには、白井君がいた。残念のあまり顔がひきつった。そしてグレートアメリカペ行った。2時間位で着いた。「ホッ」とため息をついて数時間がたった。ジェットコースターに5回乗り、垂直落下に挑戦した。あまりのすごさに顔がひきつった。中でもすごかったのが、ジェットコースターでも垂直落下でもない。それは、ジェットコースターに乗っている時の、白井君の顔でした。
H.H.
第2回、アメリカキャンプで、アメリカのスカウトと一緒にキャンプをして感じたことは、キャンプ場が広く、[ハイキングコースがキャンプ場内にある〕。カヌ-や乗馬、ライフルやプール等の設備が整っていてうらやましく思いました。ホームステイではアメリカ人の家庭に行くと思い英語の勉強をして話すのを楽しみにしていたのですがホームステイは日系の家庭で言葉はすべて日本語が通じまLた。英語を話せず残念です。
ディズニーランドに行く朝、僕は起きるのが遅れて、最後の日のため服も着れず、くつ下もはく時間か無く集合したのでくつずれがして最悪でした。
ディズニーランドでは、夜のパレードがきれいだったし、乗り物では「スペースマウンテン」が最高、真暗の中をジェットコースターで走り回り星が見え、まるで宇宙を飛んでいるような感じでした。
無事に17日間が過せたのも、リ一ダーの人達のおかげと感謝しています。
ありがとうどざいました。
GS M.N.
みなさん、私はとうとう行ってしまいました。
アメリカヘ。でも、アメリカに着いたとたん、目を傷つけてしまい、”独眼竜典子”の生活がはじまってしまったのです。
キャンブでは、アメリカのガールスカウトとすっかり仲良くなり、夜は危ない話で盛り上がってしまいました。でもみんな寝てしまって、日本人が私一人になると、突然「お星さまの歌」を歌わされてしまったのでした。 ホームステイでは、みんなとても親切だったし別荘に連れて行ってもらったりしてとても楽しかったです。大きなベットでゆっくり寝かせてもらい、おいしい食事を食べさせてもらって幸せでした。
ヨセミテヘ行って、それからマジックマウンテンヘ。マジックマウンテンの乗り物はもう最高でした。特にあの立って乗るやつ。半泣きになってしまいましたが、絶対にまた乗りたいです。
ディズニーランドも楽しかったけど、私はその時泊まったホテルのプールで遊んだのが楽しかったです。特にその横のお風呂みたいなぬくいプール。泡のかけ合いとかして、とてもおもしろかったです。すっかりふやけてしまいました。
アメリカキャンプはとにかく楽しかったです。
また必ずアメリカに行きたいと思います。
GS T.M.
ホストファミリーの人の家に着くと、びっくりすごっく大きなケーキがあって「KONNICHIWA」と、書いてあるのです。その他にも、ミニチュアの日本の家や、日本のビデオなどいろいろありました。私がくるので、それらを買いにいってくれたのです。とてもうれしかったです。
初めの日に連れていってもらった所で乗った汽車は、お日さまがぽかぽかしてて気持ちよかったので、1時間半ぐらいずっと眠ってしまいました。
時差ボケかな?キャンプをはさんで帰ってくると、その日もすぐねてしまいました。車に乗るとしゃべる事がないので、すぐ眠ってしまいました。日本の子は、よく眠るんだと思っているかも?
K.T.
一番の思い出は、マジックマウンテンとかディズニーランドヘ行けたことだ。特におもしろかったことは、マジックマウンテンで日本でいうボーリングみたいなゲームをやったことや垂直降下に乗ったことなどである。
それからキャンプをしたときに、本物のライフルを打てたことや馬に乗ったときなども楽しかった。
ホームステイは、とても親切にして下さってたいへんうれしかった。ホームステイ期間中に、色色な所へ連れて行ってもらったりした。例えば、デパートみたいな所へ連れて行ってもらったり、スポーツカーで近くを散歩したりもして、とても楽しかった。アメリカの日本の町の祭りにも行った。チャイナタウンにも行った。その他にもいろいろな所へ連れて行ってもらった。
行きの飛行機では、1日遅れてしまったりもしたが、大きな事故もなくてとても楽しくすごせたと思う。帰りは、ちょっとしんどかったけど、時差ボケもなく日本に帰ってこれた。
また、行きたいと」思う。
GS N.M.
みなさんこにゃにゃちは。やっと夏休みのほーむわーくが終ったながたです。今回、アメリカキャンプについて、ということで書かせていただきます。よろしくー。
さて、しょっぱなホ一ムステイのこと。わたしは、去年わたしの家に泊った、ジェニファーの家に泊りました。かっこいいお父さんと、やさしいお母さんと、手がかかるけど、かわいい4人の弟達という家族構成でとってもにぎやかな毎日でした。
後半のホームステイでは、お父さんにとっては貴重な土・日のお休みなのに、2日ともわたし達 (わたしと東りーダーです)をサンフランシスコに連れて行って下さる為に、つぶして下さったのです。それから、ジェニフフーは4人の弟のお姉さんなせいか、とってもよく気がきく子で、わたし達がキャンプの用意をしていると、毛布を持ってきてくれて、持って行くようにすすめてくれたり(とっても重宝しました。)知らない間にわたし遠の分の食器も持ってきてくれてたり・・・。
とにかくとても気を使って下さって、わたしはとても楽しい毎日を過ごすことができました。それが本当にうれしくて、わたしは思わずこのホームステイのことを、宗教の宿題の体験文に書いてしまったという・・・。
ホームステイ以外のことも楽しかったですよ。あっそうそうみなさん、田原俊彦のとんがりコーンのCMの遊園地が、マジックマウンテンだったということを知ってましたか?あそこも楽しかったですねえ。ねえ、フリーフォ-ルで並んでいるとき、緊張のあまりしゃべりまくっていたMちゃん。それと、いざフリーフォ-ルに乗りこんだら、MちゃんよりうるさかったM2ちゃん。何を隠そうこのM2ちゃんこそ、わたくし長田なのでした。
(おはずかしい・・・。)ではさようなら。
D.T.
僕は、アメリカのイーグルスカウトと友達になりました。その人の名前はPAUL HAGELINという名前のイーグルスカウトです。
僕はPAULにイーグルスカウトのワッペンをもらいました。多分、皆はもっていないと思います。そして、もう一つうれしいことがあります。
それは、アメリカの野球の試合を見に連れて行ってもらった事です。行った球場はものすごく広く日本ではホームランになる様な当りが、この球場で外野フライに終ってしまうくらいの広さ。甲子園や後楽園なんか|問題の無い広さでした。
僕は、アメリカで、イーグルスカウトと友達になった事、野球を見に行った事、この二つが一番にうれしかったことです。
GS O.E.
Hey!・・・おっとやっぱり”アメリカ語”が出てしまうもんだなあー。まいった。なんて言ってる場合ではない。私は、感動で言葉が出ません。言葉が出ないということは、書けないということですね.おっと、これは失礼をば。だれかの太閤園での席でのスピーチに似ていました。だれとは言いませんが‥‥BSの田中くん!
では、本題に入りましよう。
日は7月25日であった。団本部11:30発のなんと貸切りバス(2台)で大阪空港へ向かったのです。大阪空港で、やたら時間があったのも気にせず楽しく遊んでおりました。それから出国手続をすませ、ロビーで心臓DOKⅡ・DOKI、気持HUWA・HUWAで、遊んでおりました。(遊ぶ子は育つ!、と言いましよう。「それは寝る子じゃ!」BY橋詰)14:40発のわりには、いっぱい遊べました。私達か遊びすぎたためでしようか?アナウンスでAIRPLANEが欠航だと聞かされましたのです。私達が遊んだおかけで、りっぱなHOTELにとまれました。なぜかただ! そのりっぱなHOTELで、〔MEI-TOO)がTELEPHONEを鳴らしています。その口々に「お母さん!聞いて、だれかさんのおかげでAIRPLANEが欠航になってん」。と、私の小さな耳に聞こえてくる?のでした。おわりじゃないよ!!
次の日、私達はすがすがしい朝をむかえ、そのりっぱなHOTELを出て、また大阪空港へ貸切りバス?で行き‥‥私達が静かにしていたからであろうAIRPLANEが、飛んだのであった。
ENDって言いたいが、800字をつかって2日しか書けなかった私をゆるして下さい。ほんとはね。書きたいのですが7200字ないのがざんねんです。
M.Y.
ぼくは、アメリカに行ってこわかった。最初アメリカという国は、チャカですぐにうたれるというおそろしい国だと信じていた。でも、あんがいこわいところではなかった。初日、ごはんをたべてばかりで1日4食ぐらいたべて気分がわるくなった。
ヨセミテでは、川でおよぎとても冷たかった。橋から飛びおりるのはとても恐怖だったのだ。
マジックマウンテンでは、ジェットコースターにのり、こわかったけどおもしろかった。一ばんこわかったのは立ちのりジェットコースターでひねりがあったのでこわかった。アメリカでは$をけちりすぎてみやげがたりなくなってこまったの気分。A.H君は、えげつないことをしてしまった。ホ一ムステイの人たちは、とてもやさしくたいへんよい人だったのでぼくはかんしゃした。
アメリカという国にまた、きかいがあればおじゃましたいと思いました。
GS A.M.
ディズニーランドは、かわいい人形とか、のりものがたくさんありました。私がディズニーランドで一番いいなあと思ったことは、夜のパレードでした。初めみた時、びっくりしました。かめとかかたつむりとか、かわいいなあと思っていました。でも、だんだん後になるときれいなのんとか、かわいいのんばかりでした。驚いたのは、りゅうがでてきたとき、初めは「わっ」と思っていました。小びとがでたとき、私は「かわいいなあ。こんな大きくてかわいらしい人形がほしいなぁ」と思いました。時計が、途中にでてきたけど「ものすごく、よくできてるなぁ」と思いました。最後に鳥がでてきたけどそれも、やはり「きれいなぁ」と思いました。
びっくりすることときれいなことばかり思いました。忘れることのできない旅行でした。またあるなら、今度も行きたいです。
GS O.M.
私は、初めてアメリカヘ行ったので、とっても感動しました。そしてとっても楽しかったでした。
色々と楽しいことがありましたが、ディズニーランドが一番楽しかったと思います。乗り物も楽しかったけれど、夜のパレードがとてもきれいだったので、渡士はつい感動をしてしまいました。ほかはヨセミテやマジックマウンテンも楽しかったです。
マジックマウンテンは、こわい乗り物ばかりあり、私は、あまり乗れなかったので、残念だったと思いました。今度も又、アメリカのマジックマウンテンに行くなら、今度はもっともっといっぱい乗ってやる。又、アメリカヘ行ってみたいです。
GS T.T.
一番良かったのはなに?と聞かれたら、ホームステイ、ディズニーランドやマリックマウンテンも自由で、気楽で楽しかったけど、いい経験をしたのはホームステイ中でした。日本語は全然知らなくて(ホームステイの人)ぺらぺらと英語で話してくるのが苦にもなったし、その反対に英語で話しかけられてくるのが面白かった。ホームスてイ中はショッピングや海につれて行ってもらったりサイクリング(家の周辺)したり・・。その自転車が、サイクリング車で何度もこけてばっかり、すわるところが高く足がとどかなくて苦労しました。汗をかいた後は、家にあるプールでゆうがにプカプカと泳いでいました。最後から2日目の日は、家族やいとこのんとその友達といっしょに、小さなパーティ-をしてくれました。その時、みんなでUNOをして、ぼろまけしました。
最後の日、”また会いましよう!”と言ってサヨナラしました。
本当にまたあいたいと思っています。
M.K.
あれは、たしか去年のえ~と忘れましたけど、それぐらい久しぶりに感想文を書かしていただきます。ところで書くことはいっぱいあるけれど一番印象に残っていることを書きます。それはなんといっても、「マジックマウンテン」だ。ここだけの話だけど、遊園地なんか小学校に行ったきりだ。僕ははっきりいって、ちょっぴり緊張していた。まず班員の意見で急流すべりにした。すごくたくさん並んでいたけど時間はたっぷりあるからひとまず並びました。
ここまではいいけど、1時間ぐらい並んで、あと何人というところで、故障か何かわからないけど放送があった。並んでいた人はぞろぞろ出て行き、僕はあと何分かしたらなおるやろと思いながら並んでしまっていた。すると、全然放送がなくて、あげくのはてに2時間以上も並んでまっていた。だんだん腹が立ってきて、もうあきらめました。
そして、あのうわさの最長のジェットコースターに乗ることに決めた。あっけなく終わり、次々にいろいろな乗り物に挑戦していった。そして、あの急流すべりにもう1回いこうと決めていたらやっと乗ることができました。そんな、こんなであっという間に時間はせまりまくって来てしまった。
今から考えると、あれは一生心に残る1日だった。そろおひらきにいたします。・・・
E.T.
僕は、7月25日から8月11日まで、アメリカヘ行ってきました。なんと、悲惨なことに一日目は、飛行機のパイロットの状態が悪いので、欠航となり、高級ホテルの大阪グランドホテルで一泊することになりました。この一日目の欠航が後で後悔することになりました。本当は、一日目はサンフランシスコ市内見学だったのですがぬけました。サンフランシスコはすごく急な坂ばかりなので大変でした。
初めの一週間は、キャンプでした。そのキャンプの長いこと、いろいろなことができました。一番心に残っているのは、スタッフの人にアーチェリーにつれて行ってもらったことです。その時にアーチェリ-の矢が、どまんなかに刺さったのですか、となりのスタッフの的でした。
ホームステイの二日日、お寿司屋へ連れて行ってもらいました。びっくりしたのは、テーブルの上にスプーンや、フォーク、よだれかけがおいてあったのです。ホームステイの人達は日系人なので使わないと思っていたのですが、きちんと使って食べました。僕は、「寿司はこうやって食べるねんで。」と手で取り、よだれかけも使わず食べると、まわりの人々がジロジロ見ていました。
印象に残っているのはこれだけです。
T.Y.
7月25日、出発日、期待と不安で出発。ところが飛行機のトラプルにより、その日は大阪泊まり。次の日の昼過ぎ、アメリカヘ旅立った。
一番の不安は、ホームステイ。「外人だったら言葉も通じないし、どこにも行けない。どうしよう・・・」と思っていたが、その不安も束の間、日系人だったので「ほっ」とした。家族の人達は優しく、気持ちよくすごせた。
ホームステイ期開中は、グレートアメリカや、ショッピングなどいろいろ行った。この三日間は楽しかったけど期間か少ないので、あっというまに出発日。もう少しいたい気もした‥‥。
ヨセミテ・バレンシア・ディズニーランド、とても楽しく、何故かあっという間に帰国日。
本当に、「あっ・・・・・・」という間でした。
GS N.A.
一日遅れて出発したけれど、思い出がたくさんできたアメリカキャンプでした。
ホームステイやキャンプも終わり、前半のプログラムは終了。
さあ、後は楽しみにしていたところばかりです。わたしが一番よかったのは、マジックマウンテンです。そこではスピードのあるこわれそうな乗り物ばかりでしたが、のっているうちにすごく楽しくなり、次から次へと乗ってしまいました。フリーフォ-ル(一番高い所から下まで落下するのに3秒というすごいスピード)とクロッカス(これは世界一のジェットコースターで時速90Kmだそうです。)が最高におもしろかった。まわりの人が「キャー」と行っててもなぜか平気でした。他にも色々と乗れ、ここでは時間を有効に使えたと思います。17日間いろいろなことがあって、みじめな思いもしましたが、アメリカのディズニーランドにも行けたし、とても楽しかったです。でももう少し英語の勉強をしていたら、もっともっと良い17日間にできたのにとおもいました。
このキャンプに参加してとても良かった。
GS A.M.
アメリカのキャンプヘ行って心に残っているのは、ホームステイとディズニランドです。ホームステイでは、去年私の家に泊まりにきた子の所に行きました。一年会わないうちにすごくかわっていたので、むこうの子は成長が早いなあと思いました。いっしょに過ごしていて思ったよりも生活様式は日本と変わらないなあとおもいました。でも多分それは、私のホームステイの所だけかも知れません。ホームステイ中に特に感じたことは、広い国だと言うことと自由で一人一入個性を持った人が多いということです。ボロボロの車を平気でのりまわしている風景なんか、日本でめったにみられないと思いました。その時は、個性よりも物を大事にしているなあと感じさせられました。
ほかにいろいろとあったけれど、きりがないから書くのやめます。
GS N.M.
7月26日、アメリカに着いてうれしかったけどいやな気もした。ホストファミリ-の人達とあってすごくやさしそうなお母さんとお父さんでした。その女の子もすごくかわいい子で、想像していた通りでした。次の日はSKYLARK RANCHでキャンプをしました。私は、すごく気分が悪かったのでずーと寝ていました。だから、乗馬もアーチェリーもしていません。乗馬だけはやりたかった。でも寝ていたせいか、次のキャンプ場、HIDDEN FALL では元気も出、プールに入ったり、みんなと遊んだりクラフトをしたりした。やっぱりみんなと遊んだりするのは楽しいし、一人でテントで寝ているのはさびしかったです。それから、一番いやな、ホームステイです。日本語なんか話してもむこうはわからないし辞書で調べてものっていないものがあるし、どうしても通じない言葉があるときはすごくかなしいです。でもなんとか無事にホームステイが終り、日本人と共にヨセミテに出発です。やっぱりホストファミリーの人達と別れるのはすごく寂しかったです。私がとまったところの人はすごく優しい人で、私が思っていたとおりの人だった。ヨセミテに着いて御飯をたぺようと思ってお金を出したらお金の使い方がわからず、友達に必死におしえてもらってやっとおぼえた。みんなはなれているせいか、すばやく出すのだが私だけもたもたとコインを数えていた。アメリカのお金ってすごくややこしくて大変だったけどマジックマウンテンでやっと覚えた。ずっと札ばっかりだしていたのでコインがじゃりじゃりあって使いきるのに大変だった。
もう一回アメリカに行きたいけど飛行機にはのりたくない。でもすごくたのしくて思ったとおりだった。
GS H.M.
言ってきました”アメリカ”へ7月25日発のはずの7月26日発の飛行機で‥‥‥。
行きしの飛行機では、2回目の機内食が出ているのも知らず向こうの時間でAM9:00~12:45まで、延々と8時間45分眠り続けていたので、よう暇もありませんでした。
ホームステイでは、ショッピングやゴールデンゲートブリッジや海(さむくて泳げなかったけど)等いろんな所へ連れていってもらいました。それから、キャンプにいく日の朝、自転車で散歩しました。アメリカの自転車は、乗りにくかったです。ホームスチィ中びっくりしたことは、キャンプの前の夜、お母さんに「キャンプに枕をもっていきますか?」と(辞書で)聞かれたことです。
マジックマウンテンやディズニーランドでは、私はマジックマウンテンの”垂直落下”と”世界曼大のジェットコースター”には、こわくてようのりませんでした。そのかわり私と荻原は、マジックマウンテンで集中豪雨にあいました。
普通の人ではできないホームステイ等を体験することかできて、とっても楽しいアメキャンでした。
I.Y.
今回のアメリカキャンプで、私が一番楽しみにしていたのは、3泊4日のホームステイ期間です。
サンフランシスコ仏教会へ集合し、向こうのお坊さん?のお話を聞いた後、地下一階におりて、ガールスカウトやホストファミリーの人たちといっしょに合同パーティーを行った。ぼくは、いつになったらホームステイ先と、いっしょの相手を発表するのかと思っていた。
午後7時30分ぐらいに(と、いっても日本と違ってまだまだ明るかった。)やっとホームステイ先の発表が行われた。「誰となるんかな~」などと思っていたら、同学年の伏見君が呼ばれた後ぼくの名前が呼ばれた。「ラッキー」などど思って前に出て、ホストファミリーの秋山夫人を見ると、いかにも気のよさそうな太った人だった。
合同パーティ-がおわり、いよいよホームステイが始まった。その日は、秋山さんの祖母の家にあいさつをしてから。本宅へ行き、風呂に入ってねました。(よくあるパターンだ!)
2日目、私達は家から近くて、しかも今日はお祭りだということで日本町に行った。そして午後からはデパートヘ行き、ショッピングをした。(結局何も買わなかった。)デパートを去り、次に行ったのが、川端君がホームステイしている家に遊びに行った。その家は、メチャメチャ金持ちで、ビリヤード台はあるわ、車は3台あるわ、家はでかいわと、するどい家でした。そして家に帰り、夜食にカップラーメンを食べさせていただきました。(おいしかった。)
8日目、今日は、9時にサンフランシスコ仏教会に集合し、ボーイスカウト達で、サンフランシスコ観光に行った。ゴールデンゲートブリプッジ(金門橋)や、フイッシャーマンズワーフなどをまわって、最後にチャイナタウンヘ行った。そこにあるとある料理店で、ホストファミリーの人たちとお別れパーティーみたいなのをした。(ここで久しぶりにごはんが食べれた。)パーティーが終わって、野球を見に行く人もあれば、ボーリングに行く人もあった。私達は、ゲームセンターヘ行き、存分にたのしんで家に帰った。
4日日、この日は朝食を食べ9時にサンフランシスコ駅に着くように家を出発し、10分前に着いた。そしてここで3日間私達を泊めてくれ、とても親切にしてくれたホストファミリーの人と別れた。どうもありがとうございました。
GS K.M.
私は、アメリカに行って、外国もいいけど、やっぱり日本の方が、落着いていいなあと思うようになりました。でも、アメリカに行ってきて、とってもいいけいけんができてとてもよかったとも、思いました。
スカイラークランチという、キャンプ場では、さむくてかぜをひきかけました。ヒデンフォールという所では、テントがないので少し不安だったけど、ねてしまえばなにもかも同じでした。
アメリカでは、私の失敗は、たえまないことだったけど、全部、いい思い出として、私の心にのこるだろうと思います。
F.K.
ここはある静かな湖、今から男遠の命を賭けた熱い闘いが始まろうとしていた。
「奇襲だ!奇襲だ!。」ポセイドンニ見以下2名(バンクホエール伊藤、アリアエレファアント松本、以後この3名をキーエッジと称する。)が搭乗したカヌ-は、ゴーグルを装着した青年によって撃沈された。敵はカヌーになれており多数のゴーグル部隊を配備していた。所詮勝ち目のない戦いであった。しかしキーエッジは、不死鳥のごとくカヌ-を甦えらせ攻撃体制を調えると、敵目がけて突進していった。不器用ながら軽快にとぱすキーエッジであったが動きが鈍くなった。ふと後ろを見るとある青年がしがみついているではないか、それはアメにむらがるアリのように増えていった。「この野郎!離れろ。」「船の上に上げるな!」と必死に奮戦したキーエッジであったが次の瞬間、空中高く舞い上がり水面にたたきつけられた。「伊藤!伊藤!」伊藤は俺の視界からきえていった。カヌーを見ると敵は大きなマンボーを釣りあげたように喜んでいた。俺と松本は空しい気分で水面を漂っていた。
何分たっただろうか、俺達は仲間の叫び声で目を覚ました。見るとアパルトヘイト坪内の率いるカヌ-が襲われていた。俺達は坪内を助けると、フォーメーションを狙反撃に移った。「あれを沈めてまえ!おら行け!行け!。」理性を失った俺達は、小羊に群がる飢えた狼のようにカヌ-に襲いかかった。なぜか死んだはずの伊藤も甦えりキーエッジは復活した。理性を失ったキーエッジは次々とカヌーを奪取していったが、最後に思わぬ壁にぶち当った。本当にあのカヌーは難攻不落だった。しかし一進一退をつづけるうちに敵も味方も戦いのむなしさに気が付き、しだいに友情が芽生えてきた。1人が歌いだLた。
「イエローサブマリン イエローサブマリン。」
その場で大合唱がおこり戦いは終った。
やけにまぶしい7月の太陽だった。
H.F.
「パールハーバーの決戦。」それは毎年キャンプ場のカヌーベースで日系スカウト vs USスタッフによって行われている、カヌーの沈めあいである。毎年、日系人チ一ムの連敗だったそうだ。今年は我々が参加したためそうはいくかと思っていた矢先。
ザバーッ「しまった、沈められた。」ひょいと水面下から顔を出すと彼らは我々のカヌーに乗っていたのだ。たまらなく悔しかった。そしてふと上を見ると、一本の白い手が伸びていた。敵が僕達に手を差し伸べたのだ。一緒に乗ろうと言うのだった。その時僕は勝つことだけしか考えていなかった自分が恥しかった。
それから僕は船に乗りお互い「How do you do」と握手を交わした。そうなれば敵も味方もない。一緒に歌い・一緒に踊り・一緒に笑い・一緒に泣いたのだ。ふとその時こう思った。
「世界中でこんなに素晴らしい戦争はどこにもないだろう。」
戦い済んで日が暮れて、水面はキラキラと眩しかった。
なに、「どちらが勝ったかって?」そんなことはとっくの昔に忘れてしまいました。
でも戦争を体験したことのない僕達だけれどこ「パールハーバーの決戦」は、生涯忘れることのできない思い出となるだろう。
これが本当のRemember Peal Harbor!
K.K.
僕の宝物、それは「想い出」。
皆様こんばんは、熊谷耕司です。
僕が胸の中で想い出と変化していこうとしている。秋~。また新しく1枚の写真が、胸のアルバムヘ収められようとしています。
思い起せば7月26日~8月11日、異国アメリカヘ行って来ました。が、それにしても本当に作文を書きにくい旅でした。今つくづくそう思います。普通のキャンプは大概「これを書こう」という何か、いわばキャンプのピークのような物があるのですが、このキャンプにはそれかない、ずっとピークの連続だった。だからといって何枚もだらだら書くのはだるい、という訳でこのキャンプの内容を知りたきゃ他の人のを読んで下さい。
ゲワッハハハ・・・(笑い声)
RS WONG家の皆さん、ブライアン、チツ、スティーヴ、トシユキ、そして名古屋の姉ちゃん、またいつか会いましよう。
サヨウナラ・・・
S.T.
いゃーアメリカという所は実にすごい所やなーと、今日、日本に帰ってみて切々と思うのだった。
ウー寒い!! これがサンフランシスコに着いた時の第一印象だった。そして次に思ったのは、何でも大きいということだ。車、バス、道、橋、ビル、ジッ-ス、そしてキャンプ場。と、とにかく広いのだ! そして設備がとてもすごい。プールカヌー場、アーチェリー、そして何といってもライフル場。どれもこれもみんなよかった。
そして大きいといえば遊園地、グレートアメリカ、マジックマウンテン、そしでディズニーランド、もうこの広さは行ってみないとわからないと思う。そしてYOSEMITE、このことは皆が書くと思うのでここでは割愛させていただいて、この文章を終らせていただきます。
ありがとうございまLた。
F.Y.
キャンプの時、T君がおばけを見たと言うのですが、半信半疑でしたがだんだん信じるようになってきて自分でも内心こわくなって来た。そんな話はこっちにおいといて、キャンプでは日本で経験できないライフルやアーチェリーなどさまざまな事が出来て大変うれしかった。
ホームステイでは、外国の家はこんなんだとか町はこんなんだと教えていただいた。そしてその家族がここに来た当時のことなども話してくれたので勉強になった。
ヨセミテではやっと、自分でランドリーで洗濯が出来た。なんだかんだといいながら、アナハイムまで来てしまった。マジックマウンテンではクロッカスには乗れなかったけど他の有名なものに乗った。
ディズニーランドではS君がこわいから乗るのいやいや、ばかり言っていたのでおもしろいものに乗れなかったのがとてもくやしかった。
いよいよ帰る日、SFOの空港でとあるカウンターの兄ちゃんにS君率いるカモシカ班は呼びとめられた。S君はその人に近づいていった。すると突然、下敷らしいものをくれた。何かと思っていたら、いきなり募金してくれと日本語で言われた。S君はCentを出そうとすると札でくれといわれたのでS君はしぶしぶ1$だした。後でS君は非常にはらをたてていた。(ザマーミロ)
無事、飛行機は飛び立ち、ケガもなく日本に帰れました。そして僕はその日を境にして数日間は唾魔におそわれました。
T.T.
朝7時、ちょっぴりいつもとちがった朝飯(ブーメリング「朝では人より」)をがばつきながら or むさほりつつ団本部へと運びにくい足を何とか運んだ。団本部は緊張と緊縛という2つの糸でがっしりと結びつけられちゃった訳で、そういう状態変化の中で、空港(AIR PORT)へ by BUSで1コマ進んだ。そこらでは都合のつっちゃんによりTIMEが異状にしかも大巾に遅れているという情報をつかんだので、せっかくの時間を活用しようと、部下の第1人者(だれとは言わん、たんげとかいうこやつら)ACTIVlTYを共にした。
それから数時間後、新たに、いや、リフレッシュな宜しい情報が棚からボタモチのごとくころがりこんできた。TODAYは大阪ゲランドホテルヘの宿泊が私の耳というところに一気に流れこんできた。これからワープする3、2、1、0ドカーン、ドギューン等の爆発音を聞きながら飛行機にガッサガッサとゆられる旅は終り、現地アメリカとやらに着いた。いきなり観光のあとキャンプとやらに向った。
2日目の朝のなんという表わしようのないほどの冷えこみで、ジャンパー無しではちょっと野崎の殴々畑を思い出しそうだった。こんな訳でSWIMMINGに参加々々した訳でー。まあ世界にまたがる土岐スイミングプロにしては、余裕のはくしゃくだったけれど、いかんせん皆は僕にしては下等な泳ぎ方をするやつばっかりだったようでもあり、ヨード印でもあった。馬いわゆるHOUSEの事だがその僕の馬というのは良く馬ふんのするやつでありドプドプと突然きわまりなく、一瞬の内にダッシュをかけるやつでもあり、しゅん足だった。そういう行事も終りいきなり、このなつかしく、あきがこなく、少し美味的でしかも油でコッテリしているキャンプ場を去った。その前にチャーリーとの別れが非常にSADだった事が僕のHEARTの奥底20cmあたりが、みずみずしく、又むずむずうなり、僕の生命がふたたび始動し始めた。それからいきなり日系人のお家で宿泊、食事をするというスペッシャル、バッフル、ウルトラ、ミラクルマークⅡで、それでいてスパーチックドリーム、ホームステイと僕は名付けた。あちむ、ゆうくうなどのオ-ルスタースペシャルゲストを前にうれしさ99%つかれたほんの気持0.7%であとはアルゴン、イオン、二酸化炭素などだった。それからのぽる夫さんの暖かくWARMな気づかいを後にし、僕は次のプロゲラムヘといそいそたらたら移動した。この時はいきなりマジックマウンテンという所で世界一と呼ばれるジェットや立って乗るやつとかには、乗っていないけども、理由というのは、あちむという、別に僕にとってはかけがいのあるFRIENDだったので助ける50%、後はKINDNESSをしたばかりである昨日、今頃だった。いつになくパンダは笹をむさぽりながら。ぐっすりはっきり、グーグーガーガー寝ていた。(起こす気にもなれない土岐談)。それから、白雪姫が起きるくらい数万年の月日か過ぎて、ⅠはMOUSEに逢いに行ったって! それからお人形やフライドポテトなどをむさぼりながら、少し、少々そこを離れた。
ブーン。飛行機は高々とエンジンをふかし海から約1センチの手前というところで飛び立ち、はるばる日本へ帰って来たという訳でありまして、いきなり帰国式というわけで、団委員長に報告とやらをした。あちちも峻れている表情だった。
アメリカキャンプおめでとう。
イヤサカ イヤサカ イヤサカ!
おめでたい幕じめと共lこ、イヤサカー家が去って行った。
GS H.R.
私は今年の夏休みに、アメリカキャンプに行きました。アメリカでの2日目からは。キャンプで最初はスカイラークというキャンプ場に行きました。スカイラークではテントがあって、その中でホストファミリーのスカウトと2人1組で、2組一緒に坪井さんのとこへ泊まりました。スカイラークは割りと設備が良くて、ダイニングルームなどがあって、食事も作ってくれて。アーチェりーや乗馬もできました。私は乗馬とアーチェりーは一度やってみたかったので、とてもうれしかったし、楽しかった。それと、私達はスカイラークでキャンプをしていた他のアメリカのスカウトにも交流して、晩ごはんに招待されて、歌を歌ったり歌を歌えたり教えてもらったりしました。スカイラークは、昼と夜の気温差はとてもはげしくて、昼は暖かかったけど、夜になると、とても寒くて冬みたいで、ブルブルふるえていました。寝るときでも、Tシャツの上にトレーナーを着てその上にジャケットを着て。寝たけど、まだ寒かった。
それでも野宿する子が何人かいたので、よくやるな、と想いました。スカイラークでは、お昼になると、みんなで歌を歌ったり、ゲームをしたり、折り紙も教えてあげたりまました。私達か教えてもらった歌で、私が気に入っているのは「スカイラークランチ」という歌です。みんな、覚えて歌ったりしてたけど、私は最初の方だけしか覚えられませんでした。この「スカイラークランチ」の歌を私達がスカイラークを出発するときに、みんなで歌ってくれて、感動しまLた。スカイラークにいた人達はみんな明るくて、おもしろい人ばかりで、とても楽しかった。
GS N.R.
25日、出発の予定が一日遅れ26日に日本を出発しました。なんか、アメリカに行くっていう感覚は全然なくって、どっかちかばに遊びに行くって感じやった。でもアメリカに着いてホストファミりーの方の車に乗って外の風景を見ててやっばりアメリカやなって思ったんで、ホームスチイをさせていただく家に笛いてすぐシャワーを浴びてねて昼遺旨からショッピングに行って服とか見てたけど、いうほどいいのがなかった。んでゲームセンターに入ってゲームをいろいろした。後半は、なれて遊びまくった。遊園地に2回もつれていってもらって、ジェットトコースターにゲロゲロになるほど乗った。キャンプは乗馬が一番楽しかった。初めてのわりにしては、うまく乗れたと思う。自分では・・・ちょっと股が痛かった様な気もしたけど。HIDDEN FALLSでは、いきなり外人さんと寝るところも一緒でちよっと緊張したけど、すぐ仲良くなった。
次の日、プログラムを聞いてびっくり。DANCE。それもハンパじゃなかった。初め、恥しくて踊らなかったけど、リーダーが踊ったので一緒に踊った。なんやかんやして、みんなとすごく仲良くなった頃に、もうお別れで、悲しくてなきまくった。その後に写真をとったけど、これが人間の顔かいな、と思うほど目ははれて鼻は真っ赤で、みれるような顔ではなかった。でもすごく楽しかった。
私は、前回も行ったのに今回も快く行かせてくれた親やお世話して下さったりーダ一に感謝します。
どうもありがとうございました。
米キャンプで貴重な体験
サンフランシスコから北ヘ約250キロ離れた渓谷にキャンプ・ローヤネーがある。
「花の万博」広場のほぽ倍はあろうかというキャンプ場は、夏ともなると全米から集まるスカウトたちで埋まる。
昭和62年8月はじめ、彼らにまじって大阪第11団総員65人が2週間の共同生活を始めた。
「フロンティアズマン」、「フォーティーナイナーズ」と名付けられたサイト(キャンプ村)の小屋四棟とテント七張りに分かれて泊まる。食事は五百人が収容できる大食堂でとり、すべてセルフサービス。団員達が驚いたのは、トイレ。10畳ぐらいの部屋に洋式便所が五つ並んでおり、間仕切りなどない。
ある時、スカウトが中の人が出てくるのを外で待っていると
「おい、あいてるぞ、入ってこいよ」と声がする。
のぞいてみると声の主は団長だったんです。団長はさっさと用を済ませて出て行くと、カメラを持って再び現れ、僕らが便器に座っているところをいきなり「フォーカス」したんです。と楽しそうに当時を振り返る。
キャンプ中、スカウトたちはカヌー、乗馬、アーチェリーといったスポーツをそれぞれのグループに別れて楽しんだ。キャンプディレクターのグロスさんをはじめ、40人の米人専門スタッフが指導にあたる。アメリカのダイナミックな自然を舞台に丸一日、心ゆくまで楽しめるのだ。
カヌーは泳げなければやらせてもらえない。
泳ぎには自信があったスカウトが初めての経験で、練習中、何度も水中へ落ちた。
訓練の最終日、日米対抗「バールハバーの戦い」が行われた。カヌーを便った騎馬戦のようもので、カヌー同士がぶつかり合い、泳いで行って相手のカヌーをひっくり返したり、かなり過激だ。
しかし、戦いが終わって水に浮かんで休んでいたら、アメリカ人スカウトがカヌーの上から手を差し延べてくれました。
「この時、胸になんだか熱いものがこみ上げてきたんです」と橋話君はしみじみと語る。
最後の夜、日米合同キャンプファイアーが行われた。歌い、踊り、ゲームを楽しんだ。ファイアーか終わり、消灯ラッパが鳴っても残り火の周りから、片言の英語と日本語が聞こえてくる。皆、名残り惜しいのだ。
「もう、そろそろ帰そうか」と日本人リーダが消灯ラッパを鳴らそうとすると
「いいじゃないですか、疲れたら各自、帰りますよ」とアメリカ人リーダーが止めた。
日米のリーダーたちが優しいまなざしでスカウトたちを見つめているうちに、キャンプーローヤネーの夜は更けていった。
参加リーダー
第2回USAキャンプ。今回は、参加者全員で約70名。リーダーは本部スタッフを含め10名。
キャンプ場は、ガール・ボーイは別に行なったけれど、帰国Lた今、反省としてどうだったか、USAキャンプを握り返って、良かった点、反省すべき点を皆様に色々話をしてほしいと思います。
大阪空港よりサンフまで
出発が1日遅れた事について「何回も飛行機に乗っているけれど、今回の様な事は初めてだった。最初にけじめをとられ、今回のキャンプの先行不安に思った。」
団本部を出発して、空港に向うバスの中で近ツリの野原氏から「飛行機がちょっと遅れてますねん」と言われた。
それが、とうとう出発日には飛ばなかった。
「あの時のアナウンスが英語であった時、理解していたスカウトは何人位いてたやろ?」。
その間の見送りの人との連絡。以外な発見。
しかし、見送りの人も大変だったと思われる。連絡がつかず、ウロウロ。中でもウロウロ。
そして帰国(一度、税関を通過すると出国した事になります。)大阪グランドホテル泊。
「しかし、この日本でのホテル利用が、今後のツアーに大変役に立った様に思うわ」。
ドアの自動ロック。鍵を部屋においたまま外に。かなりいてた様に思われる。
翌日、再びアメリカに向けて出発。機内に入って、何んとか。
「しかし、色々気になることはあったぜ。」
アメリカ・サンフランシスコ空港にAM5時に到着。空港には、ガールスカウトのホストファミリーの方々が出迎えに来られてた。
「5時に空港へ着くには家を4時頃に出発しないと間に合わないのとちゃいますか?」
ホストファミリーの家族の方々は、おそらく空港迄1時間位はかかる所に住んでいた。それにまだ、サンドイッチとかクッキーを焼いて持ってきていただいた家族もあった。我々は、感激。機中の疲れがふっとんだ気分。
ガールはホームステイ、ボーイはキャンプ場
ガールは、空港からひとまずホストファミリー宅へ。そして、GSサンタクララ支部にて、ウエルカムパーティー。まず我々がおどろいたのは、ウエルカムケーキの素晴らしい事。感激!初めて生の笑語に緊張の連続。辞書を片手に悪戦苦闘。
ボーイは、とりあえずホテル迄。この間約20分。スカウト達全員就寝?
(彼等は出発前、そして出発延期、機中。その間寝ている者はあまり見かけなかった。そりゃそうだ。そしてアメリカに着いた安心感)。
朝食後、約1時間ホテルで休息。
このホテルのキーはカード式。タイミングよく開かなければ、むつかしかった。使いすてのキーである。
ホテルのロビーにて、「お前すぐ開いたか」
「むずかしかった。なかなか開けられず10分位かかった。中に入って回りを見て、ペッドに腰をかけ、ホッとしたら、集合時間やった。」
ホテルより、サンフ市内見学、そしてキャンプ場キャンプ・ローヤネヘ。
「スカウトは全員寝てるぜ。全然起きる気配はなしや。」
「何しに来たんや。寝てばっかりや。」
そうです。たしか前回もそうでした。
キャンプ・スカイラーク、ヒドゥンフォール
ホームステイ後、最初のキャンプ地、スカイラクヘ。ここでアーチェリー、乗馬と日本では味わえないプログラムを満喫。
ただ「なんといっても困ったのは、夜の冷え込み。日本の熱帯夜がなつかしいと思った程。
でも、中にはテントから出て、外で寝るスカウトも。
「さすが一若い!」
スカイラークより今度は、ヒドウンフォールヘ移動。ホストファミリーの迎えを受けて、途中モントレーヘ。モントレーでは野生のラッコも見える「モントレー水族館」を見学。もちろん水族館にもラッコがいて、水中の様子も見ることができます。日本の水族館より一味も二味も違うのに、ただただ感心。
ヒドウンフフォールでは本当の野営。だってテントがない。地面にシートを敷いて寝るのです。
私達スタッフは、キャンプ場のスタッフの好意で、インデアンテントで寝れました。
「よかった」。しかし、寒かったです。
ここでもスカイラークと同じで、旗のセレモニーも朝礼も私服。中にはパジャマ・デーで、パジャマのままで朝礼することもありました。理由を聞くと、メンバーはGSではなく、一般の小学生だからです。スタッフも数人がGS、あとは大学生。でも食事の準備の待ち時間、プログラムの前等、たえず子供達に歌やゲームを教え、退屈させない。
「我々も、こういうふうにしないといけないんやネー」と、勉強になりました。
キャンプ・ローヤネ
このキャンプ場には、我々がホームステイをするサンフ29隊が、すでに1週間前にキャンプインしていた。
キャンプの施設は、500人が入れるダイニングホール、ライフルレンヂ、プール、アーチェリーレンヂ、カヌ-ベースそして乗馬(ロデオ場あり)、ケルンハイクetc.広さは想像もつかず。まず大きさに感動。
サイトヘ、荷物を持って移動。真中にファイヤー場。10人以上寝れる小屋が4棟、テント7張。
サイト名は、「フロンテ、アズマン」「フォティナイナーズ」。生活環境は、トイレ・シャワールーム。
このトイレは洋式一座が5つ並べてあって隣りとの囲無し。終了者からトイレットペーパーを渡す。非常に便利である。
「とびとびに使用せず、端からすわれ」
「紙を廻してくれ」「きれいにふけよ」
「前に立ってするな、端のを使え」
ちなみに小の方も一緒である。トイレの中でミーティング。
しんみりと語り合えた。スカウトは初日は1人ずつ。2日目以後全員で5つ共使用。
ここで一句
「ウンコするなら全員で、紙も1コで廻しふき。腹もさわやか、食事もウマイ」(作・某国語教師W)
気候は夏さかり、夜は10度前後、日中は32度。そして湿気なし、非常に快適。
朝礼。全員私服にて参集。だが星条旗の旗手は正装にて待機。2日日以降、我々も日章旗を掲揚。
当団よりも旗手参加。
「本日のプログラム、各担当より発表します」
「ライフルは、14時よりフリータイム」
「スイミングは、15時よりフリータイム」と言った事を、ENGLISHにてアナウンス。
説明が判った者何名いたか!
チーフは大学生か、高3位の少年。カッコは大人そのもの。年令を聞いてびっくり。18~22才位。
「うちの団も、ローバーにまかせてあんな事やってみたいなあ。以外とやるかも知らへんで」
「プログラムの責任をもって、自分で企画しスカウト達が同人来るか。プログラムで競い合ったら面白いやろなあ」
「セレモニーのもって行き方のうまさに感心した。参加者もセレモニーの一部になっている事。」
3日目頃、夜、カヌーベースで、ゴールデンアローの上進式があった。
我々リーダーは大人として感動したが、スカウト達はどうであったか?
「ビシッと決めたら、うちのスカウトもそれなりになるんと違うか。だれも、ガサガサしてなかった様に思うわ。」
「あれは良かった。うちのスカウトも負けとらへんかった」「やっばり動きのある歌がうけたみたい」、
「キャンプ場のスタッフが、大分来てたぜ。それと他の隊のスカウトも、ぎょうさんおったわ」
ファイヤー終了後、消灯ラッパが鳴りひびいた後も、延々2時間位ファイヤーの残り火を囲り、あちらこちらで、片コトの英語と、片コトの日本語で小さい輪となって語り合っていた。
当団スタッフ
「もう消灯時間が過ぎたし、帰えらんとあかんなあー」「もうちょっとええやろ」
キャンプスタッフ、英語で
「良ろしいやん。消灯を決める我々がここに居るさかい。彼達、疲れたら各自で帰りますやろ。ちょっとでも多く話しをさせたら」
その通りです。
我々は余りにも、時間に追われすぎでいたように思います。ファイヤーでワァーとさわいだ後、すぐに帰れるものではありません。ウレシクテ、ウレシクテ。その言葉通りスカウト達は、一人二人と去って、元の静かなサイトになりました。
時間が解決してくれます。移りゆく時間、大切です。その時が消灯時間です。
リーダー一同、考えさせられましたです。
他に色々とありましたが。ささいな事で忘れてしまいました。
京都のスカウトの事
キャンプ途中 一緒になりました。
当国のスカウトが大変良く見えてました。
「あの時だけやったなあ。うちのスカウトが良う見えたのは。」
キャンプ・ローヤネ。もう一度来たい所。
ホストファミリーパーティー
手作りの料理で、手作りのパーティー。ここでの体験。帰団報告会で、スカウト諸君は、立派に証明してくれたと思います。
「ちっとは、我々もパーティー慣れして来たみたいやった。」
「やっぱり、テーブルマナー教室は続けないかん」
「あの形式、日本ではアメリカンビュッフェスタイルと言うそうや」
その後、スカウト達は三々五々ホストフファミリーに連れられて各家庭へと散って行きました。
この時のスカウト達の顔・顔‥‥、又新しい旅立ちです。今度逢うのが楽しみでした。
「泣きそうな顔の奴もおったぜ」
「そりゃ、不安やろ。英語はかいもくやさかい」
リーダーで1人、ホームスティをした者もいた。この男、アメリカは今度で4度目と言うのに、皆目英語が話せない。
「ほんまに、疲れた。大人のホームステイは嫌がるらしい。よう世話をしてもらった。」
「色々気を使ったんやぜ。奥さんに花を送ったりして」
[しかし、きっちり、俺の希望は聞いてもらった。ハンドガンはしたし、買い物は思ってた所へ連れて行ってもら。たり。」
「やっぽり、ホームステイは面白い。俺、電訳機持って行ったもん。役にたったわ。」
全員集合
ホームスティを終えたスカウト達が次々と集って来た。GSは、サンノゼからなんと列車でサンフランシスコヘ。約1時間で到着。
「アメリカで列車に乗れるとは思えへんかった」
ボーイスカウト達は、男の子です。ホストファミリーの人達へ「ありがとう」と。
ガールスカウトの諸君は女の子です。ホストファミリーの人達にすがりつき、涙を流し、別れを惜しむ。
彼等、彼女達、何を感じ、何かを学んでくれた、と信じます。ホストファミリーの皆様、心からありがとう。
ヨセミテ公園
このヨセミテの夏の期間におとづれる人々の約40%は日本人。ちょっと歩けば日本人。相も変らず知らん顔。
円高差益のおかげ、日本の国も豊かになりました。
夜、公園内にあるサロンにて、読書室のあるのに気付きました。
前回は気にもかけなかったのですが、ここまで来て読書をと思ったのですが、気持のゆとりがあれば、当然だと気付きました。
のんびりとゆったりと、涼しい所で。何をそんなに急ぐのだ。明日もまた、日は昇る。時間は大切にをここでも感じました。
と思っていたら、スカウト達はロッヂにて、ゆっくりとディナーを楽しんでいるではありませんか。
「やるうー」。
彼達は何を食べたのか。メニューは、すべて英語で書かれてあり、注文は英語でしなければいけません。
ここは、USAのヨセミテ。ステーキは大きさ25㎝位、厚さは2cm。柔らかくて本当においしそう。
「ゴク!」値は$15(日本円2、250円)。安いでしよう。
「ヨセミテで3泊。やっとアメリカヘ来た感じやった。」
「ほんま、前回と違いのんびりした事。」
ヨセミテの広さ、雄大さ、そして自由。ゆとりの時間。無駄に過ごす時間を満喫し、LAへ。
マジックマウンテン
世界一長いジェットコースター「クロッサス」乗った途端、「ギャー」「ギャー」「ヒーヒー」の叫び声。
地上40m位の所から、地上2mの所まで、一気に下り、後は上下の連続。楽しみながら順番を待つとか次の乗り物はどれにとか、etc。
「あそこはスピードのある乗り物で有名らしい。」
「丸いボートの様な乗り物で、全員がずぶぬれになるのん、あれは面白かった。帰る迄乾くか心配やったぜ。」
何もかも忘れ去って、ただひたすらにあちらこちらの乗り物にチャレンジをする所。
ここはマジックマウンテン。
「しかし、帰る時ゲートを出た途端、呼ばれた時は本当に、顔面蒼白。おかげで、ダイエット1Kg成功。」
ロス市内見学
サンタモニカ海岸
♪来て来てサンタモニカ♪ 桜田さんが歌っているあのサンタモニカ。浜辺迄走って行き、海の水をちょっぴりさわる。冷たい。
「こんな所でよう泳がんな」
浜辺から戻る途中、ダーティハリーの世界を見た。ブラックホ一ク44マグナムをかまえて、相手に手を頭の上で組ませ、身体検査をしている。もう1人は後に手錠をはめられている所を目撃す。
「Picture」
やはりここはアメリカ。
「見た!」「うん、俺も見た」「迫力あったなあ」「こわかったわあー。やっぱりアメリカやなあ。テレビ見てるみたいやった。」
UCLA
UCLA、アメリカの西海岸にある大学です。
「UCLAは、一つの町みたいやったなあ」
「学食での昼食は安かった。アイスクリームは抜群やった」スカウト達とリーダーの価値感の違いを知る。
アナハイム・ディズニーランド
ここは夢の国。子供達も大人も楽しみ多き所。
夜のディナーパーティー、全員、正装で集合。明日はディズニーヘ。残す日程あと2日。
各自テーブルにつき、オードブルから順次始める。テーブルマナーで教えられた通り、各テーブルで今日迄の色々な出来事を話しながら、食事を終える。
「やっぱり、自分で取るバイキングの方が、雰囲気が良かったと思うわ」
「ステーキを食べようというたからコースになったんや」
「ガールの方は大分肉が残っていたみたい」
[みんな固くなってたなあ]
やはり前回の様にバイキングスタイルが良かった様だ。順番の待ち方も勉強になるのでは。
朝、ロビーに集合。いざディズニーランドヘ。
子供達には夢を、大人達には忘れ去った子供の心を。理屈はとにかく楽しい所です。
広い園内、我々リーダーと、スカウト何組かの班に出逢っただけ。あっちウロウロ、こっちウロウロ。
スカウト達も大いに楽しんだ事と思う。
ただ1人、リーダーの中でいじめられっ子1人。再びダイエット1Kg、計2Kg。
帰国、ホテル出発
起床5時30分。ロビー集合6時。色々あり‥
昨日に続き、再びダイエット1Kg、計3Kg。(帰国する体力があるだろうか?)
「あの時はほんまにやせる思いやった」
8時バス1台着。とにかく乗れるだけ乗せる。リーダーはホテルの車。途中大きな音と共に、車中煙だらけ、
「火事や」「窓を開けて下さい。 大丈夫。何もありません」「まかせなさい。朝食を取る時間ぐらいあるように着けますよ」
「ところで、空港へ行く道順は?」
「たのむわ|この運転手、道知らんで」
空港看。出発30分前。荷物を積み込み、15分遅れで、ロス出発。
「あの時は何も言えんかった。しかし、よう間に合ったなあ」「スカウトの中で、朝食ってなかった者何人位いたやろ」
「ガールはそろってました」
「夜、何時迄起きとったんかなあ」
サンフより出国
わざわざ、サンフの空港迄、ホストファミリーの人達が来ておられ、ここでの出発迄の2時間位色々話をした。
無事、大阪空港着。
機中、少し色々あり。
大阪空港税関では、ゲートを我々の為に開けてフリーパス。スカウトの制服に誇りをもつ。お出迎えありがとうございました。
話しは色々つきませんが、第3回にむけ諸君の健闘を折る。
1987年9月6日、都島区の太閤園・ガーデンホールで第2回アメリカキャンプ帰朝報告会が開かれた、会場入り口からホールの間には、キャンプ生活、ウェルカムパーティー、ヨセミテ、ディズニーランドの記録パネル写真やスカウトたちが交換した品物が展示され参列者の目を奪っていた。
また、セレモニーには壮行会の折りに、大島大阪市長のメッセージを手渡された中村国際交流課長、坪井府会議員、長田前市会議員、山幡鶴見区長、鶴見警察署長、消防署長、BS地区・GSブロック関係者多数が出席され、スカウトたちの実体験、エピソード、記録映画の映写などがあり、保護者たちもスカウトと共にテーブル上の料理を食べながら談笑し、盛会裡に終了した。
第3回BGSCアメリカキャンプ
第4回BGSCアメリカキャンプ
派遣団長
第4回と一口に言いますが振り返りますと1980年から17年目ということで、自分ながら驚きもし体力の衰えも感じました次第です。
7月27日、関西国際空港を飛び立ち、今回は5年振りにキャンプローヤネに着いて、顔なじみのスタッフに会い、握手を交わすと懐かしさがこみ上げてきて押さえることができませんでした。また、旧交の仲である、サンフランシスコ第29隊のスカウト達に笑顔で出迎えを受けたときは、それまでの長旅の疲れも忘れてしまいました。
このようにして今回は我がガールスカウトも(同じキャンプ場で」と許しを得られたので、前回までにないキャンプとなりました。これも第18回世界ジャンボリーや、ペンチャースカウトのことが世界のスカウト仲間で論じられるようになった関係では・・・と考えています。
日本では出来ないプログラムが多々あり。スカウト達も戸惑いながらも意欲的に、また真剣に挑戦していた態度を見て、毎度のことながら指導者としての喜びを痛感したものでした。
外国に行く度に思うことは英語の勉強です。スカウト達のほとんどが、出発1年ぐらい前から英語の勉強を奨励していたので言葉が通じることは総てのことに自信がつくのではないかと思います。
ローヤネのスタッフの、スカウト達を喜ばせる特殊技能は、我々より数段も上であることを今回も認識しましたが、自分たちが楽しみながら、そして、スカウト達を楽しませて成果を上げている様子を、はっきりと確かめてまいりました。
楽しみもなくあの山の中で4週間から8週間も、若いというだけで生活は出来ないと思います。あのような生活をスカウトに見せる事によって、スカウティングのよりよい勉強になれば・・・と考えている次第です。
2回目と3回目に感激した「静かなゴールデンアローと国旗の別れ」(表彰のセレモニ、-)はなかったが、我が団の伏見、川原の両副長がケルンハイクに挑戦、見事踏破して表彰を受け、よい思い出をつくってくれたことに感謝しています。
なにわともあれ、1人の事故者もなく、8月12日に無事帰国できたことは「成功した」と言っても過言ではないと思います。
今後とも我々は現在のスカウト達が、世の中の役に立つ立派な人間になるよう協力、指導し、そしてまた、このような計画が多く実施されることを望み報告と致します。
会計担当
私達を乗せたユナイテッド機は静かにアメリカ大陸に着陸した。まず、この広大な荒野を開拓した人間のフロンティア・スピリッツを思う。旅行中に感じていたこと、それは、アメリカ人という人種はどこにも居なくて、この土地に住む人間がアメリカ人だということ。人の追っている歴史的な背景、確執、ルーツがどこかにあるかではなく、アメリカに住む人はアメリカを愛し、誇りに思い、アメリカ人としての自信に満ちているように感じた。
私はこれほど日本を身近に感じているだろうか。日本のことを忘れていないか。日本人としての自覚をどれだけもっているのだろうか。考えさせられた。何はともあれ、Tシャツ、Gパン、スニーカーで年中過ごせて、こだわりをもたない中にも礼儀正しく、底抜けに明るいアメリカがグローバルにリーダーシップを発揮できるのは、この風土と開拓精神の現れなのだろう。
期待と憧れに満ちたUSA・Campはユナイテッド機が確実に関空の滑走路に両輪を降ろすと共に思い出にかわった。たのしかった
Camp Royaneh
大歓迎してくれた
サンフランシスコの人たち
降るようなヨセミテの星空
様々な人種の行き交うテーマパーク
思い出のページは、めくっても、めくっても終わらない。
隊 長
第4回、USAキャンプ。それは、私にとって未知との遭遇であった。まさにニュータイプの出現である。この感想文、オールドタイプの繰り言として聞いていただきたい。
そして、第5回にむけてのオールドタイプとしての対応の仕方、キャンプの楽しみ方を伝授します。
まず、キャンプ場、ここは文句なしに色々な出逢いがあり楽しめるところです。我々が日本でするキャンプとは比較出来ません、
(食事は作る必要なし、テントの設営もなし、暑くなく、シャワー設備あり、そして我々は外国人、ゲストとして大事にされます。)
日本では不可能なプログラムが多くあります。ライフル、ショットガン、乗馬、これらのプログラムは危険が伴うプログラムです。 だから楽しんだと思います。
ニュータイプはゲーム感覚で、プログラムを楽しみますが、それを見て居る側としては気が気ではありませんでした。
その感覚が、オールドタイプです。まず気にせずルールを徹底的に教え込めば良いのです。
とにかく、アメリカのキャンプ場は楽しいところです。
ニュータイプもオールドタイプも楽しめる所、そこはキャンプローヤネン。
これが、第5回USAキャンアヘの目標です。
続いてホームステイ。ニュータイプはシャイなのか喜び、悲しみをあまり表現しません。
もっと共に分かち会いたかったと思います。この後の西海岸ルックワイド新しき発見は無かったのかなぁ。
ニュータイプには感動と言う文字が無くなって居るのかも!
第4回USAキャンプは無事終了致しました。リーダー諸君ご苦労様でした。
そして、スカウト達を参加させていただいた保護者各位に感謝。スカウト諸君の感想は「楽しかった」の一言である。
もっと言葉を覚えUSAキャンプに参加させてもらった親に伝えてほしいと思う。
キャンプの楽しみ方とはならなかった文章になってしまいましたが、これまでのUSAキャンプで色々なドラマが生まれましたことを付け加えておきます。ひょっとしたら人生の良き伴侶が見つかるかも!
スカウト諸君第5回USAキャンプを楽しみに・・・。
PS:この感想文を出し終えてニュータイプの感想文を校正の為、読ませてもらった。
なぜに、話の中で彼たちの言葉で言えなかったのか残念でたまらない。
スカウト諸君、君たちは充分に良い感性を持ち合わせている事がわかりました。ありがとう。
第4回USAキャンプにもスカウト諸君の色々な感動があった事を知り希望が持てました。それを喜びと感じます。
オールドタイプとしても次回USAキャンプに諸君と共に参加してみたくなりました。
保護者各位に申し上げます。スカウト達の感想文を(我が息子、我が娘)ゆっくりと読んでいただき、もう一度キャンプの思い出を話し合って下さい。楽しい文章がいっぱい詰まっています。
スカウト諸君USAキャンプで得た感性を大いに発揮して下さい。君たちの隊、部門での今後の活動を楽しみにしています。
次回も一緒に行こうではないか。ただし、ルールは守ってくれたまえ。
ボーイ隊副長
我が輩はリーダーである。と、どこかで聞いたような口調であるが。
私は、アメリカキャンプをリーダーで参加したつもりであった。
しかし実際のところスカウト以上にスカウトして居たと回顧しいるのである。
であるからしてリーダーとして反省点を書かなければならないのだが、他のリーダーにまかせて20代前半の感性でとらえたアメリカやスカウト達、そして自分の事を書こうと思うのである。
時は、7月26日、いよいよ待望のアメリカキャンプ出発日。天候は、雨?嵐?ていうか、台風である。
OH MY GODである。当然の事ながら飛行機は飛ばず1日自宅にてUSAを夢見ていたのである。
さかのぽること10年前、私がまだ、ピチピチの十代の時にもパイロットがいないという理由で飛ばずにホテルにてUSAを夢見ていたのである。
なんと100%の確率で私が参加するアメリカキャンプは順延しているのである。
この幸先の良さで始まったアメリカキャンプであった。
ここは、キャンプROYANEHである。時計が止まっていたかのように以前来たときのままである。
ここでは一週間過ごした訳だが、最初の2日間ぐらいは、スカウト遠の顔を見ていたら不安になった。
何せ行動が日本にいるのと相変わらなかったからである。テーブルを囲んでいるもの、眠っているものと様々である。
しかし、3日目を過ぎた辺りからようやく重い腰を上げ始め積極的に活動を始めだした。
さて、私はというとキャンプ期間中、全くりーダーらしい事はせず、もう一人のリーダーK原氏と共にキャンプ場の隅々を歩く「ケルンーハイク」に親しんでいたのである。最初は、軽い気持ちで始めたのであるが、後に後悔するぐらい広い行程であった。
しかし、努力が実って全行程を制覇し表彰してくれるというのである。
キャンプ最終日の夕礼において表彰式が行われたが私共は、なんと夕食に出かけていたのである。
そして、その時にハプニングが起こったのである。後に皆のさらけ者にされる原因の事件である。
あまりにいまいましいので書く事は避けるとしよう。
(でも、ちょっとだけおいしかったけど)この一週間でリーダーとして得たものは、非常に大きかったと思う。
今後の活動において影響大である。
感動を胸に次なる目的地のサンフランシスコ市内でのホームスティに場所を変えるのである。
ここは、サンフランシスコである。ホームスティである。という事でス力ウトとの接触が少ないので私の体験でも書く事にする。
ステイ先には迷惑をかけっぱなしの3日間であった。なぜなら、毎日夜中に帰ったからである。
しかし、この3日間が僕にとって一生忘れることが出来ない3日間であった。
2日目は、K原氏とステイ先のナオキ、その連れのジャスティの4人で、夜にツイン・ピークスにドライブし、そこから見た光景が神戸の夜景もまっ青というくらい綺麗なものであった。見ているだけで目頭が熟くなる想いがしたのである。
3日目の晩は、前日の4人で市内のある建物に消えたのである。
そこで見た光景は、飯島直子もまっ青というくらい綺麗なものであった。見ているだけでハートが熱くなる想いがしたのである。
この熟い想いを胸に、ありがとうナオキ、ジャスティという気持ちでヨセミテヘと旅立ったのである。
段々書くのが疲れてきたのである。だから、後の行程はざっと流すことにするのである。
ヨセミテでは、自由時間が多い割には、何もないところなのでスカウト達は、時間の使い方や楽しみ方を知らないようであった。
だから、私共りーダー2人で、テレフォン・ショッピングと題して遊んであげたりもした。内容は秘密である。
残りの遊園地巡りは、皆散り散りになり、おのおのが満喫したと思うのである。
こうして全行程が終了し全員が無事で帰国したのである。
最後に、このアメリカキャンプに参加するにあたり数々の障害があったけれども、自分の意志を通して、わがままを間いてもらった事にとても感謝し、また、参加したことによって自分の人生の中でもプラスになると信じて終わりたいと思います。
本当に最後に、ここまで読んでくれた人にお疲れさんとありがとうと言いたいのである。
ボーイ隊副長
待ちに待った夢の第四回USAキャンプ初日、台風上陸のせいで出発が一日遅れる、前途多難の気配である。
アメリカは治安が悪い事で有名なのでとても不安だ。そんな事を私は出発前から散々周囲の人に漏らしていた。
私にとって今回は三度目となるこのキャンプ。勝手知ったると言いたい所だが、実際はその逆である。
今回はリーダーとしての参加なので前回までとは違ってスカウトに対する責任感が問われる。
ところが、私の中にその様な責任感とそれを果たす能力などは皆無に等しく、おそらくスカウトと同等、もしくはそれ以上に舞い上がっていたと思う。そんな気持ちと不安が入り交じった複雑な心境だった。
まあしかし、派遣隊長は日本スカウト会の重鎮、鉄人川端こと川端優氏である。
氏に任せておけば何も心配する事はない、大船に乗ったつもりで飛行機に乗り込んだ。
アメリカは前よりも近くに感じられた。理由は分からない。
ところが米国人と会話が出来ない事に気づいた瞬間、今自分が違い異国の地にいる事に気付いて少し寂しくなった。
皆さんも駅前留学する事をお勤めします。
私はキャンプの達人、のはずである。にも関わらず、帰国の時は自分を運送屋の兄ちゃんかと思ってしまうほどの荷物を抱えていた。
元来私はパッキングが下手なのだ。それに加えて行く先々でいろんな物を貰ったり、また土産を買ったりで荷物はどんどん膨らんでいった。
キャンプ場の夜は本当に寒い。だけど防寒着さえあれば、昼は夏なので、着替えはTシャツとパンツ数枚だけで十分である。
キャンアローヤネーはそんな場所であった。ぐっない すかうつ!
サンフランシスコでのホームステイは、私に現代アメリカ人の日常生活を垣間見させてくれた。
金子さんの一家には本当にお世話になった。感謝の念を込めていやさか!
ここは同性愛着が多いものの、比較的治安は良く、金子氏も三十年以上アメリカに住み、地下鉄やバスに乗る事もあるが、大きな事件に巻き込まれた事は無いと言う。逆に例の神戸の少年の殺人を例に挙げ、日本の治安の悪化を指摘された、アメリカという国は大きい。人口も半端でなく多い。
それを考えてみれば今の日本とアメリカ、治安の面では対して変わらないのかもしれない。
ヨセミテに着いた頃には、私はもうすっかりアメリカの虜になっていた。本気でアメリカに住みたいとまで考える様になっていた。そして帰国の日が近づいて来る事が憎らしく思えた。
ヨセミテでの日々は、ただぽーっとして何もしない事の重要性を考えさせられた。よく言われる事だが、日本人はやはり休みの過ごし方が下手である。どこか別の場所に行って時間を惜しんで遊びまくり、観光地を全てまわって、土産物を買い漁る事がリゾートを満喫する事だと思っている。
それに比べて欧米人は、休暇を何もせずに過ごしたり、遠い所に出掛けて行ってもただ座って本を読んだりしている。
ヨセミテで休暇を過ごす人達を見て、日本人も少しは見習うべきだと思った。
夜空を見上げて満天の星をただボーッと眺めているだけでいい。これ程の贅沢が日本のどこかで昧わえる日が来るのはいつだろう。
今回のキャンプで最後まで気掛かりだった事がある。果たしてスカウト達は心から楽しんでくれたかと言う事である。
もう一度アメリカに来たいと思ってくれただろうか。主人公はあくまでもスカウトである。
せっかく高いお金を払い、危険を冒しているのだから滅茶苦茶に楽しんだ方が良いに決まっている。
私は、今までのアメリカキャンプの中では今回が最も充実していた。自分から楽しもうとしたからだと思う。それでもまだ75点である。向こうで宿題を数多く残して来た。はっきり言って、時間が足りず全てにおいて余裕がなかった様に思う。私は近い内にもう一度アメリカに行きたいと思っている。
同じように感じているスカウト達も、機会があれば是非行ってほしいと思う。
こんな事を言うと保護者の人にシバかれるかもしれない。しかし敢えて言わせて貰おう。
第五回USAキャンプは25日間にしよう。
今回中学生だった人は、是非次のキャンプにも参加しよう。高校生の人、次はアジア大陸に行ってみる事をお勤めする。
きっと人生観が変わる事だろう。
GSリーダー
キャンプやホームステイ中は確かに楽しかったですが、観光中とは違って、現地の人達と接する機会が多く、神経を使っていた為か、毎晩寝る頃はかなりの疲労感がありました。
それでもキャンブ中の夜は冷え込みが厳しく寝心地もそう良くはなかったので、疲れてそのまま眠り込んだとしても、防寒着が必要で目が覚める事も多く、その時に用事も出来たのでまだマシでした。
ホームスティに入ると一転して、温かいふっかふかの布団の寝心地が良いので、うかつに寝てしまうと朝まで起きられず(朝も起きなかったですが)、キャンプの時以上に大変でした。ひどい時には顔さえ洗えなかった日もありました。
そんな私にふかふかお布団を用意してFさったムラタファミリーはとってもユニークで楽しい人達でした。お母さんのレズリーさんは中国人で、和風の小物やアクセサリーをデザインする人だったのですが、ファミリーの中でも特に傑作なぐらい陽気でおしそべりな人でした。
簡単な英語を使ってそれはもう、色々話してくれました。
(和訳版)
[私って中国人で、夫のフレッドは日本人なんやん。だから文化の違いが結構あったんよ。例えば、日本人って時間に確実な国民性やろ。だからフレッドも待ち合わせの時は絶対遅れへんように1時間くらい前から待っときっていうぐらいママから厳しくしつけを受けて育ってきてるわけやん。
でも、私ら中国人って割とルーズな国民性やから3時間ぐらい遅刻してしまう事もあるんやん。
だから結婚前は結構大変やったんよー。ダハハ。」
トータルで4時間も待たされる方は笑い事じゃないでしょうが、レズリーさんは笑い飛ばしながらこんな話までしてくれました。
私は「それってホントに国民性だけの問題なの?」と、ちょっぴり突っ込んでみたい気になりましたが、それでも旨くいっている様なので、世の中にはいろんなカップルがいるんだな、とつくづく思いました。
まさかアメリカヘ行って日本と中国の文化の違いを知るなんて思ってもみなかったので、なんだか面白かったです。
少し冒険ですが国際結婚もいいかもしれませんね。
GSリーダー
今回のアメキャンは、私にとっては2度目のものでしたが、置かれた立場ら向こうでのプログラムも前回とは異なっているので、とても新鮮な気持ちと同時に緊張の出発となりました。
私がスカウトだった時にアメリカの文化やそのスケールの大きさを感じた様にみんなにもそれぞれに何かを感じてほしいと思いました。
そして、アメリカを好きになって帰ってほしいと思いました。
キャンプ場では沢山のアメリカのボーイスカウトとの交流をとても楽しんだ様で、積極的に英語を話そうと頑張っていました。
英語は使って始めて、その楽しさに気づく事も多いと思うので、良いきっかけになれば良いなと思いました。
朝早くからプログラムをこなし、夜遅くまでキャンプファイヤーで盛り上がり、キャンプ場での生活を満喫していたと思います。
ドアのないトイレも、カーテンのないシャワーも、どろどろになったリレーも、ビショビショになったカヌーも、食堂のあの雰囲気も、満天の星空も書ききれない全部がキャンプならではの大切な思い出になったのではないでしょうか。
アメキャンの中でキャンプが一番楽しかったと言う声が多いのもうなずけます。
ただ、やはり英語が聞き取れないと言う事も日需茶飯事で何を言っているのかわからない。
どうしてみんなが笑っているのかわからないと言う1テンポ遅れの状態もあり、盛り上がりについていきにくい所もあったかもしれないので、それが残念だったと思います。
ホームステイでは、各ステイ先でとてもよくしてもらったと思います。
ペアの相手を気遣い、自分に出来る事は何かよく考えていたと思います。
ただ気になった事は日本語が通じないからといって平気で不満を言う事。
それから、人の好意に気が付かない事。もう少し自分で考えられないといけないと思いました。
お互いが楽しくなれる方法を見つけられたらと思います。
ヨセミテでは、各自自由な時聞か多かったと思うので、それぞれに楽しめたと思います。
(少し元気が有り余り過ぎた事もありましたが・‥)あの壮大な自然の美しさには誰もが心うたれたはずです。
一人足をくじいてしまった事が本当に残念でかわいそうでしたが、大事に至らなくてほっとしました。
このアメキャンをきっかけに学年の差やガール、ボーイの関係なく仲良くなれた事がとても良かったですし、どのスカウトもとてもよく頑張ったと思います。特に最年長のスカウトは沢山怒られもしたし、いやな事もあったかもしれない、それでも他のスカウトの事をちゃんと気づかえた事が私はとてもうれしかったです。
年少のスカウトも不安な事もあっただろうけれど、17日間元気に過ごせてとても安心しました。
どのスカウトも一回り成長したのではないでしょうか。このキャンプでの良い事も悪い事も全てを今後に生かしてほしいです。
そうでないともったいないです。
スカウトの事ばかり書きましたが私にとってもこのキャンプはとても意味のあるものとなったと思います。
失敗ばかりで多大な御迷惑をおかけしましたが、私もスカウトと同じく全ての経験と失敗を今後に生かせる様にしたいです。
アメリカから日本へ帰る時、スカウト達が帰りたくない。もう一度行きたいと言うのを聞いて私はとてもうれしかったです。
第4回USAキャンプ・BSスカウト感想文
スカウト達の言葉で表現できなかった、素直な気持ちで書かれた、彼たちの感想文です。本当に楽しかったみたいで~す。
友情が深まったアメリカキャンプ
ベンチャー隊 M.M.
7月26日に出発だったUSAキャンプが台風で1日遅れた。そのおかげで17日間のキャンプになってしまった。出だしから最悪だった。初めて飛行機に乗った。実は少し緊張していた。そして、ついにアメリカ大陸に足を踏み入れた。アメリカについて、まず思った事は、涼しいなと思った。
そしていきなりCamP Royanehに行った。まず食堂のルール説明を聞いた。それからプールに行った。そこで100m泳げるかテストがあった。簡単に合格した。初日だったのでヘトヘトになった。
次の日に朝、起きると”超”寒かったです。そのキャンプ場でアーチェリーやショットガンやライフルや乗馬やコープをしたりして楽しかったです。夜のキャンプファイアーとかも楽しかったけど一番心に残っている出来事は運動会です。僕と豊山と奥田と野田と鈴木です。一回戦が始まる時に相手のスカウト達を見て「これなら勝てる」とみんなで言って見事に圧勝しました。そして二回戦の相手はメチャメチャ強かったので負けました。
でもそのスカウト達が後で来て握手をして友達になりました。とてもその出来事が心に残っています。それと、キャンプ場でユニフォームを交換しました。僕は、その時、アメリカのスカウトと友情が深まった気がしました。
そしてキャンプが終わってホームステイをした。早速、ショッピングに行った.夜に夜景を見にツインピークスに行った。そこで、あまりにもキレイだっだので感動した。
アッという間にホームステイが終わりヨセミテヘ行った。リスがたくさんおった。思わず写真を撮った。それとジャイアントセコイヤを見に行った。あまりにも大きかった。とても驚いた。
マジックマウンテンで色々な絶叫マシンにたくさん乗った。楽しかった。そこで犬のぬいぐるみをGetした。
ユニバーサルスタジオはあまり映画に興味がなかったのでおもしろくなかった。でも急流すべりは楽しかった。
最後に泊まったアナハイムのホテルが一番僕が想像していたホテルに近かった。ディズニーランドは広くて歩き疲れた。でもそれなりに楽しかったです。
さよならパーティーをした時に、もうアメリカキャンプは終わりかとガッカリしていました。
4年後もぜひアメリカキャンプに参加したいと思っています。
アメリカの空と16歳の僕!
ベンチャー隊 T.H.
まず感想を言うと「超、楽しかった。」
僕はこれ以外の言葉を知らない。どこがどう楽しかったのか「50字以内にまとめろ!」と国語のテストの問題の様に問われても、具体的にはいえないもののとりあえずアメリカは最高だった。
キャンプにしても、ホームステイにしても観光にしても。
まずキャンプで面白かったのは、食堂の雄叫び、そして29隊のみんな。大島兄弟に、キサク、ロジャー、ブレンド、デヴィン皆、最高の友達だ。特にデヴィンにはホームステイの時に世話になった。
食堂の雄叫びというのは食堂で飯を食べている時に
「今かも、叫びやがれ野郎ども!」
みたいな時間があって、一隊一隊が自分達を目立たせるためかどうかは解らないがとりあえず叫ぶのである。日本でも一度ああいうのをやってみたい。
ホームステイでは僕にはビリヤードと買い物のことしか思い出せない。ビリヤードは空いている時間はずっとやっていた。買い物は今思うと物足りなさを感じるが、過ぎてしまったことは仕方がない。今度行くことがあれば心ゆくまで買い物を楽しみたい。
前にも書いたがホームステイの時泊まらしてもらったのはデヴィンの家で、沢も一緒だった。このデヴィンは同年代だが車が運転出来るらしく父親の車を車庫に入れていた。その時初めてアメリカは16歳から免許を取れることを知った。そして日本とアメリカの違いをここに見た気がした。
家には任天堂64というゲーム機を見たがそれには手をつけずにビリヤードに明け暮れていた。ビリヤードといっても普通の台より小さかったが、それでも十分に楽しんだ。流石にデヴィンは旨くて、色々なスーパーショットを連発していた。沢も挑戦してはみるものの中々旨くいかなかった。
僕はというと問題外で白いボールを落とすしか出来なかった。それでも最後の方は3連勝くらいした。その隣にはパターゴルフが出来る様になっていて、ゴルプをしたいと言っていた沢は悪戦苦闘していたが、すぐに飽きたのかまたビリヤードに挑戦していた。
ところで、デヴィンにはニコラスという弟がいてニックと呼ばれていた。しかしデヴィンの父親の名前も母親の名前も聞いてなっかた様な気がする。姓も知らないというありさまだ。来年来るならば名字は聞いておこうと思う。
アメリカキャンプの感想
バァッファロー班 T.M.
ぼくは、この夏に初めて、アメリカに行きました。しかも、初めてのアメリカが、ボーイのキャンプをするために行くなんてすごいなぁと自分でもそう思った。キャンプに行く一週間前ぐらいからすごくうれしかった。学校の友だちにもちょっとだけ自慢げに言っていた。しかし、いまいましい台風のせいで、出発が延期になった。そのときは、びっくらこいた。でも、2回目の出発のときは、無事出発できたからよかった。飛行機の中は、ねてたからよくおぼえていない。そして・・・。
アメリカについた。初めに、サンフランシスコの観光をしてそれからキャンプ場へ向かった。キャンプ場に行くまでに、金門橋やフィッシャーマンズワーフに行った。
フィッシャーマンズワーフで上田君が外人の人にゲータレードのでかいやつをもらったけど、あんまりおいしくなかった。そしてキャンプ場についた。そのキャンプ場での約一週間の生活は、自分では忘れられない思い出である。プールにも入ったし、乗馬もした。ショットガンやライフル、29隊との水遊びや、キャンプファイヤー、制服のトレードとかもした。キャンプ場のスタッフは、とても個性的な人たちばかりで、すごくよかった。
でも一番びっくりしたのはキャンア場の面積の広さである。日本に帰って、キャンプに参加したけど、なんかしょぼく感じた。それぐらい広かった。そして、楽しかったキャンプもおわり、最大の難所のホームスティが来た。ぼくのホームスティ先の人は、何回か日本人が来ていたみたいで武士の形をした時計や、プラスチックの刀などがあった。でもぼくらは見て見ぬふりをしてお土産を渡した。そしたら、うれしがっていたのでほっとした。その家族はとてもいい人達で買い物とか、自分のバスケットボールのチームの試合を見せてくれた。
ホームスティ最後の夜には、バッティングセンターやパターゴルフ、ゴーカートであそんだ。すごく楽しかった。
そして、別れの時が来たとき、さすがにさびしかった。そして、ヨセミテに向かった。
ヨセミテはすごくきれいで、いい所だったけど、ぼくらの部屋だけはすばらしくきたなかった。その後、ディズニーランドやユニバーサルスタジオなど、アメリカの名所を観光して、ぼくらは帰国した。
今度の日本ジャンボリーで、ぜひもう一回29隊の人達に会いたいと思っている。
おわり
アメリカキャンプの感想
ベンチャー隊 S.K.
27日に出発でったのだが、台風のため1日遅れてしまってあっちでの遊ぶ時間がへってしまった。飛行機で行き9時間くらいかかった。アメリカに着いたときそこは、あまりアメリカというイメージではなかった。
1日目のキャンプは、とてもおどろいた。それは、どこのどいつもアメリカ人というより外人であった。キャンプ地では日本で、できないライフルやショットガンなどをした。ショットガンは、とてもしょうげきが強くて思い出になった。キャンプ地でのメシがとても極端でおいしい時はとてもおいしいけれど、まずい時はコレストロールが高くとてもおいしくなかった。あっちでは馬も乗ったけどそのときに朝早くねむたかったので馬酔いになってしまったにであの時は気分が悪かった。やはり一番の思い出は、障害物レースだったのだが自分以下もりあがらずに、自分だけもりあがり最後に
ヘッドスライディングもしてキャンプでは、くいが残らなくてキャンプではとてもはしゃいだと思います。
次に心に残っているのは、ホームスティ先ですが、そこの家がなかなか広くて、しかも普通ならげんかんを入り上へ上がるのにその家では、なんと下に入る家で、と・と・とてもおどろいた。アメリカの家、という気がしました。
行くとすぐに買い物につれて行ってもらい、アメリカの町を少しだけ案内してもらったし、そんでもってNIKEタウンでTシャツも買ってもらいました。つれていってもらった店でいろいろな買い物をしたしアメリカにしかない品物とか見てきた。
夜ご飯はアメリカ食というカンジで、肉とパンというなかなかゴーセーな食べ物をごちそうになっちやたりしましたし、また家の食事では日本人に合わしてくれてごはんがでてきた。日本とは味が少しちがっていたけれどとてもおいしかったし、そこの家の人たちもとても親切にしてくれたのでとてもすごしやすかった。
1年後に日本へ来るというのでその時は逆に案内する番だし世話もしたい。
ほかにもいろいろな話があるけれど書ききれないし、これ以上の感動は行った人しか分からないほどアメリカはいい所だった。
4年後にもあるけど、仕事をして休みが20日間くらい休めればまた行きたいけど休めるかどうかわからない・・・。
アメリカキャンプの感想
ボーイ隊 U.K.
7月26日に予定されていた出発日が台風のせいで、20時間延びで7月27日日本からアメリカヘ飛び立った。
・・・キャンプ中の出来事・・・
朝は5~6度ぐらいまで落ち込む気温も昼には、25~26度くらいになるので朝は、とりあえず、「寒い」
初めての鉄砲・・・生まれてきて初めて握るライフル。感動をかくしきれない。この喜びはわすれることができなくなるかも
待ちに待った乗馬・・・10年ぷりに馬にのった。大きくて、上に乗ると3~4m位になるのではなかろうかというくらいの高さであった。コツコツとゆられていると、太陽の光がさしてきて、非常にねむくなる。寝ようとすると馬が大きくゆれる。気持ちイイ~。
カヌー・・・カヌーに乗るのは初めてのことだけれども、前の日から待ちどうしくて、よく寝れなかったような気がする。カヌーを一生懸命こいでいると、うでの力がなくなってくる。手が痛かったけどそれ以上に楽しかったので痛いのをわすれていた。
そう言えばアーチェリーもしたような気がする。初めて弓を握り矢を射るときの心地よさ。
心に残った事は数えられないほどあったのでこれ以上想い出すと頭がこんがりそうな位、楽しかった。
アメリカキャンプの感想
オオ力ミ班 N.A.
7月26日ぼくは日本を飛び立つはずだったが、台風の影響で飛行機が飛ばなかったので27日に日本を出発した。
1日目は、ホテルにとまるはずだったが、1日おくれたせいで、そのままキャンプ地のキャンプローヤネンというところに行った。その途中、マクドナルドに朝食をとりに行った。アメリカのハンバーガーは大きいと聞いていたので、わくわくしていたが日本とおなじ大きさだったので、ちょっとがっかりした。
そこから「フィッシャーマンズワーフ」というところに行った。海が近くにあり、半袖ではちょっと寒かった。そこからまたバスにのり、キャンプローヤネンに行った。
そこは、今までぼくが休験したキャンプとは全々ちがうイメージだった。売店や食堂があってキャンプ場の中になんと牧場があったのだ。そして色々なプログラムがあり、一番楽しみだったのはライフルとアーチェリーだ。ほかにもショットガンや乗馬があった。ぼくが一番楽しかったのはカヌーだ。
キャンプ場から40分ぐらい車にのって川についた。そこから約15キロメートルほど下るやつだ。けっこうしんどくてぼくは途中、ちょっと休んでいた。そうこうしているうちにやっと目的地についた。ぼくたちのカヌーは最後のほうについて、その時はぼくはヘトヘトでねむかったです。
そして、ぼくの一番の思い出キャンプファイヤーのとき色々なイベントがあったがその中にぼくがでて、パイを顔につけられたことだ。そのパイは甘くてあとで顔をあらってもペタペタしてひかっていた。そういうことがあり無事にキャンプがおわり、ホームステイに行った。
ぼくが、ホームステイした家は、庭にバスケットゴールがあるでっかい家でぽくともう一人の人がちがう部屋でねかしてくれた、そこの人はとてもいい人でもう一度「フィッシャーマンズワーフ」につれていってくれた。最初に行った所とはまったくちがう所につれて行ってくれた。買い物する店や靴の店やゲームセンターにつれていってくれた。
そして市内観光のとき市長のだいりにあって、そこで話を間いてボーイスカウトショップに行ってピザに店に行った。そこからデパートみたいなところに行った。
次の日、ヨセミテにむかってバスが走り出した。そしてヨセミテについて川やヨセミテの観光をした。
そして、ぼくが楽しみにしていたマジックマウンテンだ。ぜっきょうマシーンがたくさんあってとても楽しかった。そこから一日ねてからユニバーサルスタジオに行った。そこはあまり楽しくなかった。そしてディズニーランドも楽しくなっかのでホテルのプールで泳いでいた。そして日本に帰ってきた。
ぼくは、このアメリカキャンプで一生できない体験ができてよかった。
“LOOKING WIDER"
ベンチャー隊 N.Y.
7月26日いざ待望のアメリカヘ・・・となるはずだったが、あのいまいましい台風のおかげで一日遅れてしまったので、アメリカ1日目からキャンプをするはめになってしまった。しかも、この日は水泳をしなくてはならなくて、もう足元が覚束ない程ふらふらになってキャンプ1日目は散々だった。でも二日目からは、普通のキャンプとは違い飯も自分達で作らなくてもよい楽なキャンプだった。
僕がこのキャンプに来た理由が3つある。その一つに本物の銃を撃つことだ。このキャンプ場では本物の小口径だがライフルやショットガンが撃つ事が出来、僕の念願も達成できた。ショットガンを撃ってみたが、銃自体が思ったよりも重く反動が大きくクレーに当てるのがとても難しかった。それに較べてライフルの方が競技性があり楽しかった。
またこのキャンプは多くの友人を作れる場で、僕たち11団とサンフランシスコ29団とはホームスティに行くこともあってすごく仲良くなりました。その中には、11NJで日本ヘホームスティに来た大島君がいたのだ。
もう彼には会う事はないだろうなぁと思っていたが、こんな所で会えるなんて思いも寄らなかった。そんで彼が言うには、来年の12NJに参加すると言う事で日本に来たら、皆でどこかは遊びに行こうと思います。
キャンプが終わり、観光をすることになった。そこで昼飯に某ハンバーガーショップに入りLセットを頼んだら、アメリカのLサイズと日本のLサイズではかなり大きさが違いびっくりした。ジュースなんかLサイズぐらいあって全部飲むのに苦労した。アメリカ人はでかいし、食い物もでかい、
アメリカは全てがBIGだなぁと思った。
僕は、このBIGな国がとても好きになりました。機会があれば、また行きたいと思います。
キャンプ場での思い出
ベンチャー隊 S.T.
そのキャンプ場は空港からかなり離れた森の中にあった。最初の感想は「乾燥している」だった。その時食べた弁当は、格別にマズかった。次にキャンプ場を案内してもらった。通訳してくれたオジサンは、アイスを食べていたので、言葉が間こえにくかった。次に水泳のテストをした。元・水泳部の僕には、三平方の定理より簡単だった。ボーイもガールも全員合格していた。次の日からは、ヒマさえあればプールに行ってたような気がする。
そんな中でも、一番印象に残っているのは、”ご飯”です。朝っぱらから油っこいソーセージ、どーゆ一味付けをしたらこんな味になるのか今でも疑問だ。激甘の牛肉、着色料がイッパイ入ったコーンフレーク、パサパサした米など、初めての体験をたくさんした。しかし、今思えばマズイごはんも毎日のように腹をこわした日々もいい体験になったと思う。これからは、どんなマズイものでも食べれるような気がする。それから、もっと胃腸を強くしようと思う。
End
楽しかったきゃんぷろうやねん
ベンチャー隊 O.Y.
アメキャン(アメリカキャンプ)の前日、僕はまだ荷物の用意をしていた。「ん~、パンツは入れた。ロープは? いらんか!」と、分けていると、荷物を持って森さんが来た。妹の祐美子と荷物の点検をすると言っていたので、祐美子を呼んだ。すると、僕が用意している横で点検を始めた。その時、僕のパンツを見られてしまった。
そして、その晩は全々眠れないだろうと思っていたが、布団に入った瞬間から、意識が消えて目がさめると、もう翌日の朝だった。
その日はもう朝から忙しく・・・と言いたい所だが台風で飛行機が飛ばなくなりー日遅れの出発となった。
初日は遅れたアメリカキャンプだが、その後は順調で、もう、すぐにみんなはアメリカの空気に慣れてしまった。慣れたと言っても食べもんと気候は、すぐに慣れる事は出来なかった。昼間は20度後半まで上がり、朝は2度位まで下がるので初日は、もう死にかけてましたが2回目以降は慣れてしまった。
だが、どうしても慣れられないのが、あの毒々しい色のコーンフレークだ。この赤や青やオレンジや紫、黄色のかんしゃく玉の樵なコーンフレークは、間違って開けたら最後地獄の様な世界に20分程浸りながら食わなければならい。だから朝のコーンフレークは取り合いになる。
やっぱりキャンプで一番面白かったのは、アメリカ人のスカウトの友達が出来た事だ。向こうの人はみんなハイですごく楽しい人達だった。また、29隊の人は、後でホームステイでもお世話になりとても楽しかったです。
次回のアメキャンは4年後に行われる第5回アメリカキャンプです。これには是非参加したいと思います。
アメリカキャンプの感想
ボーイ隊 A.T.
7月27日、ぼくは日本を離れアメリカヘ行きました。本当なら26日に日本をたつ予定だったけど台風が来たので、サンフランシスコ郊外のホテルにとまるはずだったけど、キャンプ地のキャンプローヤネーに直行しました。
キャンプローヤネーでまずおどろいたことはぼくらがいつも6人で寝ているテントをアメリカのスカウトは2人で寝ていることにおどろきました。
それとアメリカのリーダーはそれぞれ特殊技能をもっているということです。
キャンプローヤネーで乗馬やカヌーをしたり、アーチェリーをしたり、ショットガンやライフルを撃ったりと日本ではなかなかできないことが、いっぺんにできとてもおもしろかったです。またキャンプ一週間はとても早かったです。
そのあとサンフランシスコヘ行きそれぞれのホームスティさきへ分かれました。ホームスティさきへ行って、すぐにショッピングセンターに連れていってもらい、くつをかいました。ホームスティ最終日、メジャーリーグをみに行きました。その後バッティングセンターに行きました。そこでパ
ターゴルフもしました。とてもおもしろかったです。
8月5日、サンフランシスコからヨセミテ国立公園へ行きました。ヨセミテはとてもけしきがきれかったけど、もっときれかったのは川でした。ヨセミテの川はとてもきれく、すきとおっていました。ぼくらは一日中川で遊んでいました。
8月8日ヨセミテをたち、マジックマウンテンに向かいました。マジックマウンテンはぜっきょうマシンしかなかったけど、とてもおもしろかったです。
8月9日、ユニバーサルスタジオを見学し、そのあとディズニーランドに行きました。ディズニーランドはファミリー向けだったのでぜっきょうマシンはあまりこわくなかったです。
今回の第4回アメリカキャンプはとてもおもしろかったので次回もあれば、ぜひ行きたいと思います。
第4回USAキャンプ・GSスカウト感想文
スカウト達の言葉で表現できなかった、素直な気持ちで書かれた、彼たちの感想文です。
本当に楽しかったみたいで~す。
アメリカキャンプ
レンジャー M.A.
私は、アメキャンに参加するまではアメリカに行くのはすごく楽しみでしたが、向こうに行ってなぜキャンプをするのか、すごく不思議でした。
正直いってアメリカでキャンプをしたくないと思ってました。
でもアメリカでキャンプをしてすごい感激をしました。日本では出来ない事をいろいろさせてもらってすごく楽しかったです。
ショットガンやアーチェリー、ライフルとか乗馬もして良い思い出が出来ました。
もう一度行ってみたいと思います。
それに、向こうでいろいろな友達が出来た事がなによりも一番良かったです。
私は、アメリカのボーイスカウトを見てすごーいしっかりしてるなと思いました。とても同じ年にはおもえないぐらいです。いろいろな仕事をスイスイとこなしていくのにビックリしました。
ホームスティでは、とてもよくしてもらいました。英語も少ししかわかりませんでしたが、一所懸命自分の意志が伝えられた事が英語の勉強にもなりました。
ヨセミテで、雄大な景色を見る事が出来てよかった。でも、あまりする事がなく昼まで寝たり、ボーッとしてました。
マジックマウンテンで、過激なジェットコウスターに乗り楽しかったです。もう少し時間がほしかった。
私はアメキャンに行って英語にすごく興味を持ちました。だから、私の家では簡単な英語がよく飛び交っています。今から英語の勉強をして次回アメリカキャンプをリーダーで行く時はスカウトの言いたい事が伝えられるぐらいになっているといいなぁと思います。
アメリカキャンプの感想
シニアー O.T.
私が、アメリカで一番楽しかった事は、キャンプです。乗馬をしたり、キャンプファイヤーなどが出来たからです。
次に楽しかった事は、ホームステイの事です。私達が泊めてもらったところは、買い物や町の中の色んな所へ連れて行ってもらったりもしました。
次は、ヨセミテ国立公園の事です。ヨセミテに着いて、一番最初に驚いたのは、大きな岩があった事です。次に驚いた事は、外に出れば、すぐ近くにリスがいたり、夜になると廊下に、アライグマが入って来ていたりしていた事です。あと、8時間ツアーがあった事です。
それから次は、マジックマウンテンの事です。私は、ジェットコースターなどの乗り物は、苦手なので急流滑りやジェットコースターに乗ったときは、すごく怖かったです。
そして次は、ユニバーサルスタジオの事です。知っている映画で使われていたのと同じのがあったりして、楽しかったです。
それから次は、2日間続いたディズ二-ランドの事です。始めは、1日だった予定が2日になったので、うれしいと思っていました。けれども、やっぱりロサンゼルス市内観光がなくなったのがとても残念でした。
今度、また行けたら行きたいです。
アメリカキャンプに行って
シニアー Y.M.
私は、7月27日~8月12日まで始めてアメリカに行きました。本当は26日の5時30分の飛行機に乗るはずだったけど、台風がきていて飛行機が欠航になってしまいました。だから1日おくれの27日に出発することになりました。
着いた日から5日間キャンプをしました。
キャンプ中はクラフト、ライフル、アーチェリー、カヌー、乗馬など日本ではできなったことなどいろいろできました。
その中でも、私がとても印象に残っていることは、乗馬でした。人が引っぱったりしている馬は乗ったことがあるけれど一人で乗ったのは始めてだったのでとてもうれしかったです。
キャンプが終わって、次は、ホームスティでした。私がとまった所の人たちは、とてもやさしくて、買い物とかにはよく連れていってくれて、とてもいい人たちでした。
そして、アメリカに帰るまでの残り3日国は私が楽しみにしていたマジックマウンテンやユニバーサルスタジオやディズニーランドに行きました。思ってたより、急なジェットコースターなどがたくさんあったし、たくさんの人たちがならんでたのであんまり乗り物に乗れませんでした。
こんな17日間だったけれどとっても楽しかったし、来てよかったなあと思いました。
4年後にまたアメリカキャンプがあるならぜひ参加したいです。
おわり
アメリカキャンプの感想
レンジャー K.K.
アメリカキャンプで私が一番印象に残ったものは、キャンプ場やヨセミテ国立公園で見た雄大な景色です。
キャンプでは緑の木々や青空の下でカヌーを漕いでいると、流れて行く景色がとてもすがすがしい気分にさせてくれました。
また、夜になって辺りが暗くなると普段私が見ることのない無数の星を散りばめた夜空が現れその空を眺めていると深い大空へ吸い込まれそうな感覚になりました。
キャンプを終えて、ホームステイをして、ヨセミテ国立公園へ向かいました。そこでは巨大な岩壁があって、その壁を登っている人が本当に小さく見えました。他には岩の山が青い空の後ろにそびえていて、本当に大きな自然というものを見て、日本の景色とはスケールの大きさも趣も全く違うのだと思いました。
また、ジャイアントセコイアという巨大な木は、今までに見たことのない力強い枝をしていて、力こぷをつくった腕のような枝をしていました。その周りにもたくさんのジャイアントセコイアが倒れていて、その根は、とてつもなく長く生きたという証と思いました。
アメリカキャンプを通じて、いろんな風景や人々と出会えて本当に良かったと思います。
アメリカキャンプについて
レンジャー O.Y.
私は最初アメリカキャンプに行くのがめんどくさくて嫌でした。でもアメリカでのキャンプは想像以上に楽しくてビックリしました。
アメリカのキャンプは日本とちがって、虫がいないし、テントも広いし、料理も作ってもらえるし、キャンア場が広いし、プールもシャワーもあるし、なによりトイレが水洗だったのがよかったです。蚊にもさされることなく、気候もよくて、とてもすごしやすかったです。でも広すぎてどこへ行くにも山道を歩くのがだるかったです。でも自由時間が多かったので自分の好きなことができて良かったです。ライフルやショットガンは、二度とできないと思います。
3番目ぐらいに楽しい事でした。コープはすごい怖くて二度としたくないです。何回も死ぬかと思いました。タイヤを木にかけるやつは、本気で泣きそうになりました。個人的に大変ショックを受けました。
あと毎晩あったキャンプファイヤーは、すごい寒かったけど、一番楽しかったです。同年代の子が司会をしてたりしてビックリしました。見てる方も、もり上がったりブーイングがおこったりですごい楽しかったです。
あと個人的に2番目に楽しかったのは、Tシャツをもらった時にした三本じめです。あのシラケた空気が私はこそばくて笑えました。
もう一つ個人的によかった事は、白人女性(リサさん)にポケットに入っていたカイロ(使用中)をあげたら50セント玉をくれたのが心に残っています。うれしかったです。でもちょっとだけ罪悪感が残りました。でも気にしません。キャンプが一番楽しかったです。あんなキャンプなら毎年行きたいと思いました。
あとホームステイやヨセミテやテーマパークの思い出もありますが書けないのでやめておきます。
最後に、行かせてくれたお父さんとお母さんに感謝しています。リーグ一連にも感謝しています。
アメリカキャンプ
シニアー O.Y
7月26日、出発の日がやってきた!と思ったが台風のせいで1日延びた。初日から最悪のスタートとなった。
27日やっと飛行機に乗れた。長時間乗ったので、足がむくんでしまった。飛行機を降りると、思ったよりも寒かった。
キャンプ場に着くと早速水泳のテストがあった。久しぶりの水泳だったので少し疲れた。このキャンプ場は、日本のキャンプ場と比べものにならないくらい大きい。しかもキャンプの雰囲気がとても明るい。それに、日本ではあまり体験することが出来ないショットガンやライフルが撃つことが出来た。また、アメリカのボーイスカウトの友達がたくさんでき、なんとかジェスチャアや単語を並べてしやべった。
キャンプ場の大会では、障害物のリレーが相手のチームに勝ったのがとてもうれしかった。キャンプ場を離れるのが惜しいほどだった。
ヨセミテは、私にとって自然とふれあえるところだった。サイクリングをして、途中で川に入って泳いだり、公園内をバスで移勤し、朝ごはんなどを買い、夜には外でみんなでランニングをし、星もたくさん見れた。
次はいよいよ楽しみにしていたマジックマウンテン、ユニバーサルスタジオ、ディズニーランドだった。
マジックマウンテンはたくさんの絶叫マシ-ンがあり早く乗りたくて仕方がなかった。急流すべりでは全身びしょぬれでなかなか乾かなかった。たくさんのジェットコースターにも乗ったが、まだまだ時間が足りなかった。
ディズニーランドでは人が多かったけど何か盛り上がって最後の日を楽しんだ。このUSAキャンアで学んだことを生かしてスカウト活動に励みたいです。
U・S・A・CAMP
シニアー K.A
七月二七日、台風の影響で二〇時間遅れて日本を出国した。
『一七日間』という言葉は長いようにも感じたけど、とても早く日が過ぎていった。
行った日からキャンプでしかも約一週間テントで、日本でのキャンプと同じようなものかと思ってた。だけど、ぜんぜん全く違っていた。朝礼、夕礼、食事と団でするメニューとか以外は、時間とかは、おりと自由で、なんか好きなように生活していたと思う。
全部おもしろかったけど、カヌーで二回落ちてビショビショになって、くつしたもなくして、川で泳いだことと、ショットガン、ライフルや乗馬をしたことが心に残っている。
キャンプが終わるにつれて「もうちょっと長かったら」と思っていた。
アメリカの人たちは、会うといつもあいさつしてくれたり、話しかけたりしてくれるんだけど、英語がよくわからないから、せっかく話しかけてくれても、
「あ一何て言ってるんやろ。なんか失礼やなぁ。」と思ってた。でも、わかるように、ジェスチャーをしてくれたり、ゆっくり話したりしてくれたから、なんとなくわかった。それに、やさしいし、おもしろい人達だった。
二日からホームスティだった。スティ先の家族はやさしかった。そこのおばさんが日本語ペラペラで、言葉には不自由しなかった。家族の人といるより、ガールでいる方が多かったかもしれない。
野球を見に行ったり市内観光をしたり、パーティーがあったり。市内観光をした日は体調が悪くて、途中参加して、途中で帰った。その時、リーダーのスティ先の人にお世話になった。いろんな人に迷惑をかけてしまった。
でもいい人ばっかりだった。「ありがとうございました。」も言えないで、ホームスティは終わった。
ヨセミテ、バレンシア、アナハイムは、自由に時間を過ごした。
ヨセミテでは、特に何もしなくてもおもしろかったし、めっちや星がきれいだった。星のことはよく知らないので教えてもらったり初めて天の川を見た。
ヨセミテの観光はおどろくことが多かった。高い大きい岩でロッククライミングをしてる人が数人いた。その人達はすごく小さく見えた。こわくないんかなぁと思うほど高い山だった。
バスで上の方へ行ってそこから下を見るとめっちゃきれいだった。野生のリスがいた。泊まったところでもリスとかシカとかいて、夜たまたま外に出たら、アライグマがいた、「あーすごい。きれい。」と思うことが本当に多かった。めっちやいいところやった。
マジックマウンテン、ディズニーランド、ユニバーサルスタジオでは、絶叫マシーンに乗りまっくてた。あまりそれらには強くもないけど、乗っていると慣れて乗っていた。
遊園地っぽいところは人がいっぱいで、最高で75分待った。75分待っても乗るほど、よかった。本当にその場所に行ったかのように岩とか飛んできてるような気がして、「危ない」と友達と叫んでた。
ディズニーランドも人がすごかったので、8時頃から遊んでた。まだその方がすいてたから。次の日の朝から遊んで、買い物もした。
その日は、さよならパーティーがあって、その後は自由だったので、またディズニーランドに行って遊んだ。アメリカでの最後の日だったから、もっといたいなぁと思った。とてもおもしろかったし、花火もきれいだった。「この日でアメキャン終わりや。毎年あったらええのに。」って言って
た。
アメキャンでいろんなことを学んだと思う。それは大切なことであって、なかなか体験できないことだと思う。本当に楽しかったし、すごかった。毎年あってもいいぐらい。初めて行ったアメリカという国は、私にとってとても印象的で、忘れられなく、思い出をたくさんくれたところ。何度でも行きたいと思う。
アメリカキャンプについて
シニアー O.E.
アメリカキャンプで、一番よかったのは、ふだんでは見られない野生のままの動物にふれ合えたことと、まだ、習って間もないあやふやな英語で話して生活したことです。
はじめは、全々アメリカというかじがしなくて、友達と「全々アメリカってかんじじゃないなぁ。」と、話をしていました。そして、「キャンプ場に行ったら、するんちゃう?」とか言っていました。
でも、全々そんなかんじはしませんでした。私はキャンア場での初めての自由時間に何をしたらいいのか、まよっていました。すると、友達が「アールとかクラフトとか行こう」と言ってくれたのでいろいろしました。そのうちに、だんだんそこのスタッフとかとも、仲よくなっていきました。
ある日、いつも行ってるクラフトの所までの道のりを歩いていて、ぱっと横を見ると、リスが、いたのです。
これには、私もおどろきました。だって、たった3~4メートルもの所に、リスがいるんですよ。日本のキャンプ場では、あまり考えられないです。その時、私はあわてて心の中で(カメラ持っとけばよかった)と思いました。それから何回か、その道を通ったけどリスはもういなかったです。
最後の日の夜、キャンプファイヤーをした。向こうのキャンプファイヤーはかわっている。どういうとこが変わっているかと言うと、火は、はしの方に、小さくもやし、スタンツなどは、ぶたいみたいな所でします。スタンツを見ながら座っていると、となりの男の子が「ゆかたがにあってる」といりてくれたので、とてもうれしかった。そして、誰にあげるかまよっていたワッペンを彼にわたした。すると彼は、とてもよろこんでいた。言葉も、なんとなくわかってきたし、だんだんと向こうの子とも、うちとけてきた。でも、もうすぐ、キャンプは終わりだ。
「いやだなぁ」と思った。せっかく仲よくなった人ともおわかれである。でも、キャンプなどよりも、私が一番楽しかりたのは、ヨセミテである。
ヨセミテでは、ついたときいきなり、リスがいた。とてもびっくりして、辺りを見まわしてみると、いっぱいいておどろいた。そのほか、あらいぐまや、しかなどがいて、動物好きの私にとっては、もうたまらなかった。それに、星を見たり、川でおよいだりして、とっても楽しくすごせてよかった。
また絶対に行きたいです。
たのしかったアメリカ
シニアー Y.T.
27日の朝、どきどきしながら飛行機に乗った。乗った後、気が付けばもうアメリカでした。
その日からキャンプで、キャンプ場がすごく広くて売店もあって、驚いた。キャンプ場には、プールとかがあって、ライフルや馬にも乗れたし、売店のビーフジャーキ-がおいしかった。
キャンプが終わると、ホームスティがあった。1日目は緊張してつかれた。2日目は野球を見た。その日は暑かった。私ははじめて野球を生で見た。
3日間ホストファミリーの人とも慣れて、話すようになった。でもほとんど日本語まじりの英語だった。
その日の夜、パーティーがあった。いろんな料理があった。家に帰っても、ケーキやそうめんを食べた。最後の夜にかたづけをしようと思ったけど、遊んでいたので夜中になった。
8月5日、今日でホームスティも終おり。朝ごはんは、みそしると魚が出た。日木食は久しぷりだったからうれしかった。
家を出るとき、おかしをたくさんもらった。この日から、ヨセミテだ。6日には、グレイシャーポイントやジャイアントセコイヤというすんごい大きな木を見た。それに、動物がたくさんいて、りすやしかがかわいかった。夜になると、星がきれいで日本とちがい、流れ星をあんなにたくさん見たのはは始めてだった。
7日は、お昼から河で遊んだ。水が澄んでいて冷たかった。ヨセミテは一番のんびり過ごせた。
8日、バレンシアに行く。マジックマウンテンヘ行った。あまり乗り物は乗らず、買い物をした。1泊しかしないから、荷物まとめがつらかった。
9日、ユニバーサルスタジオに行った。
はじめは、トラムというバスみたいなんに乗って見て周り、そのあとバックトゥーザフューチャーに並んで乗った。バットマンのショーがかっこ良かった。
その後、ロスの市内観光後、アナハイムのホテルヘ。やっとディズ二-ランドだ一。うれしくてしかたがない。プーさんの店で買いものをした。その日ホテルに帰って明日で終わるのがいやだった。
最後の日、朝からディズニーランドに行った。インディージョーンズの所でひびをさわった。トゥーンタウンで遊びまくった。
その日の夜、ヘトヘトになってホテルヘ帰った。
ホテルではさよならパーティーがあった。料理が多くてすごかった。夕食のあと、プールに行った。プールの後、荷物をまとめた。つかれたのですぐ寝た。
次の日、アメリカ最後の日。空港で写真をとったり、免税店で買い物をした。
飛行機に乗った時は日本に帰りたいとは思わなかった。
帰りはほとんど寝ていて、起きたら日本だった。
長いようで短かったけど楽しかった。
おわり
アメリカキャンプの感想
レンジャー T.K.
ある日、「アメリカキャンプの作文を書いて提出するように」の連絡が入り、カレンダーを見ていて、もうその楽しかった日々からだいぶたっているのに気付いた。作文は苦手だが、がんばって書くことにしよう。
「楽しかった」とは月並みだと思うが、楽しかった。朝や夜がとても寒くてふるえていたこと、たいした勉強もせず言葉が通じて嬉しかったこと、キャンプやホームスティで親切にしてもらったこと、周りの人の言動に振りまわされ腹が立ったこと、ナイフとフオークが上手に使えなかったこと(これは多分私だけだろう)と、本当に書ききれないほど、いろんなことがあった。
だらだらと書いてしまったが、いろんな意味でいい経験になった。納得できないことも無い、とはいえないが、「めっちゃ楽しい!」を引き立たせた「名脇役」だったのだろう。
最後になりましたが、(敬体に変更!)リーダーの方々には本当に感謝しています。
団体行動の苦手な私は特にご迷惑だったでしょう。もし、時間とお金があって、反対する人がいなければ、次のアメリカキャンプにも参加したいと思います。
アメリカキャンプ
レンジャー M.T.
アメリカキャンプに行って私はいろんな事を学びました。友達もたくさんできました。行きの飛行機の中では興奮してまったくねむれなかったので1日目のキャンプはとてもつかれました。
キャンプローヤネンではたくさんの感動がありました。星のきれいさはすばらしかったし、キャンプファイヤーはとても盛り上がり毎晩がおまつりの様でした。
ホームステイではホストファミリーの人にとてもしんせつにしていただきました。サンフランシスコのすばらしい街並みと夜景も見学できたし、かいものにもたくさん行けました。日本語がまったく通じなかったので、うまく会話ができなかった事もあったけど、ホストファミリーの人がゆっくり話してくれたので3日間楽しくすごせました。
ヨセミテ国立公園で私はケガをしてしまったので、あまりあそべなかったけどのんびりできたし、ヨセミテの大白然も見学できて、想像していた以上にすごかったのでびっくしました。
ロサンゼルスではマジックマウンテン・ユニバーサルスタジオ・ディズニーランドと毎日大好きな遊園地に行けて、とても楽しかったです。でも私はロサンゼルス市街も見学したかったので、それができなかったのが残念でした。
アメリカキャンプはとてもいい思い出になりました。行かせてくれた両親に感謝します。また機会があれば行きたいと思っています。
アメリカキャンプ
シニアー Y.K.
私は、ガールとボーイの人たちとアメリカヘ行きました。
1日目は、台風で中止になり、27日出発しました。空港へ着いて、パスポートと一緒にいろんな紙をもらいました。始めて、飛行機にのりました。乗ったとき、ドキドキしました。飛行機の中は広くても長かったのでひまでした。
アメリカに着いて、朝ごはんを食べて、ボーイスカウトキャンプローヤネンヘ行きました。キャンプローヤネンで1週間キャンプしました。キャンプ中TROOP29の人たちと友達になり、いっしょに水鉄砲で遊びました。キャンア中ず~とひまだったので、おもいっきり遊びました。終わったとき「えーもうおわり」など友達と話しました。水てっぽうのとき、私は一人の男の子と遊んでいました。たのしかったです。
キャンプ中、みんなで馬に衆りました。私は、馬が言うことをきいてくれるか、心配でしたけど、言うこときいてくれました。こわくもなかった2回目だったから?
最後の日、キャンアファイヤーが終わって、私はTROOP29の所へ行き、いっしょに遊んだ子と写真を撮りました。住所と名前をおしえてもらいました。名前は、ブライアン・藤本。次の日、ブライアンと会ったとき「おはよう」と言ってくれました。荷物を運ぶときも笑ったりした。たのしかったです。
私が一番心に残っているのは、サンフランシスコのホームスティです。ローレンの家で1日過ごして次の日は、みんなで野球場へ行きました。ついて話ししてるうちに山しんと松本さんたちがきました。プライアンもきました。だいぶ経つと29隊の子が、英語で「こっち」って言いました。洋子リーダーに訳してもらい私は、席を移動しました。ブライアンの横に座ったら、29隊の子にいろいろ言われました。帰る前にブライアンが野球場一周まわろって言ったのでまわりました。
みんなと観光したりしてたのしかったです。
ヨセミテ国立公園に泊まり次にホテルやマジックマウンテン、ユニバーサルスタジオヘ行きました。
最後に、Disneyへ行って、いろいろなものをいっぱい買いました。
ホテルで、おわかれパーティーをしたあとプールで11時までみんなとあそびました。ボーイの男の子とボールであそびました。とびこみをしたり、おふろ(アールの横にぬくいお湯)へ入ったりしました。ほかのホテルのお客が、プールであそんでいました。とってもたのしかったです。
日本へついたとき、とてもたのしかったアメリカキャンプを思いだしました。たのしかったです。
アメリカキャンプに行って
レンジャー U.A.
私は海外に行くのが初めてだったので、空港についたときからワクワクしていました。第一印象は、寒いと思いました。
キャンプ場では、砂ぼこり立ちすぎていました。テントがいつものと少し違っていました。キャンプ中、いろんな体験ができました。
ショットガン、ライフル、乗馬、カヌーなどなど。中でもカヌーは2回もおぼれて死にそうだった。でも楽しかった。キャンプ最終日の盆おどりのとき、外人がちょっとしらけてました。売店のビーフジャーキーがおいしかったです。
ホームステイ先は、3年前私の家に来た子の家に泊まりました。アメリカについて初めての麦茶をのめました。いろんなところに連れていってもらえました。ヨセミテの星がきれいでした。
あと、遊園地は人が多すぎたけどおもしろかったです。アメリカキャンプは毎年あるべきです。
全てがBIGだUSA
アメリカキャンプ
シニアー T.K.
私はアメリカキャンプに行って、いろいろ勉強になりました。英語も勉強になったし、気候や星もすごいいっぱいみたし、本当によかったと思います。中でも一番楽しかったのは、ヨセミテ国立公園でした。身近でいろんな動物をみたり、川であそんだり、一日中のんびりすごして、すごくよかったです。
夜になったら、みんなで星をみに行ったりしました。すごくきれいで日本では、見れないと思いました。他には、ディズニーランドに行ったり、ユニバーサルスタジオに行ったりしました。
本当にアメリカはいい所でそれしか他にいいようがないです。日本もあれくらい気候がよく、自然が多かったらいいと思いました。
又いつか、アメリカに行く機会があったら必ずいきたいと思うほど、本当にアメリカはとてもいい所ばかりでした。
アメリカキャンプの感想
S.D.
アメリカに行った。キャンプ場での飯はまずくてキレた!!
昼は暑かったのに夜では寒い。日本との気候が全々ちがうところがわかった。
いつのまにかこの気候にもなれて気分がイイ!!
キャンプ場での生活は終わった。ちょっとさみしい。だけどホームスティ生活の方が楽しかった。ごはんはすごくおいしかった。ずっとホームスティしたいと思った。
ロープウェイにのりました。むちゃ楽しかった。
別れの時が来た。さみしかった。
ヨセミテのホテルについた。ここもけっこう楽しかった。お金をせつやくしてコーンフレークばかりくってた。そのせいで日本に帰るとき金が$300以上も余るなんてことはこの時知るよしもなかった・・・
ディズニーランドではみんなにおいてけぼりをくらった。ムッチャキレた!! 帰ってきたらみんなしばいたんねんと思った。
でも、それは今だに実行していない。
END
第4回USAキャンプ報告会
指導者4名、保護者9名
団長: 第4回アメリカキャンプも無事終わりました。アメリカの方へは、私の名前でお礼状を出しました。
お寺の方へはまだですが、何か贈り物を考えています。写真、会計報告も出てきています。
来年はアメリカからスカウトたちが来ます。今度はこちらが接待をしないといけません。その為の準備を今から考えて下さい。
子供たち、リーダーは楽しんだ事と思います。リーダーのいたらなかった所は反省し次回につなげたいと考えております。
今回のアメリカキャンプでうれしく思った事は、参加したスカウトたちがそれなりにキャンプを楽しみ、事故もなく無事に帰国した事です。(K隊長さんからのカミナリも落ちたとは思いますが‥・) 集合時間も守れた様に思います。前回よりも子供たちの考え方が少しずつ変わってきている様ですね。
これからは、11団、62団もしっかりしていかなければいけません。
先日、カブ隊のなし狩りについて行きましたが、リーダーさんたちがしっかりしていて子供たちも楽しめたようです。
今回アメリカキャンプに参加した伏見君も来年から神戸の警察に行く事が決定しており、ボーイ隊の方も研修を受けがんばっている為、第5回アメリカキャンプの話が出てくる事と思います。
次につなげて行く事を考えてゆき、この団の伝統になるように願います。
今回の費用については各自で積み立てをしてもらった為、利息が無くりーダーたちに費用の補助が無かった事を残念に思います。
今は金利が低すぎますね。
K隊長: 今回のリーダーはスカウトの狭間でかわいそうだった。スカウトたちのトップとしては非常に評価出来ると思います。
次回のアメリカキャンプも学生リーダーになるが、それぞれの隊のリーダーが参加してくれるとまた違った意味で楽しむ事が出来ると思います。
今回参加のリーダーはボーイはベンチャー隊副長とボーイ隊副長、ガールはジュニアとシニアのリーダーでした。このようなキャンプに参加出来るのはスカウトだからです。
アメリカキャンプは日本で体験、経験出来ない様な事をいろいろさせてくれます。少しのお金はかかりますが、ライフル、アーチェリー、乗馬など楽しいプログラムが盛りだくさんです。
オープンプログラムがあり3時半から自由に参加出来ます。
お金のかからないのは水泳だけですが、乗馬、水泳、コープ(アスレチックなど)は絶対に参加しなければいけないプログラムで、ウェイターザービスなどをして白のネッカチーフから赤のネッカチーフになり、今回参加の子供たちは大変得をしています。リーダーは緑のネッカチーフでした。
ショットガンやライフルは日本では絶対に体験出来ない物で、危険と隣り合わせではあるけれど子供たちにはさせてやりたいプログラムでした。
しかし、危険なプログラムにも関わらず子供たちに真剣さが無く、銃口を上や下に向けたり銃を持ったまま後ろに振り向いたりとヒヤリとさせられる事がありその時は叱りつけました。
力ヌーはただひたすら川を7マイル(約13km)下るだけですが、それもまた楽しいプログラムで、途中カヌーから落ちてびしょ濡れになっている子がいたり、カヌーがひっくり返ってカヌーにつかまっている子がいたりと大変でしたが、全員無事に目的地に着く事が出来ました。
ガールはクラフトで羽のついたドリームキャッチャーやネックレスを作っていました。
セレモニーファイヤーがなかったのが残念ですが最後にいろいろな団の人たちと服などをチェンジすることが出来ました。
それは子供たちがたどたどしい言葉で一生懸命に意志を伝えた成果のあらわれです。
「キャンプが一番楽しかった」と言ってくれ無事に帰国出来たことをうれしく思います。
今の子供たちは喜怒哀楽を出さないのか、表現力が乏しいのか運動会で自分たちの団の人が勝っても知らん顔をしている。少し寂しい物があります。以前の子供たちと少しずつ変わってきているのかなぁ?
もっとキャンプを楽しくする方法があるのにコミュニケーションがうまくとれない。
F副長: キャンプは自分が楽しみたいと思い参加しました。K副長とケルンハイク(ポイントを見つけて歩く事)をしていました。
スカウトたちは言う事を間いてくれたのであまりおこる事はなかったと思います。
ヨセミテのホテルは久しぶりの部屋でテラスにディナーをならべてK副長と食べかけたら「リーダー、何してるの?」とガールさんが声をかけて来た。気がつくと自分たちの部屋は両隣がガールスカウトのシニアに挟まれていたようだ。
「プライパシーがほしい!」と思いました。リーダーとしてマジックマウンティンで集合時間に遅れた事反省しています。
IGSリーダー: スカウトたちから「キャンプは楽しかった」と間いています。キャンプの価値、また日本にないプログラムなどもそれぞれにわかっている様です。
ホームステイや観光中、日本語は分からないだろうと思って好きな事を言ったり、指さす子もいた。
アメリカの人たちが楽しませてあげたいと思っているのに人の好意をもう少し理解出来てもいいのではないかと思います。
レンジャーの子供たちがシニアさんの面倒を見てくれて相談事もうけた。後半よくやってくれたと思います。
キャンプ中、英語が分からなくてワンテンポずれてしまった。リーダーも訳せない部分があったりし盛り上がりにかけるところがあったと思う。しかし、わからない所は辞書を見たり、リーダーに聞きに来たりとそれぞれに努力をしているようだった。
ボーイ、ガールが上下関係なく仲良くなれたと思います。
N保護者: 男の子なので何も言ってくれませんが、ディズニーランドユニバーサルスタジオは思ったよりおもしろくなかったようです。
ヨセミテではどのように過ごして良いのかわからなっかたみたいですね。
キャンプ、ホームステイは楽しかったと言ってました。次回も参加したい様です。
T保護者:「楽しかった。また行きたい」と言ってました。
T保護者: 遊園地での事は話してくれませんでした。おみやげの事は沢山話してくれました。
アーチェリー、ショットガン、乗馬など休験した事のないプログラムを楽しめたみたいです。
2~3週間でもいいからキャンプをしていたかったと言ってました。
ホームスティではホストファミリーのお父さんが少し日本語を話す事が出来たので楽しく過ごせました。
K保護者: ディズニーランドはもうひとつおもしろくなかった。
ユニバーサルスタジオでもっとおみやげを買いたかった。
ヨセミテなど観光がなくてキャンプだけでも良かったそうです。
ライフルの的をもって帰っていました。日本では経験出来ない事をさせてもらい良かったです。
ヨセミテで丸太に乗って川遊びをしました。ひとつの丸太に5~6人が乗り、流された時は少し心配したけれど楽しかったと言ってました。星空がとてもきれいだった。
Y保護者: キャンプは楽しかった。ホームステイのホストファミリーは前回日本に来られた時お世話した人でした。
前もってお手紙を出してお願い出来る様頼んでおきました。
サンフランシスコ29団にお友達ができて、帰国後もホストファミリー、お友達との間で手紙のやりとりがあります。
M保護者:とても楽しかった。全日程キャンプでも良かったと言ってました。
ホストファミリーは日本語を話されるので本人は困らなかったみたいですが、親は少しがっかりしました。ホームスティの時急に組み合わせが変わった。同室になる人とおみやげが同じにならないように考えていたのに・・・。
前もってホストファミリーがわかれば文通をして相手の方を理解できるのに向こうに行かないと分からないのですか?
(答:向こうに行かないと分からない。リーダーとしては努力はしていますが、会話力の不足でなかなか充実しない)
O保護者: 2人行かせました。出発前、姉の方とお小遣いの事で卜ラブルがありましたが、帰宅した時の2人の第一声は「楽しかった!」でした。
おみやげを広げ以前アメリカキャンプに参加した兄に間いてほしい話がいっぱいあったようです。
キャンプは自由にさせてもらえて、いろいろな経験が出来て良かったと思います。
キャンプ場はボーイさん用なのでトイレが困った様ですね。でも、リーダーがカーテンをつけてくれたと間きました。
プールが楽しく、星空がとてもきれいだった。
姉のホストファミリーは中国系の人で自由にさせてくれました。その家の人が子供たちの事をよく見て下さって、その子に合ったおみやげを持たせてくれた。
妹のホストファミリーは仕事をしている人で、ほしい物を前日の夜に聞いてくれて翌日の朝には用意されているそうです。
それがとてもうれしかったと話してくれました。
妹の方は中1なので、おなかの調子が悪くならないか、風邪はひかないかなど18日間も一人で旅をさせるのが少し心配でしたが、外に出て体力に自信がついたようです。
それぞれ子供達からの国際電話で楽しくやっている様子が聞けてとても嬉しかったです。
アメリカから帰って来て2人で「ここ見た」とか「これあった」と言いながらE・Tやバック・トゥ・ザ・フューチャーのビデオを見ていました。
T会計担当: ご飯作りをしなくていい、つらい仕事や耐えなければいけないキャンプではないので子供たちにとって楽しかったと思います。
キャンプ中は好きなプログラムに自由に参加してエンジョイしていたようです。
ホストファミリーと交わらずに日本の仲間を見つけては輪を作ってしまう。次回はそんな事のないようにしてほしですね。
今、うちの家では英語で会話をしています。何を間いても"I don't know."ですが・・・
MGSリーダー: 何事においても少し自信をつけて帰って来たように思います。
今までのキャンプ場とは比べ物にならない広大な土地、同じ暑さでも日本とは違う。
そんな中でアーチェリー、ライフル、乗馬と毎日楽しくプログラムをこなしたようです。
アメリカのイーグルスカウトの人たちと身振り手振りでの会話、運動会がありそこで勝った事など今でも思い出しては話してくれます。それだけ楽しかったようですね。親の目の届かない所自由に過ごした為、リーダーさんたちにご迷惑をかけたと言ってました。
ホームステイ先の人にもよくしていただき食事に作ってもらったソーメンザラダがおいしかったそうです。沢山のおみやげもいただきました。
ヨセミテは景色はきれいだったけれどする事がなかった。ディズニーランドでは時間をもてあました。ユニバーサルスタジオはおもしろくなかった。ロスで市内観光をしたかった。など文句を言ってました。次回はリーダーとして参加し、今回のリーダーさんが経験した事を自分もするつもりだそうです。
(スカウトのみなさんヒヤヒヤ、ドキドキさせてやって下さい)
アメリカキャンプ裏話
団委員
ヨセミテは一年前に予約で満室になるため1996年7月ヨセミテカリービレッジのロッジ、航空機の予約を近ツリに、SF29隊にキャンプローヤネーの申し込みを依頼、8月に予約完了の連絡あり、よーしもう大丈夫これで安心。
1997年3月ローヤネーから参加者名と参加費の払い込み通知がくる。
参加者が確定していないので、とりあえず申し込んである40名分の参加費と名簿を送る。
5月参加者確定する。BS指導者4名、スカウト14名、GS指導者2名、スカウト14名、保護者1名の合計35名、あと5名欲しいところだが・・・。
5月12日、いつもアメリカキャンプでお世話になっているEidmann先生がお亡くなりになったと連絡があり、16日葬儀参列のためサンフランシスコヘ、その時にサンフランシスコ仏教会(29隊の本部)でホームステイの確認とキャンプの支援をお願いした。葬式の後、息子のカールさんと話しているときヨセミテの話になり、今年の冬に洪水があり、カリービレッジのキャンプ場が流されたと聞き、ロッジの予約がどうなっているか心配になり、帰国後近ツリに確認することにする。
カールさんは経営していた日本料理店を7月に売るので、その後時間があると言う話を聞きキャンプでの通訳をお願いする。
帰国後、近ツリにヨセミテの予約の確認をする、確認書をもらっているので大丈夫との返事。安心・・・。
7月になり近ツリから連絡、ヨセミテの部屋が無いとのこと、とりあえず公園外のホテルを押さえてもらい、ヨセミテのマネージャーと近ツリの現地マネージャーとの話し合いが始まった。冬の洪水の後カリービレッジの再建が出来ていなくて、現地でも夏のシーズンを前に大変なことになっているらしい。キャンプ、ホームステイと並んでアメリカキャンプの目玉のヨセミテ、是非近ツリに頑張って交渉するように依頼するが、ギリギリまで待って欲しいとのこと、待つことにするが、SF29隊の沢田さんと連絡をとり、ヨセミテとの交渉に協力してもらうことになる。
7月中旬までにBS2名がキャンセル、結局総勢33名と確定、いよいよ最終段階に入る。
スカウト全員気分がハイになってきているのがわかる。
出発二日前、ヨセミテビレッジのロッジが取れました、部屋タイプが違うがいいですかと、近ツリより連絡。
いいも悪いもない良かった。
(結局泊まった部屋はスイートルームでした。差額は近ツリ、ありがとうございました。)
7月26日いよいよ当日、台風のため飛行機がアメリカで待機中とのこと、約20時間遅れで、27日間空を飛び立った。
お見送りの皆さんと一緒に、展望ホールで見送る。
29日私一人寂しくアメリカヘ、レンタカーを借り、まずEidmann家へ挨拶に立ち寄ってすぐキャンプ場へ行くつもりだったが、留守のため夕方になってしまい泊めていただいた。
30日キャンブ場へ向かってドライブ、約130マイル、9年前と13年前にバスで来た道、果たして覚えているかいささか不安だが日本よりずっと走りやすい道、ハイウエーを降りて一般道前に来たときと全く変わっていない風景と田舎の町並み、記憶がどんどんよみがえって来た地図を見ずに無事キャンプ場に到着。
早速サイトに行くが我がスカウトたち一人もいない。事務所へ聞きに行くと、カヌーに行っているので3時過ぎまで帰らないとのこと。寝て待つことにする。
結局5時頃に帰って来た、スカウトたちは皆元気でいきいきと眼を輝かせていた姿を見て、今回のキャンプはほぼ成功したと確信しました。
第4回アメリカキャンプが成功裏に終了しましたことは、多くの人々のご協力と、暖かいご支援の賜物と感謝しております。
特にお世話になった、サンフランシスコ仏教会の皆様ありがとうございました。
アメリカキャンプの楽しい話は、スカウトの感想文でお楽しみください。
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